BS放送で小津作品「東京暮色」を放映していたので、本当に久しぶりに、じっくりとこの作品を鑑賞することができました。
しかし、このように簡単に「じっくりと鑑賞することができた」などと言葉にしてしまうと、いままで自分がこの作品に対して抱いていた「気持ち」とか「印象」からは、ずいぶんと隔たりのある言い方になってしまうことに気づかされます。
あえて、「じっくりと鑑賞することができた」というなら、正確にはそれは、「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」のことと言うべきなのではないかと。
「東京暮色」は、その「救いがたい深刻さ」と「陰々滅々さ」において、多くの小津作品とは明らかに一線を画し、というか、他を圧して余りある作品ということができます。
多くの小津作品においてなら、たとえ徹底的な絶望や苦々しい諦念が描かれていたとしても、それでも、そのラストでは、必ずや微かな希望もまた同時に描き込むのを忘れることなく、本編で痛切に描かれている深刻さの割には、鑑賞後の印象はさほどでもなくて、たとえば「救いがたい深刻さ」や「陰々滅々さ」の代表格のようにいわれるあの「風の中の牝鶏」においてさえ、生活苦からやむなく売春に走った妻の一時の過ちを夫が徹底的に責め苛み(戦地に行っていた夫は、自分が不在のために逼迫した家族に何も為しえなかったという責任や負い目も当然あったと思います)お互いを傷つけずにはおられないという夫婦の壮絶な葛藤が描かれたあとの荒廃で、「これでやっと俺たちも、これからどうにか生きていけそうだ」と確認し合い抱擁するというラスト(贖罪感)が描かれていたことを考えれば、やはり深い部分で僕たちは「救い」を感じることができたのだと思います。
しかし、この「東京暮色」においてだけは、この最後の救いすら許されているとは、どうしても思えません。
どこを探してもこの作品には「そんなもの」は、最初からないのです。
次女(有馬稲子)を事故で亡くし、一時同居していた長女(原節子)も夫の元へ帰り、すべてを失った父・周吉は、一人きりの孤独のなかで生きていかねばならない姿がラストで素っ気無く描かれているだけです。
なるほど、なるほど、これがまさに、自分が、《「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」》と感じた、つまり長い間この作品を事実上「敬遠」してきたという本当の理由だったのだと思い至りました。
思えば、小津作品に描かれている人物たちに対して、そのラストにおいて微かにではあっても「救い」を感じられたのは、その絶望や失意の一端で、「しかし、これでも自分たちは、まだまだ幸せな方なのだ」とか「これでどうにか生きていけそうだ」と思い直す部分がわずかに残されていて、その多様性こそが日常生活を生きる庶民のせめてもの才覚であり姿でもあること、母親の死に直面し、深い悲しみに動揺しながらも同時に喪服の心配ができるという、以前の自分なら「失笑」をさそわれるという反応しかできなかったもの、その矛盾を生きる人間の「なにものか」が、この世を生き抜いていく庶民の処世であり活力であり「救い」であることに気づかされたということなのかもしれません。
「風の中の牝鶏」にあって、「東京暮色」に欠落しているもの、お互いが、お互いを決して許そうとしない家族のこの頑なな緊張関係が、自分が長いあいだ抱いてきた「東京暮色」への違和感であることにようやく気がつきました。
しかし、では何故よりにもよってこの作品にだけは、小津監督は「微かな救い」を織り込もうとしなかったのか、そんなふうに考えていたとき、今年の四月に出た「小津安二郎大全」(朝日新聞出版)の中にも「東京暮色」を製作したときの当時の状況の記述があるので、かいつまんで書いてみますね。
