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黒澤明は、早坂文雄を殺したか

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先週、wowowの番組表を眺めていたら、あるタイトルが目に飛び込んできました。

その活字だけが特別に輝いて、まるで乱舞しているように強烈に自己主張していました。

それが「天才作曲家・早坂文雄 幻のテープが語る『七人の侍』」でした。

このwowowの「ノンフィクションW」は、結構面白いので、欠かさず見ています、うっかり見過ごしたりしないよう、すぐに番組予約をしておきました。

それを昨夜ようやっと見ることができました。

この「ノンフィクション」の冒頭は、東宝系列の音楽会社(よく覚えていないのですが、おそらく「そう」だったと思います)が、東宝本社から倉庫に眠っている映画関連のテープなど、映画で使われた音源を丸ごと買い受けたそのなかに、なんと「七人の侍」の映画音楽の録音テープがまざっており、まさに「発見した」というところから始まっています。

まあ、この部分、素直に感動すべきところだったのかもしれませんが、そのワザとらしい煽るような前振りに、なんとなく反発を覚えてしまいました。

「発見」したときの様子や状態をよく聞いていると、数個あったその録音テープの箱はしっかりと紐で括られており、箱の横の見やすい箇所に丁寧にも「七人の侍」とタイトルが付されていて、誰が見てもすぐにそれと分かるよう、整理棚のそれなりの位置に整然と置かれていたというのです。

それって、もともとそこに「整理」されていたもので、はたしてそれを「発見」といえるのかと、ちょっと引っかかるところがありました。

番組中、映画関係者もインタビューに答えていましたが、映画ができてしまえば、製作段階で作られた副造物(音楽テープとか、そのほかモロモロあるとは思いますが)は破棄するのが映画界では当たり前のことで(いわば今回の払い下げだって、そのケースのひとつといえないことはありません)、それがまがりなりにも倉庫で保管されていたということだとすれば、それは「破棄」という慣習から大きく外れた破格の扱いだったわけなのであって、そういうことをあれこれ思い合わせると、確かにその箱の存在は忘れられていたかもしれませんが、かつては管理者の明確な認識のもと、倉庫の「その位置」に保管・整理されていたということは推察できると思いますし、それを見つけたからといって、はたして《「発見」の名に値するような行為》だったのかという疑念に捉われたのでした。

この「ノンフィクション」のこうした作為的な始め方にはちょっと引いてしまって、企画者の意図したようなテンションまではあげられなかったのですが、気を取り直してこの番組を見始めました。

そうそう、この番組制作者の意図したものといえば、もうひとつ、「黒澤明は、早坂文雄を殺したか」の真偽の解明にあったかもしれません。

自分もむかし、雑誌だったか単行本だったかで、「『七人の侍』の製作過程において、黒澤明が早坂文雄に過酷な仕事を強いたために彼の生命を縮めた」というマコトシヤカな記述を読んだことがあり、その記述がいつまでも忘れられずに気持ちの端っこに引っ掛かっていました。

つまり、この「疑念」は、なにも自分だけのものだったのではなく、あくまでも「噂」というニュートラルな外見を装いながらも、こういう番組のテーマとして据えられるくらいの、スタンダードな流通性(というか、さらに踏み込んでいえば「信憑性」でしょうか)をもって語り伝えられてきたのだと思います。

しかし、ここまで殺伐でかつ過激だと、かえって客寄せのキャッチコピーみたいに非現実化し、かえって嘘っぽく、衝撃性を薄めてしまうものなのでしょうが、それにしても「殺した」という語調の強さは、いささか穏やかではありません。

僕たちは、「七人の侍」の撮影現場において、落馬や馬に蹴られて負傷者が続出したとき、チーフ助監督の堀川弘通が、このままでは死者がでるかもしれないと懸念し、黒澤明に直接防護策(金属製の鬘を被らせるなど)を具申したところ、
「そんなことはできないよキミ、レンズは望遠で狙っているんだよ。たとえ死人がでたとしても、そりゃ仕方ないね」
と言い放ったと伝えられています。

このエピソードから窺われる苛烈さは、映画を完成させるためには、いささかの犠牲もいとわない、あるいは人が死のうと生きようと、とにかく映画を完成させるのだという映画に対する黒澤明の強い信念が込められていて、当然その「犠牲」の容認のなかには、「早坂文雄の落命」だて当然視野にあったに違いないと思わせるところが、あの「噂」を、必ずしも荒唐無稽なガセでないと思わせた「信憑性」を支えてきたのだと思います。

