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私の男

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とても重厚な作品「私の男」を見たあと、ネットでこの作品の感想を読み漁っていたら、こんな記事に遭遇しました。

それは、監督と出演者がそろって受賞記念の舞台挨拶をしたときの出来事だそうです。

どの受賞記念か特定できませんが、受賞暦は最後に記しましたので見てください、実に壮観です。

その記念の舞台挨拶の出来事というのを、以下に引用しますね。

《ところが、先日、二階堂ふみ、浅野忠信、熊切和嘉監督らによる受賞記念の舞台挨拶でちょっとしたハプニングが起きた。観客からの質疑応答で、近親相姦の被害者という女性の観客から疑問が投げかけられたのだ。
「私は近親相姦の被害者です。浅野さん演じるお父さんは加害者。二階堂さん演じる花さんは、未成年だから被害者。一般の人たちはアダルトビデオでしか知らないと思いますが、あまり美化されてしまうと……」
 この突然の質問に、場内は静まり返ったという。壇上の熊切監督も「美化して描いたというつもりはない。そこにある厳しさをもって描いたつもりです」と緊張した震え声で答え、主演の浅野も「もし、見る方によって思い出させたりすることがあるならば、申し訳ない」と謝罪をするのが精一杯だった。
 だが、こうした反応は当然といえるかもしれない。》

こう言ってはなんですが、たかが映画の受賞記念の舞台挨拶、そのような浮かれ気分の華やいだ場の雰囲気のなかで、多くの観客の好奇の視線を一身に集めながら、堂々と「私は近親相姦の被害者です。」などと異様な自己紹介をすることのリアリティのなさとか、もしそれが事実だったとしても、その冷水を浴びせるような行為と発言に、はたしてどんな意味があったのか、そのなにもかもが、とても奇異に感じられてなりませんでした。

本当に「近親相姦の被害者」であることを訴えるのなら、実効性のある救済機関とか、捜査・公訴の強制力を持つ公的機関に告発するのならともかく、なんの効果も効力も期待できない映画の試写会場などというユルイ場所で、そんなに深刻な話をされても、受けた側はどう対処していいのか戸惑うばかりで、たぶん本心からは程遠い「謝罪」をするくらいがせいぜいだったと思います。

これでは、お騒がせだけが目的の、まるで嘘くさい低次元の「テロ」としか思えませんでした。

たとえ、こんなふうに衝撃的な「前置き」(この被害妄想発言は、「人道」を盾にとって他の反論を一切封じてしまうという狡猾な論難技巧みたいなものに感じられます)などしなくとも、単に近親相姦を美化した映画(自分としては、そんなふうには感じませんでしたが)への疑問を呈するだけで、質問者の意図は十分に果たせたはずで、むしろその方が、かえって監督や出演者たちの冷静で深みのある返答を引き出せたと思いますし、また、観客の共感も得られたと思います。

そう思えばなおさら、この目的不明の異様な「異議申し立て」は、結局ただのひとりの共感も得ることなく、誰にも利益をモタラさず、ただ単に場内を最悪な気まずさで制圧して、異様な静まりを強いただけであって、その不毛な状況を作り出したことに対する責任も含めて、この発言嬢が、いったいこれをどのように感じていたのか、たまらなく知りたいと思いました。

そして、加えて言うなら、この状況を伝えた記事の書き手は、ご丁寧にも、その文脈の最後で「だが、こうした反応は当然といえるかもしれない。」などと被害者に肩入れしているかのような結語を書き足しています。

これも随分唐突で奇異な感じを受けました。

しかし、これは、よく読むと、この原作が直木賞を受賞する際に、選考の過程で一部にあった「物議」に言及するための布石というか、無理やりの「つなぎ」みたいなものにすぎず、この筆者が本心から「この反応は当然」と考えているわけでないことが、すぐに分かりました。

単に文章の流れを体裁よく整えるためだけに、一見するとこの異常で奇妙なクレームを十分な検証もすることもなく「公認」してしまったように受け取れるご都合主義の無定見な締め括りだったらしいのです。

