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橋本忍、逝く

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7月20日(金)の夕刊と、21日(土)の朝刊に脚本家・橋本忍の訃報(記事の大きさと2日にわたる報道の扱われ方からすれば、むしろ「追悼記事」という方が相応しいのかもしれません)が、報ぜられていました。

「驚いた」というには、いささか気後れするくらいの長寿(享年100歳ということです)だったかもしれませんが、最後の時代の灯が消えていくような寂しさは、やはりあります。

20日(金)の夕刊の記事の大見出しには、「橋本忍さん死去」とあり、それに肩を並べるようにして「脚本家『羅生門』『七人の侍』」との小見出しも添えられていました。

いつしか自分の日常の中で出逢う「羅生門」や「七人の侍」などプログラム誌で見掛けるそれらの題名は、そこに掲載されている他の夥しい作品群と同じように「現在」とは何のつながりもない「リバイバル上映」の単なる旧作品の一本として、何とも精気の失せた無味乾燥な「死にタイトル」にすぎなくなっていたのですが、20日(金)夕刊の見出しとして目に飛び込んできた「羅生門」や「七人の侍」は、橋本忍が心血を注いだ生々しい脈動がはっきり感じ取ることができた自立した、日本映画史に繋がるまさに「羅生門」と「七人の侍」でした。

そこには橋本忍という脚本家が精一杯生きて、そして身を削り・血を吐くようにして作った一作一作としての「羅生門」であり、「生きる」であり、「七人の侍」であり、「私は貝になりたい」であり、「砂の器」であり、「八甲田山」だったのだと思います。

橋本忍はシナリオを書き続け、あるいはやり遂げ、あるいは挫折し、さらにもっと出来ないかともがき苦しみながら、そこで得た充実感と失望感と不満とを抱え込みながら死んでいったのだと。

若き橋本忍がアイデアを提示し、それを受けた若き黒澤明が人物像の掘り下げが足りないと否定し、あるいは更なるアイデアを要求し、嘘っぽいリアルなんかいらないんだと声を荒げ、そのやり取りをじっと見守る若き本木荘二郎がその場にいたかもしれない、そういう血の通った「羅生門」や「七人の侍」を、あの日の夕刊の見出しに自分は「見た」と感じたのかもしれません。

そう考えると、自分が先に書いた「時代の灯が消えていく」なんて、随分陳腐で月並みな・紋切り型のつまらない言い回しだと心底うんざりし、自己嫌悪にかられてしまいます。

たぶん、それぞれの作品に、そんなふうに、かつて生きた映像作家・脚本家たちが命を吹き込んだ血の脈動を感じ取り、思い入れを深めていくということは、映画を鑑賞するうえで「客観的評価」をくだすためには支障となる「公正な立場」を失う(思えば、随分と寂しい立ち位置です)ことに通じるかもしれませんが、この橋本忍の追悼記事に接したとき、むしろそれでも一向に構わないのではないかという気が自分の中に萌しはじめていることを強く感じました。

久しぶりに、書棚から「講座 日本映画 第5巻 戦後映画の展開」(岩波書店刊)を引っ張り出しました。

この巻には、新藤兼人が書いた「日本シナリオ史5 戦後映画のうねり」という論考が収められています。

その中の「焦土に映像はよみがえった」の章に、「シナリオライター・橋本忍」の華々しい登場が、名作「羅生門」とともに紹介されている部分があります。それは、こういう一文から始まっています。

「『羅生門』は、大映と映画芸術協会の提携作品で、新人ライター橋本忍がここから登場してくる。」

自分的には、ここから数ページにわたるクダリ(黒澤明との出会い)がとても好きで、折につけ繰り返し読んでいる箇所です。

昭和13年、橋本忍は徴兵検査で甲種合格、鳥取の連隊に入隊した直後に肺結核を発見され直ちに隔離病棟に収容されます。軍隊は結核を亡国病と恐れ、岡山の傷痍軍人療養所へ永久復帰免除として送致、軍は感染を恐れて除隊させず、病室に隔離して死亡するのを待って、そのうえで灰にして除隊させるという方針から、ここから橋本の先の見えない絶望的な療養生活が始まります。