このノンフィクション、しばらく見ているうちに気がついたのですが、この番組が大きく依存している元ネタというのが、西村雄一郎の「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房 2005.10.20)らしいということが、だんだん分かり始めてきました。

「黒澤明と早坂文雄」という本は、自分にとって、エピソードの宝庫というか、「黒澤明・逸話大事典」とでもいうべきとても使い勝手のいい存在でした(「過去形」なのは、いつの間にか手元から消えてしまっているからですが)。

黒澤明と早坂文雄のふたりの天才のそれぞれの生い立ちを並列的に書き進み、やがて運命的に出会い、そして早坂文雄の急死によって交友が絶えるところまでのエピソードを丹念に積み上げた800ページを超える大作です。

この本は、ふたりのことばかりでなく、黒澤明をめぐるおびただしい関係者の名前を知るうえでも、とても役に立った魅力溢れる労作でした。

読んだのはもう何年も前のことになりますが、読み耽っていたそのときのことは、よく覚えています、ページの余白に書き込みをしたり、本文にせっせと線を引いたりして夢中になって読んだ記憶はしっかりとありますし、そういえば確かそこには「七人の侍」のテープの話もあったはずだと、だんだん本の内容が思い出されてきました。

あっ、そういえばあの本、どうしたっけかなと突然その「不在」に気がつき、同時に不吉な思いに囚われもし、しかし、あれだけ愛着のあった本なのだから、まさか「処分」などするはずがない、いやいや、あってはならないことだぞ、などとブツブツ自問しながら、あわてて物置の中の物を大方引っ張り出し、ようやく探し当てました。

これこれ、これが、まさに「発見」という名に恥じない聖らかな行為というものなのですネ。

ああ懐かしいという思いで、しばらく振りに、この本と対面し、表紙を撫で撫でしたり、ページをペラペラしていましたが、しかし、いつまでも、そんなふうな懐旧の念に捉われている場合ではありません。

目指すは、「七人の侍」です。

ありました、ありました、「第三部 熱き日々、第二章 別れ」の項に「『七人の侍』開始」と「『七人の侍』完成」があります。

そして、「開始」と「完成」の項に掲げられている小項目を見ただけで、当時の早坂文雄が死と直面していた切迫した様子と同時に、その充実感に満たされた栄光とが、はっきりと分かります。

ちょっと、その小項目を筆写しておきますね。

★「七人の侍」開始(プロコフィエフの死、病のなかの「雨月物語」、遺書、遅れるに遅れる「七人の侍」、早坂邸の周辺、侍のテーマ、死人が出てもしかたがない、尊敬セル人)

★「七人の侍」完成(死ぬ思いで、第五福竜丸、三人の弟子によるオーケストレーション、歴史的なダビング、6ミリテープの存在、空前のゴールデンウィーク決戦、風のように侍は、若き作曲家たちの結婚、汎東洋主義、音楽の裾模様、「近松物語」に溢れる実験精神)

じつは、「黒澤明と早坂文雄」を何年振りかで改めて読み返しました。
その「プロローグ」には、家族に見守られながら早坂文雄が亡くなる臨終の様子が簡潔に記されています。

《「子供たちは早く来なさい!」
その日は、昭和30年10月15日にやってきた。夕食が食卓に運ばれようとしていた。まさにその時の出来事である。
早坂は仕事場で突然倒れた。長女の卯女、次女の絃子は、母・憲子のおおきな声に従って、すぐさま仕事部屋に駆け込んだ。
早坂は「胸が苦しい、苦しい」ともがいている。
憲子は早坂をしっかりと抱いた。
「憲子、申し訳ない、申し訳ない。お前に申し訳なかった」
早坂は、荒い息の中で繰り返した。
「そんなことない、そんなことない」と憲子も繰り返し声をかけた。
早坂は「黒澤さんに申し訳ない」とも言った。「撮影中にこんなことになって申し訳ない。後のことは頼む」
そう言い残して、早坂は妻の腕の中で事切れた。それが早坂の最後の言葉となった。たった15分ほどの出来事である。
葬儀は3日後の10月18日に行われた。》

末尾に掲げた「早坂文雄の仕事」をみれば、黒澤明と溝口健二とにかかわった仕事が、彼にいかに充実した日々をもたらしたか、それはおそらく、早世しなければならない悔しさはあったとしても、なによりも替えがたい奇跡と呼んでもいい充実の日々を早坂にもたらしたに違いありません。

