月曜日にwowowで見た「名もなき歌」も凄かったが、火曜日のファニー・リヤタール&ジェレミー・トルイユ監督の「GAGARINE/カガーリン」も、ずっしりとした熱い感銘を浴びせかけられた。
その余波を引き摺ってしまって、しばしTVの前から立ち去りがたく、感銘の余韻にひたっていたところ、その次の映画、いままでに何度も見ているアンジェリーナ・ジョリーの「ソルト」まで引き続き見てしまった。
しかし、感銘の余韻に引っ張られて、なんの繋がりもない作品「ソルト」までも見させてしまうという「名もなき歌」とか「GAGARINE/カガーリン」のつかみも凄いのだが、フリの客を捉えて飽きさせることなく息もつかせぬまま見せてしまうハリウッドの強引で手慣れた「ソルト」の構想力にも感心した。作品の内容は既に分かっていたとはいえ、充分に面白かったのには違いない。
これこそが映画を見させてしまうチカラとかいうものなんじゃないのかな、と感じた。
それを思うと、最近の日本の映画作品の、誇りも意欲にも欠いた卑弱さはどうよ、ほとほと呆れるばかりだ。
「老後の資金がありません」とか「サマーフィルムにのって」だの、お前ら何考えて撮ってんだ、その目はフシ穴か、なんの問題意識もなく、撮る素材にそれほどまでも困っているのなら(もちろん、素材を探し出せない無能ということはあるだろうが)、「なにもわざわざ無理して撮らんでもいい」と言いたいところだ。
そもそもフィルムの無駄だろ。
マネーの匂いを嗅ぎつけて利権に群がる薄汚い強欲なハイエナどもに寄ってたかって食い物にされる汚職の温床になり果てるくらいなら、今後オリンピックなどは、どこかの国に開催を任せ、我が邦の選手は精鋭を選んでほそぼそと派遣すればいいのと同じように、映画づくりだってそうだぞ、現実がこれほどまでに腐りきっているのに、撮ってる映画といえば現実から目をそらした能天気な愚策ばかり、こんなことじゃ、むしろ意欲ある海外の有能な才能に製作を任せて、斬新な素材で撮ってもらったその作品をちゃっかり鑑賞・堪能すればいいくらいのものだ。
見掛けだけの社会の豊かさのその向こうを見通せないようなこんなボンクラ作品しか撮れないなら、むしろ作らないでいたほうが、よほどマシだし、罪も軽いというものだ。
てなことで、「老後の資金がありません」も「サマーフィルムにのって」も、最初の30分をじっと我慢して見たけれども、ついに辛抱の限界を越えてしまい、見るのを放棄した。
「名もなき歌」とか「GAGARINE/カガーリン」を見た目で、これらの日本映画を見るのはとても辛くて酷というもので、これではまるで、なにかの制裁か、忍耐を試す懲罰だ。
これなら、むしろ手近にある簡単な印刷物でも読んでいた方がよほど時間の有効活用だと考えた。
実は、つい最近、嵌まっていることがあって、隙間時間をみつけては、全集に挟み込まれている月報をひとつひとつ取り出しては読んでいる。
いままで、ついぞその手の「月報」なんて見向きもしなかったのだが、いざ読んでみると、いろいろ面白い評文のあることを最近になって発見し、それ以来、ちょっと病みつきになってしまった。
このそもそもの始まりは、大昔に筑摩が出版した「定本 柳田國男集 第1巻」の月報だ。
この本は、奥付を見ると昭和43年7月に刊行されたもので、少し前に通りかかった近所の古本屋でたまたま見掛け、全32巻の全巻が3000円弱で売っていたので速攻で購入した。
どうだ、凄いだろう。
世間ではデジタルがどうの、紙の本が消滅するなどという世迷言に誑かされ、どこかの御仁が叩き売ったかして、この値崩れした貴重な全集をチャッカリ手に入れることができて、ついに自分も柳田國男全集の所有者になれたのは、それもこれも軽薄な「デジタル信仰」のお陰というか、余禄みたいなものかもしれない。
紙の本が絶滅するなどあるわけない。
かえって希少価値が出て、猥雑なものは次第に淘汰され、内容相応の正当なアタイがついて、消耗品から貴重品に格上げするに違いない。
ということで購入以来、日々、寝転がって「柳田國男」の珠玉の論稿をひとつひとつ堪能している次第なのだが、あるときたまたま「月報1」を手に取って何気なく目を通したら、旧友や弟子筋の執筆者の中に、なんと吉本隆明の一文が収録されていたので驚いた。
こう言っちゃあなんだが、ほかの執筆者連は、「柳田國男先生」を尊敬し敬愛もしている関係者と係累の方々、いわば「よいしょ系」の人々だが、吉本隆明はそういうタイプの批評は書かないし、似つかわしくもないということを熟知していたので、その名を見掛けたときに思わず奇異に感じたのだと思う。
そもそも、吉本隆明と柳田國男に接点などあったのだろうかという疑問に囚われた。
そうした多少の違和を感じながら読んでみた。
タイトルは「無方法の方法」。
凡庸なアタマでは、うまく要約できそうもないが、重要と思われる文章を引用しつつまとめてみる。
こうだ。
柳田國男が、東北民謡「酒田節」を取り上げて論じている。全集でいえば、第17巻「民謡覚書」のなかの一編だ。
