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永遠の門 ゴッホの見た未来

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すでに知っている人からすれば「なんだ、そんなこと、いまや常識だぞ」と言われてしまうかもしれませんが、この映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」によれば、ゴッホの死は、いままで言われてきたような「絶望の果ての自殺」なんかではなくて、近所の悪ガキたちのタチの悪いカラカイにあった際に、たまたま銃が暴発して負傷し、その後の治療が十分でなかったための、いわば「事故死」か、もしくは「過失死」だったと描かれていて、その意想外の結末に、「な、なに~!?」と思わず驚愕し、はしたなくもあられもない声(この場合の使い方として正しいか否かはともかく、少なくとも「いや~ん、だめぇ、ばかん」のあっち系の用法でないことだけは、ひと言お断りしておかなければなりません)をあげてしまいました。

だって、そうですよね、自分たちがこれまで教え込まれてきたゴッホという人のヒトトナリは、狂気に燃えあがる天才画家で、なにしろ晩年のほんの数年間で名作とされる数々の驚異的な作品を描き上げ(それも最後の2年間に集中しているのだそうです)、そしてその理由として、晩年において次第に狂気の発作が頻繁に起こり、いつ理性が狂気に侵され崩壊し、錯乱と忘我のなかで狂い死ぬかもしれないという切迫した死の影に怯えながら、その焦燥感をエネルギーに変え、僅かな命のホムラを燃え尽くすかのような激しい色と切迫した筆遣いとによって数々の名作を描き上げた逆上と狂気の天才画家とずっと刷り込まれてきたワレワレですから、いまさら「いや、あれは事故死だったんだよ、ごめんね」と言われても、そう簡単に信じるわけにはいきませんし、納得できそうもありません。

生涯の最期が「絶望の果ての自殺」と「銃の暴発による過失死」とでは、それこそ雲泥の違いで、なにしろ付和雷同的聡明さを有するワタクシどもとしては、生涯の最期が「絶望の果ての自殺」というのならば、その最期から逆算し、忖度して、ストーリーとしても十分に納得できるだけのそれっぽい生きざまを勝手に思い描き、系統立てて納得し、波乱に満ちたゴッホの生涯を「そりゃそうだろうな」といちいち納得してきたわけですから、もしその「最期」に「ごめんね」の修正が生ずるとなると、「我がゴッホの生涯」のそもそもの筋立てのアチコチに綻びが生じ、狂気の為せるワザと理解した数々の「常識」が、根底から覆されてしまうに違いないからで、こんなちゃぶ台返しを喰らったら誰だって「あられもない叫び声」のひとつやふたつは上げようというものです、少しも不思議な話なんかではありません。

精神を病み、錯乱し、激昂の果てに卒倒し、なにもかも分からなくなる、その狂気のなかで他人に危害を加える虞れだってないわけじゃない、そういう発作の間隔がだんだん短くなっていく不安と、実際の深刻な病状の進行を恐れながらも、ゴッホがどうにかこの世界とつながり精神の安定を保てたのは、夢中になって絵を描いているときだけ(絵を描くことだけが、彼にとって唯一残された、社会とつながっていられる「正常な部分」)だったというあの従来の「理解」はどうなってしまうのでしょうか。

そして、その自身の「社会への楔」のような絵を描く生活に専念できたのは(ゴッホにとってそれは死活問題です)、弟・テオから生活費全般の援助を受けているからで、しかし、描き続ける絵は一枚も売れず、画家として一向に世間から見向きもされない(むしろ村人からはいつ凶暴化するかもしれない精神病の発作を恐れられ、忌避と迫害にあって孤立している状況)その孤独と惨憺たる失意のなかで、ゴッホは、弟テオや、僅かながらも自分のことを好意的に思ってくれる周囲の人たちにこれ以上の迷惑はかけられないと「絶望の果ての自殺」を選んだのだという、きわめて納得しやすい、それっぽいストーリーを僕たちは長い間教え込まれ信じてきました、そう信じてきた者にとって、突如、アレは悪ガキどもにからかわれたすえの「銃の暴発による過失的事故死」だったんだよ、自殺なんかじゃないからねといまさら言われても、「へえ、そうだったんですか」とそう簡単に受け入れられるわけもないし、その戸惑いをどこに持っていけばいいのか呆然とするしかありません。

