前回のブログに書いた「日本のいちばん長い日」で、岡本喜八の論考「体験的戦争映画・試論」から一文を引用するとき、原文と照合するために論稿の掲載されている岩波書店刊「講座・日本映画 第5巻 戦後映画の展開」を久しぶりに書棚から引っ張り出しました。
やはり、原文との照合というのは、引用者の当然の責務だと思っているので、転記に際しては誤記のないよう細心の注意を払って、慎重のうえにも慎重を期しています。
以前、自分もヒト様の書いた「引用文」を全面的に鵜呑みにし、そのまま「孫引き」した結果、それが結構デタラメなもので大変な目にあったことがありました。そのときから原典との照合はしっかりしなくてはと、キモに銘じています。
でも、こうして岩波の「講座・日本映画」を手にするのは、なんだか本当に久しぶりです、書棚から引っ張り出したとき、本の周囲をうっすら覆っているホコリのマクに指の跡がつくのを見て、この本を開かなかった歳月の長さには胸に迫るものがありました、大袈裟ではなくて、なんだかこの本を片時も離すことなく手元に置いて夢中で読みふけっていたかつての自分と遭遇したような切ない感慨に捉われました。
まあ、ついでにと言ってはなんですが、懐かしさもあってパラパラと頁を繰ってみました。
当の岡本喜八の小論は、本の最後のほうに掲載されているので、頁を繰るのも自然と最後の頁から見ていくという感じになります。
余談ですが、どの本についてもそうですが、本の全体を眺めようというとき、最後のほうからパラパラ眺めていくというのが自分の流儀です。こうすると本の全体像というのが不思議と的確につかめるような気がして、なんだか物凄く合理的な感じがします。
単なる想像にすぎませんが、書く側にしても、いざ執筆を始めようという作業の起動時においてなら書く動機も構想もしっかり固まっているので、モチベーションも高く当然リキも入っていてガンガン書き始めるでしょうけれども、そのうちネタも尽き息切れもしてきて、最後のほうになるとだんだん構想が途切れて、イタズラニ素材をふやかして間延びさせるとか、「はしょる」とかして、終わりを急いで、最後のほうになると安直にまとめてしまうというのが世の常だと思うので(実際のところ、そういう本は実に多いのです)、だから本を終わりのほうから眺めるというのは、その「痕跡」を見つけ易いそれなりに理にかなった方法で、その本の熱の「途切れ」を測ることのできる優れた本の鑑定法ではないかと自負しています。
もちろん、これはどこまでも自分の経験から割り出した独善的な私見にすぎませんので、どこまで信憑性があるかは分かりません、念のため。
しかし、それにしても、こうしてこの「講座・日本映画」を実際に手にしてみると、とにかくこの岩波本「講座・日本映画」という書籍は、写真やイラストが豊富に掲載されていて(もちろん、収録されている論文はどれも映画史的に貴重で重要なものであることを前提にしてのハナシです)、こんなことをいっては失礼かもしれませんが、暇つぶしにただ写真や図版をつらつら眺めているだけでも楽しくて、いつの間にか時間を忘れてしまうくらいです、かつてそうやってこの本を傍らに置いて常にスチール写真をながめていた自分の習慣をはっきりと思い出しました。
スマホや電子書籍やアマゾンに挟撃されて惨憺たる状況にある現在の逼迫した出版業界において、金儲けとは無縁のこれほどの学術的な仕事をするのは、いまとなっては投入する費用と労力を考えれば、もはや「実現不可能」な、会社にとっては相当なリスクを負うとても困難な事業になることは間違いありません。
しかし、放っておけばいつの間にか散逸し、失われかねない映画関係の貴重な論稿やかけがえのない資料をこういうかたちで残そうというのは、まさに文化遺産保護の名に値する意義ある仕事です、いまになってよく分かりました。
あらためてこの本の奥付をながめると、なるほど、刊行年は1987年11月4日となっています。なるほど、まだまだゆとりのあった当時だから出来たのかなとも思いますが、しかし、心ある出版社なら、出せば売れるチャラチャラしたキワモノの写真集ばかりでなく、30年経とうと40年経とうと、こうして手にとり、読むに値する後世に残る意義ある仕事を切に望むところです・・・なんてね、宮使いの身でそんな奇麗事が通用しないのは、長年窮屈な思いをしながらご奉公してきたこの自分がいちばんよく分かっていますので、まあ、ただの老人の繰り言というか、あり得ない夢物語と聞き流してくだされば結構です。
とにかく、これほど優れた本なわけですから、少なくとも、ホコリで指の跡がついてしまうまで放ったらかしにするなんてことは、今後は決して許されないぞと自戒しつつ、我がキモに銘じた次第です。
さて、この「講座・日本映画 第5巻」のいちばん最後に掲載されている論稿は、廣末保の「映画と日本の古典」でサブタイトルには「西鶴の場合」とあります。
日本映画において西鶴がどのように描かれてきたか、と論証する論文らしいのですが、冒頭には三枚のスチール写真が掲げられていて、それぞれの写真に付せられたキャプションというのはこんな感じです。
〔上段〕「大阪物語」1957演出中の吉村公三郎
〔中段〕「好色一代男」1961演出中の増村保造、右は市川雷蔵
〔下段〕「好色五人女」の構想を語る加藤泰(1984年8月)
上段の「大阪物語」は、溝口健二が撮る予定だったところ、溝口監督が急逝したので吉村公三郎があとを引き継いだ作品だそうですが、物語のテーマの「えげつない吝嗇振り」が前面に出すぎていて原作のアクの強さばかりに振り回され、なんだか上滑りに終わってしまったような印象を持ちました。やはり溝口健二のように強烈な「こだわり」や「毒」がないと、映画は途端にストーリーの焦点がぼやけて、単に粗筋をなぞるだけの緩みを見せはじめ、結局どっちつがずの淡白な作品になってしまうんだなあと感じた記憶があります。
それにひきかえ、なんといってもいちばんに目を引くのは、中段に掲載されている写真、実に艶やかな町人姿でポーズをとっている市川雷蔵と、その左に立つ増村保造がなにやら話しかけている写真、1961年大映作品「好色一代男」だなとすぐに分かりました。
実は、自分は「好色一代男」の作品論をこのブログの早い時期に書いたことがあります。過酷な運命に翻弄され、男たちの身勝手な欲望とエゴによって堕ちるところまで堕ちつくす被虐的な溝口健二の「西鶴一代女」に比べて、自らの運命を自分の意思で選び取っていく強烈な「意思の物語」、まるで、たとえ地獄に堕ちるにしろ、どこまでも自分の意思で運命を選び取って堕ちていくことの爽快さを西鶴の物語のなかに読み取り、まるでイタリア映画のような明るさと活力に満ちた増村作品「好色一代男」をかつて手放しで評価したことを、この写真を見ながら思い出しました。
なるほど、なるほど、なんかいいじゃないですか、この本。
