先週末、テレビ番組表を見ていたら、NHKのBSプレミアムで「映像の世紀」を放送するとあったので、忘れないようにカレンダーにメモしておきました、そして、その時間にしっかりチャンネルを合わせて、逃さず見ることができました、「映像の世紀」は、自分の数少ない愛聴番組のひとつです。
この「映像の世紀」、もう第21集ということで、ずいぶん続いているものだなあと、ただただ感心しています。
タイトルは、「太平洋戦争・熱狂から絶望の1346日」ということで、なるほど、なるほど、太平洋戦争開戦の日に引っ掛けた企画という訳ですね。タイムリーというのも、ちょっと変な言い方ですが。
しかし、こうして見てみると、戦時中の外国の報道機関などが撮影したフィルムに比べると、保存状態とか迫力など、どうしても日本のフィルムのほうが見劣りしてしまうのは、戦時下の日本のシステムの不備とか物資不足ということもあったでしょうが、やはり、軍部からの監視とか規制がきつくて、絵作りの工夫どころではなかったことが画面の単調さ(見張られている緊張感?)からも分かります。
それになによりも差し迫った状況下(どれも緊迫した事件の現場なわけですから)での撮影という緊張感もあったでしょうが、どの場面も「きをつけ!! カシラみぎ!!」みたいなカクカクした感じがどうしてもあり、不謹慎な言い方ですが、面白みに欠けるというのが率直な感想です。
それもまあ、仕方ありません、内容というのが、日本が憑かれたように破滅的な戦争にヒステリッリに入れ込んで、なだれを打って敗戦に向かっていく相当悲惨な戦時ドキュメントなのですから、とうぜんヤタラに重苦しくなってしまうのですが、それにしても、古いフィルムを見ることのできる機会は、とにかく貴重なので、膝を出してしっかりと見ることにしています。
それに、自分が、この「映像の世紀」を見逃さないようにしているもうひとつの理由というのがあります、当時作られためずらしい映画の1シーンが唐突に挟み込まれたりすることがあるのです。
少しまえに、これは再放送ですが、毎週月曜日の夕方に、この「映像の世紀」シリーズの一連の旧作を順次放送していて、そのなかの1本に「運命の恋人たち」という作品がありました。なかなか感動的な作品でした。
だいぶ時間が経過しているので、収録されている幾つかのエピソードを正確な順序で記憶できてないかもしれませんが、思いつくままにざっとあげると
☆人妻との禁断の恋のために英国王エドワード8世が王位を棄てた下した決断とか、
☆伝説のギャング・カップル、ボニーとクライドの逃亡と壮絶な最期(絶望のすえの自暴自棄な失踪的人生を大衆は英雄視したそのメルヘンを全否定するかのように権力はこのカップルに数百発の弾丸を撃ち込みました)
☆ナチス宣伝大臣ゲッベルスと妻マグダの仮面夫婦(ヒトラーに捧げられたマグダの秘められた愛は、自分の命と子供の命も道連れにすべてヒトラーに捧げています)とか、
☆女優グレース・ケリーとモナコ大公のシンデレラストーリー(とは裏腹の父親から拒絶された痛手から終生逃れられなかった孤独な少女グレースの悲惨な人生)とか、
こんな感じで、いろいろな愛情の形を紹介したあとで、最後に
☆エルトン・ジョンの同性愛結婚が紹介されていました、性的少数者の新たな時代を切り開いたラブストーリーというわけですね。つまり、現在、さかんに話題になっているLGBTを取り上げて、「新たな時代を切り開く」愛の形を取り上げているのですが、ここで1919年製作の1本のドイツ映画が紹介されていました。
1919年にすでにLGBTについての映画が撮られていたなんて、まずは、その先見性に驚きました。へえ~、すごいじゃないですか。
その映画「他の人とは違う Anders als die Andern」について少し調べました。以下に、貼っておきますね。
実は、そのあと、インターネットで「Anders als die Andern」(映画)と入力して検索した結果、作品そのものにヒットして、ちゃっかり映画の方も鑑賞してしまいました。
すごい時代になったものです。
(1919リチャード・オズワルド=フィルム・ベルリン)サイレント映画
監督脚本・リチャード・オズワルド、脚本・マグヌス・ヒルシュフェルト、撮影・マックス・ファスベンダー
出演
コンラッド・ヴェイト(ヴァイオリン奏者パウル・ケルナー)、
