年明けのある日、久しぶりにちょっと高めの寿司でも食べにいこうかと近所にある寿司職人のいる回転寿司「寿司清」にいったところ、新年早々店が閉まっていて、張り紙には、モト会社の小野瀬水産が破産したために破産管財人がどうのこうのというようなことが書かれていたので、びっくりしました。
この「寿司清」は、わが町ではちょっとしたハイ・グレードな寿司店として通っていて一目おかれている存在です、たしか数年前の新聞に、他店の回転寿司とは違ってハイ・グレードな差別化をはかっている寿司店とかで紹介されていた記憶があります。そのあたりが最盛期だったのかもしれません。
まあ、回転寿司に果たして「ハイ・グレード」なんてものがあるのかどうかはさておいて、例えば通常ひと皿100円・平日なら90円(はま寿司)というところが、わが町の回転寿司店の価格帯の通念だとすると、小野瀬水産の「寿司清」の富裕層ねらいは、新鮮さにこだわったネタ選びが贅沢なぶん、価格もそれだけ高めに設定するというところが特徴だったのだと思います。
安価な回転寿司店では、当然、寿司職人の姿など見かけることなく、目の前に皿がのったベルトがただぐるぐると廻っているだけで、そこから自分の好みの皿をチョイスして食うという回転寿司が世に登場した当初は、本格的な寿司屋のツウの客からすれば、人の顔の見えない無味乾燥さを「あんなもの」呼ばわりして冷笑していたものでした。
ほら、チャップリンの「モダンタイムス」で、未来の機械が自動で人間に食事を無理やり押し込むなんて随分と皮肉っぽく「機械」を揶揄した場面が冷笑的に描かれていましたよね、ちょうどあんな感じだったのだと思います。
なにしろ当時庶民にとっては、やはり高価で特別な食べ物だった寿司に「回転ベルト」を考案・導入し、とにかく家族で気軽に寿司を食べられるシステムを考案し大衆化につなげて成功した優れものの改革だったわけですから(この「工夫」と「安価」が外人客の集客につながったと思います)、「握る」ことにこだわって本格的な寿司職人を雇うなどという発想をまず棄てて、当然、「握る」部分も機械で自動化することをコミで考えたに違いありません。
たとえ店の奥まった厨房で大学生のアルバイトが型でカタドリした飯の上に機械的にネタをのせているだけだとしても、人件費をそうやって削り込まない限りその「コストパフォーマンス」は実現できなかったと思います。
しかし、そうした「無味乾燥」を味気なく思い、少しくらい金を払ってでも、やはり目の前で元気のいい寿司職人に寿司を握ってもらいたい、それを直接食べたいと願う裕福でノスタルジックな御仁はいつの時代にもいると思うその部分をねらって、寿司清はその「人の手で握る寿司」にこだわって当初の成功につなげた、ひとつの成功例だったとは思いますが、そのクオリティーが定着すれさえすれば、それはそれに越したことはなかったのでしょうが。
我が家でも「100円寿司にいく」というのと、「寿司清にいく」というのとでは明らか暗号的に区別されていて、後者の「寿司清にいく」は、「贅沢しにいく・散財する」みたいな特別な意味を持っていました。その唐突な破産話が冷え切らないうちに、さらにもうひとつのショッキングなニュースが入ってきました。
なんと、わが町でたった一軒しかなかった駅前の新刊書店が、年明け早々店じまいしてしまったというのです。
えっ~、それじゃあなにかい、この町には、新刊書店というものがついに一軒もなくなっちゃったってこと、「なんだなあ、町に本屋が一軒もないなんて、それで文化都市といえるのかよ、まさに世も末だね、こりぁ」とななんとかぼやきながら重ね重ねの衝撃を話の新ネタにしていました。
しかし、考えてみると「新刊書店の閉店」というのは、なんだかガソリンスタンドがバタバタと潰れている状況と見事に呼応しているような感じを受けます。いずれも「時代の激変に追いつけなくて敗退した」みたいな印象はどうしても否めません。