最初読んだときは、この記事の前後の乖離の甚だしさに、強引な論理の捻じ曲げの印象を受けて、ただ呆れ返ってしまいました。

しかし、ここまで書いてきて、自分の意図が少しずつズレ始めていることに、はじめて気がつきました。

たぶん、この杜撰な記事が、みずからの論理展開を無視して、唐突な同情と共感を装ったことへの苛立ちが、いっそう過剰に「発言嬢」への指弾に動いてしまったかもしれず、すこし反省もし、思わず立ち止まる感じで、いままで書いてきた全文を読み返してみました。

たぶん、描かれた陰惨で深刻なテーマ「近親相姦」を常日頃真摯に考えている者にとっては、その会場の、あまりにもかけ離れた鼻持ちならない華やかな賑わいへの苛立ちから、その和やかな雰囲気をぶち壊す目的のためだけに、「自分は近親相姦の被害者である」と思わず口走ってしまったのかもしれないという印象はありました。

たぶん、そうしたタグイの衝動なら、可能性も含めて自分の中にも確かに存在するかもしれないことに、遅れ馳せながら気がついたのでした。

まるで「スターウォーズ」でも鑑賞するかのようにして映画「私の男」を鑑賞しようとしている場違いな華やぎに対して、その雰囲気にどうしても馴染めず、単に疎外感を感じてしまうような者なら、その孤独な怒りを大衆の中で炸裂させようという衝動は、なおさら理解できないことではありません。

しかし、それが、あえて「近親相姦の被害者」であるという表明でいいのかとなると、おそらく、その必要性も含めて理解の外にあるというのが、自分のこの発言に対する根本的な違和感であって、たぶんそれ以上ではなかったのだと分かりました。

「発言嬢」に対する拒否の気持ちなど、はじめから微塵もないことだけは、はっきりと確認しておかなければならないかもしれません。

「近親相姦」は、たしかに映画なんかでは軽々しく扱ってほしくないと考えても無理からぬとても深刻で重大な問題です。

ネット検索をしていたら、最高裁判例・昭和48.4.4判決というのに出会いました。

中学生だった14歳の少女が父親に犯され、そのことを知って激怒した母親や親戚なども中にはいったのですが、結局効果なく失敗して一家離散、父親の元に残された娘は、日常的に性交を強要され続け、少女が29歳になるまで夫婦同然の生活が続けられたとのことです。

その間、彼女は5人の子どもを産み、5回の中絶をして、その5人の子どものうち2人は生後間もなく死亡して、3人が育ったと記事にはありました。

その後25歳で印刷会社に就職し、29歳のときに社内恋愛をして、父親に結婚の許しを求めます。

しかし、父親は激怒し、「男の家へ行って、そいつをぶっ殺してやる」と逆上して暴れます。

少女は絶望し、このままでは自分が駄目になる、彼氏にも迷惑がかかると一度は父親の元を逃げますが、連れ戻されて暴行を受け監禁されます。

酔った父親は、「お前を一生不幸にしてやる。今度逃げたら3人の子どもを殺すぞ」と脅され、さらに体を求め、拒むと殴られました。

追い詰められた彼女は、「もうどうにもならない」と絶望し、泥酔した父親を絞殺したという事案です。

親殺しは重罪で、死刑か無期懲役という当時にあって、懲役2年6月、執行猶予3年という最高裁としては、異例の温情判決として知られた事案でした。

この判例だけで十分に「近親相姦」の深刻さ・陰惨さ・重大さは理解できますが、しかし、一方で、この陰惨な案件の印象を、そのまま映画「私の男」に反映させてもいいものだろうか、という疑問が拭えません。

映画「私の男」は、そういう作品ではないような気がします。

血のつながりを十分に認識している娘は、父親との性的接触を最初から積極的に求め、父親は躊躇しながら娘の行為に引き摺られるように応じているかのような印象を受けます。

娘の方に性の快楽はあっても、はたして男に「それ」があっただろうか、「家族」がほしい、そして、ただ父親としての役割に憧れながら、しかし、「家族」というものをどのようにして作ればいいのか分からない男には、「娘への愛」の境界を見失ったまま、2人を追ってきた元警察官を殺害するに至るという印象です、そこには、あの最高裁判決の陰惨さはなく、むしろ、ラストの二階堂ふみの妖艶さにつながる爽快ささえ感じてしまったくらいでした。