フリッツ・シュルツ(美少年クルト・シベルス)、
ラインホルト・シュンツェル (脅迫者フランツ・ボレック)、
アニタ・バーベル (クルトの姉エルゼ)、
マグヌス・ヒルシュフェルト(性医学精神科医師)、
カール・ギース(ヤング・ポール・ケルナー)、
エルンスト・ピツハウ(姉妹の夫)、
ヴィルヘルム・ディーゲルマン(シベルズの父)、
ヘルガ・モランデル(ヘルボーン夫人)、
レオ・コナード(ケルナーの父)、
イルセ・フォン・タッソ=リンド(キルナーの妹)、
アレクサンドラ・ウィレグ(ケルナーの母)、
クレメンタイン・プレスナー(シベルズの母)、
≪解説≫ ドイツ本国では公開翌年の1920年に上映禁止指定を受け、現存する50分版はシナリオとフィルム断片、スチール写真で欠損した部分を補ったもの(全体の1/3相当の部分が欠損していると思われる)。
この作品は、今日では映画史上の里程標的作品との評価(同性愛に対する最初の同情的な映画)を受けており、名高いアメリカの古典映画復刻レーベル、キノ・ヴィデオ(Kino Video)社から2003~2004にかけてリリースされた「Gay-Themed Films of The German Silent Era」シリーズ3本のうちの1本として『Different From the Others』の英題で、初DVD化された。
他の2本は、カール・Th・ドライヤー監督作品『Michael(Ger: Michael)』1924、ウィリアム・ディターレ監督作品『Sex in Chains(Ger: Geschlecht in Fesseln)』1928。
リヒャルト・オズヴァルド(1880-1963)は、1914年監督デビューし、ヒットラー政権を避けてハリウッドに逃れ1949年までに生涯114本の監督作がある。
本作は、映画史上初の同性愛者映画(男性同性愛)であり、しかも同性愛問題専門の性医学精神科医マグヌス・ヒルシュフェルトを招いて脚本を監督と共作し、映画内でも性医学者自身が本名で登場して講演会で「同性愛は精神病でも異常でもない」と説く、という本格的に同性愛の認知のための啓蒙を意図した映画であるが、カミングアウトした主人公が社会的な地位を失い自殺して終わるという悲劇。
主演はドイツのサイレント時代を代表した俳優コンラート・ファイト(1893-1943)で、オズヴァルド自身の独立プロダクション(監督デビュー5年で相当な地位をドイツ映画界で築いていた証左)による本作は、タイトル『Anders als die Andern: 175』と真っ向から現行の刑法175条の違憲性を訴えた社会派抗議映画である。
この刑法175条は、同性愛を鶏姦(肛門姦)や獣姦と同視した禁止条令で1872年に施行されて1994年に廃止されるまで機能し、この法律によって罰せられ収監された囚人たちはピンクの逆さ三角形の印のついた囚人服を着せられて禁固刑に処せられた。
この刑法はワイマール時代を経て東西ドイツ統一からさらに数年経たないと廃止されなかったほどの宗教的に強力な社会通念に支えられていたので、この挑発的な映画が公開翌年に上映禁止されたのも当然なのか、そういう面からなら日本人には到底理解不能。
この映画では、俳優のコンラート・ファイトが、映画史上でおそらく最初に同性愛の人物を演じた。
愛人から恐喝を受けたヴァイオリニストは、幾度かの脅迫に屈したのちに金銭をわたすのを続けるのをやめてカミングアウトするが、その結果、彼のキャリアは破綻し、自殺へと追いこまれるというストーリー。
監督オズヴァルド(ユダヤ系)も主演のコンラート・ファイトもハリウッド亡命者になった。
「頽廃芸術禁止」をかかげたナチス政権下では、ファイトの主演した1920年代の作品は「頽廃芸術」とされ上映禁止指定を受けた
≪ストーリー≫
映画の冒頭には刑法第175条の解説と、それが数千人の人権と運命を踏みにじってきた悪法であるかが説かれて本編が始まります。
人気名ヴァイオリン奏者パウル・ケルナー(コンラート・ファイト)はコンサートに感激して弟子入りしてきた美少年クルト(フリッツ・シュルツ)を愛しながら、世間には同性愛者であることを隠しています。
