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松本清張原作特集

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6月の初旬から中旬にかけて、wowowで製作した「眼の壁」のオリジナル・ドラマ放映のタイミングに合わせて、松本清張原作の懐かしい映画12本を立て続けに放映していた。
そもそも最初に放送する映画、大曾根辰保監督1957年作品の「顔」が未見だったので、その「顔」を手始めに2週間にわたり、総数12本の映画を連日鑑賞し十分に堪能できた。
なお、12本の作品は、以下のとおり。

顏(1957)大曾根辰保監督
張込み(1958)野村芳太郎監督
黒い画集・あるサラリーマンの証言(1960)堀川弘通監督
ゼロの焦点(1961)野村芳太郎監督
影の車(1970)野村芳太郎監督
霧の旗(1977)西河克己監督
鬼畜(1978)野村芳太郎監督
わるいやつら(1980)野村芳太郎監督
疑惑(1982)野村芳太郎監督
彩り河(1984)三村晴彦監督
砂の器(1974)野村芳太郎監督
天城越え(1983)三村晴彦監督

12作品を通して見た感じでは、やはり「張込み」がダントツの出来だと思った。
なにしろ高峰秀子の抑えた演技が、薄幸の女の後半の激高を「さもありなん」と観客に納得させるに十分なものがある。
それに引き換え、岩下志麻の「影の車」にしろ、「鬼畜」にしろ、「疑惑」にしろ、いずれも不本意な演技だったのではないかという印象をもった。
とりわけ「鬼畜」など、納得できないまま表面的に演じねばならなかった最悪の役だったのではないか、ミスキャストとまではいわないけれど。
ミスキャストといえば、「黒い画集・あるサラリーマンの証言」の愛人役・原知佐子だろうか、あれではあまりにも「知的」すぎる。強姦されても、「だって、しょうがなかったのよ」とへらへら薄笑いを浮かべるくらいの微妙な演技力がほしいところだ。
「天城越え」の田中裕子の熱演が物凄く輝いていて、見ている最中は、この役を別の女優で見てみたいという誘惑までは抱かなかったのだが、邪気のない包容力のある女優(マリリンモンロータイプ)で演じて見たらどうだろうかという感じもした。

こうして松本清張原作の一連の映画を見ていると、清張が作品に込めようとした意図が、なんとなくわかってくる。下層社会にあって抑圧された者たちの屈辱と忍従の哀しみだろう。
そこで、いつも抱く疑問がある。
それならなぜ、清張の『或る「小倉日記」伝』が映画化されないのだろうか、と。
あらゆる意味で最適な映画的シチュエーションだと思うのだが。
検索したところ、1965年と1993年の2回、テレビドラマ化され、それなりの評価を得たらしい。
そりゃそうだろう、これだけの作品だ、映画化すれば必ずや評価を得られるに違いない。
日本には、まだまだ物凄い宝が眠っているのに、それを掘り起こすだけの力がないだけの話だ。


アナザーラウンド

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主演が、名優マッツ・ミケルセンと知り、迷わずこの「アナザーラウンド」を見てみた。

しかし、よく考えてみれば、自分が、このマッツ・ミケルセンを「名優」だと思い込んだそもそもの作品がいったい何だったのか、どうしても思い出せない。

そこでwikiでざっくりした出演作でも検索しようかとあれこれ探していたら、こんな記事に遭遇した、タイトルには「北欧の至宝、マッツ・ミケルセンの魅力を堪能できる6作品」とある。

「VOGUE」というサイトの、執筆した人は「 Yuki Tominaga」という方。

この際、実にタイムリーなそのものズバリの記事でもあるし、記憶のあやしいところで「すべての作品」をあてもなく漫然と眺めるより、この方がずっと気が利いている、なにしろ「マッツ・ミケルセンの魅力を堪能できる6作品」とかいうのだから、精選絞り込みがすでに完了していて、まさに「うってつけ」の記事だとばかりに、どんな6作品なんだと見てみた。


★「ハンニバル」(2013~2015)HANNIBAL Mads Mikkelsen.
★『ドクター・ストレンジ』(2016)DOCTOR STRANGE Mads Mikkelsen as Kaecilius
★『007/カジノ・ロワイヤル』(2006)CASINO ROYALE Mads Mikkelsen
★『偽りなき者』(2012)THE HUNT Mads Mikkelsen
★『シャネル&ストラヴィンスキー』(2009)COCO CHANEL IGOR STRAVINSKY Mads Mikkelsen as Igor Stravinsky
★『アフターウェディング』(2006)AFTER THE WEDDING Sidse Babett Knudsen Mads Mikkelsen