《1956年8月22日、骨髄性白血病で入院した溝口健二を京都府立病院に見舞った。これが最後の別れとなり、24日に溝口は亡くなった。58歳だった。当時としては特別早い死ではない。2年前には同じく交友のあった同年代の井上金太郎監督も亡くなっている。
9月から再び蓼科で過ごす。土地も人々も気に入り、小津も別荘を借り受けた。
そこを「無藝荘」と命名し、野田と「東京暮色」を執筆開始した。「彼岸花」を除いて、以降の作品は、蓼科で執筆することになる。
執筆中は毎日のように酒を飲んだが、酔った小津は「カチューシャ」「千葉心中」「不如帰」「婦系図」などを歌い踊った。ジョン・フォード「駅馬車」のモノマネを披露することもあったという。
11月末、「東京暮色」を脱稿した。
「東京暮色」は、小津監督最後の白黒作品である。画面の調子は暗く、悲劇的な内容だが、カラー作品が増えている当時にあって、小津監督は白黒でしか表現できない深みのある作品を撮ろうとした。
「晩春」以来共同で脚本を務めてきた野田高梧とは物語の内容をめぐって対立し、完成した作品にも批判的だった。
役を演じる俳優をあらかじめ決めて脚本を書く小津だが、想定していた役者に出演を打診した結果、ほぼ全員が想定通り決定したが、想定と異なる配役があった。ひとりは父親役に考えていた山村聰で、舞台出演の時期と重なったため出演不可となり、代わりに刑事役の予定だった笠智衆が父親を演じることになった。
また、主演の次女役には岸恵子を考えていたが、彼女が他作出演や仏国のイヴ・シャンピ監督(仏)との結婚の予定があって都合がつかず、こちらも出演不可となった。
小津は「早春」で岸を大変気に入っており、「俺がひとりの女優のために六ヶ月もかけて書いたシナリオなんだ。これは、君のために書いたんだ。君なんかよりもいい女優はたくさんいる。でも、これは岸恵子じゃなきゃできない役なんだ」と伝えたといわれる(浜野保樹「小津安二郎」)。
しかしその調整はつかず、次女役は結局有馬稲子が演じることになった。この頃の役者は皆喜んで小津作品に出演することを希望し配役には困らなかったという状況下では、これはたいへん異例のことだった。当然、キャスティングの段階で出鼻をくじかれた形になった小津監督に、なんらかの失望とダメージがあったことは否めない。
作品の下敷きになったのは、前作「早春」でも広告が写り込んでいたエリア・カザン監督の「エデンの東」1955である。小津はこの作品にたいへん入れ込んでいた。
偉大な父と、死んだと聞かされていた母、父親からの愛情を切望する次男などの人物設定に類似点がある。自分の境遇を下の子が苦しむ点、母親の働いている場所が社会的地位の低いいかがわしい場所・娼館や麻雀屋という点も同じだが、聖書を基調にしたこの欧米的なストーリーを日本の状況に強引に当て嵌めようとした設定には当然に無理があり、違和感は免れなかった。
時はまさに石原慎太郎が衝撃的な小説「太陽の季節」を書いて太陽族が流行し、映画化もされようかという時代。「大船調」を守っていた松竹の興行成績が、新作二本立てに踏み切って時代劇ブームを起した東映に抜かれ、二位に転落し、翌年には大映にも抜かれて、翌々年には五位に凋落した。大船調を守り続ける松竹の方針に批判が高まり始めたという時代である。
1957年1月、撮影開始。
小津は「いままでは劇的なものは避けて、なんでもないものの積み重ねで映画を作ってきたが、今度は僕のものでは戦後初めてドラマチックな作品となろう。芝居を逃げずに、まともに芝居にぶつかるという作り方をしようと思っている。話の仕組み自体はメロドラマ的なものだが、メロドラマになるもならないも芝居の押し方次第だ。近頃は、大船調批判が厳しいようだが、正調の大船調とはこれだということを、この作品で示してみようと思っている」と語り、作品への意欲を示した。脚本執筆では、野田高梧が反対する部分もあったが、小津は押し通した。助監督によると撮影時、「そんなものが撮れるか、それは野田が勝手に書いたんだ」と小津がめずらしく声を荒げることもあったという。大幅に撮影は遅れ、小津組にはめずらしく、夜中まで撮影が続くこともあった。