とはいえ、かのガソリンスタンドの閉鎖の方は、明らかにハイブリットカーが普及してガソリンの需要が急速に落ち込んだことにあるのですから、そもそもの原因は根本的には異なり一緒くたにはできませんが、大雑把には高度なデジタル技術化によってもたらされた技術的淘汰といってもいいのではないかと思います。
具体的にいえば、書店の閉店は、「スマホ」の圧倒的普及によって、版元が端末にコンテンツを細分化・記事を切り売りして売り込むという従来にない「業態」の変化を求められ、デジタル化の需要に合わせて販路のシステムを急遽変えなければ対応できなくなり、その対応に遅れればその出版社は業界から抹消されるという差し迫った危機感があって、当然この販路の変更、あるいは廃止は、旧態の販路の出先機関の「書店」に及んで、はっきりいって無用になった現実的な末端の出店(書店)を本家は切り捨てざるを得ないという状況がいま現在の熾烈な現実なのだと思います。まあ、その傍らには、依然として「どんどん本が読まれなくなった」だから「本も売れない」という状況もあるわけで、版元も書店も本とはなんの関係のないこのデジタルという奇妙な「勢い」に挟撃されているという感じではあるのですが。
でも、こうした「書店の閉店」の話に一向に動じない家人は、こんなふうに言います「でもさあ、あんた、まだ古書店とかがあるからいいやないの」と。
なにいってんだ、このやろう。
たしかに近所にはカフェを兼ねた店が一軒だけあることはあります。
しかし、あえていっておきますが、これを「お洒落な店」と勘違いとか早とちりしたら、それこそ、やがてその浅慮をみずから呪うことになりますよ、きっとね。だって、じっさい見たらホントびっくりしますから、その凄まじさには。そりゃあ「失望」なんて生易しいものじゃ済まされません、「あんたねえ、やる気あるの」と思わず苛立ちで突っかかりたくなりますし、やり場のない怒りに駆られて湧き上がる憤怒で思わず激昂し、そこらにある物を手当たりしだい壁に投げつけたくなるくらいそのカフェなるものは惨憺たる「ヘタレな廃屋」です。
なにしろタダ同然のあばら家を安価で借り受け(そういう話を聞きました)、道路に面した正面部分だけを安ペンキのケバイ色でべったりと塗りつけ、それはもうまさにウソ偽りのない壮絶たる「廃屋カフェ」という感じで、平日など客の入っているところを、ついぞ見たことがないという家人の話しでした。いや、むしろ店構えそのものが来客を拒否しているのではないかと思うくらいのオモムキで、それはまさに孤立無援の鬼気迫る壮観さだということです。
しかし、選挙の時期ともになるとマッテマシタとばかりにカフェを休業にして、いそいそと選挙事務所に貸し出し、むしろそちらの方が古書店などやっているより余程実入りがいいらしく、選挙の時期になると、いつもは貧相で幽鬼さえただよう栄養失調気味で険しい顔つきのマスターの貧弱な姿が急に安らぎ、穏やかなホクホク顔になって徐々に肥えはじめるというのがご近所のもっぱらの評判だとか家人が聞き込んできました。
しかし、わが町にただ一軒だけになったその古書店(正確には古書店カフェですが)にじゃあ自分が出かけるのかというと、そこにはまたなかなか行きづらい事情というものがありまして、そのことを少し書いてみますね。
かつて自分は年に数回、神保町の古書店街をぶらぶら歩くのを数十年来楽しみにしてきました。それは、自分が高校生のころから現在に至るまで、ずっと続けている習慣で、いまでも変わりません。
もちろん、その神保町の古書店街で安い本を物色するという楽しみもあるのですが、しかし、むしろ、どちらかといえば「古書店街のぶらぶら歩き」の方に楽しみの比重があって小一日のんびりと町歩きを楽しんでいます。それに古書探しということだけなら、なにもわざわざ「神保町」にこだわる意味も必要もありませんし。
しかし、そうした町歩きに疲れた時いつも思うことがあって、これでちょっと休める場所があったら、なおいいのに考えることが時折あるのです、いえいえ、いまも学生街の象徴的な町、神保町です、喫茶店とかレストランのたぐいなかコト欠かないと思います、それこそ数え切れないくらいあるでしょうが、自分の言ってるのはそうではなくて、古書店がそのまま喫茶店を兼ねているような小洒落た落ち着ける店というか、買った本を読みながらのんびりお茶を飲んだり軽い食事ができるようなそういう店があったらいいなというのが、かねてからの自分の願いなのです。
