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Channel: 映画収集狂
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ダンケルク

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そのときはまだ、自分はクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」を見ていなかったのですが、友人がこの作品を見た直後(数か月前です)に言った言葉を、最近、よく思い出すことがあります。

「最近」というのは、つい数日前に自分もやっと「遅ればせながら、この作品を見た」ので、リアルな意味での「つい最近」です。

あのとき友人は、ちょっと苛立った感じで、こう言いました。「ノーランの『ダンケルク』見たんだけどさ、ああいう映画には、もう付いていけないな。映画って、ああいうものだったっけかなあ~。もう見ちゃいられなかったよ」と。

自分はたぶん、「どうして?」とか「なぜ?」とか尋ね返したと思います。

以下は、その自分の問い返しに対する友人の答えの要約です。

この映画を見たあとで、まあ「分からなかった」ということもあったんだけど、あれこれ評論を読み漁ったわけさ。そして、そういうのを読めば読むほど、この映画がやたら理屈っぽく作られた映画だってことが、だんだん分かってきたんだ。

登場人物の誰もが意識的に希薄に描かれることによって、それぞれの個性は奪い取られ、砲撃と飛行機の攻撃だけの敵も顔や姿は描かれることなく掻き消されて「具体性」を失い、それが「ストーリー」そのものの破壊につながって、ドラマとしての面白さをひとつひとつ排除されてしまったことによって鮮明に浮かび上がる「事象」としての戦争を、異常な風景そのものとして描くことで、「概念化」して提示された映画なのだと。

「分かるか」そして「だけど、なんのために」と友人は言いました。

どんなに言葉で飾りたてようと、その意図の根本のところが、やっぱり分からないんだ。

なにもわざわざ映画をつまらなくしておいて伝えられるものっていうのが、なんなのかが分からない。

でも、「本来映画にそういうことって、必要なのか」と否定すべきことくらいは分かる、が彼の最後の言葉でした。

この友人の七面倒臭い話(それを彼自身がさらに面倒臭そうに話すので、より一層の感がありました)を聞いていて、なんだか子供のころによく聞いた落語「桃太郎」を思い出しました。寝かしつけてもなかなか寝ない子供に昔話「桃太郎」の話をすると、子供はこんないい話をそんな風に素っ気なく話しちゃ身も蓋もない、そもそもこの話はね・・・と、子供はこの話に込められた教訓を諄々と説いて聞かせ、話しているうちに父親を寝かし付けてしまい、「ああ、親なんて罪がないもんだ」というサゲが付いた噺でした。

でも「説明」されないと分からない映画ってのもどうなのよ、という感じはします。

俺たち世代は、アラン・レネやゴダール、アンゲロプロスをさんざん見てきて、「理屈っぽさ」にかけては、とっくに免疫ができていると思っていたのに、このノーランの「ダンケルク」には参ったね。

最近は、いつもそうなんだけどさ、同じようなタイプの映画(「小説」でも「テレビドラマ」でも)を見ると、どうしても、むかし見た映画と比較して、多くの場合、むかしの映画の方がよっぽど良かったと思ってしまうんだな(明らかに彼は、ベルモンドが主演したアンリ・ベルヌイユ監督の「ダンケルク」1964と比較しているのだなと思いました。同じタイプどころか、コテコテ同タイトルの映画です)。オレもだんだん、こうやってむかし話を何度も繰り返す嫌がられる爺さんになっていくんだなと思うと、なんだか寂しいよ、こういうのを「年寄りの冷や水」とかいうのかね、と。

「年寄りの冷や水」とは、少し違うと思いますが、そのとき自分がノーランの「ダンケルク」を見ていなかったこともあって、たぶん話はそのまま続かず、横道に逸れ、深く付き合うことを嫌う最近の若い世代の話になってしまったかもしれません(いつもの会社の愚痴です)、そのときは、この「ダンケルク」の話は立ち消えになってしまいましたが、別な折に彼に「プライベート・ライアン」も受け入れることが難しいのかと尋ねてみました。答えは、「あれは好きだよ、いい映画だし」でした。

「プライベート・ライアン」における戦闘シーンの迫真のリアリズムには度肝を抜かれ驚きました。

いくら奇麗ごとを並べても、あれこそが銃弾の飛び交う戦場に身を晒し、命を落とす戦争というものの実体なんだなと、その殺し合いの苛烈な残酷さ、戦争で死ぬことの無意味さを目の当たりにして、恐怖と怒りを覚えたことを記憶しています。

しかし、その戦場にあって、戦うことの無意味さや恐怖や嫌悪を十分認識したうえで、それでも家族や国家を守るために戦って死んでいく人間としての誇りが描かれていた、そういうことを観客に訴えかけることのできたあの「プライベート・ライアン」の意味というか、この映画の意義というものを友人も高く評価していることを知りました。

そして、そのうえで、彼が、ノーランの「ダンケルク」のどこに嫌悪を感じ、嫌気したのか、考えてみました。

これから彼と話す機会を、あるいは持てないかもしれませんが、実は自分もこのノーランの「ダンケルク」には、彼と同じように嫌悪を感じ、また、評価しがたいもの、長年映画を見てきた者にとっては許しがたいものを感じたひとりでした。

ふたたび友人と会話する機会があれば、自分はこう言うと思います、「なんだって? クリストファー・ノーランの『ダンケルク』だって? あんなもの映画とは認めないね、映画という媒体に対する冒瀆だ」と前置きし、アンリ・ベルヌイユの「ダンケルク」を褒めちぎろうと思っています。