《パウルはチャイコフスキー、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、オスカー・ワイルド、ルドヴィッヒII世ら同性愛に呪われ迫害された芸術家の夢にうなされ、家族からも見合い結婚を勧められますが拒否します。》
ですが仲睦まじくクルトと腕を取り合って散歩しているのを悪党ボレック(ラインホルト・シュンツェル)に目をつけられて脅迫され、口封じのための金をくり返し要求されるようになります。
《パウルはクルトへの個人授業を避けるようになり、パウルに心酔するあまり気を病むクルトを心配した家族はクルトの姉エルゼ(アニタ・バーベル)をパウルに訪問させ、繊細で優しいエルゼはパウルを愛するようになります。》
学生時代、同寮の親友との同性愛関係が教師に発覚し、退学処分になった過去(回想で描かれます)を持つパウルは苦しみ、同性愛専門の精神科医(マグヌス・ヒルシュフェルト、本作の企画・脚本家の性医学精神科医師)の受診を受け、エルゼを伴って医師の講演会を聴講します。
同性愛者は男女問わず性の第三症候であり、それ自体は異常でも精神病でもない、と数々の実例を上げて説く医師の講演と、《パウルを理解して受け入れ、恋人にはなれなくても最愛の友人になりますと励ましてくれるエルゼ》にパウルは奮起し、脅迫者ボレックにこれ以上脅すなら訴えると迫ります。
ボレックはせせら笑い、自分を訴えるならパウルを刑法175条違反で訴え返すと脅迫しますが、覚悟の上でパウルはボレックを訴え、裁判でボレックは脅迫罪で有罪になりますが、パウルも自分自身を同性愛者と認めたことで175条違反により禁固1週間の判決が下されます。
《パウルは遂に自分が同性愛に呪われた芸術家の烙印を捺されたのに絶望し、クルトは家出して行方不明になり酒場の流しのヴァイオリニストになります。》
刑期を終えたパウルは世間からスキャンダラスな同性愛者として白眼視される存在となり、エージェントからコンサートツアーの中止と契約の破棄を伝える文書が届きます。
失意のパウルは父からの「汚名は自らの手で濯ぐべし」との絶縁の手紙を受け取り、服毒自殺を遂げます。
《パウルの葬儀に姿を現したクルトとエルゼはパウルの一族から敵視されますが、エルゼはパウルを死に追いやったのはあなたたちです、とパウルの一族を激しく糾弾します。クルトは自分もパウルの生き方を選ぶ、と姉に告げて》映画は終わります。
この「映像の世紀」、もう第21集ということで、ずいぶん続いているものだなあと、ただただ感心しています。
タイトルは、「太平洋戦争・熱狂から絶望の1346日」ということで、なるほど、なるほど、太平洋戦争開戦の日に引っ掛けた企画という訳ですね。タイムリーというのも、ちょっと変な言い方ですが。
しかし、こうして見てみると、戦時中の外国の報道機関などが撮影したフィルムに比べると、保存状態とか迫力など、どうしても日本のフィルムのほうが見劣りしてしまうのは、戦時下の日本のシステムの不備とか物資不足ということもあったでしょうが、やはり、軍部からの監視とか規制がきつくて、絵作りの工夫どころではなかったことが画面の単調さ(見張られている緊張感?)からも分かります。
それになによりも差し迫った状況下(どれも緊迫した事件の現場なわけですから)での撮影という緊張感もあったでしょうが、どの場面も「きをつけ!! カシラみぎ!!」みたいなカクカクした感じがどうしてもあり、不謹慎な言い方ですが、面白みに欠けるというのが率直な感想です。
それもまあ、仕方ありません、内容というのが、日本が憑かれたように破滅的な戦争にヒステリッリに入れ込んで、なだれを打って敗戦に向かっていく相当悲惨な戦時ドキュメントなのですから、とうぜんヤタラに重苦しくなってしまうのですが、それにしても、古いフィルムを見ることのできる機会は、とにかく貴重なので、膝を出してしっかりと見ることにしています。
それに、自分が、この「映像の世紀」を見逃さないようにしているもうひとつの理由というのがあります、当時作られためずらしい映画の1シーンが唐突に挟み込まれたりすることがあるのです。
少しまえに、これは再放送ですが、毎週月曜日の夕方に、この「映像の世紀」シリーズの一連の旧作を順次放送していて、そのなかの1本に「運命の恋人たち」という作品がありました。なかなか感動的な作品でした。