もっともこの町もいまではすっかり様変わりしてしまって(すずらん通りの飲み屋では外国人留学生たちがコンパで盛り上がっている姿をしばしば見かけます)、実際はそんな店なら幾らもあるのに知らないのは単に自分だけということなのかもしれませんが。
あるとき、ご近所のお爺さんと雑談していて、そんなことを話していたら、「それって図書館みたいなものだとしたら、駄目だろうな」といわれました。「だってさ、図書館は本を読みながらの飲食は厳禁だからね。飲食しての読書を許してたら本が汚れ放題になって堪らないよ。それでなくともさ、ときどき図書館から借りた本のページにクッキーの食べカスとがコーヒーのシミとかがついているなんてことが結構あるからね、そういう本に出会ったときはホントにうんざりしてアタマにくるよ、そんなときは構わないからチクッてやるんだ」
まあ、お爺さんのいう図書館というのはさておくとしても、古書店で廉価本を物色し、面白そうな本をチョイスして、コーヒーを傍らにおいて日向ぼっこしながら、のんびりとその本を読みふけるっていのは、考えただけでもますます楽しい気分に誘われます。なんとなく他人に話しているうちに、そういうシチュエーションこそ自分が思い描いてきた究極の快楽・嗜好の極致でさえある確信してきました。
しかし、続いてそのお爺さんが言うには、オタクの言うその「究極の快楽・嗜好の極致」とかいうものは、なにも神保町くんだりまで行かなくともついそこの近所にもあるよと教えてくれました。
それが先に書いた小汚い「廃屋カフェ」だったのです、「へえ~、知らなかったなあ、もしかして知らなかったのは自分だけというわけだったのお、という感じです。
そのあとで、お爺さんから教わったその店をひそかに見にいったとき、自分が思い描いていた「究極」や「極致」が、現実に具象化されるとなると、こんなにもみすぼらしい「小汚さ」になるのかといういささかの戸惑いはありましたが、しかし、それでもこれで自分の長年の夢が実現されるかもしれないという微かな希望もあり、ちょっとしたワクワク感というか感慨無量なものはなくはありませんでした。
古書店のあるその道は、思えば、格安スーパー「ビッグA」に続く迂回路で、以前にも幾度か通ったことはあるのですが、途中にこんな古書店カフェがあったなんて、正直いままで気がつきませんでした。
そこには、見過ごすのも当然という「自己主張」に乏しい、見るからにアピールに欠けた店構えというものがあったのだと納得もしました。
自分は「ナニゲ」をよそおい、その古書店カフェ前をゆっくり通り過ぎるふうに、風景の一部を見るように素早く店内をうかがいました。
ガラス戸の反射ではっきりとは見えませんが、右側にテーブルがふたつあって客はなく、左側のカウンターでは、長い髪を後ろで束ねた店長らしき男性がカウンターにもたれて夢中で読書にふけっている感じです。
それにテーブル席の背後の右側の壁一面には天井まで届く書棚にくすんだ色の本がぎっしり詰まっていて背表紙をみせているのが見えます、あそこでのんびりと気ままに本が読めると思うと、なんかいい感じじゃないですか。
それによくは見えませんが、カウンターの背後にも書棚らしきものがあるようです。
その店先には、背の低い書棚とワゴンがふたつずつ設えられていて、多くの古書店と同じようにそこには廉価本が無造作に収まっています、いずれも「100円均一」と書かれています。
その廉価本のなかでも一際目に付いた青い装丁の本(一群です)がありました。
はは~ん、むかし懐かしい「高橋和巳作品集」じゃないですか。
思わず足を止めて見入ってしまいました。