柳田は、この歌をどこかで聞いたような気がするといい、いくつかの文献をあげ、越後にも青森にも同想異種の歌があると指摘し「次第に連環の集中度が高度になり、この歌にある『べんざい衆』という文句は何を意味するかの考察に入る。これは単なる船乗りを意味する言葉ではなく、荷の惹きあい積み込み、代金の仕切りなどにも権限を持った者を意味したので、中世の弁済使などからの転義であろうという推定があとにやってくる。」
つまり、柳田國男のこの追及の仕方こそ、柳田学の方法であると指摘する。
《この酒田節などは、短文でも柳田学の無方法の方法を典型的に語る者と言うことが出来よう。そしてこの無方法は、ほとんど夢幻の数珠玉のように連関する資料の累積と採集を要求するのである。》
《柳田国男の方法を、どこまでたどっても「抽象」というものの本質的な意味はけっして生れてこない。数珠玉と数珠玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけである。》
《かれは土俗共同体の俗習が、そのまま昇華したところに国家の本質を見たのである。そして、土俗を大衆的な共同性の根拠として普遍的なものとみなしたのである。このような認識が、連環法を生み出したのは、いわば必然であった。連環法こそは言葉が語りの次元にあるかぎり時代を超えて続く土俗の方法であったから。》
そして、
《かれは、人間の本質指向力が、つねに土俗からその力点を抽出しながら、ついに、土俗と対立するものであるという契機をつかまえようとはしなかった。総じて、知識というものが、はじめに対象に対する意識の在り方を象徴しつつ、対象と強力に相反するものであり、これを担う人格が、つねに共同性からの孤立を経てしか、歴史を動かさないということを知ろうとはしなかった。》
柳田國男の「無方法」という方法が、前人未到の偉大な達成を果たしているだけに、その膨大な知識の「収拾」と「連環」の円運動の方法をもってしては、ついに「歴史」を動かすまでには到り得ないといい、それを「柳田國男の悲劇」だといっている。
つまり、
《なによりも抽象力を駆使するということは、知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題に属している。柳田國男の膨大な蒐集と実証的な探索に、もし知識が堪え得ないならば、わたしたちの大衆は、いつまでも土俗から歴史の方に奪回することはできない》
という。
そこで、我田引水みたいで恥ずかしいが、あえて言わしていただこう。
わがブログ「映画収集狂」は、柳田学の連環法の正統を受け継ぐ者であることを、ここに宣言する。ああ、恥ずかしい。
その余波を引き摺ってしまって、しばしTVの前から立ち去りがたく、感銘の余韻にひたっていたところ、その次の映画、いままでに何度も見ているアンジェリーナ・ジョリーの「ソルト」まで引き続き見てしまった。
しかし、感銘の余韻に引っ張られて、なんの繋がりもない作品「ソルト」までも見させてしまうという「名もなき歌」とか「GAGARINE/カガーリン」のつかみも凄いのだが、フリの客を捉えて飽きさせることなく息もつかせぬまま見せてしまうハリウッドの強引で手慣れた「ソルト」の構想力にも感心した。作品の内容は既に分かっていたとはいえ、充分に面白かったのには違いない。
これこそが映画を見させてしまうチカラとかいうものなんじゃないのかな、と感じた。
それを思うと、最近の日本の映画作品の、誇りも意欲にも欠いた卑弱さはどうよ、ほとほと呆れるばかりだ。
「老後の資金がありません」とか「サマーフィルムにのって」だの、お前ら何考えて撮ってんだ、その目はフシ穴か、なんの問題意識もなく、撮る素材にそれほどまでも困っているのなら(もちろん、素材を探し出せない無能ということはあるだろうが)、「なにもわざわざ無理して撮らんでもいい」と言いたいところだ。
そもそもフィルムの無駄だろ。
マネーの匂いを嗅ぎつけて利権に群がる薄汚い強欲なハイエナどもに寄ってたかって食い物にされる汚職の温床になり果てるくらいなら、今後オリンピックなどは、どこかの国に開催を任せ、我が邦の選手は精鋭を選んでほそぼそと派遣すればいいのと同じように、映画づくりだってそうだぞ、現実がこれほどまでに腐りきっているのに、撮ってる映画といえば現実から目をそらした能天気な愚策ばかり、こんなことじゃ、むしろ意欲ある海外の有能な才能に製作を任せて、斬新な素材で撮ってもらったその作品をちゃっかり鑑賞・堪能すればいいくらいのものだ。
見掛けだけの社会の豊かさのその向こうを見通せないようなこんなボンクラ作品しか撮れないなら、むしろ作らないでいたほうが、よほどマシだし、罪も軽いというものだ。
てなことで、「老後の資金がありません」も「サマーフィルムにのって」も、最初の30分をじっと我慢して見たけれども、ついに辛抱の限界を越えてしまい、見るのを放棄した。
「名もなき歌」とか「GAGARINE/カガーリン」を見た目で、これらの日本映画を見るのはとても辛くて酷というもので、これではまるで、なにかの制裁か、忍耐を試す懲罰だ。
