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野菊の如き君なりき

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ここ数日間、木下恵介監督作品「野菊の如き君なりき」1955に、サブタイトルが付いていなかったか、すこし調べています。

もし付いていたとしたら、イメージ的には、「思い出の君はいつまでも美しく」みたいな、そんな感じのものだったのではないかという記憶が薄っすらとあるので、そのあたりを確かめたくて、あれこれ検索を試みたのですが、結局確認するまでには至りませんでした。

でも、仮にこの惹句が木下恵介作品「野菊の如き君なりき」のものだったとしたら、作品の要点を巧み言い当てている、いかにも相応しいサブタイトルだと感心していたので、別の作品と取り違えて覚えていることも含めて調べてみたのですが、どうもうまくいきませんでした。

この伊藤左千夫の書いた「野菊の墓」は、明治期、いとこ同士の淡い初恋が、大人たちの過干渉によって破綻させられるという実に切ない胸の詰まるような悲恋物語です。

むかしこの映画の作品解説には、「いとこ同士の初恋とその破綻」を「封建的な道徳観を持った大人たちによって無理やり引き裂かれ」みたいに説明したものを読んだことがあって、そのたびにものすごい違和感を覚えていました。

もし、この映画に描かれているその「初恋の破綻」の部分を説明するとしたなら、そんな大括りな紋切り型の説明ではなく、むしろ、「狭い村社会の好奇な目」とか、「悪意と嫉妬の告げ口」とズバリ言ってしまうのがもっとも相応しく、なにも遠まわしに「明治という時代の悪弊のため」などと時代のせいにするなどという事大主義は、なんか如何にも日本的だなとずっと考えていました。

この「初恋の破綻」は、なにも明治の時代的な特徴なんかではなくて、いまだって初恋くらいは十分に破滅させることができる普遍な「悪意ある好奇と嫉妬」とを、まずは挙げるべきではないかなと。

いまでもよくある小中学生とか高校生の自殺に伴う「いじめ報道」の記事の定番に、いじめられた側の自殺者がどんなに苦しんで自殺に至ったかを異常なほどの執着でもって掘り下げネチネチと報道する記事に対して、それに引き換え、死に追いやった加害者たちに関する糾弾がまるでない記事などに接すると、「いじめ」の実態を、まるで最初から、避けがたい「天災」かなんかみたいに扱われているのが不思議でなりません。まるで「遭遇してしまったことは、仕方なかったことなのだ。こんなことで自殺するなんて君が弱すぎたんだよ」と言わんばかりの姿勢には、いかにも日本的な迎合の姿勢を感じ、不快で、思わず湧き上がる怒りを禁じえません。

確かに、自殺者は弱く、だからこそ弱い者とみると寄ってたかっていじり回し、いじめずにはおられない愚劣な者たちのターゲットになってしまうわけですから、ここにある「いじめ」のシステムを解明しないかぎり、いつまでたっても弱者たちは高層ビルから飛び降りるか、家に引きこもるしかして、逃げ回るしかないということになります。

マスメディアは、権力悪におもねるようなマゾヒスティックな報道の姿勢をいい加減改めて、むしろ、いじめ抜いて自殺まで追い詰めたあげく、しおらしく反省ヅラしたその腹の中では、きっとちゃっかり舌を出して薄笑いしているに違いない、そして、その後ものうのうと好き勝手に新たなターゲットを物色している「やり得」の加害者たちをのさばらせないような立ち向かう報道の姿勢が必要です。

しかし、木下恵介作品「野菊の如き君なりき」は、とても優れた作品には、違いありません。

明治期の農村の自然のなかで成長した従姉弟同士の少年と少女の淡い初恋が、その若さと年齢差ゆえに、家族や肉親、そして世間の冷たい目にさらされ、悪意ある干渉に追い詰められ、引き裂かれて破綻するという物語です、少女は泣く泣く初恋を諦めて他家に嫁ぎますが、やがて病死するという伊藤左千夫原作のなんとも遣り切れない哀切な悲恋物語で、その死の床の枕下には、忘れられない少年の手紙が大切にしまわれていて、少女の秘めた健気な思いが死後に分かり涙を誘うという、この作品を越えるようなピュアな悲恋物語は、いまだ作られていないのではないかと思うくらいの傑作には違いありません。

この映画を見た当時、四隅を白いボカシで囲った場面がいかにも作り物めいていて、「ずいぶんだなー」と抵抗を感じた記憶があります、しかし、それでもすぐに、哀切きわまりない「木下」調に引き込まれて、見終わったときには、そうした画面への抵抗感や違和感もすっかり忘れてしまったのだと思います。