確かにその「一瞬」は、「へえ~、いまどき、いったいどこの誰が高橋和巳の小説など好きこのんで読むんだ?」という思いがひとつにはありますが、さらには、この小説の意外に過度な感傷が甘々な楽観に突き抜けてしまうような(いまでは文学としての未熟さを感じざるを得ません)目を背けたくなるような嫌らしい部分に通じていて、それはちょうどかつての「自分」の無様な一部・物欲しげにもがいていた「時代」にがんじがらめに囚われながら、それに甘えてもいた嫌らしい無様な自分の一部でもあったことを、その古書店の店先で見た「高橋和巳作品集」に「時代」から置き去りにされて、腐りかけた干物のように晒しものになっていることに嫌悪を感じてしまったからかもしれません。
しかも、立ちすくんで、しばし見入っていたその姿をバッチシ店の奥の店長に見られてしまったことになんだか「おびえ」、怖気て思わず身を引いた意外にヤワな自分のリアクションに自身でも驚いてしまい、そのアタフタぶりの一部始終を見られてしまったことが羞恥と衝撃となって自分の中に残りました。
たぶんそのとき同時に《自分が属した「世代」を決めつけられた》のではないかみたいな自己を含めた他者嫌悪として感じてしまったのかもしれません、こんなふうに他人から「世代」を決めつけられたり即断され揶揄されたり冷笑されたりしたことは、いままで幾度も経験してきたことで、その対応の「面倒くささ」を自分はつねに経験的に警戒し、とにかく逃げて、どうにかやり過ごすようにしています。むしろこれをトレードマークみたいにして「処世」につなげられたら、ずいぶんと楽な生き方ができるでしょうし、たぶん、もっと巧みに小ざかしくこの世を渡り、自己表出することもできたかもしれません。柴田翔や高橋和巳みたいにね。
それから以後、あの古書店→ビッグAルートは敬遠して、通るのは避けるようになってしまいました。しかし、その負け惜しみではありませんが、古書店で手にする本というのは「たまたま」なのであって、この「奇遇」という気楽な出会い方に依存すると、なんだか「本を読んで愉しむ」ということからどんどん遠ざかってしまうような、やりきれなさというか、空しさみたいなものに陥ってしまいそうになるということはあり得ますよね、だんだんと。
きっと、そういう暗澹たる気分にさせられるのは、そのいわば「気楽さ」が、ある種の「怠惰」に通じてしまっていて、それは例えばスマホで切り売りされたコンテンツをつまみ食いする「走り読み」でモノゴトを理解したような気になってしまったり本を読んだような気になってしまう、あの感じに似ているからかもしれません。
それはちょうど誰かと会話するネタを仕入れるためだけに「見出し」だけさっと読んで済ませるという都合のいいだけの行為の一部にすぎなくて、いやはや、もうこうなると到底自分が考えている読書などというものではありません。
それは、インターネット上で手軽な「朗読」というコンテンツを活用して、通勤の生き返りに電車で気軽に名作小説を耳で聞いただけで読んだ気になるというあたりも「それってどうなの」という気にさせられています。
それらは到底「読書」とはいえない、なにか別のものにすぎなくて、活字一字一字を目で追っていくことで費やす時間が、そのまま脳に入っていくためには必要な時間なのではないなかと考えたりしますし、また、それに加えて読書の愉しみというのは、ある程度、体系的に読んでいかなければ、得られないのではないかということに気がつきました。
なんと、この年になって、やっとそんなことに気がつくなんて、遅きに失した随分迂闊な話には違いありませんが、しかし、どんな「迂闊さ」にだって、それが気づきの契機になってモチベーションにつながれば、それが「いくつ」であろうと遅いなんてことは決してあるはずはありませんよね。
そこでその「体系的に読む」ということに挑戦してみることにしました。
この「体系的に読む」ということに関してなら、「蔵書量」において、古書店よりもはるかに図書館は優れて相応しいものがあるといえます。
そして、この「体系的に読む」という気づきの対象として、まず最初に思いついたのは、村上春樹の作品を短編も含めてすべての作品を通して読んでみたいという長年の秘めたる願いがありました。