こうして、ただ眺めているだけでも、どんどん勝手に思い出が湧いてきて、はてしなく連想がつながり、ただただ妄想に身をゆだねていられる快感にしばし捉われていたのですが、でも、ちょっと待ってくださいよ、溝口健二の助監督を経験し、すぐれた溝口健二論も多く執筆したほどの増村保造です、その彼が撮った「好色一代男」を「西鶴一代女」と比較して論じるくらいの、ただそれだけのことなら、これってきっと誰もが容易に思いつくに違いない実に陳腐に関係づけた発想にすぎなかったのではないか、もし「好色一代男」という作品自体に真正面から対峙し論じようというなら、溝口作品と比較するなんていうのは単なる「端緒」にすぎず、もっと「その先」を苦しんで切り開いて論を展開させていくことこそが、オリジナリティというものではなかったのか、などとぼんやり考えていたのは、このとき同時に、黒澤明の「生きものの記録」1955をうっすらと連想し思い浮かべていたからかもしれません。
原水爆の恐怖に捉われノイローゼになって、いつ自分を見舞うかもしれない恐怖から遂に自分が経営する小さな町工場に放火したあの老いた工場主は、死の恐怖から逃れるためにブラジルに移住することばかり考えていました。
「好色一代男」において、無粋で過酷な社会の現実に絶望した世之介は、こんな愚劣な俗世なんかにさっさと見切りをつけて、優しい女しか存在しない平和な夢の島「女護が島」を目指して船出するというのが、たしか映画のラストだったと記憶しています。
ほら、このあたりなんか、どう見ても「生きものの記録」とそっくりじゃないですか。いや、似てます、似てます、そっくりです。
あっ、そんなこというなら、今村昌平の「人類学入門 エロ事師たちより」1966のラストなんかどうなのよと。あの作品こそは、モロこの流れに影響されているじゃないですか。
「な~る、そうか、そうなんだよなあ」などとひとりで感心し、まるで金脈を掘り当てたかのように興奮してブツブツと呟き、さらに「講座・日本映画 第5巻」をペラペラと遡上していきました。
この廣末論文「映画と日本の古典 西鶴の場合」の直前に掲載されている論稿は、亀井文夫と土本典昭の対談「ドキュメンタリーの精神」です、その話されている内容の、実に気が重たくなるほどの真摯な重厚さ(なにせこの二人です、そうならないわけがありません)に迷い込むまえに、まずは亀井文夫と土本典昭の取り合わせなんて、思わず、へえ~、こんな対談があったんだ、と今から思うとまるで「夢の対談」みたいに思われるこの傑出した企画の「そっち」の方にむしろ感心してしまいました。
しかし、いざ読みだしてみると、土本典昭が深刻でディープなイデオロギー的なものを引き出そうと必死にミズを向けるのに、亀井文夫の反応は、その論点の矛先をいなすように、むしろ技術論とか、常時撮影を監視していた軍部とどう折り合いをつけて作業を続けたかという、いわば作品は「妥協の産物だった」みたいな話ではぐらかしている印象を受けました。
それもこれも、(対談当時)この二人ともが「撮りたいものを撮る」ための傍流の資金稼ぎの「仕事」に忙殺されるという本末転倒な境遇に同じように晒されていて、そのリアルで愚劣な経済的葛藤に疲れ、面白くもないPR映画を何本も撮らねばならないことに心底うんざりされられているという、共通する「背景」が会話の過程で次第に浮かび上がってくる部分があります。
とくに、この場の亀井文夫の疲労は実に深刻で「ドキュメンタリー映画を撮りたい」という切実なモチベーションなど既に失っているのではないかという兆しも随所に窺われるくらいです。
果たしてドキュメンタリー映画なんかで本当に現実を抉り取ることなどできるのかという深刻な懐疑と、既に映画そのものに興味を失い始めているらしい「なげやり」とが同居し、ここで語られようとしているかつての「仕事」の栄光など、土本典昭が感激しているほどには亀井は感興を催していないどころか、もしかすると数々のドキュメンタリー映画の「名作」に対してさえも随所で自嘲気味に懐疑をもらし、そのことを土本典昭自身もまた会話を通して薄々気づき始めるという奇妙な関係と無残な過程、いわば「堕ちた偶像」のいかがわしさを憧憬者と当事者によってひとつひとつ暴き検証するという倒錯がこの「対談」の実体のような気がしてきました。
こう考えると、この対談そのものこそが、彼らがかつて共通して求めていた真実に肉薄して暴きだす「ドキュメンタリー映画」の優れた手法で進行しているような感じも受けたくらいです。
むしろ、この対談で面白かったのは話の傍流、たとえばカメラマン・三木茂との「無能な監督なんかいらねえよ」という「キャメラ・ルーペ論争」とか、「基地の子たち」における「農家を改造した売春宿」と題された三枚のスチール写真など、過酷な状況下、国家に見捨てられた庶民が、開き直ってふてぶてしく生きる痛ましくも逞しい姿を活写して、実に感動的でした。
それらの写真のなかには「米兵を案内する小学生」というのも写っていて、その農家の「nock-open」と殴り書きされている障子戸を開けて顔を見せているごく若い娼婦(障子にはエミーという名前も書かれているのが見えます)と、客引きらしい少年(肩から白い布カバンをさげていて、いま学校から帰ってきたばかりという様子です)が親しげに話している写真を見ると、もしかすると彼らは実の姉弟だったのではないかとさえ邪推してしまいました。
さらに、本をさかのぼっていくと、論稿は、その土本典昭の「亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで」と、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」、そして、岡本喜八の「体験的戦争映画・試論」、増村保造の「市川崑の方法」と続いていきます。
どれも熟読しなければならない重要な論稿ですが、とくに日本ドキュメンタリー映画史の白眉、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」は、たっぷりと時間をかけて読んでみたいと思いながら、次の論稿、いよいよ(というか、「やっと」ですが)当コラムの本筋、廣澤榮の「『七人の侍』のしごと」に到達しました。
この「遡上読み」の醍醐味は、論者が苦心して積み上げた「理由」を義理堅く最初から辿ったり、もったいぶった論者の前振りの「焦らし」に付き合わされることなく、その大切な核の部分の「結論」だけをちゃっかり先取りし、美味しいところだけをまずは頂いてしまおうという、あくまでも読者の側に立った実にC調な都合のいい読み方なのであります。
こうなるともう最初から論文のクライマックスに一気に突入です。これこそ煩わしいマクラなしの「一気読み」の醍醐味です。
《その最終カット。久蔵、菊千代が討死し、野武士はことごとく斃れふす。そのとき勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。と、勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。
そのとき木村功は声を震わせ激しい声でせぐりあげていた。その顔は涙と鼻水と泥でくしゃくしゃの顔だった。そして「カット」の声をきいても、そのままいつまでも泣きじゃくっていた―あれはもう演技ではなかった。なぜなら、それを見守る我らスタッフもその場に崩折れて泣き出したい思いだったから。