4月、「東京暮色」が公開された。物語も画面の調子も暗い作品となったが、「この次に撮る作品も、やはりドラマチックなものにする予定です」と語った。
「東京暮色」は、小津監督が力を入れた作品だったが、批評家や若者から小津は時代遅れだとの批判があがり、キネマ旬報ベストテンでも19位という結果に終わる。それを知った小津は、「俺は19位だから」と周囲に自虐的に語った。野田ものちに、リアルに現実を表現することは無意味だとこの作品を批判した。
のちに小津の脚本全集を出す井上和男からも「若者のヴィヴィッドな動きは、フィックスのローポジでは掴めない」「今の若い女子のにとって、中絶なんて非行でも無軌道でもない、日常茶飯事だ」などと批判された。
生々しい不倫という情事を、女優・岸恵子が演じる軽妙さによって、現実の生臭さと深刻さとを免れた「早春」のあの独特な雰囲気をかもしだそうとした「東京暮色」も、想定していた主演女優を失い、「太陽族ブーム」のあおりを受けて、むき出しの痛切なリアルしか表出できなかったことが、負の成果としての「東京暮色」だったのかもしれないなという思いがきざしてきました。
大人たち=世間と家族の冷ややかな無関心と悪意によって自滅していく「次女・杉山明子」役を、はたして(あるいは「やはり」)、岸恵子以外には演ずることができなかったのかどうか、監督の意に添わぬまま主演に抜擢された有馬稲子と、フランスの三流監督との愚にもつかない結婚のために小津安二郎作品の主演女優の座を逃した岸恵子、この二大女優がいずれもいまだ存命中だとしても、もはやどうすることもできません。
(1957松竹大船撮影所)企画・山内静夫、監督・小津安二郎、監督助手・山本浩三、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、撮影助手・川又昂、音楽・斎藤高順、美術・浜田辰雄、装置・高橋利男、装飾・守谷節太郎、録音・妹尾芳三郎、録音助手・岸本真一、照明・青松明、照明助手・佐藤勇、編集・浜村義康、編集助手・鵜沢克巳、衣裳・長島勇治、現像・林龍次、進行・清水富二、
出演・原節子(沼田孝子)、有馬稲子(杉山明子)、笠智衆(杉山周吉)、山田五十鈴(相馬喜久子)、高橋貞二(川口登)、田浦正巳(木村憲二)、杉村春子(文学座)(竹内重子)、山村聰(関口積)、信欣三(民芸)(沼田康雄)、藤原釜足(東宝)(下村義平)、中村伸郎(文学座)(相馬栄)、宮口精二(文学座)(刑事和田)、須賀不二夫(富田三郎)、浦辺粂子(大映)(「小松」の女主人)、三好栄子(東宝)(女医笠原)、田中春男(東宝)(「小松」の客)、山本和子(前川やす子)、長岡輝子(文学座)(家政婦富沢)、櫻むつ子(バアの女給)、増田順二(バアの客)、山田好二(警官)、長谷部朋香(松下昌太郎)、島村俊雄(「お多福」のおやじ)、森教子(堀田道子)、石井克二(菅井の店の店員)、菅原通済(特別出演)(菅井の旦那)、山吉鴻作(銀行の重役)、川口のぶ(給士)、空伸子(給士)、伊久美愛子(うなぎ屋の少女)、城谷皓二(麻雀屋の客)、井上正彦(麻雀屋の客)、末永功(麻雀屋の客)、秩父晴子(義平の細君)、石山龍嗣(深夜喫茶の客)、佐原康(深夜喫茶の客)、篠山正子(深夜喫茶の客)、高木信夫(深夜喫茶の客)、中村はるえ(深夜喫茶の客)、寺岡孝二(深夜喫茶の客)、谷崎純(取調べを受ける中老の男)、今井健太郎(受付の警官)、宮幸子(笠原医院の女患者)、新島勉(バアの客)、朝海日出男(バアの客)、鬼笑介(バアの客)、千村洋子(町の医院の看護婦)、