ちなみに、近所の図書館のホームページで「村上春樹」と打ち込んで検索をかけた結果、関連の事項を含めてヒットしたのは438件でした、その一覧はこの記事の末尾に貼り付けますが、容量オーバーでアップできない場合にそなえて、「小説の読了・非読了の題名のみ一覧」を合わせて貼り付けますが、その「438件」の方がどこにも見当たらなかった場合は、重くて送信が叶わなかったのだなと悪しからずご了解ください。
さて、村上春樹の作品ですが、長編は刊行されるたびにちょこちょこ読んできたのですが、長短編をどのくらい読んでいるのか整理してみないと分からないというのが正直なところです。
そうそう、自分は、村上春樹が「風の歌を聴け」で「群像」の新人賞を受賞したときに、「群像」の本誌をリアルタイムで読んでいます。
御茶ノ水駅近くの書店で「群像」を買い、電車を待ちながら読み始めたところ夢中になって止まらなくなり、いざ電車に乗りながら乗り越しするのが怖くなって途中下車して、見知らぬ駅のベンチに座り最後まで読みきったという記憶があります。
そのとき受けた自分の衝撃が間違いなく確かなものだったということは、いまのこの現実がすでに証明していることと思います。
忘れてはならないのは、村上春樹を取り巻く当時の日本の文壇のイカガワシイ雰囲気・空気感というものがあります、その愚劣で陰湿・度し難い内向きな体質も含めて、その辺のところはきわめて鮮明に記憶しています。そのへんはいまでも変わりませんが。
そして、その雰囲気・空気感は、そのまま村上春樹がついに芥川賞を受賞しなかったこと(そんなことは彼の「文学性」とその「世界化」にとってなにほどの支障でもかったということは却って痛快です)や、ノーベル文学賞の受賞を阻んでいる状況とか嫉妬に満ちた「でっちあげられた芳しくない評判」によって故意に阻まれていることにも通じています。ナンデスカ、選考にかかわる薄汚い内通者が日本にいるらしく、候補者の「評判」をかの国にあることないことひそかに伝えているとかいう話じゃないですか。大方、文壇の太鼓もちみたいなヤカラがつまらない悪評をでっちあげて内報しているに違いありません。世界に通用する真の変態・大谷崎を差し置いて世間受けする見栄えのいい日本観光案内所みたいな川端をあえて推薦したくらいですから、その実力など、おして知るべしです。
それに、皮肉なことには、日本文壇の太鼓もちの「謗り」や「阻み」が強ければ強いほど、村上春樹はますます世界で読まれ、名声は高まるばかりというのも痛快じゃないですか。
当時、大江健三郎は、選評か批評で村上作品に対して「こんな翻訳文は、到底日本文学とはいえない」と腐したうえに謗っていました。自分こそ朝鮮戦争と60年安保をネタにしたサルトルの翻訳文のパクリで「遅れてきた」とかなんとかこそこそと売り出してきたっていうのに、それを棚に上げておいて「なんだそれ、よく言うよ」と苦笑してしまいました。えらそうに。
現在、若い世代のだれにも相手にされず、とうに忘れられつつある敗残の惨憺たる現状は、時代の「良識」といういかがわしい既存の左翼にすり寄っておもねりその隠れ蓑にぬくぬくと安住してきた分だけ、「この時代」に報復されているという感じを受けます。
まあ、そんなことはさておいて話しを「村上春樹」に戻しますね。
今回、順不同ですが、長短編を新たに読み進め、読み直した結果、ずいぶん映画ネタが、そこここに散りばめられているなという印象を受けました。
そのなかで直接的な引用はともかくとして、自分の目を引いたのは、「かすかなケハイ」という感じを受けた作品です。
以前、自分は、「海辺のカフカ」の中の一文が、映画「スペシャリスト・自覚なき殺戮者」に対する的確な映画批評のように読めてしまった部分を驚きとともにこのブログに書いたことがあります。
それとまったく同じ経験を今回の「読み直し」のなかで遭遇したので、そのことを書きたくて、この拙文をここまでなんとか引っ張ってきた次第です。