3月20日の夜―すべての撮影が終了した夜、スタッフルームに集まった一同の一人一人にテンノウは冷酒をつぎながら
「苦しい仕事だったな、ありがとう」
そして、いった。
「『七人の侍』はみんなでつくった仕事だな」
その言葉とともに『七人の侍』はそれぞれみんなの胸の奥そこに生きている。32年前、おれはあの仕事をやったんだ、わが青春をかけて懸命になって、まぎれもない「本物」をつくったのだと、いま誇らかに思うのである。》
どうです、このどこの世界に、そして誰が、ただ与えられた仕事をこなしていくだけのことなら、「あのときおれは紛れも無い本物を作ったのだ、やりきったのだ」なんて言い切れるものじゃありません、そんなサラリーマンなど、そんじょそこらには居るわけがありません。
一度でもそんなふうに言い切れる充実した仕事と時間を経験できた人のそういう人生は、そうじゃなかった僕たちに到底分かろうはずもありません。ここで語り尽くされている達成感と充実感のクダリには、敬意を表するなんてよりも先に、ただただ羨望の思いを抱くばかりです。
同時にその最終頁に掲げられているスチール写真の3枚を見ながら、この感動の文章を読むと、感興はさらに格別なものがあります。
ちなみに、スチール写真3枚のキャプションは以下の通り。
「雨の中の戦闘シーンにて、上 黒澤明」雨に打たれながらラストシーンの撮影に臨んでいる黒澤明は、笑みさえ浮かべた穏やかな表情です。
「雨の中の戦闘シーンにて、下 三船敏郎と宮口精二」菊千代と久蔵が死力を尽くして種子島に立ち向かい、そして相次いで種子島に撃ち倒される直前の壮絶な場面です。
その野武士を打ち倒すために誰かが死ななければ、この戦いはいつまでも決して終わらなかったかもしれないという絶望的な最後の死闘が描かれています。
その「誰か」こそが、この七人のサムライの物語において、勝四郎とともに僕たちが最も思い入れを強めた菊千代と久蔵で泣ければならなか痛切と痛恨が、この「七人の侍」のラストにおいて、感慨を示した当論文の論者にして現場の当事者・廣澤榮ならずとも、僕たちをもまたあの「聖域」に立ち会ったという思いにさせてくれたのだと思います。
泥水の中に片手片足をついて蹲り、必死の断末魔の抵抗を見せる野武士を鬼気迫る形相で見据える菊千代、そして久蔵は、タメをつくっていままさに斬りかかろうというド迫力のなか、二人が同時に後方に振りかざした刀は激しい軌跡のなかで偶然にも共に虚空で均しく並びあい、美しい均衡を一瞬留めてみせていたことにこの写真は気づかせてくれました。
まるで小津監督が、架空の物差しで虚空を1ミリ、2ミリと計り示し、僕たちにこの頼りなく儚い世界の虚無の瞬間・迫りくる美しい死の影を垣間見せてくれたみたいに。
「雨の中の戦闘シーン最終カットスナップ。右から志村喬、加藤大輔、木村項、一人おいて黒澤明」この写真が、前に引用した《勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。》に当たる写真ですね。
そうですか、よく分かりました。
さてと、ここはこのくらいで、またまた次の頁へと遡上しますか、と頁を繰ったところに、あっ、ありました、ありました。これですよ、これ。見開いて左、偶数頁側(277頁)の下段に「キクさん」と書かれたその写真はありました。
野武士に身内を殺され一人取り残された老婆(久右衛門の婆様)は、村はずれの打ち棄てられたようなみすぼらしい小屋で、村人の気まぐれな施しと薄い温情にすがって辛うじて命をつないでいるという、「ただ家畜のように生かされている」というだけの惨めな棄民の老婆の姿を、黒澤監督は怖いほどの凝りに凝ったメイキャップで見せています。
それにしても物凄い形相に仕上がっていますよね。本編中まずいちばんに久右衛門の婆様の印象が強烈に残ってしまうのも当然です。
きっとその「物凄さ」は、いかに技術さんのメイキャップ力をもってしても、なにせ出発があれほどの絶世の美女「津島恵子」ですから、無理やりに汚して男装させたとしても、せいぜいがあんなところ、どこまでいっても「美女」からは明らかに逸脱できないのですが、久右衛門の婆様を演じる老婆は(きっと)普段でもすでに物凄い容貌怪奇のババ様だったので、同じメイキャップ力でも出発のそのフライング度も加味して、あれだけダントツに効果を発揮できたのだと思います。
そのことが「生きものの記録」や「影武者」のような描きすぎの「行き過ぎ感」を免れた理由だったに違いありません、久右衛門の婆様の仕上がりは十分リアルの範囲内にとどまっていて、それだけに見るものの印象も鮮烈だったのだと思います。
シーンとしては、勝四郎が志乃に握り飯を差し出す場面から、「それ」は始まります。
村を守るための侍を雇う条件として「侍たちには米の飯を食わせる」があり、そのぶん「百姓は稗や粟(麦だったかも)を食って耐え忍ぶ」というのが、この「七人の侍」という物語を貫いている重要なテーマです。
勝四郎も志乃が日頃米の飯を口に出来ないでいることを十分に知っていて、逢瀬の場に密かに握り飯を持ってきたという設定です。
しかし、志乃は「オラ、食わねえ」と拒み、「これ、久右衛門の婆様に持っていく」と言い返します。この二人の様子を物影から久蔵がじっと見ている場面に続いて、侍たちの食事のシーン。
勝四郎は、「利吉、いまは腹が一杯だ。またあとで食う」と言うと、久蔵が「いいから、お前は食え。今度は俺が残す」
勝四郎は驚いて久蔵を見つめ、侍たちも不審気に久蔵を見つめます。
勘兵衛「どうした? なにかわけがありそうな様子だが」
そして、老婆のいる「久右衛門の家」のシーンに続きます。
シナリオには《ひどい! まったく荒れ果てて、いまにも潰れそうな小屋。病みほうけた老婆が、ただ藁を敷いただけの寝床に起き上がって、その枕元に一椀の飯と汁を差し出す勝四郎と、その後ろに並んだ勘兵衛たちを拝んでいる》という場面説明があって、
勘兵衛「ひどいの! 身寄りはないのか?」
利吉「はい、野伏せりに・・・みんな」
勘兵衛「うむ」
老婆は、なにかに謝るような悲しい調子で訴えかけます。「オラ、早く死にてえだよ。早く死んで、こんな苦しみ、逃れてえだよ」と。
侍たちは、じっとその老婆を見つめています。
老婆「でもなあ、あの世にも、やっぱり、こんな苦しみはあるべえなあ」と語る一連のシーン、流れとしては、このエピソードが、すぐあとに続く生け捕りにした野武士を恨み骨髄の百姓たちがなぶり殺しにしようと殺到してくるのを、勘兵衛たちは、同じ侍としての同情から(せめて誇りある死に方を与えてやれと)懸命に制止しているところに久右衛門の婆様が鍬を振りかざして静かに現れるという場面です。
前の場面で家族を奪われた久右衛門の婆様の惨めさと怒りを十分に知っている侍たちには、この老婆だけは制止できず、野武士に鍬が打ち下ろされるのを静観するしかないという痛切な場面でした。
