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「性的マイノリティ」の映画

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もうずっと以前の話ですが、映画関係の雑誌を定期購読していた時期もありましたが、しかし、それもすぐに止めてしまいました。

ときどき、なにかの切っ掛けで、そのときの惨憺たる心情みたいなものがふっと甦り、実に苦々しい気持ちに捉われることがあります。

カタログやチラシに書かれているコピーの丸写し、どうでもいいようなスターの噂話、あるいは同じ誤植を晒したままコピーしまくりの「あらすじ」を丸写ししただけの、ただの原稿料稼ぎにすぎないあの手の腹立たしい記事を幾ら読んでも、自分にはなんの果実ももたらさず、結局は読みたい記事にめぐり合えない失望と、ストレスだけが増していくという惨状をトコトン思い知らされたからでした。

どんなに感動した映画も、あの映画ライターという人種にかかると、なんだか自分が、どうでもいい映画にヤタラ感動しまくっている(「オレって、変なのか」みたいな)実に虚しい気分にさせられたものでした。

そのような見当違いな記事を読めば読むほど、苛立ちがどんどん募っていく、そんな最悪なウツの悪循環に陥ってしまったというのが、雑誌購読を止めた主な理由だったと思います。

それくらいなら日常的に読んでいる新聞記事のほうが、よっぽどマシで、自分の欲求が最低限満たされることに気がつき、それ以来、特に映画雑誌の講読は止めました、新聞記事だけで十分コトは足りますし、それで別段これといった不自由を感じているわけでもありません。

それに、「読みたい記事」がないのなら、いっそ自分で書いてしまおうと思い立ったのが、このブログを立ち上げた理由です。

だから、このブログは、自分にとって、いわば「実に嫌な気分に落ち込んだ」ことをバネにして思いついた副産物(読みたいものがないなら、自分で書く)みたいなものといえるかもしれません。

さて、このように、自分が映画の情報を仕入れるのは、若干の関係書籍を除けば、新聞記事だけなのですが、だからといって決して厳密な管理をしているわけではなく、気になった記事があると、ざっと傍線を引いて、畳んで本棚の隅に突っ込んでおく、そして、週末の空いた時間にそれをネタにして適当にブログに書き込むということを繰り返しているのが、ここのところの習慣です。

ただ、「書く」よりも「読む」ほうが余程ハカがいくので、現状は、かの畳まれ突っ込まれた新聞が、漫然と汚らしく書棚に溜まっていくという怠惰な惨状を晒していますが、しかし、そんなことではいけません、どんどん書かなければと決意を新たにして、その新聞の束のなかから、傍線を引いた当時のモチベーションが保たれたままの記事があるか、幾つもの記事を再度読み返しました。

あっ、ありました、ありました。これです、これ。

日経新聞2016.3.7夕刊の文化欄に掲載されていた「LGBT映画、共感呼ぶ現実感 普遍的な愛、繊細に」という記事です。

LGBTというのは、性的マイノリティのことで、ここのところ相次いで公開される三本の映画、アイラ・サックス監督の「人生は小説よりも奇なり」、トッド・ヘインズ監督の「キャロル」、トム・フーパー監督の「リリーのすべて」について解説した記事ですが、筆者は新聞社の編集委員ということなので、記事全体は無難な告知という体裁をとっており、批評にわたる部分だけ、映画批評家や映画館主から得たコメントを貼り付けるというカタチになっています。

しかし、実際は、「現実」はつねに、過激に遥か彼方を先行・疾駆しているのが常で、それを後追いしながら、どうやらそれらが市民権を得たらしい時期、社会的に定着・成熟したと看做していいような状況を受けて、そこでやっと映画は、おもむろに「理屈づける」作業を行って「世に問う」みたいなことになることが多いので、この「性的マイノリティ」問題も、この編集委員氏は、相次いで公開されるこの三本を提示することで、この問題がようやくスタート・ラインに立ったと判断し、このような記事を書くことを思いついたのだと思います。

しかし、ここに掲載されているコメントは、「批評」とはいっても「カイエ」みたいな攻撃的・好戦的な姿勢とは違い、いずれもおとなしめの「説明」程度のものにすぎません。

それにケチなどをつける積りは毛頭ありませんが、自分が感心したのは、この編集委員氏が、それぞれの作品を紹介したあとに付け足したちょっとした部分でした。

例えば、アイラ・サックス監督の「人生は小説よりも奇なり」の締めの部分には、こんなふうな書き足しがありました。

「家を失った高齢者の苦境を描き、2人の寄る辺なさを浮き彫りにする。うるさくて眠れないジョージや、甥の妻に疎まれるベンの姿は、上京して子供の家を転々とする小津安二郎『東京物語』の老夫婦を連想させる。一人ひとりは善き人なのに、その間に埋めがたい溝がある。そんな現実を冷徹に見つめ人生の哀歓を繊細に描き出す。」

この一文を読んだとき、なんだかとても嬉しくなって鳥肌がたってしまいました。

アメリカだ、日本だなどとこだわらず、たとえこの作品が、これから以後どのような運命を辿るとしても(簡単に忘れ去られてしまうか、人々の間で永遠に語り継がれて記憶されるか)、ともかく、この作品が、遠くに「東京物語」を意識しながら、世界の映画史上に生み出された作品であることを、まるでサルトルが木の根を見て存在の実体を突然意識できたような、そんな感覚に捉われたのでした。

あえていえば、どのような作品も、決して映画史からは自由になれないのだ、という感じでしょうか。

トッド・ヘインズ監督の「キャロル」には、こんなふうに書き足されていました。

「同性愛への抑圧を描きつつ、ラブストーリーとしての純度は高い。互いに惹かれあうさまを2人の視線で繊細に表現する手法は、成瀬三喜男を思わせる。」

そして、トム・フーパー監督の「リリーのすべて」では、「夫は、モデルとして女装したとき、自身の内に潜む女性に気づく。妻はこの絵で成功するが、夫の苦悩は深まる。妻は夫の本質を理解し、共に解決策を探る。運命に抗い魂の自由を求める2人の姿は、溝口健二作品にも一脈通ずる。」

こんなふうに映画史を少しだけ意識させられることによって、なんだか視野が広がり、とても豊かな感覚を持つことができました。

あくまで私見ですが、なにごとにつけても、映画に関する文章に限っては、すべからくこのようなものでなくてはなりません。

さて、もっと面白い記事はないかな? まだまだ物色してみますね。

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