なるほど、なるほど。

こうして見てみると、やっぱり『偽りなき者』ぐらいしか思い当たる作品はないけれども、しかし、気持ちの隅では「そうかなあ」という疑問は残る。

マッツ・ミケルセンといえば、なんだか、もっと凄絶にして壮絶なベルイマン作品みたいな苦悩する人を演じたものを見たような気がしていて、「あんなだったかなあ」という気もするのだが、しかし、自分のなかでは、すでに「名優」という位置づけが定着しているのだから、まあいいとしようか。

さて、この「アナザーラウンド」だが、鑑賞後、それなりに感動はしたのだけれど、一方で、「これって、どうなの?」という気持ちは、どうしても拭えなかった。

それはきっと、「酩酊の実験」をしていたつもりの友人が、(たぶん、意志の弱さから)逆に酒に呑まれてしまって自己破綻(泥酔)し、社会的に居場所を失い自殺してしまうという強烈なエピソードがあったからだと思う。

まあ、そういう例外は時にはあるかもしれないけれども、やっぱ酒はコミュニケーションをとることが苦手な人間には、人間関係を円滑にするためのツールとしてはいいものだよと、この映画のラストではいっている。

じゃあ、社会の居場所を失って自殺したあの友だちは、いったいなんだったんだよ、という気持ち(どのみち、意志の弱い人間は、切り捨てるしかない)というこの映画のメッセージは、ずいぶんと苛酷なものに思えてきた。

この映画のラストは、無事卒業ができたことを喜ぶ学生たちと、教師の職責をまっとうし、うかれ踊るマッツ・ミケルセンのダンスで終わっている。

なるほど、なるほど。

マッツくん、きみね、こんな映画でいつまでも浮かれていると、そのうち芸も荒れてくるよ。
よく考えたまえ。

(2020デンマーク)監督トマス・ビンターベア、製作シーセ・グラウム・ヨルゲンセン、キャスパー・ディシン、脚本トマス・ビンターベア、トビアス・リンホルム、撮影シュトゥルラ・ブラント・グロブレン、美術サビーネ・ビズ、衣装エレン・レンス マノン・ラスムッセン、編集アンネ・オーステルード、ヤヌス・ビレスコフ・ヤンセン、原題:Druk
出演マッツ・ミケルセン(マーティン)、トマス・ボー・ラーセン(トミー)、マグナス・ミラン(ニコライ)、ラース・ランゼ(ピーター)、マリア・ボネビー(アニカ)、ヘリーヌ・ラインゴー・ノイマン、スーセ・ウォルド



《参考》
★「ハンニバル」(2013~2015)HANNIBAL Mads Mikkelsen.
マッツ・ミケルセンは『007』シリーズやヨーロッパでの幅広い活躍によって、映画通の間では早くから高い評価を得ていた。
そんな彼の人気をさらにグローバルに広げたのが、TVシリーズ「ハンニバル」(2013~2015)だ。
『羊たちの沈黙』(1991)や『ハンニバル』(2001)などで知られる伝説の殺人鬼ハンニバル・レクターの若き日を演じ、表の顔は法医学精神科医、その裏では殺戮と料理に快楽を見出す異様な美食家という顔を持つ、悪の華の魅力を大胆に表現した。
仕立てのいいスーツを美しく着こなし、機知に富む会話を楽しむ紳士が獲物に牙をむく時の豹変ぶりは、狂気とエレガンスの絶妙なコンビネーショだ。
殺人を犯しては犠牲者の体の一部を持ち帰り、“食材”を加工する。陶然の表情で包丁を持ち、手際よく調理していくシーンは同シリーズのハイライトの一つとなっており、吹き替えなしでマッツ本人が実際に料理をしている。
子どもの頃は器械体操をやり、その後バレエダンサーに転じたマッツは運動神経抜群。
かといって、格闘シーンでは超人的な技を繰り出すのではなく、キッチンにあるツールや身の回りのものを駆使して相手を倒す実践的なアクションで、逆に身体能力の高さを印象づけている。
コロナ禍の今年7月には、YouTubeでキャストや製作陣が参加するリモートのリユニオン企画が配信。デイジーの花一輪を髪に差して参加したマッツは、同シリーズが新しいハンニバル像を打ち出したことについて、「私たちは、私たちによるモンスターを作りたかった。あるいは天使だね、私は彼(ハンニバル)をそう呼んでいる」と語った。