1957.04.30 15巻 3,841m 140分 白黒
《以下は、挫折し廃棄した草稿です》
この「東京暮色」には、かつて母親がふたりの娘を置き去りにして駆け落ちし、家を出てしまったという一家の「その後の惨憺たる物語」が描かれています。
「現代」においての小津作品に対する僕たちの大まかな印象を、無理やりひとことで括ってしまうとすれば、(自分だけかもしれませんが)やはり「明るさ」ということになると思うので、この「東京暮色」という作品の暗さはいっそう際立っていて、その意味で「例外的な作品」ということは可能なのかもしれません。
自分など、その「明るさ」が過ぎて見えてしまい、むしろずいぶんと虚無的に感じてしまう部分もあったりするのですが。
しかし、残念ながら(というか、むしろここでは謙虚に、「寡聞にして」とでも言うべきでしょうか)、いまに至るまで、この作品が小津作品群の中でどう例外的なのかと表明した評文というものに接した記憶がなかったので、手元の資料に二、三あたって確認してみることにしました。
最初に見たガイドブックには、こう記されていました。
《小津監督は、それぞれの物言わぬ肩や背中に生きることの悲哀をずっしりと感じさせ、寂莫の人生模様を、甘い感傷に溺れることなく、みごとに織り上げてみせた。》
なるほど、なるほど、なんかコレ、やたらと褒めてるじゃないですか。
こちらの家庭の事情で、最初から「例外的」という負の評価に照応するものだけを見つけ出し、歪んだ先入観を満足させられればいいやくらいの身勝手なものだったので、まず受けたこの「意外さ」の不意打ちは、考えればむしろ常識的で、正義にかなった正統な評価ということができるかもしれません。
いつの時代にも「偏見」を振り戻し正してくれる「常識」というものは、やはり存在しているものなのだなとヒトリ感じ入った次第です。
しかし、このように簡単に「じっくりと鑑賞することができた」などと言葉にしてしまうと、いままで自分がこの作品に対して抱いていた「気持ち」とか「印象」からは、ずいぶんと隔たりのある言い方になってしまうことに気づかされます。
あえて、「じっくりと鑑賞することができた」というなら、正確にはそれは、「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」のことと言うべきなのではないかと。
「東京暮色」は、その「救いがたい深刻さ」と「陰々滅々さ」において、多くの小津作品とは明らかに一線を画し、というか、他を圧して余りある作品ということができます。
多くの小津作品においてなら、たとえ徹底的な絶望や苦々しい諦念が描かれていたとしても、それでも、そのラストでは、必ずや微かな希望もまた同時に描き込むのを忘れることなく、本編で痛切に描かれている深刻さの割には、鑑賞後の印象はさほどでもなくて、たとえば「救いがたい深刻さ」や「陰々滅々さ」の代表格のようにいわれるあの「風の中の牝鶏」においてさえ、生活苦からやむなく売春に走った妻の一時の過ちを夫が徹底的に責め苛み(戦地に行っていた夫は、自分が不在のために逼迫した家族に何も為しえなかったという責任や負い目も当然あったと思います)お互いを傷つけずにはおられないという夫婦の壮絶な葛藤が描かれたあとの荒廃で、「これでやっと俺たちも、これからどうにか生きていけそうだ」と確認し合い抱擁するというラスト(贖罪感)が描かれていたことを考えれば、やはり深い部分で僕たちは「救い」を感じることができたのだと思います。
しかし、この「東京暮色」においてだけは、この最後の救いすら許されているとは、どうしても思えません。