しかし、この戸惑いが、なにも自分ひとりの思い過ごしでも何でもないことが、すぐに分かりました。

この「永遠の門 ゴッホの見た未来」に対する簡単明瞭にして的確な感想をYahooで見つけたのです。

いわく

「やっぱりねえ、このゴッホには狂気が足りない。ほぼない。それは俺にとってのゴッホじゃない。」ですって。

そりゃそうですよ、このコメントに出会ったとき、そうなのだ、自分たちにとっては、「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」といえば、小林秀雄や高階秀爾の評論(それらに記された聖性は、あくまでもゴッホの自殺あってのものでした)、いやいや、なんといっても強烈で不動の印象を残したのは、ヴィンセント・ミネリ監督「炎の人ゴッホ」1956において狂気の画家ゴッホの鮮烈な個性を強烈に演じた名優カーク・ダグラスの「スタンダード基準」というものが僕たちの脳の奥深くには形成されていて、それが不動の固定観念として長きにわたりボクラを支配してきたことを、この「戸惑い」は、改めて教えてくれたように思います。

ゴッホにとって絵を描くことは、まさに生きることと同義で、それを修行僧のように禁欲的にいずれの道も突き詰めることを厳しく自らに課し、また他人にも同じように道義的に求めたためにうるさがられ敬遠され、それを自分に対する痛切な裏切りと感じて絶望し、孤立し、自分でもどうにも制御できない強烈な個性と狂気を見事に演じたカーク・ダグラスは、まさに「ゴッホ・スタンダード」に値する無比の演技だったと思いますし、なによりも俳優カーク・ダグラス自身にとっても、アカデミー賞主演男優賞受賞にもっとも近づいた(残念ながらノミネートどまりでしたが)名演だったと思います。

このほかにカーク・ダグラスが主演男優賞にノミネートされた作品といえば、「チャンピオン」1949と「悪人と美女」1952があげられますが、自分としては、それに先立つビリー・ワイルダー監督の「地獄の英雄」1951とウィリアム・ワイラー監督の「探偵物語」1951の強烈な印象が捨てがたく、なによりもまずこの2作品をあげないわけにはいきません。

しかし、いずれにしても、この時期の演技が、この俳優にとってのピークの時期であったことは明らかで、そう考えると、こうしたすべての演技の頂点に結実したのが、この「炎の人ゴッホ」という作品だったといえないわけではないと感じた次第です。

しかし、実際は、これは単なる推測にすぎませんが、同時代的・リアルタイムでこれらのカーク・ダグラスの演技を身近で継続して見続けたアカデミー会員にとって、その印象は、「相も変わらぬマンネリ化した一本調子」の過剰な演技しかできない役者と決めつけられ、そのほかの繊細な演技などできないのでは、みたいなマイナスの評価をされた結果、「主演男優賞」は遠のき、彼にとってまたとない好機を逸してしまったのではないかと、つい邪推してしまいました。

いつの間にか、話がつい横道に逸れてしまいました、「ゴッホの事故死説」に戻しますが、この映画が描く「ゴッホの事故死説」にどうしても納得できない自分は、この映画を見たあと、ネットで関連の情報を検索し、興味深いyou tube(かつてのテレビ番組をアップしたものみたいです)と一冊の新書版に到達することができました。

新書版の方は、小林利延という人の書いた「ゴッホは殺されたのか」(朝日新書、2008.2.28.1刷)という幾分遠慮がちに「ゴッホ殺人説」を幾つかの項目を立てて論証したもので、読んでみると、「あるいは、そうかもしれない」と思わせるものがなくはありませんが、やはりそれらの点をつなぐためには、ゴッホが頼りにした弟テオやその奥さんのヨハンナ、そして限られていたとはいえ数少ない友人たちまでも「悪意ある人々」と決めつけなければ、どうにも先に進めないような無理のある強引な「論証」なので、自分にはもうひとつ納得できないものが残りました。