この番組を見た自分の一応の結論を書いておきますね。

早坂文雄は、黒澤明に殺されたりはしなかった、むしろ早坂は黒澤明と仕事をともにすることで「死んでもいい」とさえ考えたのではないか、と思えてきました。

そして、黒澤明がひとり生き残って良い目を見たかといえば、晩年の凋落ぶりを知っている僕たちは、これもまた否定せざるを得ない。

世紀の名作「七人の侍」に魅入られ押し潰されたのは、なにも早坂文雄や本木荘二郎ばかりではなかったはず、黒澤明もまた、その後、「七人の侍」以上の作品を求められ続け、しかし遂に果たせず、煩悶しながらあの名作に押し潰された犠牲者のひとりとして数え上げねばならないかもしれません。


【「酔いどれ天使」以後の早坂文雄の仕事】
酔いどれ天使
酔いどれ天使(1948.4.27東宝 監督・黒澤明)
わが愛は山の彼方に(1948.5.25東宝 監督・豊田四郎)
富士山頂(1948.6.23新東宝 監督・佐伯清)
天の夕顔(1948.8.3新東宝)  
生きている画像(1948.10.12新東宝 監督・千葉泰樹)
虹を抱く処女(1948.11.16新東宝 監督・青柳信雄)
小判鮫 第二部 愛憎篇(1949.1.11新演技座)  
望みなきに非ず(1949.4.18新東宝=渡辺プロ)  
エノケンのとび助冒険旅行(1949.9.20新東宝=エノケンプロ 監督・中川信夫)
野良犬(1949.10.17映画芸術協会=新東宝 監督・黒澤明)
春の戯れ(1949.04.12映画芸協=新東宝 監督・山本嘉次郎)
妻と女記者(1950.4.2新東宝)  
醜聞(1950.04.26松竹大船 監督・黒澤明)
羅生門(1950.08.26大映京都 監督・黒澤明)
雪夫人絵図(1950.10.21滝村プロ=新東宝 監督・溝口健二)
女性対男性(1950 監督・佐分利信)
暁の脱走(1950.01.08新東宝 監督・谷口千吉)
窓から飛び出せ(1950.3.26新東宝 監督・島耕二)
細雪(1950.05.17新東宝 監督・阿部豊)
熱砂の白蘭(1951.03.24第一協団)  
その人の名は云えない(1951.05.11藤本プロ=東宝)  
お遊さま(1951.06.22大映京都)  
白痴(1951.05.23松竹大船 監督・黒澤明)
月よりの母(1951.08.24新東宝)  
武蔵野夫人(1951.09.14東宝)  
死の断崖(1951.09.28東宝)  
めし(1951.11.23東宝 監督・成瀬巳喜男)
長崎の歌は忘れじ(1952.03.27大映東京)  
滝の白糸(1952.06.12大映東京)  
風雪二十年(1951監督・佐分利信)
馬喰一代(1951監督・木村恵吾)
生きる(1952.10.09東宝 監督・黒澤明)
慟哭(1952監督・佐分利信)
人生劇場 第一部・青春愛欲篇(1952.11.06東映東京 監督・佐分利信)
人生劇場 第二部・残侠風雲篇(1953.02.19東映東京 監督・佐分利信)
三太頑れっ!(1953.02.12伊勢プロ)  
広場の孤独(1953.09.15俳優座 監督・佐分利信)
雨月物語(1953.03.26大映京都 監督・溝口健二)
山椒大夫(1954.03.31大映京都 監督・溝口健二)
七人の侍(1954.04.26東宝 監督・黒澤明)
君死に給うことなかれ(1954.08.31東宝)  
千姫(1954.10.20大映京都)  
近松物語(1954.11.23大映京都 監督・溝口健二)
叛乱(1954監督・佐分利信)
楊貴妃(1955.05.03大映東京=ショウ・ブラザース 監督・溝口健二)
密輸船(1954.11.30東宝)  
新・平家物語(1955.09.21大映京都 監督・溝口健二)
あすなろ物語(1955.10.05東宝 監督・堀川弘通)
生きものの記録(1955.11.22東宝 監督・黒澤明)
大地の侍(1956.01.29東映東京)  
幸福はあの星の下に(1956.02.05東宝)  


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