どこを探してもこの作品には「そんなもの」は、最初からないのです。
次女(有馬稲子)を事故で亡くし、一時同居していた長女(原節子)も夫の元へ帰り、すべてを失った父・周吉は、一人きりの孤独のなかで生きていかねばならない姿がラストで素っ気無く描かれているだけです。
なるほど、なるほど、これがまさに、自分が、《「久しぶり」ではなくて、むしろ「初めて」》と感じた、つまり長い間この作品を事実上「敬遠」してきたという本当の理由だったのだと思い至りました。
思えば、小津作品に描かれている人物たちに対して、そのラストにおいて微かにではあっても「救い」を感じられたのは、その絶望や失意の一端で、「しかし、これでも自分たちは、まだまだ幸せな方なのだ」とか「これでどうにか生きていけそうだ」と思い直す部分がわずかに残されていて、その多様性こそが日常生活を生きる庶民のせめてもの才覚であり姿でもあること、母親の死に直面し、深い悲しみに動揺しながらも同時に喪服の心配ができるという、以前の自分なら「失笑」をさそわれるという反応しかできなかったもの、その矛盾を生きる人間の「なにものか」が、この世を生き抜いていく庶民の処世であり活力であり「救い」であることに気づかされたということなのかもしれません。
「風の中の牝鶏」にあって、「東京暮色」に欠落しているもの、お互いが、お互いを決して許そうとしない家族のこの頑なな緊張関係が、自分が長いあいだ抱いてきた「東京暮色」への違和感であることにようやく気がつきました。
しかし、では何故よりにもよってこの作品にだけは、小津監督は「微かな救い」を織り込もうとしなかったのか、そんなふうに考えていたとき、今年の四月に出た「小津安二郎大全」(朝日新聞出版)の中にも「東京暮色」を製作したときの当時の状況の記述があるので、かいつまんで書いてみますね。
《1956年8月22日、骨髄性白血病で入院した溝口健二を京都府立病院に見舞った。これが最後の別れとなり、24日に溝口は亡くなった。58歳だった。当時としては特別早い死ではない。2年前には同じく交友のあった同年代の井上金太郎監督も亡くなっている。
9月から再び蓼科で過ごす。土地も人々も気に入り、小津も別荘を借り受けた。
そこを「無藝荘」と命名し、野田と「東京暮色」を執筆開始した。「彼岸花」を除いて、以降の作品は、蓼科で執筆することになる。
執筆中は毎日のように酒を飲んだが、酔った小津は「カチューシャ」「千葉心中」「不如帰」「婦系図」などを歌い踊った。ジョン・フォード「駅馬車」のモノマネを披露することもあったという。
11月末、「東京暮色」を脱稿した。
「東京暮色」は、小津監督最後の白黒作品である。画面の調子は暗く、悲劇的な内容だが、カラー作品が増えている当時にあって、小津監督は白黒でしか表現できない深みのある作品を撮ろうとした。
「晩春」以来共同で脚本を務めてきた野田高梧とは物語の内容をめぐって対立し、完成した作品にも批判的だった。
役を演じる俳優をあらかじめ決めて脚本を書く小津だが、想定していた役者に出演を打診した結果、ほぼ全員が想定通り決定したが、想定と異なる配役があった。ひとりは父親役に考えていた山村聰で、舞台出演の時期と重なったため出演不可となり、代わりに刑事役の予定だった笠智衆が父親を演じることになった。
また、主演の次女役には岸恵子を考えていたが、彼女が他作出演や仏国のイヴ・シャンピ監督(仏)との結婚の予定があって都合がつかず、こちらも出演不可となった。
小津は「早春」で岸を大変気に入っており、「俺がひとりの女優のために六ヶ月もかけて書いたシナリオなんだ。これは、君のために書いたんだ。君なんかよりもいい女優はたくさんいる。でも、これは岸恵子じゃなきゃできない役なんだ」と伝えたといわれる(浜野保樹「小津安二郎」)。