そのうえでyou tubeにアップされた「テレビ番組」なるものを見てみたのですが、どうもこの番組自体、先述した新書版を参考にして製作された番組のようで(ときおりフランス現地の学者やご当地の役人や関係者の証言というものも挿入されています)、スキャンダラスな部分だけがヤタラ誇張された、もうほとんど妄想の暴走という域を脱していない代物という印象を受けました。

この番組によれば、ゴッホの死について、従来の「自殺説」のほか、当初から「他殺説」や「決闘による死」などというとんでもないものまであって、そのなかに「子供が誤射してゴッホにあたった」というのもあり、映画はこの説によって作られたのだなということが分かりました。

一方、「他殺説」をとるこの番組は、ゴッホを銃撃した犯人は、なんと生活に行き詰った弟・テオの仕業だと結論付けているのです、「やれやれ、そこまでいうの!?」という感じですが、よく聞いてみればまんざら理由なきとしないものは、確かにあるのかもしれません、兄・ゴッホの作品の展示に固執したテオは、雇い主から、なぐり描きとしか見えないゴッホの絵など売れないことを理由に、ついに画廊を解雇されます。もはや兄の作品を世間の人の目に触れさせることが出来なくなったばかりか、これからは兄への仕送り150フランという金も捻出できなくなったことに加えて、子供が病気になり家族もバラバラになってしまうという悲嘆と絶望のなか、思い余って、ついに「こうするしかない」と意を決したテオは、兄・ゴッホを撃ちに銃を携えてオーヴェールに出かけて行ったというのです。

しかし、番組としても、そこは兄弟の情愛というものを無視できなかったとみえて、テオがいきなりゴッホに「ズドン」ではなく、絵を描いているゴッホの至近距離まで近づいたときに、やはり気後れをおこし、実行を躊躇して揉み合っているうちにハズミで銃を暴発させたという設定になっていました。

自分という存在が弟の生活をこんなにも荒廃させ、心理的にここまで追い詰めてしまったのかと痛恨の思いに叩きのめされた兄・ゴッホは、自らの罪と、弟の苦衷のすべてを察し、血の出る傷口を押さえながら「これでいいんだ、お前に罪はない、早く逃げろ」と弟を現場から遠ざけたあと、弟の逃走の時間稼ぎをするためにゴッホはいろいろと小細工を弄したというのが、ここに「いわゆる謎」としてあげられたものだと思います。

この「自殺」と断定するには、どうにも疑わしい「いわゆる謎」というのを挙げてみますね。

・自らを撃ったとされる場所が、いまだ特定されていない。
・当のピストルが見つかっていない。
・右利きの人間(ゴッホは右利き)が自分自身を撃ったにしては、不自然な角度からの銃創である。
・関係者の証言が食い違っている。
・事件発生から死ぬまでの不自然な空白の時間がある。

これらすべてが自分以外の者が撃ったことの証しで、そして弟を逃がす時間稼ぎのための行為だったとの説明があって、「だから、兄ゴッホの意を受け、そして負い目もあったテオも妻のヨハンナも、ゴッホの死を狂気の自殺とあえて喧伝したうえで、ゴッホの生涯と死を天才伝説に変えることを使命と考えた」と結論づけています。

そして、その弟・テオもまた、半年を経ずして狂気を発し、精神病院において兄を追って死んでいったことも、「その線」でいくらでも説明できるとしています。

そのほか、かの「ゴッホの耳切り事件」にも驚くべき説明が付けられていました。

貧に窮していたゴーギャンがゴッホの誘いを受けて共同生活を始めたのは、あくまでも生活費の補助を受けられる打算からにすぎず、もともと金に細かいゴーギャンと、金には無頓着なゴッホとでは気性が合うわけもなく、恵まれたゴッホの生活を嫉妬・軽蔑したゴーギャンとは、早晩喧嘩別れすることは目に見えていて、芸術上の意見の差(写実とイメージ)などは、あとから付随したものにすぎないとして、そのうえで「ゴッホの耳切り事件」の説明がありました。