アンリ・ベルヌイユの「ダンケルク」については、ここ何十年間、全然見直す機会がなかったので、頼りないかすかな記憶と憶測でしかものが言えない状況にあるのですが、誤謬覚悟でベルヌイユ作品の印象を書いてみますね。

そもそものはじめ、イギリス軍とフランス軍がなぜダンケルクまで追い詰められてしまったかという理由が、ベルヌヌイユ作品では明確に描かれていたように記憶しています。

ナチス・ドイツとソ連が「不可侵条約」を締結したときからドイツの侵攻が始まり、まずポーランド侵入、そして英仏のドイツへの宣戦布告で第二次世界大戦が開始されます。

ソ連は独ソ不可侵条約の秘密協定にしたがって東からポーランドに侵入し、ポーランドはドイツ・ソ連両国によって分割・占領されました。

英仏軍はドイツ・フランス国境ならびにフランス・ベルギー国境に陸軍の大軍を展開し、ドイツは主力の陸軍をポーランドに進軍させていたために、英仏軍は圧倒的に有利な状況だったのですが、しかし、英仏の戦前からの宥和政策(強硬な他国の外交政策に対して、ある程度の譲歩をして衝突を避け、小国を犠牲として一時的な平和を得ようとした外交政策。第二次大戦前にイギリスがドイツに対してとった政策に代表される)がまだ尾を引いていたことと、とくに仏軍がドイツの戦力を過剰に恐れていたために本格的な戦闘は行われなかったという背景があります。

戦闘のない前線では、両陣営の兵士の士気は緩み切り、タバコやお菓子を交換したり、日光浴するなどとうつつをぬかし、緊張感も次第に失われていきます。

ヒトラーの「わが闘争」には、第一次世界大戦に従軍したヒトラーが、西部戦線での体験として「1914年12月24日から25日にかけてクリスマスを祝って両軍兵士が自主的に停戦を行い、記念写真を撮ったりプレゼントを交換し、サッカーに興じた」と、その堕落ぶりを怒気荒く非難しているくらいですから、このときだって、スキを見逃すはずはありません。ドイツはフランス・ベネルクス3国に侵攻を開始しました。

フランスは,第一次世界大戦後、ドイツ・フランス国境にマジノ線と呼ばれる長大な要塞線を建設していたので、英仏軍は第一次世界大戦の経験からドイツ軍はベルギー国境から進撃してくると予想して、ベルギー・フランスの国境に主力を展開します。

しかし、ドイツ軍の戦車部隊は、通行不可能とされていたアルデンヌの森を脱けて英仏軍の背後に回り、結局、英仏軍はダンケルクに追い込まれ、そこでこの映画に描かれるようなイギリス本土への撤退作戦(ダイナモ作戦)が行われたというわけです。

イギリス軍の「フランス人は船には乗せない」と頑なに拒むあのエゴ・ナショナリズムと、イギリスに生還した兵士が、出迎えた市民に非難されるのではないかと、びくびく言い訳する無様な姿を描きながら、一変、駅で出迎える市民の姿を見て、ほっとした後で、急に態度が尊大になる場面など、この監督は、いったい何を描きたいんだという苛立ちを持て余してしまいました。

こんなもののなかのどこに人間に対する「敬意」があるといえる?
そもそも人間への敬意を欠くとしたら、なにもわざわざ映画になんかにする必要がないじゃないか。

そんなものいまさら描いてなんになる、足の引っ張り合いや、騙し合いなんて、現実でさんざんやっていることで、いまさら映画で教えてもらわなくたって結構。

映画が描くものは、愚劣な現実に対する映像作家の「解釈」であり、少なくとも「愚劣な現実」そのままの丸写しなんか見せられたんじゃ、堪ったものじゃないという気がする。

30万人だか40万人だか知らないが、こんな「官報」の公示みたいな戦争美談の映画しか作ることしかできないなら、別に、わざわざ映画をつくる必要なんてないじゃないかと。

わが友よ、君は正しい。なにひとつ間違ってはいなかった、君は「むかし」なんかにこだわっていたわけじゃない、アンリ・ベルヌイユ監督の「ダンケルク」や「プライベート・ライアン」に描かれていて観客に深く感動を与えたものが、ノーランの「ダンケルク」には決定的に欠落していて、それどころか冒瀆とさえいわねばならないものが、あの作品には「あった」からだ。

かの「ピンク・フラミンゴ」にでさえ、犬の糞を頬張りながら微かに苦笑する露悪的な自己否定の中に「人間への敬意」だけは、しっかりと描き込まれていたというのに。

(2017)監督・クリストファー・ノーラン、脚本・クリストファー・ノーラン、製作・エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン、製作総指揮・ジェイク・マイヤーズ、グレッグ・シルバーマン、音楽・ハンス・ジマー、撮影・ホイテ・ヴァン・ホイテマ、編集・リー・スミス、製作会社・シンコピー・フィルムズ、ラットパック・エンターテインメント、美術・ネイサン・クロウリー、衣装ジェフリー・カーランド、視覚効果監修・アンドリュー・ジャクソン
出演・フィン・ホワイトヘッド、トム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン、ハリー・スタイルズ、アナイリン・バーナード、ジェームズ・ダーシー、バリー・コーガン、ケネス・ブラナー、キリアン・マーフィー、マーク・ライランス、トム・ハーディ




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