だいぶ時間が経過しているので、収録されている幾つかのエピソードを正確な順序で記憶できてないかもしれませんが、思いつくままにざっとあげると
☆人妻との禁断の恋のために英国王エドワード8世が王位を棄てた下した決断とか、
☆伝説のギャング・カップル、ボニーとクライドの逃亡と壮絶な最期(絶望のすえの自暴自棄な失踪的人生を大衆は英雄視したそのメルヘンを全否定するかのように権力はこのカップルに数百発の弾丸を撃ち込みました)
☆ナチス宣伝大臣ゲッベルスと妻マグダの仮面夫婦(ヒトラーに捧げられたマグダの秘められた愛は、自分の命と子供の命も道連れにすべてヒトラーに捧げています)とか、
☆女優グレース・ケリーとモナコ大公のシンデレラストーリー(とは裏腹の父親から拒絶された痛手から終生逃れられなかった孤独な少女グレースの悲惨な人生)とか、
こんな感じで、いろいろな愛情の形を紹介したあとで、最後に
☆エルトン・ジョンの同性愛結婚が紹介されていました、性的少数者の新たな時代を切り開いたラブストーリーというわけですね。つまり、現在、さかんに話題になっているLGBTを取り上げて、「新たな時代を切り開く」愛の形を取り上げているのですが、ここで1919年製作の1本のドイツ映画が紹介されていました。
1919年にすでにLGBTについての映画が撮られていたなんて、まずは、その先見性に驚きました。へえ~、すごいじゃないですか。
その映画「他の人とは違う Anders als die Andern」について少し調べました。以下に、貼っておきますね。
実は、そのあと、インターネットで「Anders als die Andern」(映画)と入力して検索した結果、作品そのものにヒットして、ちゃっかり映画の方も鑑賞してしまいました。
すごい時代になったものです。
(1919リチャード・オズワルド=フィルム・ベルリン)サイレント映画
監督脚本・リチャード・オズワルド、脚本・マグヌス・ヒルシュフェルト、撮影・マックス・ファスベンダー
出演
コンラッド・ヴェイト(ヴァイオリン奏者パウル・ケルナー)、
フリッツ・シュルツ(美少年クルト・シベルス)、
ラインホルト・シュンツェル (脅迫者フランツ・ボレック)、
アニタ・バーベル (クルトの姉エルゼ)、
マグヌス・ヒルシュフェルト(性医学精神科医師)、
カール・ギース(ヤング・ポール・ケルナー)、
エルンスト・ピツハウ(姉妹の夫)、
ヴィルヘルム・ディーゲルマン(シベルズの父)、
ヘルガ・モランデル(ヘルボーン夫人)、
レオ・コナード(ケルナーの父)、
イルセ・フォン・タッソ=リンド(キルナーの妹)、
アレクサンドラ・ウィレグ(ケルナーの母)、
クレメンタイン・プレスナー(シベルズの母)、
≪解説≫ ドイツ本国では公開翌年の1920年に上映禁止指定を受け、現存する50分版はシナリオとフィルム断片、スチール写真で欠損した部分を補ったもの(全体の1/3相当の部分が欠損していると思われる)。
この作品は、今日では映画史上の里程標的作品との評価(同性愛に対する最初の同情的な映画)を受けており、名高いアメリカの古典映画復刻レーベル、キノ・ヴィデオ(Kino Video)社から2003~2004にかけてリリースされた「Gay-Themed Films of The German Silent Era」シリーズ3本のうちの1本として『Different From the Others』の英題で、初DVD化された。
他の2本は、カール・Th・ドライヤー監督作品『Michael(Ger: Michael)』1924、ウィリアム・ディターレ監督作品『Sex in Chains(Ger: Geschlecht in Fesseln)』1928。
リヒャルト・オズヴァルド(1880-1963)は、1914年監督デビューし、ヒットラー政権を避けてハリウッドに逃れ1949年までに生涯114本の監督作がある。
本作は、映画史上初の同性愛者映画(男性同性愛)であり、しかも同性愛問題専門の性医学精神科医マグヌス・ヒルシュフェルトを招いて脚本を監督と共作し、映画内でも性医学者自身が本名で登場して講演会で「同性愛は精神病でも異常でもない」と説く、という本格的に同性愛の認知のための啓蒙を意図した映画であるが、カミングアウトした主人公が社会的な地位を失い自殺して終わるという悲劇。