アルルの田舎の人びとの偏屈さと意地の悪さにうんざりしたゴーギャンが、いよいよパリに去ることをゴッホに伝え、それをどうにか押しとどめようとするゴッホとの間でこぜりあいが起こります。哀願し縋りつくゴッホを振り払うゴーギャン、なおも激昂してわけの分からなくなったゴッホが剃刀を振りかざして迫ってくる姿に危険を感じたゴーギャンは、防衛のために手にしたサーベルでゴッホの剃刀を振り払おうとしたとき、はずみでゴッホの耳を切ってしまったというのです。

もともとサーベルを扱うのはゴーギャンの趣味で、日ごろから持ち歩いていたといわれていて、「本当かな」という気もしないではありませんが、それにしても、ここでのゴーギャンの人間性については、品性下劣のイカサマ野郎などとボロカスに言われてしまっています。

結局、「ゴッホの耳切り」はサーベル男・ゴーギャンの仕業で、ゴッホを傷つけた後、口を閉ざして逃げたのだと説明されています。そして、後年、厚かましくもイケシャアシャアと「ゴッホとの思い出」などインタビューに答えてもっともらしいコメントを残していると若干揶揄されていました。

さて、ここまでいろいろな事例(ガシェの贋作の件は端折りました)を列挙してみたのですが、ゴッホに関わった他の人たちの人間性は明確なイメージとして浮かび上がり、それぞれ思い描くことができるのに、皮肉なことにゴッホ本人のイメージが、あの「炎の人・カーク・ダグラス」ほどには、どうしても湧いてきません。

なぜでしょうか。

この映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」は、日曜日の午後9時、wowowで小山薫堂と信濃八太郎がMCを務めている「W座からの招待状」において鑑賞しました。

この時間帯でアップされる映画は、自分的に最低限は「見ておくべき映画」という位置づけで楽しみにしており、それなりに見ごたえのある映画が多く、しかも小山薫堂と信濃八太郎のふたりの「やり取り」に魅せられ、この時間帯だけは都合をつけて見るようにしています。

放映前と放映後に二人が上映された映画についてささやかな感想を述べあうのですが、一見弱々しい信濃八太郎の柔らかなコメントにすごく惹かれています。実に含蓄に富んでいて、一言一言がとても刺激的で、彼の一言で、いままでも多くのイメージの広がりと「啓示」を貰いました。

実際のところ、この映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」も、「ウィレム・デフォーの好演」というだけでは、きっと「是非とも見よう」とは多分思わなかったかもしれません。ましてや、作品の感想などを書いてみようとまでは思わなかったはずです。

今回、信濃八太郎はこんなことを発言していました。

「ゴッホという人は、どんな目に遭っても、そのことについて他人には決して何も言わなかった人だったそうです」と。

このひとことで、なんだか視界が一挙に開けた感じがしました、ゴッホの人間性が具体的に理解できました。

この映画のなかでも、野外で絵をかいていたゴッホが子供たちに揶揄われ、「変な絵だ」と侮られ、囃され、罵られ、書きかけた絵に悪戯をされるという屈辱的な場面がありました。

ゴッホは怒り、逆上します、夜の町でも悪ガキたちに付きまとわれ、石を投げつけられ、嘲笑をあびます、

「この薄汚いキチガイ野郎!! お前の居場所なんかどこにもないぞ」と。

その子供たちを捕らえて懲らしめようとすると、今度は親たち・大人たちが関わってきて、さらに迫害される、され続ける、

そのことをゴッホは弁解も訴えも主張も説明すらもすることなく、じっと我慢します。

それは、頭のオカシイことくらいは自分でもよく分かっていて、自分などゴミ同然の無価値で、この世から追い立てられても仕方のない厄介者の定めだと受け入れ・諦めているからだと思います。

この世の中の片隅で、目立たないように絵を描くささやかな場所が与えられたことに感謝し、そこで目立たないようにひっそりと生きていくことだけが、自分が生きていられるかろうじての「場所」なのだと。

