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Channel: 映画収集狂
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日々是映画

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ブログって、本来そうなのでしょうが、多くの人たちが、身構えたりせず、気楽な日記風にブログを軽く書き流しているのが、最近とても羨ましく感じるようになりました。

自分では、そんなに拘るつもりでもなかったのですが、ブログのタイトルにいちいち映画の題名をつけて「三題噺」のようなものにまとめ上げるのが、結構大変になってしまいました(当初は、むしろその方が気楽に書けるはずとタカを括っていたのですが)、ここのところ正直だんだん負担になっています。

仕事などでもそうなのですが、目の前に立ちはだかる困難なことも、習慣化して日常的に生活の中に取り込んでしまえば、少しずつ切り崩すことができて、そりゃあ時間は掛かるかもしれませんが、大仕事もどうにかクリアできるというのが(いかにも、A型人間の典型的な行動パターンのような気もしますが)、従来ずっと自分が続けてきた方法でした、現在おちいっているスランプは、たぶんこの方法をあまりにも過信しすぎていたせいだったかもしれません、システムの方々がホコロビ始めているのを感じます。

「ご気楽な習慣」のつもり程度の気持でいたのが、いつの間にやら、しっかり自分を縛り上げるルールみたいになってしまったことに気づいたのです。

当初は、映画を漫然と見て楽しみ、そのなかで気に掛かった作品にでも出会えれば、ちょっとしたコメントでも書き散らしてストレス解消にしようと思い、書くこともそれほど苦にならないタイプだったので、きっと楽しいにちがいない位に考えていました。

とにかくブログは無記名です、どんな権威・権力に対しても遠慮会釈なく貶しまくったり罵倒を浴びせ掛けたり(朝日新聞の「朝」の字って、あっちの「朝」だったの、みたいな感じで、考えただけでもチョー爽快です)、そして、罵倒に飽きたら、無責任に褒め倒したりして(「無責任に褒める」というのも嫌味っぽくてストレス解消には最適です)、言いたい放題を楽しもうかと思っていたのに、そういうことすべてが徐々に煮詰まってしまった現状は、もはや惨憺たるものとしか言えず、自分が作ったルール(三題噺)がいつの間にか一人歩きしてどんどん厳格化してしまい、逆に自分がガンジガラメに絡め取られて「拘束」され、いまでは書き続けることが苦痛・困難になってしまいました、もはや息も絶え絶え状態です。

なにもかも我が身から出た錆とはいいながら、それにしても、映画一本の作品について、ある程度まとまった字数を書くというのは、本当に苦痛でシンドイ話です。

とりわけ非才な自分には、大変な労力と時間を費やさなければならないのですが、しかし、なにより負担に感じることは、こんなふうに一本の映画の感想を書くということにこだわっている間も自分としては日々映画を見続けているわけで、そういう映画が、どんどん自分の中に溜まり続け、「映画の記憶」が積み上がってしまうというのに、なにも発散できないでいることが、とても辛いのです。

つまり、いま書き滞ってしまっている映画が、必ずしも「いま」いちばん感銘を受けた映画というわけではないという矛盾した状況(自分が見た映画、とりわけ感銘を受けた映画のすべてについて到底書けないまま、意に添わないどうでもいいような作品にいつまでも囚われ続けているという馬鹿げた苛々状況です)が、結局重たいストレスとなって自分の中に溜まっていることに気がついたのでした。

優れた映画から受ける「感銘」は、最初、とても短い直感的な言葉となって胸に落ちてきます。

その最初の直感の支えがなければ(構想という意味でも、モチベーションという意味からも)、長い文章を書き続けることなど、とてもできるものではありません。

実は、自分は、日々見る映画が10本に達すると、簡単な「自分ベスト10」をちょっとしたコメントを添えて備忘録代わりにつけているのですが、「ベスト1」作品が、必ずしも感想を書きやすい作品というわけではないので、どうしても書きやすい作品から取り掛かってしまうということを繰り返し、困難だけれどもいちばん書きたいと思っている作品を後回しにして、結局、時機を逸するということを繰り返しています。