★『ドクター・ストレンジ』(2016)DOCTOR STRANGE Mads Mikkelsen as Kaecilius
マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の『ドクター・ストレンジ』(2016)では、ベネディクト・カンバーバッチが演じる主人公ドクター・ストレンジと対決するヴィラン、カエシリウスを演じた。天才外科医が事故で負傷し、神秘的な修行を積んで魔術を駆使するスーパーヒーロー、ドクター・ストレンジに転身する物語で、カエシリウスは闇の魔術を駆使して世界を破滅に導こうとする魔術師だ。
出演を決めた最大の理由は、少年時代に親しんでいたマーベル作品だから。そしてスコット・デリクソン監督に「カンフーとかフライングのスタントとかがある」と言われたこと。ブルース・リーの熱狂的なファンでもある彼は、「カンフー? やります!」と即答だったそう。毎日2、3時間かかるメイクをほどこし、日によっては12時間近くかかるアクション・シーンを演じ続けるのは50歳を迎えた身にはなかなかの試練でもあり、「身体的に今までで最もハードな作品だった」と当時語っている。
企画段階では一時、ドクター・ストレンジ役の候補にもなっていたマッツはマーベル作品のキャラクターについて、「ヒーローもヴィランも完ぺきな存在ではなく、どこか欠点があるからこそ興味深く、共感できる」という。また、本作に限らず、演じる役について「好きになる必要はないが、理解することが大切」という持論を展開し、「カエシリウスにはカエシリウスなりの正義がある」と語る。「彼は世界をより良い場所にしたいと考えている。苦しみのない、永遠の命がある世界だ。彼の考えにも一理ある。単純にクレイジーなだけじゃない役を演じるのは面白い」

★『007/カジノ・ロワイヤル』(2006)CASINO ROYALE Mads Mikkelsen
ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンド役に起用された第1作『007/カジノ・ロワイヤル』(2006)で悪役ル・シッフルを演じ、一気にマッツの知名度はアップした。犯罪組織の会計士であるル・シッフルは左目に傷があり、涙腺異常のために血の涙を流す。能面のように感情を見せない男の頬をつたう赤い涙という劇的なイメージで、存在を強く印象づけた。
実は、この大役をマッツはオーディションなしで獲得している。出演が決定する前、プラハで別の作品に出演していて、何度オーディションに呼ばれても参加できず、やっと都合がついて「タキシードを着てオーディション会場に行ったら、『君に決まったから、帰っていい』と言われた」とか。ボンドガール選びに時間をかけ過ぎていたため、ル・シッフル役はマッツにほぼ決まっていたようで、形式的なオーディションなしで合格ということになったらしい。それなのに彼は撮影前に『007』シリーズを1本も見たことがなく、出演作のロンドン・プレミアに参加した際に大挙して集まった観衆やメディアを見て、事の重大さに気づいたそうだ。
本作でボンドとシッフルがカジノでポーカーをしてスリリングな心理戦を繰り広げるシーンは、見どころの一つとなっているが、それに匹敵する強烈な印象を残したのが、シッフルがボンドを拷問するシーン。裸にしたボンドを椅子に縛りつけ、ロープで打ち続ける。冷酷でサディスティックな怪演は、後のハンニバル・レクター役起用へと繋がったはず。絶対に口を割ろうとしないボンドとの会話の攻防も見どころだ。