老婆が野武士を殺すこの場面がかなり衝撃的なので、ついこちらに目が捉われてしまいがちで、そのぶん前出の「久右衛門の小屋の場面」の印象がどうしても薄まってしまうのですが、この廣澤榮の論文「『七人の侍』のしごと」において、この小屋のシーンを撮るにあたってのエピソードの詳細が特別大きく扱われていて、そのリキが入っている分だけ、どうしても紹介せずにはいられません。
それは「第4章」、「『七人の侍』で苦労したのは役者の方も同じであろう。」の一文から始まっています。
そこではまず、亡くなった役者たちのことが語られます。
《「なんだかまた一年兵隊にいったような気分でした」と、亡くなった加東大介がそう言っていた。加東のほか、志村喬、宮口精二、木村功、稲葉義男ももう故人になり、生き残っているのは三船敏郎、千秋実だけになった。そのほか百姓の役をやった高堂国典、左ト全、小杉義雄も亡くなった。》
この論文が書かれた当時には、まだ三船敏郎も、千秋実も元気だったことが分かります。
そして、村の百姓たちを演じた有名無名の俳優たちのことが語られたあとに、こんな一文が出てきます。
《一人だけ俳優ではなく老人ホームのおばあさんが重要な役で出演している》と。
そして語られるのが久右衛門の婆様のエピソードです。
《それは台本では「久右衛門の婆さま」となっている役で、いろいろ年輩の女優さんを連れてきたが、テンノウは「みんな芝居くさくてダメだ」という。そして「本物の百姓の婆さんをつれてこい」という。
そこで私が杉並区高井戸にある浴風苑という老人ホームに婆さまさがしに行った。数多い婆さまの中からこれぞというのを見つけた。
骨太のがっちりした体つきで眼がぎょろっと利く。浅草寺の境内で鳩の豆売りをやっていた人でキクさんという。かなりの年輩らしいが、「年がいくつだったかもう忘れたよ」という。
撮影所に連れてきて見せると一ぺんで気に入った。そして「ひとつ、仕込んでくれ」という。
さあ大ヘンなことになった―この役は野武士に身寄りのすべてを殺されて一人暮らしをしている老婆で、やってきた侍たちにわが身の不遇を訴え「もう生きてる甲斐がねえ、早く死にてえ」という長い台詞がある。もう一つ、生捕りにされ村の広場に引き据えられた野武士にこの婆は「慄える手に鍬をもち、憤怒の形相で鍬を振り下ろす」というシーンもある。
そこでキクさんを撮影所の近くの旅館に泊めて、私とネコ(前出、同僚の助監督)と二人がかりで特訓をはじめる。
ここに至ってキクさんは漸く「活動のネタ取りのため」出演するのだと理解できる。そこで台詞を教えるが、それがなかなかのみこめない。そしてすぐ疲れてコロンと横になってしまう。仕方がないから眠気ざましに身の上ばなしを聞く。
と、キクさんは東京大空襲のときB29が落す焼夷弾の炎の中で倅夫婦と別れたまま、いまだにその消息がわからないという―しめた! では劇的境遇と全く同じだ、同じなら感情移入ができる。
そこで、「キクさんの気持をそのまま言えばいいんだよ」という―どうやらだんだん感じがでてきた。
そして数日後にセット入りとなる。ところがキクさんは、丹精こめてボロボロにした衣裳を見てイヤだという。折角「活動」に出るのならもう少しマシな着物を着たいという。
それを何とか説得してセットに入れる。疲れるからテストは私が代ってつとめ本番だけキクさんに代わる。まるでハリウッドのスタアなみである。
さて、キャメラが回り出すと、キクさんは「身寄りがB29の為に殺されて」という―
たちまち雷のような声がとどろく。
「いったい何をしこんだのだッ!」
私は狼狽してキクさんに台詞の訂正をする。ところが何べんやってもB29が出てくる。そのうちショーイダンまで飛び出してきた。なんせそう思いこんでしまったのだからどうにもならない。
と、テンノウは「表情は感じが出ているからOKにしよう」といってくれた。だからこのシーンは台詞だけ三好栄子さんが吹替をやっている。
さて、無事に大役を終ったキクさんは貰ったギャラに目を丸くして、「こんなにたんといただけるのなら、デパートへ行って着物でも買いたい」という。そのデパートは浅草松屋がいいという。
そこで私がその買い物のおともをする。会社差しまわしのハイヤーで浅草松屋へ乗りつける。そこでキクさんはうんと安物の銘仙を取り「これがいい」という。その銘仙をしっかり抱えご機嫌で浴風苑へ帰ったが、もう一つ後日談がある。
「七人の侍」の撮影が終って一年ほど後、キクさんが亡くなった。そのいまわの際に「トラという人に会いたい」という電話があったという。生憎私は別の映画で地方ロケに行っていた。帰京してから浴風苑を訪ねたら、キクさんはもう白木の位牌になっていた。
その位牌の傍に「七人の侍」に出演したときのスチールが飾ってあった。あの嫌がっていたボロボロの衣裳を着た姿で―キクさんは「七人の侍」に出演したことが生涯を通じてなによりもたのしい思い出だったと、亡くなる前にそう語っていたという。》
原典でこの一連のエピソードを読んだとき、この老婆のボケ振りが面白くて、その部分だけが自分の中で誇張されて、一種の「面白い引用」としての効果ばかりを考えていたのですが、こうして一連の成り行きを通して転写してみると、この論文そのものが映画「七人の侍」に関わった関係者たちが次々と鬼籍に入っていった死の影に覆われた記録=過去帖であったことに気づかされ慄然としました。
いや、そもそも、この論文の当の執筆者・廣澤榮自身が既に1996年2月27日に亡くなっていることを改めてwikiで知り、おびただしく「失われつつある」進行形のうえに映画「七人の侍」の存在が保たれていることを痛感せざるを得ませんでした。
果たして、映画「七人の侍」は、関係者がすべて亡くなったあとも、依然、不滅の名作としてこの地球上に永遠に残るだろうかという疑問と感慨に捉われたとき、なんの脈絡もなく不意に、カフカの短編「プロメテウス」を想起しました。
ごく短いので前文、転写してみますね。
《プロメテウスについて、四つの言い伝えがある。
第一の言い伝えによれば、彼は神々の秘密を人間に洩らしたのでコーカサスの岩につながれた。神々は鷲をつかわし、鷲はプロメテウスの肝臓をついばんだ。しかし、ついばまれても、ついばまれても、そのつどプロメテウスの肝臓はふたたび生え出てきたという。
第二の言い伝えによれば、プロメテウスは鋭いくちばしでついばまれたので苦痛にたえかね、深く深く岩にはりついた。その結果、ついには岩と一体になってしまったという。
第三の言い伝えによれば、何千年もたつうちに彼の裏切りなど忘れられた。神々も忘れられ、鷲も忘れられ、プロメテウスその人も忘れられた。
第四の言い伝えによれば、誰もがこんな無意味なことがらには飽きてきた。神々も飽きた。鷲も飽きた。腹の傷口さえも、あきあきしてふさがってしまった。
あとには不可解な岩がのこった。言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ。》(池内紀訳)
ここでいう「プロメテウス」をそのまま「七人の侍」と言い換えたらどうだろうか、「永遠」の意味を語るとき、ちょっとした誘惑を感じてしまう自分好みのカフカの短編です。