時機も逸するとともに、「ベスト1」のコメントも同時に失うということを繰り返していて、それが、現在のストレスを生み出している元凶だと気がつきました。

ですので、10本見るごとにつけている「自分ベスト10」を、ストレス解消、一種のガス抜き行為として、そのたびに短いコメントを付して書き留めておくことにしました。

以下が、ごく最近メモった「自分ベスト10」です。

① THE ICEMAN 氷の処刑人(2012アメリカ)監督・アリエル・ヴロメン、
② 憲兵とバラバラ死美人(1957新東宝)監督・並木鏡太郎、
③ 上京ものがたり(2013日本)監督・森岡利行、
④ 日本任侠道・激突篇()監督・
⑤ サハラに舞う羽根()監督・
⑥ 100回泣くこと(2013日本)監督・廣木隆一、
⑦ 天使の分け前(2012英・仏・ベルギー・伊)監督・ケン・ローチ、
⑧ 君と歩く世界(2012フランス・ベルギー)監督・ジャック・オディアール、
⑨ リアル~完全なる首長竜の日(2013日本)監督・黒沢清、
⑩ 第九軍団のワシ(2011イギリス)監督・ケヴィン・マクドナルド、

まずは第一位の「THE ICEMAN 氷の処刑人」です。

この作品が、ギャング同士がひたすら殺し合う単なるフィルム・ノワールだったなら、これほどまでに自分は心惹かれなかったと思います。

それは、きっとポール・トーマス・アンダーソンの「ザ・マスター」が、自分的には「イマイチ」だったことを書けば、あるいは説明がつくかもしれません。

「ザ・マスター」においては、戦争で受けた心の傷によって、男は社会のどこにもとけ込めず、自分の居場所を見つけられないまま放浪し、ときに自己破壊を伴う凶暴に捉われると破滅的に暴れまわるという凄惨な場面が描かれているのですが、その狂気を伴う暴力場面が迫真的であればあるほど、どうも図式的で現実味に乏しいと感じ、なんだか白けてしまいました。

「THE ICEMAN 氷の処刑人」は、殺し屋リチャード・ククリンスキーが持っていたもうひとつの顔→立派な社会人であり、家族を愛する家庭人でもあったと描かれている部分に、とてもリアルなものを感じました。

というのは、彼の中では、家族を愛することと、残酷な人殺しとが、なんの矛盾もなく同居しているからでしょう。

この「同居」という感覚をこの男の狂気と言い切ってしまわないところが、この映画の傑出しているところだと感じました。

それは、細かい心遣いで家族サービスに努めることと、一方で、人殺しを完璧着実にこなしていく狂気の綿密さとが同じように描かれ、それは、このふたつのことが彼にとっては矛盾なく存在し、また密接に絡まっているものとして描かれています。

ククリンスキーが殺しで稼いだ大金を、妻や娘たちに惜しげもなく与えて家族を喜ばす場面が繰り返し描かれていきます。

ククリンスキーにとって、妻や娘たちの喜ぶ顔だけが必要なだけなのであって、それには、どのような素性の金であれ、とにかく大金を惜しげもなく与えることで、確実に達成でき維持できると考えています。

それが彼の考えている「幸福な家庭」の姿であり、彼にとってはただそれだけで十分、これこそが彼がもっとも求めていたものだったからだと思います。

しかし、完璧な二重生活を続けるククリンスキーも、ときにはホコロビを見せてしまうようなそんなとき、妻(目の前の大金に驚喜し、夫の暴力に怯える妻をウィノナ・ライダーが完璧に演じています)から「あなたは、秘密ばかりだ」と激しくなじられます。

しかし、彼には、妻がなぜそんなことを言って自分をなじるのかが分からない。

生活をエンジョイするには十分なだけの金は与えているのに、ほかに何が不服なんだ、頼むから幸福そうな顔をしてくれと懇願し、言い募って次第に逆上し、狂気のような憤りに捉われて片っ端から家具を叩き壊す壮絶な場面が描かれていきます。

幼少期に彼が親から繰り返し受けた激しい虐待の体験が、彼からどういうものが「幸せな家庭」なのかという想像力を奪い取り、金を与える以外に、どうのようにすれば家族が喜び笑顔になるのかが分からない、金によってしか家族や笑顔を作ることしか知らなかったククリンスキーを、しかし、狂気といいきってしまっていいのか、とこの映画は問い掛けているように思えてしかたありませんでした。

まるで、フリッツ・ラングの「M」のようなサスペンスを思わせ、ジョージ・スティーヴンスの「陽のあたる場所」や、浦山桐郎の「私が棄てた女」もかくやと思わせる叙情を兼ね備えた「② 憲兵とバラバラ死美人(1957新東宝)監督・並木鏡太郎」

そして、破天荒な西原理恵子の元気映画によって、出演した女優たちが、とても生き生きと演じている感動モノの「③ 上京ものがたり(2013日本)監督・森岡利行」については、
ともにまた日を改めて書きたいと思っています。


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