しかし、いま改めて映画のスチール写真を眺めると、やはり「これって、やりすぎじゃん!」という違和感は確かにあります。あらためて、これって木下恵介のずいぶん大胆な試みだったんだなあと思います、自分としては、いままであまりいい評判も聞いていなかっただけに、一種の「掛け」みたいな試みだったのかもしれません。

郷愁の感じをだすために四隅に楕円形のボカシを入れた手法っていうのは、大むかしに町の写真館の店先のショーウィンドウでよく見かけた家族写真とか出征兵士の写真とか、ああいうのによくありました、いずれにしても古い写真帖を一枚一枚めくっていくっていう「乗り」だったんでしょうね。撮った瞬間・見た瞬間から、最初から「思い出」となるように意識的に作られているのだと思います、「生前感」とか「郷愁感」とかを兼ね備えた・・・。

この独特な雰囲気を木下恵介監督は狙っていたでしょうし、それが木下監督の持ち味なので、見ていて違和感というものをあまり感じなかったのですが、自分の友人に、むかしから木下恵介を毛嫌いしているヤツがいました、彼の描く「抒情」とか「詩情」の正体は、実は、観客に媚る「女々しさ」にすぎず、絶対に受け入れられない、とよく言っていました。たぶん、嫉妬から民子と政夫を引き裂き、初恋を諦めさせたうえで、世間体を憚って他家に嫁入りさせて民子を病死まで追い詰めて破綻させる元凶の「家族」への指弾が一向に描かれていない「やられっぱなし」が気に入らなかったのだと思います、まるで、あの一面的な「いじめ報道」みたいな嫌悪と同じものをこの作品に感じていたのだと思います。

木下恵介容認派の自分などは、「こういうタイプの映画があってもいいじゃん」とつい考えてしまうのですが、この「野菊の如き君なりき」に一貫して流れている被虐趣味には耐えられず、どうしても許容できなかったのだと思います。

考えてみれば、「優柔不断」とか「どっちつがず」も「女々しさ」の延長線上にある感性なので、当然といえば当然な話かもしれません。

いまでも、この話になると、自分は内心「まさかね」と思いながらも、彼の熱弁に対してニヤニヤしながら適当に相槌をうって同調することにしていました。

しかし、最近、この「野菊の如き君なりき」を長年擁護してきた自分の思いを一挙にひっくり返すような、まるで天地を揺るがす新聞記事に遭遇しました。

自分的には新聞を読むという習慣は確かに「あります」が、時間としては、朝食をとるときに傍らに広げて読むという程度です、「その間の時間」だけ新聞に接しているということになるので、大きな事件などがあったときは、その関連の記事を集中的に読むことになるので、他の記事を読む余裕がなくなってしまうというそんな感じです、それでも、「テレビ番組表」と「人生相談」だけは欠かさずに目を通しています。

ただ、「人生相談」については、「相談」は読みますが、「回答」のほうは最初の1~2行を読んで、最後まで読み通すことは滅多にありません、きっとそれは、答えが容易に想像が付くからだと思います、たとえ「同調」でも「否定」でも「韜晦」であったとしてもね。

ですので、いずれにしてもその答えが「想定内」のものであることは長年の経験によって分かっているので最初の1~2行を読みさえすれば見当がついてしまうからだと思います。

ところが、自分の長年の固定観念を突き崩すような「回答」に遭遇したのでした。

「相談者」は80歳男性、むかし、結婚して間もなく、体形が不満で離縁してしまった女性への悔恨の思いを募らせています。(読売新聞朝刊2019.5.18、15面)

回答者は、ノンフィクションライターの最良葉月という人。

それにしてもこのまま記憶の闇に落として忘却してしまうには実に惜しい傑出した回答ですので、以下に転載しておきますね。


《【相談】
80代男性。52年前に離婚した相手の女性のことで悩んでいます。
結婚後、その女性の肩が張っていて、男性のような体形であることに嫌気がさしました。別れたいと思い、私は女性を無視しました。女性はいたたまれなくなって家を出て、7か月で結婚生活は終わりを迎えました。
いま思えば、なんて非情なことをしたのだろうと、深く反省する毎日です。体形が男性的だというだけで、相手を傷つけ不幸にしてしまいました。最近やたらと彼女のことを思い出し、悔やまれてなりません。
いまの妻は、非情にきつい性格で言葉遣いも悪く常に争いの日々です。だから余計に別れた彼女のことが残念でなりません。そして私には子どもがおらず、私の死後、墓が無縁仏になることについて、親に申し訳ないと思っています。
今後の残り少ない人生を、どのような償いの心構えで生きていけばいいのでしょうか。(東京・U男)