それは「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」という作品と、エリア・カザンの「草原の輝き」1961との相似性です。
ふたつのストーリーの要約(末尾に掲げましたので、ご参照ください)を比較してみると、とても似たストーリーではあるものの、本質的には似て非なる、まるで異なった作品であることがよく分かります。
村上作品「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」のラストで男がかつての恋人の望みどおり彼女の結婚後にsexしたあとにやり切れない絶望と虚無感におそわれて夜の街で「商売女」を買わずにいられなかったというラストは、ずいぶんと象徴的な結末だなあと痛感します。
「処女」であることや、そして「sex」や、彼女自身の「カラダ」すべてが、彼女の来るべき「将来」のために効率的な利益をもたらすべく彼女みずから既に道具化・商品化していて自分で自身を値段づけしていた無残な倒錯が「結婚するまでは処女でいたいの」の言葉の中に示唆され意味付けられていたことがラストで明かされているのです。
「功利」の一部に役立たせる肉体を持った歪んだミス・クリーンとの空しい性交のあとで、その男がさらにその夜に買った「商売女」と、いったいどこがどれほど違うのかと問う悲痛な絶望感にうちのめされるというラストをもつ、きわめて良質の短編小説に仕上がっているのですが(サブタイトルの「高度資本主義前史」がよく生きています)、この小説の読後には思わずエリア・カザンの「草原の輝き」を思い浮かべました、筋立てなどはとても良く似ていますが、エリア・カザンの「草原の輝き」の方は、若いふたりの「sex」を功利的に考えて歪めてしまうのは、彼らの周りにいる親や社会、そして周囲の人間たちの偏見や頑なな倫理観なのであって、そのために結局破綻せざるを得なかったとしても、ふたりの「sex」そのものは、どこまでも一途で清らかな高潔さを失っていない熱く息づく「青春の夢」であることを放棄しているわけではありません。まさに「草原の輝き」なのです。
それに引き換え「フォークロア」で描かれている破綻の元凶は、成育歴や学歴や、さらにはその肉体としての「わが身」まで金に換算して「将来」への功利をはかろうとする惨憺たる「sex」に貶められたものでしかありません。
その荒涼とした「高度資本主義前史」の荒れ野にひとり取り残された男は、そのラストで、思い余って「商売女」を買って渇きを癒さなければ遣り切れないような絶望感におそわれています。そこのところが、1961年のアメリカの「草原の輝き」と日本の「高度資本主義前史」との違いなのだと痛感した次第です。
★村上作品「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」のあらすじ
≪主人公の「僕」は1960年代のいわゆる高度経済成長期に中学から大学の多感な時期を過ごした。
そして「僕」は大人になって、高校の級友とある日偶然再会する。
その級友は高校時代には、何でもできた完璧な男だった。
成績が良くて、運動ができて、そのうえ親切で、しかもリーダーシップがとれ、皆からの信頼も厚かった。
特にハンサムというわけではないが、いかにも清潔そうな爽やかな印象で、当然クラス委員をしたりして、声もよく通り、歌もうまくて、おまけに弁も立った。誰にも好かれる言うことなしの完璧な好青年だ。
当時、その彼が付き合っていた女の子がいた、別のクラスだったが、彼女も美人で、同じように成績も良くて、運動ができ、リーダーシップもとれるという、これまたクラスに一人はいるという完璧な美少女で、つまりふたりは誰もが認める似合いのカップルというわけ。いわばミスター・クリーンとミス・クリーンという組み合わせ。
しかし、その頃「僕」たちが興味のあったのは、もっとヴァイタルな政治とロックとセックスとドラッグ。つまり、あのミスター・クリーンとミス・クリーンなんか別世界に生きる異星人としか思えず、「僕」たちには関心も興味も印象もなかった。