しかしその調整はつかず、次女役は結局有馬稲子が演じることになった。この頃の役者は皆喜んで小津作品に出演することを希望し配役には困らなかったという状況下では、これはたいへん異例のことだった。当然、キャスティングの段階で出鼻をくじかれた形になった小津監督に、なんらかの失望とダメージがあったことは否めない。
作品の下敷きになったのは、前作「早春」でも広告が写り込んでいたエリア・カザン監督の「エデンの東」1955である。小津はこの作品にたいへん入れ込んでいた。
偉大な父と、死んだと聞かされていた母、父親からの愛情を切望する次男などの人物設定に類似点がある。自分の境遇を下の子が苦しむ点、母親の働いている場所が社会的地位の低いいかがわしい場所・娼館や麻雀屋という点も同じだが、聖書を基調にしたこの欧米的なストーリーを日本の状況に強引に当て嵌めようとした設定には当然に無理があり、違和感は免れなかった。
時はまさに石原慎太郎が衝撃的な小説「太陽の季節」を書いて太陽族が流行し、映画化もされようかという時代。「大船調」を守っていた松竹の興行成績が、新作二本立てに踏み切って時代劇ブームを起した東映に抜かれ、二位に転落し、翌年には大映にも抜かれて、翌々年には五位に凋落した。大船調を守り続ける松竹の方針に批判が高まり始めたという時代である。
1957年1月、撮影開始。
小津は「いままでは劇的なものは避けて、なんでもないものの積み重ねで映画を作ってきたが、今度は僕のものでは戦後初めてドラマチックな作品となろう。芝居を逃げずに、まともに芝居にぶつかるという作り方をしようと思っている。話の仕組み自体はメロドラマ的なものだが、メロドラマになるもならないも芝居の押し方次第だ。近頃は、大船調批判が厳しいようだが、正調の大船調とはこれだということを、この作品で示してみようと思っている」と語り、作品への意欲を示した。脚本執筆では、野田高梧が反対する部分もあったが、小津は押し通した。助監督によると撮影時、「そんなものが撮れるか、それは野田が勝手に書いたんだ」と小津がめずらしく声を荒げることもあったという。大幅に撮影は遅れ、小津組にはめずらしく、夜中まで撮影が続くこともあった。
4月、「東京暮色」が公開された。物語も画面の調子も暗い作品となったが、「この次に撮る作品も、やはりドラマチックなものにする予定です」と語った。
「東京暮色」は、小津監督が力を入れた作品だったが、批評家や若者から小津は時代遅れだとの批判があがり、キネマ旬報ベストテンでも19位という結果に終わる。それを知った小津は、「俺は19位だから」と周囲に自虐的に語った。野田ものちに、リアルに現実を表現することは無意味だとこの作品を批判した。
のちに小津の脚本全集を出す井上和男からも「若者のヴィヴィッドな動きは、フィックスのローポジでは掴めない」「今の若い女子のにとって、中絶なんて非行でも無軌道でもない、日常茶飯事だ」などと批判された。
生々しい不倫という情事を、女優・岸恵子が演じる軽妙さによって、現実の生臭さと深刻さとを免れた「早春」のあの独特な雰囲気をかもしだそうとした「東京暮色」も、想定していた主演女優を失い、「太陽族ブーム」のあおりを受けて、むき出しの痛切なリアルしか表出できなかったことが、負の成果としての「東京暮色」だったのかもしれないなという思いがきざしてきました。
大人たち=世間と家族の冷ややかな無関心と悪意によって自滅していく「次女・杉山明子」役を、はたして(あるいは「やはり」)、岸恵子以外には演ずることができなかったのかどうか、監督の意に添わぬまま主演に抜擢された有馬稲子と、フランスの三流監督との愚にもつかない結婚のために小津安二郎作品の主演女優の座を逃した岸恵子、この二大女優がいずれもいまだ存命中だとしても、もはやどうすることもできません。