【回答】
あなたから見れば娘のような年齢の私に手紙が届いてしまいました。生意気を申し上げるようですが、一読して、元妻はあなたと離婚して本当によかったとつくづく思いました。
あなたが彼女にしたことは、今ではモラルハラスメントと呼ばれる精神的暴力です。自分が彼女を不幸にしたと考えるなんて不遜きわまりない。早いうちにあなたから逃れられたのは、不幸中の幸いだったといえるでしょう。彼女は彼女の人生をしっかりと歩んでおられると思います。
困ったのは、あなた自身です。現在の妻の欠点をあげつらい、家を継ぐ子ができなかったのが親に申し訳ないという。元妻への償いについての相談かと思いきや、いま一番気になるのは墓のこと。いや逆でした。こんな老後になったのはなぜかと考えるうちに、自ら切り捨てたもうひとつの人生が惜しくなったのでしょう。
遅きに失しましたが、それでも気がついてよかったと思います。ボランティアでも寄付でもいいのです。これからは天に徳を積むつもりで、人知れず善きことをなさってください。謝罪すべきは、あなたに与えられたかけがえのない人生に対してではないでしょうか。》


そうですか、そうですか、よく分かりました。

いえいえ、この傑出した「回答」を「民子さん」に当て嵌めようとか思っているわけではありません。だって、民子さんは、政夫からの手紙を後生大事に抱き締めて死んでいったわけですから、そりゃあ可哀想だったかもしれませんが、まだまだ「手紙」という救いはあったわけですから、この「回答」を適用することはできません、むしろ、逆です。

政夫は命永らえ、そろそろ死を思う老境に達したとき、「そういえば、ああいうこともあったっなあ」と、たまたま民子さんのことを思い出し、思い立って彼女の墓に野菊を供えに詣でた部分なんか、まさにこの「回答」はぴったりなのではないかと考えたとき、ふっと、民子さんがいやいや嫁いだという他家の「婿さん」という人は、この物語では、ついぞ顔を出さなかったことに思い至りました。

本当に可哀想なのは、もしかすると徹頭徹尾、言及されなかったこの婿さんなのではないかと。

今度うちに来た嫁さんはさあ、以前になんかあったみたいで、なんだかイワクありそうな人でね、ほんと大丈夫かなと思っていたら、案の定、家にも、婿であるこの自分にも一向に馴染もうとしないで、一日中部屋に閉じこもってめそめそと泣いてばかりいるかと思うと、そのうちに病気になってしまって臥せってしまい、あれよあれよという間に死んでしまったわけよ、でね、嫁さんの家族っていうのが大挙して押しかけてきて、枕の下からむかしの恋人の手紙を見つけて、突如「私らが悪かった」とかなんとか他人の家で大号泣がはじまったってわけ、おれなんていい面の皮だよ、まったく。なんなんだよ、あいつら、人のこと馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ。


あっ! 分かった、ボクの友人がこの作品をものすごく嫌悪し、苛立っていたのは、これだったんだな。

そういうことなら、なんか分かるような気がします。

夜、呑み屋にひとりで入ったら、ろくに注文なんか聴きにきもしないで、ホッタラカシの目にあっているちょんがーの身としたら、彼がこの作品を嫌がっている理由もなんだか分かるような気もします。なるほどね。孤独なんだなあ、みんな。

(1955松竹)監督・脚色・木下惠介、原作・伊藤左千夫(『野菊の墓』)、製作・久保光三、撮影・楠田浩之、音楽・木下忠司、美術・伊藤熹朔、編集・杉原よ志、録音・大野久男、照明・豊島良三、
出演・田中晋二(政夫)、有田紀子(民子)、笠智衆(老人)、田村高廣(栄造)、小林トシ子(お増)、杉村春子(政夫の母)、雪代敬子(民子の姉)、山本和子(さだ)、浦辺粂子(民子の祖母)、松本克平(船頭)、小林十九二(庄さん)、本橋和子(民子の母)、高木信夫(民子の父)、谷よしの(お浜)、渡辺鉄弥(常吉)、松島恭子(お仙)
昭和30年キネマ旬報ベストテン第3位、モノクロ。



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