いずれにしても、この世にとどまりながら「忘却」によって空虚に蝕まれ「消滅」も果たしてしまうという「永遠」についての「真理」の話にほかなりません。
やはり、原文との照合というのは、引用者の当然の責務だと思っているので、転記に際しては誤記のないよう細心の注意を払って、慎重のうえにも慎重を期しています。
以前、自分もヒト様の書いた「引用文」を全面的に鵜呑みにし、そのまま「孫引き」した結果、それが結構デタラメなもので大変な目にあったことがありました。そのときから原典との照合はしっかりしなくてはと、キモに銘じています。
でも、こうして岩波の「講座・日本映画」を手にするのは、なんだか本当に久しぶりです、書棚から引っ張り出したとき、本の周囲をうっすら覆っているホコリのマクに指の跡がつくのを見て、この本を開かなかった歳月の長さには胸に迫るものがありました、大袈裟ではなくて、なんだかこの本を片時も離すことなく手元に置いて夢中で読みふけっていたかつての自分と遭遇したような切ない感慨に捉われました。
まあ、ついでにと言ってはなんですが、懐かしさもあってパラパラと頁を繰ってみました。
当の岡本喜八の小論は、本の最後のほうに掲載されているので、頁を繰るのも自然と最後の頁から見ていくという感じになります。
余談ですが、どの本についてもそうですが、本の全体を眺めようというとき、最後のほうからパラパラ眺めていくというのが自分の流儀です。こうすると本の全体像というのが不思議と的確につかめるような気がして、なんだか物凄く合理的な感じがします。
単なる想像にすぎませんが、書く側にしても、いざ執筆を始めようという作業の起動時においてなら書く動機も構想もしっかり固まっているので、モチベーションも高く当然リキも入っていてガンガン書き始めるでしょうけれども、そのうちネタも尽き息切れもしてきて、最後のほうになるとだんだん構想が途切れて、イタズラニ素材をふやかして間延びさせるとか、「はしょる」とかして、終わりを急いで、最後のほうになると安直にまとめてしまうというのが世の常だと思うので(実際のところ、そういう本は実に多いのです)、だから本を終わりのほうから眺めるというのは、その「痕跡」を見つけ易いそれなりに理にかなった方法で、その本の熱の「途切れ」を測ることのできる優れた本の鑑定法ではないかと自負しています。
もちろん、これはどこまでも自分の経験から割り出した独善的な私見にすぎませんので、どこまで信憑性があるかは分かりません、念のため。
しかし、それにしても、こうしてこの「講座・日本映画」を実際に手にしてみると、とにかくこの岩波本「講座・日本映画」という書籍は、写真やイラストが豊富に掲載されていて(もちろん、収録されている論文はどれも映画史的に貴重で重要なものであることを前提にしてのハナシです)、こんなことをいっては失礼かもしれませんが、暇つぶしにただ写真や図版をつらつら眺めているだけでも楽しくて、いつの間にか時間を忘れてしまうくらいです、かつてそうやってこの本を傍らに置いて常にスチール写真をながめていた自分の習慣をはっきりと思い出しました。
スマホや電子書籍やアマゾンに挟撃されて惨憺たる状況にある現在の逼迫した出版業界において、金儲けとは無縁のこれほどの学術的な仕事をするのは、いまとなっては投入する費用と労力を考えれば、もはや「実現不可能」な、会社にとっては相当なリスクを負うとても困難な事業になることは間違いありません。
しかし、放っておけばいつの間にか散逸し、失われかねない映画関係の貴重な論稿やかけがえのない資料をこういうかたちで残そうというのは、まさに文化遺産保護の名に値する意義ある仕事です、いまになってよく分かりました。
あらためてこの本の奥付をながめると、なるほど、刊行年は1987年11月4日となっています。なるほど、まだまだゆとりのあった当時だから出来たのかなとも思いますが、しかし、心ある出版社なら、出せば売れるチャラチャラしたキワモノの写真集ばかりでなく、30年経とうと40年経とうと、こうして手にとり、読むに値する後世に残る意義ある仕事を切に望むところです・・・なんてね、宮使いの身でそんな奇麗事が通用しないのは、長年窮屈な思いをしながらご奉公してきたこの自分がいちばんよく分かっていますので、まあ、ただの老人の繰り言というか、あり得ない夢物語と聞き流してくだされば結構です。
とにかく、これほど優れた本なわけですから、少なくとも、ホコリで指の跡がついてしまうまで放ったらかしにするなんてことは、今後は決して許されないぞと自戒しつつ、我がキモに銘じた次第です。
さて、この「講座・日本映画 第5巻」のいちばん最後に掲載されている論稿は、廣末保の「映画と日本の古典」でサブタイトルには「西鶴の場合」とあります。
日本映画において西鶴がどのように描かれてきたか、と論証する論文らしいのですが、冒頭には三枚のスチール写真が掲げられていて、それぞれの写真に付せられたキャプションというのはこんな感じです。
〔上段〕「大阪物語」1957演出中の吉村公三郎
〔中段〕「好色一代男」1961演出中の増村保造、右は市川雷蔵
〔下段〕「好色五人女」の構想を語る加藤泰(1984年8月)
上段の「大阪物語」は、溝口健二が撮る予定だったところ、溝口監督が急逝したので吉村公三郎があとを引き継いだ作品だそうですが、物語のテーマの「えげつない吝嗇振り」が前面に出すぎていて原作のアクの強さばかりに振り回され、なんだか上滑りに終わってしまったような印象を持ちました。やはり溝口健二のように強烈な「こだわり」や「毒」がないと、映画は途端にストーリーの焦点がぼやけて、単に粗筋をなぞるだけの緩みを見せはじめ、結局どっちつがずの淡白な作品になってしまうんだなあと感じた記憶があります。
それにひきかえ、なんといってもいちばんに目を引くのは、中段に掲載されている写真、実に艶やかな町人姿でポーズをとっている市川雷蔵と、その左に立つ増村保造がなにやら話しかけている写真、1961年大映作品「好色一代男」だなとすぐに分かりました。
実は、自分は「好色一代男」の作品論をこのブログの早い時期に書いたことがあります。過酷な運命に翻弄され、男たちの身勝手な欲望とエゴによって堕ちるところまで堕ちつくす被虐的な溝口健二の「西鶴一代女」に比べて、自らの運命を自分の意思で選び取っていく強烈な「意思の物語」、まるで、たとえ地獄に堕ちるにしろ、どこまでも自分の意思で運命を選び取って堕ちていくことの爽快さを西鶴の物語のなかに読み取り、まるでイタリア映画のような明るさと活力に満ちた増村作品「好色一代男」をかつて手放しで評価したことを、この写真を見ながら思い出しました。
なるほど、なるほど、なんかいいじゃないですか、この本。