「ああ、そうか」と突然、この映画のなかで思い当たる傑出したシーンが浮かびました。

映画の後半、サン=レミ精神病院の寒々とした廊下で、マッツ・ミケルセン演じる聖職者とゴッホが面談する場面です。


拘束衣を解かれたゴッホは、聖職者から椅子に掛けるように促されます。

聖職者「坐って私と話をしよう。入院した理由は、分かっているかね」
ゴッホ「あなたと話すのは、治療のためか。それとも、僕が病院を抜け出したからか」
聖職者「あのとき、道で何があった」
ゴッホ「覚えてない」
聖職者「病院を抜け出したね」
ゴッホ「アルルに行きたかったんだ」
聖職者「アルルの住民は君を追放する嘆願書に署名したんだよ」
ゴッホ「知っている」
聖職者「子供に性的虐待をしたのか」
ゴッホ「一度もしてない」
聖職者「耳を切って娼婦に渡したのは本当か」
ゴッホ「ギャビーは娼婦じゃない」
聖職者「なぜそんなことをした」
ゴッホ「僕の友人に耳を渡して欲しかったんだ」
聖職者「彼女はそれを渡したのか」
ゴッホ「知らない」
聖職者「変わった頼みごとだな。怒りを感じることはあるか」
ゴッホ「そりゃ、あるさ」
聖職者「そのときはどうする」
ゴッホ「外に出て、草の葉やイチジクの枝を見て気を静める」
聖職者「効果はあるのか」
ゴッホ「もちろん。神は自然であり、自然は美しい」
聖職者「君が絵を描く姿を見た。画家だと聞いたが」
ゴッホ「僕は画家だ」
聖職者「なぜそう言える、絵の才能があるのか」
ゴッホ「ある」
聖職者「どこから授かった。神から画才を与えられたのか」
ゴッホ「神から授かった唯一の才能だ」
聖職者「この絵は、君が描いたのか。これは絵なのか」
ゴッホ「もちろんだ」
聖職者「答えてくれ、なぜ自分を画家だというのか」
ゴッホ「絵を描くからだ。描かねばならないからだ。僕はいつも画家だった」
聖職者「天性のか」
ゴッホ「そうだ」
聖職者「なぜ分かる」
ゴッホ「描くことのほかは、何もできないからだ」
聖職者「才能を与えられたから、これが描けたというのか」
ゴッホ「そうだ」
聖職者「君には分からないのか、この絵をよく見るがいい。傷つける気はないが、この絵は、なんというか、不愉快だ、醜い」
ゴッホ「なぜ神は、僕に醜いものを描く才能を与えたのだろう。ときどき、すべてから遠く離れていると感じる」
聖職者「絵を買う人はいるのか」
ゴッホ「いない」
聖職者「だから貧しいと」
ゴッホ「とても貧しい」
聖職者「生活はどうしてる」
ゴッホ「弟のテオがここの費用を払ってくれる、弟も裕福じゃないが」
聖職者「神は君を苦しめるために、才能を与えたのか」
ゴッホ「そうは思わない」
聖職者「ではどう思うのだ」
ゴッホ「ときどき考える、もしかしたら神は・・・」
聖職者「続けて」
ゴッホ「時間を間違えたのだと思う」
聖職者「間違えた?」
ゴッホ「未来の人びとのために、神は僕を画家にしたんだ」
聖職者「あり得ることだな」
ゴッホ「人生は種まきのときで、収穫のときではないという、描くことは美点であり、欠点でもある」
聖職者「神が間違いを犯したというのか」
ゴッホ「僕は自分がこの地上の追放者だと思っている。イエスはこう言われた、目に見えぬものに心を留めよ。イエスも生きている間はまったく無名だった」
聖職者「なぜ、それを知っている」
ゴッホ「父は牧師で僕は宗教と関りが深い」
聖職者「それは本当か 君は牧師なのか」
ゴッホ「そうだ、自分が画家だと気づく前は神に仕えようと思っていた。だから勉強したのだ」
聖職者「福音書に詳しいのか」
ゴッホ「そればかりじゃない、イエスが世に見出されたのは死後30年か40年のことだ。生前は話題にも上がらなかった。百人隊長が妻に向けて『イエスという名の男がエルサレムで磔刑になった』と書いた手紙も存在しない」
聖職者「君を退院させるか判断するのが私の仕事だ」
ゴッホ「官邸のイエスを思い出す」
聖職者「なんだって、どの官邸だ」
ゴッホ「ピラト総督のさ。聖書を信じるなら、ピラトはイエスの磔刑を望まず、望んだのは民衆だ」
聖職者「その問題は別の機会に話し合おう」
ゴッホ「ピラトの意に反しイエスは自分の言葉で有罪になった。だから僕もまた自分の言葉に気をつけねば」
聖職者「よく分かるよ。君がよければ私に会いにきてくれ。また話がしたいな。レー医師が待っている。君を引き取りに来た」
ゴッホ「出ていけるのか」
聖職者「するべき治療は尽くした」
ゴッホ「治っているといいが」
聖職者「私もそう願うよ」