主演はドイツのサイレント時代を代表した俳優コンラート・ファイト(1893-1943)で、オズヴァルド自身の独立プロダクション(監督デビュー5年で相当な地位をドイツ映画界で築いていた証左)による本作は、タイトル『Anders als die Andern: 175』と真っ向から現行の刑法175条の違憲性を訴えた社会派抗議映画である。
この刑法175条は、同性愛を鶏姦(肛門姦)や獣姦と同視した禁止条令で1872年に施行されて1994年に廃止されるまで機能し、この法律によって罰せられ収監された囚人たちはピンクの逆さ三角形の印のついた囚人服を着せられて禁固刑に処せられた。
この刑法はワイマール時代を経て東西ドイツ統一からさらに数年経たないと廃止されなかったほどの宗教的に強力な社会通念に支えられていたので、この挑発的な映画が公開翌年に上映禁止されたのも当然なのか、そういう面からなら日本人には到底理解不能。
この映画では、俳優のコンラート・ファイトが、映画史上でおそらく最初に同性愛の人物を演じた。
愛人から恐喝を受けたヴァイオリニストは、幾度かの脅迫に屈したのちに金銭をわたすのを続けるのをやめてカミングアウトするが、その結果、彼のキャリアは破綻し、自殺へと追いこまれるというストーリー。
監督オズヴァルド(ユダヤ系)も主演のコンラート・ファイトもハリウッド亡命者になった。
「頽廃芸術禁止」をかかげたナチス政権下では、ファイトの主演した1920年代の作品は「頽廃芸術」とされ上映禁止指定を受けた
≪ストーリー≫
映画の冒頭には刑法第175条の解説と、それが数千人の人権と運命を踏みにじってきた悪法であるかが説かれて本編が始まります。
人気名ヴァイオリン奏者パウル・ケルナー(コンラート・ファイト)はコンサートに感激して弟子入りしてきた美少年クルト(フリッツ・シュルツ)を愛しながら、世間には同性愛者であることを隠しています。
《パウルはチャイコフスキー、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、オスカー・ワイルド、ルドヴィッヒII世ら同性愛に呪われ迫害された芸術家の夢にうなされ、家族からも見合い結婚を勧められますが拒否します。》
ですが仲睦まじくクルトと腕を取り合って散歩しているのを悪党ボレック(ラインホルト・シュンツェル)に目をつけられて脅迫され、口封じのための金をくり返し要求されるようになります。
《パウルはクルトへの個人授業を避けるようになり、パウルに心酔するあまり気を病むクルトを心配した家族はクルトの姉エルゼ(アニタ・バーベル)をパウルに訪問させ、繊細で優しいエルゼはパウルを愛するようになります。》
学生時代、同寮の親友との同性愛関係が教師に発覚し、退学処分になった過去(回想で描かれます)を持つパウルは苦しみ、同性愛専門の精神科医(マグヌス・ヒルシュフェルト、本作の企画・脚本家の性医学精神科医師)の受診を受け、エルゼを伴って医師の講演会を聴講します。
同性愛者は男女問わず性の第三症候であり、それ自体は異常でも精神病でもない、と数々の実例を上げて説く医師の講演と、《パウルを理解して受け入れ、恋人にはなれなくても最愛の友人になりますと励ましてくれるエルゼ》にパウルは奮起し、脅迫者ボレックにこれ以上脅すなら訴えると迫ります。
ボレックはせせら笑い、自分を訴えるならパウルを刑法175条違反で訴え返すと脅迫しますが、覚悟の上でパウルはボレックを訴え、裁判でボレックは脅迫罪で有罪になりますが、パウルも自分自身を同性愛者と認めたことで175条違反により禁固1週間の判決が下されます。
《パウルは遂に自分が同性愛に呪われた芸術家の烙印を捺されたのに絶望し、クルトは家出して行方不明になり酒場の流しのヴァイオリニストになります。》
刑期を終えたパウルは世間からスキャンダラスな同性愛者として白眼視される存在となり、エージェントからコンサートツアーの中止と契約の破棄を伝える文書が届きます。
失意のパウルは父からの「汚名は自らの手で濯ぐべし」との絶縁の手紙を受け取り、服毒自殺を遂げます。
《パウルの葬儀に姿を現したクルトとエルゼはパウルの一族から敵視されますが、エルゼはパウルを死に追いやったのはあなたたちです、とパウルの一族を激しく糾弾します。クルトは自分もパウルの生き方を選ぶ、と姉に告げて》映画は終わります。