こうして、ただ眺めているだけでも、どんどん勝手に思い出が湧いてきて、はてしなく連想がつながり、ただただ妄想に身をゆだねていられる快感にしばし捉われていたのですが、でも、ちょっと待ってくださいよ、溝口健二の助監督を経験し、すぐれた溝口健二論も多く執筆したほどの増村保造です、その彼が撮った「好色一代男」を「西鶴一代女」と比較して論じるくらいの、ただそれだけのことなら、これってきっと誰もが容易に思いつくに違いない実に陳腐に関係づけた発想にすぎなかったのではないか、もし「好色一代男」という作品自体に真正面から対峙し論じようというなら、溝口作品と比較するなんていうのは単なる「端緒」にすぎず、もっと「その先」を苦しんで切り開いて論を展開させていくことこそが、オリジナリティというものではなかったのか、などとぼんやり考えていたのは、このとき同時に、黒澤明の「生きものの記録」1955をうっすらと連想し思い浮かべていたからかもしれません。
原水爆の恐怖に捉われノイローゼになって、いつ自分を見舞うかもしれない恐怖から遂に自分が経営する小さな町工場に放火したあの老いた工場主は、死の恐怖から逃れるためにブラジルに移住することばかり考えていました。
「好色一代男」において、無粋で過酷な社会の現実に絶望した世之介は、こんな愚劣な俗世なんかにさっさと見切りをつけて、優しい女しか存在しない平和な夢の島「女護が島」を目指して船出するというのが、たしか映画のラストだったと記憶しています。
ほら、このあたりなんか、どう見ても「生きものの記録」とそっくりじゃないですか。いや、似てます、似てます、そっくりです。
あっ、そんなこというなら、今村昌平の「人類学入門 エロ事師たちより」1966のラストなんかどうなのよと。あの作品こそは、モロこの流れに影響されているじゃないですか。
「な~る、そうか、そうなんだよなあ」などとひとりで感心し、まるで金脈を掘り当てたかのように興奮してブツブツと呟き、さらに「講座・日本映画 第5巻」をペラペラと遡上していきました。
この廣末論文「映画と日本の古典 西鶴の場合」の直前に掲載されている論稿は、亀井文夫と土本典昭の対談「ドキュメンタリーの精神」です、その話されている内容の、実に気が重たくなるほどの真摯な重厚さ(なにせこの二人です、そうならないわけがありません)に迷い込むまえに、まずは亀井文夫と土本典昭の取り合わせなんて、思わず、へえ~、こんな対談があったんだ、と今から思うとまるで「夢の対談」みたいに思われるこの傑出した企画の「そっち」の方にむしろ感心してしまいました。
しかし、いざ読みだしてみると、土本典昭が深刻でディープなイデオロギー的なものを引き出そうと必死にミズを向けるのに、亀井文夫の反応は、その論点の矛先をいなすように、むしろ技術論とか、常時撮影を監視していた軍部とどう折り合いをつけて作業を続けたかという、いわば作品は「妥協の産物だった」みたいな話ではぐらかしている印象を受けました。
それもこれも、(対談当時)この二人ともが「撮りたいものを撮る」ための傍流の資金稼ぎの「仕事」に忙殺されるという本末転倒な境遇に同じように晒されていて、そのリアルで愚劣な経済的葛藤に疲れ、面白くもないPR映画を何本も撮らねばならないことに心底うんざりされられているという、共通する「背景」が会話の過程で次第に浮かび上がってくる部分があります。
とくに、この場の亀井文夫の疲労は実に深刻で「ドキュメンタリー映画を撮りたい」という切実なモチベーションなど既に失っているのではないかという兆しも随所に窺われるくらいです。
果たしてドキュメンタリー映画なんかで本当に現実を抉り取ることなどできるのかという深刻な懐疑と、既に映画そのものに興味を失い始めているらしい「なげやり」とが同居し、ここで語られようとしているかつての「仕事」の栄光など、土本典昭が感激しているほどには亀井は感興を催していないどころか、もしかすると数々のドキュメンタリー映画の「名作」に対してさえも随所で自嘲気味に懐疑をもらし、そのことを土本典昭自身もまた会話を通して薄々気づき始めるという奇妙な関係と無残な過程、いわば「堕ちた偶像」のいかがわしさを憧憬者と当事者によってひとつひとつ暴き検証するという倒錯がこの「対談」の実体のような気がしてきました。
こう考えると、この対談そのものこそが、彼らがかつて共通して求めていた真実に肉薄して暴きだす「ドキュメンタリー映画」の優れた手法で進行しているような感じも受けたくらいです。
むしろ、この対談で面白かったのは話の傍流、たとえばカメラマン・三木茂との「無能な監督なんかいらねえよ」という「キャメラ・ルーペ論争」とか、「基地の子たち」における「農家を改造した売春宿」と題された三枚のスチール写真など、過酷な状況下、国家に見捨てられた庶民が、開き直ってふてぶてしく生きる痛ましくも逞しい姿を活写して、実に感動的でした。
それらの写真のなかには「米兵を案内する小学生」というのも写っていて、その農家の「nock-open」と殴り書きされている障子戸を開けて顔を見せているごく若い娼婦(障子にはエミーという名前も書かれているのが見えます)と、客引きらしい少年(肩から白い布カバンをさげていて、いま学校から帰ってきたばかりという様子です)が親しげに話している写真を見ると、もしかすると彼らは実の姉弟だったのではないかとさえ邪推してしまいました。
さらに、本をさかのぼっていくと、論稿は、その土本典昭の「亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで」と、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」、そして、岡本喜八の「体験的戦争映画・試論」、増村保造の「市川崑の方法」と続いていきます。
どれも熟読しなければならない重要な論稿ですが、とくに日本ドキュメンタリー映画史の白眉、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」は、たっぷりと時間をかけて読んでみたいと思いながら、次の論稿、いよいよ(というか、「やっと」ですが)当コラムの本筋、廣澤榮の「『七人の侍』のしごと」に到達しました。
この「遡上読み」の醍醐味は、論者が苦心して積み上げた「理由」を義理堅く最初から辿ったり、もったいぶった論者の前振りの「焦らし」に付き合わされることなく、その大切な核の部分の「結論」だけをちゃっかり先取りし、美味しいところだけをまずは頂いてしまおうという、あくまでも読者の側に立った実にC調な都合のいい読み方なのであります。
こうなるともう最初から論文のクライマックスに一気に突入です。これこそ煩わしいマクラなしの「一気読み」の醍醐味です。
《その最終カット。久蔵、菊千代が討死し、野武士はことごとく斃れふす。そのとき勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。と、勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。
そのとき木村功は声を震わせ激しい声でせぐりあげていた。その顔は涙と鼻水と泥でくしゃくしゃの顔だった。そして「カット」の声をきいても、そのままいつまでも泣きじゃくっていた―あれはもう演技ではなかった。なぜなら、それを見守る我らスタッフもその場に崩折れて泣き出したい思いだったから。