大人になった「僕」は、海外で偶然そのミスター・クリーンと再会し、一緒に食事をすることになる。
彼は、あの思春期に付き合っていた彼女ミス・クリーンとの関係について、その後のウチワケ話を始める。
彼女と彼は4年ほど付き合い、その間も、逢えば濃厚なペッティッグをした、しかし、彼女は、指でなら許すが、セックスだけは頑なに拒み続けた、「それなら結婚しよう」と切羽詰まって彼は婚約の申し出をするが、彼女は断る。理由は「結婚するまでは処女でいたいのよ」と。
男は問う「なぜ。だってこんなに愛しているのだから、いいじゃないか」と。
すると女は答える「あなたのことは大好きよ、とても愛しているわ。でも結婚できないの。だって、無資無力な若輩同士のわたしたちが一緒になったって幸せになんかなれるわけないじゃない。私はもう少し年上の資産のある男性と結婚して、あなたは十分な資産が出来てから年下の可愛い子と結婚すればいいのよ」
「そして」と女は続ける「結婚したあとでなら、たっぷりsexしましょう、そのときは連絡するわ」
その言葉を聞いた男は、彼女がなにを言っているのか、一瞬、理解できずに混乱したまま怒りをぶつけ、気まずいまま大学も別れ別れになって、やがて疎遠になる。
何年か経ち、社会人になった彼の仕事もようやく落ち着きはじめたとき、彼女から「会いたい」と電話がかかってくる。
少し躊躇したものの気持ちに負けて会ったなりゆきでsexするものの、その無味乾燥さにげんなりして、別れたあと、その喪失感と空虚を埋めるように商売女を買った。≫
★以下は、エリア・カザンの「草原の輝き」1961のあらすじです。
≪1928年、カンサスに住むバッドと、ディーン(ディーニー)は高校3年生。愛し合っているが、ディーンの母親は保守的な倫理観の持ち主で「男は尻軽な女を軽蔑する。そういう女とは結婚したがらない」ということもあって、母親に会わせづらいディーンはバッドのすべてを受け入れるに至らない。バッドの父で石油業者のエイスは息子がフットボールの選手であることが大自慢で、イェール大学に入れたがっているが、バッドには父親の期待が心の負担になっている。父は理解あるように振舞うが本能的には暴君で、姉のジェニーが家出して堕落してしまい、大学を追われたのも、こんな父のいる家庭がたまらなかったからだ。バッドはひたむきなのだが、彼女はそれを受けとめてくれない。父は「女には2種類あって、時々気晴らしに遊ぶ女と、結婚する女だ。感情に任せて、責任取らされるようなことはするな」という。そんなことでイライラした気持を、バッドは折にふれて乱暴な行動で爆発させる。ついに同級生でコケティッシュな娘ファニタの誘惑に負ける。
青春の悩みに苦しんでいるディーンはこの事件でショックを受け、ワーズワースの詩の授業の途中に教室を抜け出し、川に身を投げる。救助に飛び込んだバッドのおかげで死を免れたディーンは精神病院に入院する。父の希望通りイェール大学に入ったバッドは、勉強にも身が入らず、酒ばかり飲み、あげくにアンジェリーナというイタリア娘と結ばれてしまう。学校は退学寸前のところまでいっている。そこで父のエイスはニューヨークへ出かける。ちょうど、1929年の世界大恐慌がやってきた。エイスは大打撃をかくして息子に会い、女をバッドの寝室に送り込んだりするが、その夜、窓から飛びおりて自殺する。
ディーンは病院で知り合ったジョニーという若い医師と婚約する。退院してから、バッドが田舎へ引込んで牧場をやっていることを知り、訪ねて行く。バッドはアンジェリーナとつつましく暮らしていた。2人は静かな気持ちで再会する。
Though nothing can bring back the hour
Of splendour in the grass, of glory in the flower;
We will grieve not, rather find
Strength in what remains behind...