それならば、この映画をキューブリックの「ロリータ」のように見ればいいのかというと、そこまで拡大することはできませんでした。

震災によってなにもかもを失ってしまった少女の孤独をもっとも理解できた父親もまた、この世に信じるに足りる確かなものなどなにもないという空虚を抱えたまま、絶望の淵で生きてきた男です。

一度壊れてしまった風景も家族も、二度と元には戻らないことを知っているふたりは、かつてあった「それら」を自分を責めるようにしてしか思い返せません。

少女の荒涼とした日々の風景は16mmフィルムで捉えられ、追い詰められて悲しい殺人を犯してしまう流氷の街の日々は35mmフィルムで撮影され、ウワベを装うだけの寒々しい都会はクリアなデジタルで捉えられています。

すっかり荒廃した故郷も、いまは亡き愛する家族のことも、そして家族に対して何もできなかったという悔いのなかでしか思い返すことができません。

家族をもち、「父親」でありたいと願う男と、大自然の理不尽なチカラによって家族を奪われ、突然この世にたったひとりで残された孤独な少女、この父と娘は、喪失の空虚をうめるかのように身を寄せ、あるいは性交によってしか、互いの生存の実感が得られなかったのだとしたら、ここで描かれている「近親相姦」は、あの試写会場で異議申し立てをした彼女の考えていたものとは、少し違うものだったかもしれません。

(2014日活)監督・熊切和嘉、製作・藤岡修、由里敬三、分部至郎、木村良輔、宮本直人、エグゼクティブプロデューサー・永田芳弘、プロデューサー・西村信次郎、西ヶ谷寿一、ラインプロデューサー・金森保、原作・桜庭一樹「私の男」(「別册文藝春秋」2006年9月号(265号)~2007年7月号(270号)まで連載。第138回直木賞受賞)、脚本・宇治田隆史、撮影・近藤龍人、美術・安宅紀史、衣裳・小里幸子、編集・堀善介、音楽・ジム・オルーク、VFXスーパーバイザー・オダイッセイ、スクリプター・田口良子、ヘアメイク・清水ちえこ、照明・藤井勇、装飾・山本直輝、録音・吉田憲義、助監督・海野敦、ロケーション総括・中村哲也、制作担当・刈屋真、アソシエイトプロデューサー・西宮由貴、小松重之、製作・「私の男」製作委員会(ハピネット、日活、マックレイ、ドワンゴ、GyaO!)、制作協力・キリシマ一九四五、企画協力・文藝春秋
出演・浅野忠信(腐野淳悟)、二階堂ふみ(腐野花)、高良健吾(尾崎美郎)、藤竜也(大塩)、モロ師岡(田岡)、河井青葉(大塩小町)、山田望叶(花10歳)、三浦誠己(美郎の先輩)、三浦貴大(大輔、花の婚約者)、広岡由里子(タクシー会社の事務員)、安藤玉恵(小町の先輩)、竹原ピストル(花の父親)、太賀(大塩暁)、相楽樹(章子)、康すおん(タクシー会社の運転手)、吉本菜穂子(海上保安官)、松山愛里(花の同僚)、奥瀬繁(ずぶ濡れの中年男)、吉村実子(老婆)、細谷隆広、高島恵美、高橋篤行、五十嵐陽子、諏訪陽子、佐藤友美、伊藤尚美、磯村カイ、川崎代気子、我孫子正好、松浦伸二、和田裕美、柳川英之、池田宜大、関寛之、ルビー、ダニエル・アギラル
上映時間:129分
第13回ニューヨーク・アジア映画祭(2014)ライジングスター・アワード(二階堂ふみ)、第36回モスクワ国際映画祭(2014)最優秀作品賞・最優秀主演男優賞(浅野忠信)、第6回TAMA映画賞(2014)最優秀女優賞(二階堂ふみ)、最優秀新進男優賞(太賀)、第38回日本アカデミー賞優秀主演女優賞(二階堂ふみ)、第69回毎日映画コンクール日本映画大賞、第57回ブルーリボン賞主演男優賞(浅野忠信)、第10回おおさかシネマフェスティバル2014年度ベストテン第5位、撮影賞(近藤龍人、「そこのみにて光輝く」と合わせて)



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