3月20日の夜―すべての撮影が終了した夜、スタッフルームに集まった一同の一人一人にテンノウは冷酒をつぎながら
「苦しい仕事だったな、ありがとう」
そして、いった。
「『七人の侍』はみんなでつくった仕事だな」
その言葉とともに『七人の侍』はそれぞれみんなの胸の奥そこに生きている。32年前、おれはあの仕事をやったんだ、わが青春をかけて懸命になって、まぎれもない「本物」をつくったのだと、いま誇らかに思うのである。》
どうです、このどこの世界に、そして誰が、ただ与えられた仕事をこなしていくだけのことなら、「あのときおれは紛れも無い本物を作ったのだ、やりきったのだ」なんて言い切れるものじゃありません、そんなサラリーマンなど、そんじょそこらには居るわけがありません。
一度でもそんなふうに言い切れる充実した仕事と時間を経験できた人のそういう人生は、そうじゃなかった僕たちに到底分かろうはずもありません。ここで語り尽くされている達成感と充実感のクダリには、敬意を表するなんてよりも先に、ただただ羨望の思いを抱くばかりです。
同時にその最終頁に掲げられているスチール写真の3枚を見ながら、この感動の文章を読むと、感興はさらに格別なものがあります。
ちなみに、スチール写真3枚のキャプションは以下の通り。
「雨の中の戦闘シーンにて、上 黒澤明」雨に打たれながらラストシーンの撮影に臨んでいる黒澤明は、笑みさえ浮かべた穏やかな表情です。
「雨の中の戦闘シーンにて、下 三船敏郎と宮口精二」菊千代と久蔵が死力を尽くして種子島に立ち向かい、そして相次いで種子島に撃ち倒される直前の壮絶な場面です。
その野武士を打ち倒すために誰かが死ななければ、この戦いはいつまでも決して終わらなかったかもしれないという絶望的な最後の死闘が描かれています。
その「誰か」こそが、この七人のサムライの物語において、勝四郎とともに僕たちが最も思い入れを強めた菊千代と久蔵で泣ければならなか痛切と痛恨が、この「七人の侍」のラストにおいて、感慨を示した当論文の論者にして現場の当事者・廣澤榮ならずとも、僕たちをもまたあの「聖域」に立ち会ったという思いにさせてくれたのだと思います。
泥水の中に片手片足をついて蹲り、必死の断末魔の抵抗を見せる野武士を鬼気迫る形相で見据える菊千代、そして久蔵は、タメをつくっていままさに斬りかかろうというド迫力のなか、二人が同時に後方に振りかざした刀は激しい軌跡のなかで偶然にも共に虚空で均しく並びあい、美しい均衡を一瞬留めてみせていたことにこの写真は気づかせてくれました。
まるで小津監督が、架空の物差しで虚空を1ミリ、2ミリと計り示し、僕たちにこの頼りなく儚い世界の虚無の瞬間・迫りくる美しい死の影を垣間見せてくれたみたいに。
「雨の中の戦闘シーン最終カットスナップ。右から志村喬、加藤大輔、木村項、一人おいて黒澤明」この写真が、前に引用した《勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。》に当たる写真ですね。
そうですか、よく分かりました。
さてと、ここはこのくらいで、またまた次の頁へと遡上しますか、と頁を繰ったところに、あっ、ありました、ありました。これですよ、これ。見開いて左、偶数頁側(277頁)の下段に「キクさん」と書かれたその写真はありました。
野武士に身内を殺され一人取り残された老婆(久右衛門の婆様)は、村はずれの打ち棄てられたようなみすぼらしい小屋で、村人の気まぐれな施しと薄い温情にすがって辛うじて命をつないでいるという、「ただ家畜のように生かされている」というだけの惨めな棄民の老婆の姿を、黒澤監督は怖いほどの凝りに凝ったメイキャップで見せています。
それにしても物凄い形相に仕上がっていますよね。本編中まずいちばんに久右衛門の婆様の印象が強烈に残ってしまうのも当然です。
きっとその「物凄さ」は、いかに技術さんのメイキャップ力をもってしても、なにせ出発があれほどの絶世の美女「津島恵子」ですから、無理やりに汚して男装させたとしても、せいぜいがあんなところ、どこまでいっても「美女」からは明らかに逸脱できないのですが、久右衛門の婆様を演じる老婆は(きっと)普段でもすでに物凄い容貌怪奇のババ様だったので、同じメイキャップ力でも出発のそのフライング度も加味して、あれだけダントツに効果を発揮できたのだと思います。
そのことが「生きものの記録」や「影武者」のような描きすぎの「行き過ぎ感」を免れた理由だったに違いありません、久右衛門の婆様の仕上がりは十分リアルの範囲内にとどまっていて、それだけに見るものの印象も鮮烈だったのだと思います。
シーンとしては、勝四郎が志乃に握り飯を差し出す場面から、「それ」は始まります。
村を守るための侍を雇う条件として「侍たちには米の飯を食わせる」があり、そのぶん「百姓は稗や粟(麦だったかも)を食って耐え忍ぶ」というのが、この「七人の侍」という物語を貫いている重要なテーマです。
勝四郎も志乃が日頃米の飯を口に出来ないでいることを十分に知っていて、逢瀬の場に密かに握り飯を持ってきたという設定です。
しかし、志乃は「オラ、食わねえ」と拒み、「これ、久右衛門の婆様に持っていく」と言い返します。この二人の様子を物影から久蔵がじっと見ている場面に続いて、侍たちの食事のシーン。
勝四郎は、「利吉、いまは腹が一杯だ。またあとで食う」と言うと、久蔵が「いいから、お前は食え。今度は俺が残す」
勝四郎は驚いて久蔵を見つめ、侍たちも不審気に久蔵を見つめます。
勘兵衛「どうした? なにかわけがありそうな様子だが」
そして、老婆のいる「久右衛門の家」のシーンに続きます。
シナリオには《ひどい! まったく荒れ果てて、いまにも潰れそうな小屋。病みほうけた老婆が、ただ藁を敷いただけの寝床に起き上がって、その枕元に一椀の飯と汁を差し出す勝四郎と、その後ろに並んだ勘兵衛たちを拝んでいる》という場面説明があって、
勘兵衛「ひどいの! 身寄りはないのか?」
利吉「はい、野伏せりに・・・みんな」
勘兵衛「うむ」
老婆は、なにかに謝るような悲しい調子で訴えかけます。「オラ、早く死にてえだよ。早く死んで、こんな苦しみ、逃れてえだよ」と。
侍たちは、じっとその老婆を見つめています。
老婆「でもなあ、あの世にも、やっぱり、こんな苦しみはあるべえなあ」と語る一連のシーン、流れとしては、このエピソードが、すぐあとに続く生け捕りにした野武士を恨み骨髄の百姓たちがなぶり殺しにしようと殺到してくるのを、勘兵衛たちは、同じ侍としての同情から(せめて誇りある死に方を与えてやれと)懸命に制止しているところに久右衛門の婆様が鍬を振りかざして静かに現れるという場面です。
前の場面で家族を奪われた久右衛門の婆様の惨めさと怒りを十分に知っている侍たちには、この老婆だけは制止できず、野武士に鍬が打ち下ろされるのを静観するしかないという痛切な場面でした。
老婆が野武士を殺すこの場面がかなり衝撃的なので、ついこちらに目が捉われてしまいがちで、そのぶん前出の「久右衛門の小屋の場面」の印象がどうしても薄まってしまうのですが、この廣澤榮の論文「『七人の侍』のしごと」において、この小屋のシーンを撮るにあたってのエピソードの詳細が特別大きく扱われていて、そのリキが入っている分だけ、どうしても紹介せずにはいられません。