こうして会話をたどっていくと、ゴッホが牧師であろうとした過去を知った時から、聖職者のゴッホに対する態度が好意的に一変するのが分かりますが、その直前、子供の性的虐待が疑われる狂人が「画家」でもあることを知った聖職者は、なぐり描きの理解不能なゴッホの絵を見てこんなふうに話しています。

聖職者「君には分からないのか、この絵をよく見るがいい。傷つける気はないが、この絵は、なんというか、不愉快だ、醜い」

ゴッホ「なぜ神は、僕に醜いものを描く才能を与えたのだろう。ときどき、すべてから遠く離れていると感じる」

ゴッホ自身の口から、自分が描いた絵を前にして、果たして、みずからの才能を天から与えられたと言いつつ、それを「醜いもの」を描く才能などとあえて言ったりするだろうか。それとも聖職者がこの絵は「不愉快だ、醜い」と言ったから、その言葉をそのまま受けて、言葉としてはそのまま使いながら、いわば括弧付きの引用のかたちで聖職者に返しただけで、ゴッホ本人は、もっと別の意味を込めて言ったのではないか、まさか自分の才能を「醜いものを描く才能」なんて本気で思ったりするだろうか、そもそも「ひまわり」や「糸杉と星の見える道」は、醜いものとして表現されたものなのか、考えているうちにすっかりわけが分からなくなってしまいました。


(2018英仏米)監督脚本・ジュリアン・シュナーベル、製作・ジョン・キリク、脚本・ジャン=クロード・カリエール、脚本編集・ルイーズ・クーゲルベルク、撮影監督・ブノワ・ドゥローム、音楽・タチアナ・リソヴスカヤ、編集・ジュリアン・シュナーベル、美術・ステファン・クレッソン、衣装デザイン・カラン・ミューレル=セロー、製作総指揮・シャルル=マリー・アントニオーズ、ムーラッド・ベルケダール、ニック・バウアー、ジャン・デュアメル、フランソワ=ザヴィエ・デクレーヌ、ニコラ・レルミット、ディーパック・ナヤール、マルク・シュミットハイニー、トーステン・シューマッハー、カール・シュポエリ、クレア・テイラー 、 フェルナンド・サリシン 、マキシミリアン・アルヴェライズ、製作会社・リバーストーン・ピクチャーズ、イコノクラスト
出演・ウィレム・デフォー(フィンセント・ファン・ゴッホ)、ルパート・フレンド(テオ・ファン・ゴッホ)、マッツ・ミケルセン(聖職者)、マチュー・アマルリック(ポール・ガシェ医師)、エマニュエル・セニエ(マダム・ジヌー)、オスカー・アイザック(ポール・ゴーギャン)、アンヌ・コンシニ、ニエル・アレストリュプ(狂人)、ヴラジミール・コンシニ(フェリックス・レイ医師)、アミラ・カサール(ヨハンナ・ファン・ゴッホ)、ヴァンサン・ペレーズ(責任者)、アレクシス・ミシャリク(タンバリン)、ステラ・シュナーベル(ギャビー)、ロリータ・シャマー(道端の少女)、ディディエ・ジャレ(精神病院の看守)、ルイ・ガレル(アルベール・オーリエ評論朗読)、


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