(1957松竹大船撮影所)企画・山内静夫、監督・小津安二郎、監督助手・山本浩三、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、撮影助手・川又昂、音楽・斎藤高順、美術・浜田辰雄、装置・高橋利男、装飾・守谷節太郎、録音・妹尾芳三郎、録音助手・岸本真一、照明・青松明、照明助手・佐藤勇、編集・浜村義康、編集助手・鵜沢克巳、衣裳・長島勇治、現像・林龍次、進行・清水富二、
出演・原節子(沼田孝子)、有馬稲子(杉山明子)、笠智衆(杉山周吉)、山田五十鈴(相馬喜久子)、高橋貞二(川口登)、田浦正巳(木村憲二)、杉村春子(文学座)(竹内重子)、山村聰(関口積)、信欣三(民芸)(沼田康雄)、藤原釜足(東宝)(下村義平)、中村伸郎(文学座)(相馬栄)、宮口精二(文学座)(刑事和田)、須賀不二夫(富田三郎)、浦辺粂子(大映)(「小松」の女主人)、三好栄子(東宝)(女医笠原)、田中春男(東宝)(「小松」の客)、山本和子(前川やす子)、長岡輝子(文学座)(家政婦富沢)、櫻むつ子(バアの女給)、増田順二(バアの客)、山田好二(警官)、長谷部朋香(松下昌太郎)、島村俊雄(「お多福」のおやじ)、森教子(堀田道子)、石井克二(菅井の店の店員)、菅原通済(特別出演)(菅井の旦那)、山吉鴻作(銀行の重役)、川口のぶ(給士)、空伸子(給士)、伊久美愛子(うなぎ屋の少女)、城谷皓二(麻雀屋の客)、井上正彦(麻雀屋の客)、末永功(麻雀屋の客)、秩父晴子(義平の細君)、石山龍嗣(深夜喫茶の客)、佐原康(深夜喫茶の客)、篠山正子(深夜喫茶の客)、高木信夫(深夜喫茶の客)、中村はるえ(深夜喫茶の客)、寺岡孝二(深夜喫茶の客)、谷崎純(取調べを受ける中老の男)、今井健太郎(受付の警官)、宮幸子(笠原医院の女患者)、新島勉(バアの客)、朝海日出男(バアの客)、鬼笑介(バアの客)、千村洋子(町の医院の看護婦)、
1957.04.30 15巻 3,841m 140分 白黒
《以下は、挫折し廃棄した草稿です》
この「東京暮色」には、かつて母親がふたりの娘を置き去りにして駆け落ちし、家を出てしまったという一家の「その後の惨憺たる物語」が描かれています。
「現代」においての小津作品に対する僕たちの大まかな印象を、無理やりひとことで括ってしまうとすれば、(自分だけかもしれませんが)やはり「明るさ」ということになると思うので、この「東京暮色」という作品の暗さはいっそう際立っていて、その意味で「例外的な作品」ということは可能なのかもしれません。
自分など、その「明るさ」が過ぎて見えてしまい、むしろずいぶんと虚無的に感じてしまう部分もあったりするのですが。
しかし、残念ながら(というか、むしろここでは謙虚に、「寡聞にして」とでも言うべきでしょうか)、いまに至るまで、この作品が小津作品群の中でどう例外的なのかと表明した評文というものに接した記憶がなかったので、手元の資料に二、三あたって確認してみることにしました。
最初に見たガイドブックには、こう記されていました。
《小津監督は、それぞれの物言わぬ肩や背中に生きることの悲哀をずっしりと感じさせ、寂莫の人生模様を、甘い感傷に溺れることなく、みごとに織り上げてみせた。》
なるほど、なるほど、なんかコレ、やたらと褒めてるじゃないですか。
こちらの家庭の事情で、最初から「例外的」という負の評価に照応するものだけを見つけ出し、歪んだ先入観を満足させられればいいやくらいの身勝手なものだったので、まず受けたこの「意外さ」の不意打ちは、考えればむしろ常識的で、正義にかなった正統な評価ということができるかもしれません。
いつの時代にも「偏見」を振り戻し正してくれる「常識」というものは、やはり存在しているものなのだなとヒトリ感じ入った次第です。