それは「第4章」、「『七人の侍』で苦労したのは役者の方も同じであろう。」の一文から始まっています。
そこではまず、亡くなった役者たちのことが語られます。
《「なんだかまた一年兵隊にいったような気分でした」と、亡くなった加東大介がそう言っていた。加東のほか、志村喬、宮口精二、木村功、稲葉義男ももう故人になり、生き残っているのは三船敏郎、千秋実だけになった。そのほか百姓の役をやった高堂国典、左ト全、小杉義雄も亡くなった。》
この論文が書かれた当時には、まだ三船敏郎も、千秋実も元気だったことが分かります。
そして、村の百姓たちを演じた有名無名の俳優たちのことが語られたあとに、こんな一文が出てきます。
《一人だけ俳優ではなく老人ホームのおばあさんが重要な役で出演している》と。
そして語られるのが久右衛門の婆様のエピソードです。
《それは台本では「久右衛門の婆さま」となっている役で、いろいろ年輩の女優さんを連れてきたが、テンノウは「みんな芝居くさくてダメだ」という。そして「本物の百姓の婆さんをつれてこい」という。
そこで私が杉並区高井戸にある浴風苑という老人ホームに婆さまさがしに行った。数多い婆さまの中からこれぞというのを見つけた。
骨太のがっちりした体つきで眼がぎょろっと利く。浅草寺の境内で鳩の豆売りをやっていた人でキクさんという。かなりの年輩らしいが、「年がいくつだったかもう忘れたよ」という。
撮影所に連れてきて見せると一ぺんで気に入った。そして「ひとつ、仕込んでくれ」という。
さあ大ヘンなことになった―この役は野武士に身寄りのすべてを殺されて一人暮らしをしている老婆で、やってきた侍たちにわが身の不遇を訴え「もう生きてる甲斐がねえ、早く死にてえ」という長い台詞がある。もう一つ、生捕りにされ村の広場に引き据えられた野武士にこの婆は「慄える手に鍬をもち、憤怒の形相で鍬を振り下ろす」というシーンもある。
そこでキクさんを撮影所の近くの旅館に泊めて、私とネコ(前出、同僚の助監督)と二人がかりで特訓をはじめる。
ここに至ってキクさんは漸く「活動のネタ取りのため」出演するのだと理解できる。そこで台詞を教えるが、それがなかなかのみこめない。そしてすぐ疲れてコロンと横になってしまう。仕方がないから眠気ざましに身の上ばなしを聞く。
と、キクさんは東京大空襲のときB29が落す焼夷弾の炎の中で倅夫婦と別れたまま、いまだにその消息がわからないという―しめた! では劇的境遇と全く同じだ、同じなら感情移入ができる。
そこで、「キクさんの気持をそのまま言えばいいんだよ」という―どうやらだんだん感じがでてきた。
そして数日後にセット入りとなる。ところがキクさんは、丹精こめてボロボロにした衣裳を見てイヤだという。折角「活動」に出るのならもう少しマシな着物を着たいという。
それを何とか説得してセットに入れる。疲れるからテストは私が代ってつとめ本番だけキクさんに代わる。まるでハリウッドのスタアなみである。
さて、キャメラが回り出すと、キクさんは「身寄りがB29の為に殺されて」という―
たちまち雷のような声がとどろく。
「いったい何をしこんだのだッ!」
私は狼狽してキクさんに台詞の訂正をする。ところが何べんやってもB29が出てくる。そのうちショーイダンまで飛び出してきた。なんせそう思いこんでしまったのだからどうにもならない。
と、テンノウは「表情は感じが出ているからOKにしよう」といってくれた。だからこのシーンは台詞だけ三好栄子さんが吹替をやっている。
さて、無事に大役を終ったキクさんは貰ったギャラに目を丸くして、「こんなにたんといただけるのなら、デパートへ行って着物でも買いたい」という。そのデパートは浅草松屋がいいという。
そこで私がその買い物のおともをする。会社差しまわしのハイヤーで浅草松屋へ乗りつける。そこでキクさんはうんと安物の銘仙を取り「これがいい」という。その銘仙をしっかり抱えご機嫌で浴風苑へ帰ったが、もう一つ後日談がある。
「七人の侍」の撮影が終って一年ほど後、キクさんが亡くなった。そのいまわの際に「トラという人に会いたい」という電話があったという。生憎私は別の映画で地方ロケに行っていた。帰京してから浴風苑を訪ねたら、キクさんはもう白木の位牌になっていた。
その位牌の傍に「七人の侍」に出演したときのスチールが飾ってあった。あの嫌がっていたボロボロの衣裳を着た姿で―キクさんは「七人の侍」に出演したことが生涯を通じてなによりもたのしい思い出だったと、亡くなる前にそう語っていたという。》
原典でこの一連のエピソードを読んだとき、この老婆のボケ振りが面白くて、その部分だけが自分の中で誇張されて、一種の「面白い引用」としての効果ばかりを考えていたのですが、こうして一連の成り行きを通して転写してみると、この論文そのものが映画「七人の侍」に関わった関係者たちが次々と鬼籍に入っていった死の影に覆われた記録=過去帖であったことに気づかされ慄然としました。
いや、そもそも、この論文の当の執筆者・廣澤榮自身が既に1996年2月27日に亡くなっていることを改めてwikiで知り、おびただしく「失われつつある」進行形のうえに映画「七人の侍」の存在が保たれていることを痛感せざるを得ませんでした。
果たして、映画「七人の侍」は、関係者がすべて亡くなったあとも、依然、不滅の名作としてこの地球上に永遠に残るだろうかという疑問と感慨に捉われたとき、なんの脈絡もなく不意に、カフカの短編「プロメテウス」を想起しました。
ごく短いので前文、転写してみますね。
《プロメテウスについて、四つの言い伝えがある。
第一の言い伝えによれば、彼は神々の秘密を人間に洩らしたのでコーカサスの岩につながれた。神々は鷲をつかわし、鷲はプロメテウスの肝臓をついばんだ。しかし、ついばまれても、ついばまれても、そのつどプロメテウスの肝臓はふたたび生え出てきたという。
第二の言い伝えによれば、プロメテウスは鋭いくちばしでついばまれたので苦痛にたえかね、深く深く岩にはりついた。その結果、ついには岩と一体になってしまったという。
第三の言い伝えによれば、何千年もたつうちに彼の裏切りなど忘れられた。神々も忘れられ、鷲も忘れられ、プロメテウスその人も忘れられた。
第四の言い伝えによれば、誰もがこんな無意味なことがらには飽きてきた。神々も飽きた。鷲も飽きた。腹の傷口さえも、あきあきしてふさがってしまった。
あとには不可解な岩がのこった。言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ。》(池内紀訳)
ここでいう「プロメテウス」をそのまま「七人の侍」と言い換えたらどうだろうか、「永遠」の意味を語るとき、ちょっとした誘惑を感じてしまう自分好みのカフカの短編です。
いずれにしても、この世にとどまりながら「忘却」によって空虚に蝕まれ「消滅」も果たしてしまうという「永遠」についての「真理」の話にほかなりません。