これなら、むしろ手近にある簡単な印刷物でも読んでいた方がよほど時間の有効活用だと考えた。
実は、つい最近、嵌まっていることがあって、隙間時間をみつけては、全集に挟み込まれている月報をひとつひとつ取り出しては読んでいる。
いままで、ついぞその手の「月報」なんて見向きもしなかったのだが、いざ読んでみると、いろいろ面白い評文のあることを最近になって発見し、それ以来、ちょっと病みつきになってしまった。
このそもそもの始まりは、大昔に筑摩が出版した「定本 柳田國男集 第1巻」の月報だ。
この本は、奥付を見ると昭和43年7月に刊行されたもので、少し前に通りかかった近所の古本屋でたまたま見掛け、全32巻の全巻が3000円弱で売っていたので速攻で購入した。
どうだ、凄いだろう。
世間ではデジタルがどうの、紙の本が消滅するなどという世迷言に誑かされ、どこかの御仁が叩き売ったかして、この値崩れした貴重な全集をチャッカリ手に入れることができて、ついに自分も柳田國男全集の所有者になれたのは、それもこれも軽薄な「デジタル信仰」のお陰というか、余禄みたいなものかもしれない。
紙の本が絶滅するなどあるわけない。
かえって希少価値が出て、猥雑なものは次第に淘汰され、内容相応の正当なアタイがついて、消耗品から貴重品に格上げするに違いない。
ということで購入以来、日々、寝転がって「柳田國男」の珠玉の論稿をひとつひとつ堪能している次第なのだが、あるときたまたま「月報1」を手に取って何気なく目を通したら、旧友や弟子筋の執筆者の中に、なんと吉本隆明の一文が収録されていたので驚いた。
こう言っちゃあなんだが、ほかの執筆者連は、「柳田國男先生」を尊敬し敬愛もしている関係者と係累の方々、いわば「よいしょ系」の人々だが、吉本隆明はそういうタイプの批評は書かないし、似つかわしくもないということを熟知していたので、その名を見掛けたときに思わず奇異に感じたのだと思う。
そもそも、吉本隆明と柳田國男に接点などあったのだろうかという疑問に囚われた。
そうした多少の違和を感じながら読んでみた。
タイトルは「無方法の方法」。
凡庸なアタマでは、うまく要約できそうもないが、重要と思われる文章を引用しつつまとめてみる。
こうだ。
柳田國男が、東北民謡「酒田節」を取り上げて論じている。全集でいえば、第17巻「民謡覚書」のなかの一編だ。
柳田は、この歌をどこかで聞いたような気がするといい、いくつかの文献をあげ、越後にも青森にも同想異種の歌があると指摘し「次第に連環の集中度が高度になり、この歌にある『べんざい衆』という文句は何を意味するかの考察に入る。これは単なる船乗りを意味する言葉ではなく、荷の惹きあい積み込み、代金の仕切りなどにも権限を持った者を意味したので、中世の弁済使などからの転義であろうという推定があとにやってくる。」
つまり、柳田國男のこの追及の仕方こそ、柳田学の方法であると指摘する。
《この酒田節などは、短文でも柳田学の無方法の方法を典型的に語る者と言うことが出来よう。そしてこの無方法は、ほとんど夢幻の数珠玉のように連関する資料の累積と採集を要求するのである。》
《柳田国男の方法を、どこまでたどっても「抽象」というものの本質的な意味はけっして生れてこない。数珠玉と数珠玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけである。》
《かれは土俗共同体の俗習が、そのまま昇華したところに国家の本質を見たのである。そして、土俗を大衆的な共同性の根拠として普遍的なものとみなしたのである。このような認識が、連環法を生み出したのは、いわば必然であった。連環法こそは言葉が語りの次元にあるかぎり時代を超えて続く土俗の方法であったから。》
そして、
《かれは、人間の本質指向力が、つねに土俗からその力点を抽出しながら、ついに、土俗と対立するものであるという契機をつかまえようとはしなかった。総じて、知識というものが、はじめに対象に対する意識の在り方を象徴しつつ、対象と強力に相反するものであり、これを担う人格が、つねに共同性からの孤立を経てしか、歴史を動かさないということを知ろうとはしなかった。》
柳田國男の「無方法」という方法が、前人未到の偉大な達成を果たしているだけに、その膨大な知識の「収拾」と「連環」の円運動の方法をもってしては、ついに「歴史」を動かすまでには到り得ないといい、それを「柳田國男の悲劇」だといっている。
つまり、
《なによりも抽象力を駆使するということは、知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題に属している。柳田國男の膨大な蒐集と実証的な探索に、もし知識が堪え得ないならば、わたしたちの大衆は、いつまでも土俗から歴史の方に奪回することはできない》
という。
そこで、我田引水みたいで恥ずかしいが、あえて言わしていただこう。
わがブログ「映画収集狂」は、柳田学の連環法の正統を受け継ぐ者であることを、ここに宣言する。ああ、恥ずかしい。