そうそう、読売新聞21日(土)朝刊の追悼記事の中に、「評伝」と付記された文化部次長・近藤孝という人の解説文が添えられていて、その中にこんな箇所がありました。

「戦時中、肺結核を患い、医者に2、3年で死ぬと告げられ、父親には、『死ぬのは止められん、はよ死ね』と言われたという。結局、戦中戦後を生き抜き、たどり着いた境地は『死は考えの及ばない事態だから、考えたってしょうがない』だった。橋本作品の主人公たちも、死は運命として受け入れる。そのかわり、時間をかけて描かれるのは、死に至るまでの壮絶な生だ。」

父親は、息子が病気になり国家の厄介者になってしまったことを負い目に感じ、軍や世間様やスメラミコトの手前遠慮して、あえて息子には「はよ死ね」と言ったのだと思いますが、その先の見えない絶望的な療養生活の中で、隣のベッドで同じように療養している兵士が読んでいる「日本映画」という雑誌を盗み見て、橋本忍は、そのとき初めて「シナリオ」というものがこの世にあることを知ります。こんな易しいものなら俺にも書けると思い、早速書き上げたのが、自分の現在の無為の療養生活を描いた「山の兵隊」という作品でした。

そして、書き上げたからには誰かに見てもらいたいと思い、隣の療養兵に尋ねます「日本で一番えらい脚本家は誰か」と。

即座に返ってきた「日本一の脚本家」伊丹万作との交流が、こうして始まるのですが、その伊丹万作とのやり取りが描かれていくなかで、橋本忍は常に、シナリオなんかで家族の生計を支えられるのかという疑心を抱き続けます。

その理由を、橋本忍は、こんなふうに記しています。

「それは伊丹さんの質素な家庭生活を見てそう思った。これが日本一だといわれるえらい映画をやる人の生活かと」

やがて、黒澤明との出会いの場面が描かれていきます。こんな感じです。

《戦後になって伊丹さんが亡くなられ、その四十九日の法事の日だったと思う。奥さんが佐伯清さんに紹介してくださった。シナリオを勉強している人だから見てあげてくれと。そのころ書き溜めた5、6本のシナリオを持っていたので、黒澤監督に読んでもらってくれと渡した。佐伯さんは簡単に引き受けてくれて、しばらく日が経った。半年くらい経ってから本木荘二郎というプロデューサーからハガキがきて会いたいという。指定された所に行くと、これを黒澤監督が映画にしたいといっているから、黒澤監督の意見を聞いて書き直してくれと。それが「羅生門」の原型で、「藪の中」からシナリオにしたものだった。これがかいつまんだシナリオライターになる経路ですね、と本人の語るところである。
共作について橋本忍談「共作はですね、最初の打ち合わせが終わって、誰かが先行して一本書くんです。それがすむと、あたまから検討していって、ひとつシーンを全員が机を並べて書くんですね、それはしんどいですよ、同じシーンを書くんですからね、でも力はつきますね。こういう方法は「生きものの記録」ごろまで続きました。みんな仕事が忙しくなって、会って手分けをして書くようになって、話し合いは十分しますから構成はいいんですが、少し型になりすぎるようになりましたね。やはり机を並べてやった方がね。(伊丹万作の教訓)私は師と仰いだ伊丹さんの言葉通りやっているんです。伊丹ケンポウを守って、伊丹さんは、脚本家は字を書く職人であれと、また、批判と創造は別な絵だと。そのこともやっと近頃分かるようになったですね。
(黒澤氏から学んだものは)俺から吸い取り紙のように吸い取れと言われましたね。黒澤さんは全部絵(画面)で話すんです、絵でですね」



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