(Sir William Wordsworth "Ode: Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood")≫
草原の輝き
(1961アメリカ)監督・エリア・カザン、脚本・ウィリアム・インジ、原作・ウィリアム・インジ、製作・エリア・カザン、音楽・デヴィッド・アムラム、撮影・ボリス・カウフマン、編集・ジーン・ミルフォード、
出演・ナタリー・ウッド(ウィルマ・ディーン・ルーミス)、ウォーレン・ベイティ(バット・スタンパー)、パット・ヒングル(エース・スタンパー)、オードリー・クリスティー(ミセス・ルーミス)、バーバラ・ローデン(ジニー・スタンパー)、ゾーラ・ランパート(アンジェリーナ)、フレッド・スチュワート(デル・ルーミス)、ジョアンナ・ルース(ミセス・スタンパー)、ジョン・マクガヴァン(ドク・スマイリー)、ジャン・ノリス(ジュアニータ・ハワード)、マルティーヌ・バートレット(ミス・メットカルフ)、ゲイリー・ロックウッド(アレン・"トゥーツ"・タトル)、サンディ・デニス(ケイ)、クリスタル・フィールド(ハゼル)、マーラ・アダムズ(ジューン)、リン・ローリング(キャロリン)、フィリス・ディラー(テキサス・ガイナン)、ショーン・ギャリソン(グレン)、
【村上春樹 長短編】一応50音順(✓は読了したもの)
アイロンのある風景、✓青が消える、✓あしか、✓あしか祭り、雨やどり、✓アンチテーゼ、✓イエスタデイ、✓1Q84、今は亡き王女のための、✓インド屋さん、✓嘘つきニコル、✓うなぎ、✓馬が切符を売っている世界、✓海辺のカフカ、✓鉛筆削り、✓嘔吐1979、✓小沢征爾さんと音楽について話をする、✓おだまき酒の夜、✓女のいない男たち、✓かいつぶり、✓回転木馬のデッドヒート、かえるくん 東京を救う、✓鏡、✓風の歌を聴け、蟹、✓加納クレタ、✓彼女の町と彼女の綿羊、神の子供たちはみな踊る、✓カンガルー日和、✓騎士団長殺し、✓木野、✓牛乳、✓偶然の旅人、✓グッド・ニュース、✓月刊あしか文藝、✓構造主義、✓氷男、✓五月の海岸線、★午後の最後の芝生、国境の南、太陽の西、✓ことわざ、✓コロッケ、✓サウスベイ・ストラット、✓32歳のデイトリッパー、✓シェエラザード、✓四月のある晴れた朝に100%の女の子、七番目の男、品川猿、✓書斎奇譚、✓新聞、✓ずっと昔に国分寺にあったジャズ喫茶のための広告、✓ストッキング、✓スパゲティーの年に、✓スパナ、✓世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド、✓1963・1982年のイパネマの娘、✓1973年のピーボール、✓ゾンビ、✓大根おろし、✓タイム・マシーン、タイランド、✓高山典子さんと僕の性欲、✓タクシーに乗った男、✓タクシーに乗った吸血鬼、✓タコ、✓駄目になった王国、✓ダンス・ダンス・ダンス、✓チーズケーキのような形をしたボクの貧乏、★チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ、✓中国行きのスローボート、✓沈黙、✓使いみちのない風景、✓天井裏、✓ドーナツ化、✓ドーナツ再び、✓動物園、✓独立器官、✓どこであれそれが見つかりそうな場所で、✓図書館奇譚、★トニー滝谷、✓ドライブ・マイ・カー、✓トランプ、✓とんがり焼の盛衰、✓納屋を焼く、✓ニューヨーク炭坑の悲劇、✓ねじまき鳥クロニクル、✓眠い、✓能率のいい竹馬、✓ノルウェイの森、✓バースデイガール、✓激しい雨が降ろうとしている、✓はじめに・回転木馬のデットヒート、✓ハナレイ・ベイ、✓バンコック・サプライズ、✓ハンティング・ナイフ、✓ビール、✓飛行機、✓羊をめぐる冒険、✓人食い猫、✓日々移動する腎臓のかたちをした石、✓貧乏な叔母さんの話、✓プールサイド、✓フリオ・イグレシアス、✓ふわふわ、★蛍、✓ホルン、✓真っ赤な芥子、✓窓、蜜蜂パイ、緑色の獣、✓虫窪老人の襲撃、村上朝日堂、✓めくらやなぎ と眠る女、✓もしょもしょ、野球場、約束された場所で、✓UFOが釧路に降りる、✓夜中の汽笛についてあるいは動物の効用について、✓夜のくもざる、✓留守番電話、✓レーダーホーゼン、✓レシキントンの幽霊、✓我らの時代のフォークロア、