★『偽りなき者』(2012)THE HUNT Mads Mikkelsen
『セレブレーション』などで知られるデンマークの名匠、トマス・ヴィンターベア監督と組んで、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した『偽りなき者』(2012)は、悪役ではなく市井の人を演じても見事にハマるマッツの演技力が光る必見作だ。舞台はクリスマス間近のデンマークの小村。住人の誰もが顔見知りのような小さなコミュニティの中で、それまで家族ぐるみで付き合っていた親友の娘の作り話によって、窮地に追い込まれる幼稚園の先生を演じている。
幼女が気まぐれで口にした一言から、変質者の汚名を着せられた主人公は、いくら無実を訴えても聞き入れられず、仕事も奪われ、村八分にされて追い詰められていく。マッツが演じた主人公ルーカスは誠実に仕事に取り組み、かといって品行方正すぎない、普通の中年男性として実にリアルなキャラクター。強烈な悪役を演じる際の外連味を一切取り払ったうえで、5歳児も魅了する愛嬌をしのばせてある。
マッツは若い頃から知り合いだったヴィンターベア監督から脚本を読んでほしいと持ちかけられ、一読してすぐに出演を決めたという。それぞれの言い分が納得できて、誰が悪いのか簡単に決めつけられない内容が気に入ったそう。「悪人はいない。そこにあるのは大いなる愛で、その愛が恐怖を生み、やがてそれが憎悪を引き起こしていく。それがこの作品が本当に描いているものだ」
子どもは嘘をつかないという社会の思い込みから振りかざされる正義によって孤立する主人公は、毅然として無実を訴え続ける。重いドラマは最後に微かな光を見せたかと思うと、再び陰る。集団心理の恐ろしさを炙り出した本作は、アカデミー賞外国語映画賞候補作にもなった。ちなみにヴィンターベア監督の最新作『Another Round(英題)』でも、マッツは主演を務めている。

★『シャネル&ストラヴィンスキー』(2009)COCO CHANEL IGOR STRAVINSKY Mads Mikkelsen as Igor Stravinsky
「春の祭典」「火の鳥」などで知られる作曲家のイゴール・ストラヴィンスキーが、家族とココ・シャネルのパリ郊外の別荘に滞在した1920年の夏を描く『シャネル&ストラヴィンスキー』(2009)。マッツは、ロシア革命勃発で祖国を離れてフランスに流れついたストラヴィンスキーを演じた。1913年、「春の祭典」のバレエ公演が行われたパリで出会ったシャネルとストラヴィンスキーが実際にどんな関係だったかはほとんど明らかにされていない。だが、映画では最愛の人だったアーサー・カペルを事故死で亡くしたばかりのシャネル(アナ・ムグラリス)がストラヴィンスキーと恋に落ちる。
音楽とファッション、それぞれの芸術を通して2人は自分自身と向き合い、恋をすることで互いに影響を与えていく。その頃、シャネルは不朽のフレグランス「No.5」に、ストラヴィンスキーは「春の祭典」の再演に取り組んでいた。才能ある者同士が惹かれ合う物語は、ティーンエイジャーのラブストーリーとは違うとマッツは語る。「彼らは大人同士で、それぞれ違う形で互いに魅力を感じている。そこにドラマがあるのです」
またスケジュールの都合で、フランス語にロシア語、ピアノ演奏も短期間に習得した準備期間は忙しなかったが、ストラヴィンスキーの名曲の数々を通してその人間性をつかみ取っていったという。強い意志を持つ女性との恋を情熱的に、プライドが高い反面、傷つきやすい作曲家の二面性を繊細に演じた。監督を務めたヤン・クーネンは『ドーベルマン』(1997)などアクションやSF作品を得意とするが、いつもと違うジャンルに挑戦したのは、デビュー作『プッシャー』(1996)の頃から注目していたマッツの出演が決まっていたからだという。製作時にはシャネル(CHANEL)とカール・ラガーフェルドが全面協力し、パリのカンボン通りにあるココ・シャネルのアパートメントやブランドのアーカイヴへのアクセスも可能となり、贅を尽くしたヴィジュアルも見逃せない。

★『アフターウェディング』(2006)AFTER THE WEDDING Sidse Babett Knudsen Mads Mikkelsen
第79回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたスサンネ・ビア監督作。ビア監督の『しあわせな孤独』(2002)にも出演しているマッツが『アフターウェディング』(2006)で演じたのは、インドで孤児たちの支援活動をしているヤコブ。運営が厳しく、破産寸前の危機に直面していた彼のもとに、故郷デンマークの資産家から巨額の寄付金の申し出が届く。面会のために帰国すると、その資産家の妻がかつての自分の恋人であることが判明する。死期迫る男の思惑で20年ぶりに再会した元恋人と、自分が父親かもしれない彼女の娘と対面し、その結婚式に出席することになった男性の苦悩をきめ細やかに演じている。
デンマーク語のアクセントはあるものの、流暢な英語を使いこなすマッツだが、母国語の演技ではやはり自由度が格段に違う。微妙なニュアンスを伝え、まるで演じていないかのような自然体だ。当時、撮影で初めて訪れたインドでカルチャーショックを受けたと明かしている。貧しい人々の生活を目の当たりにして「自分たちがその場にいることに申し訳なさを感じた。インドでの撮影は、まるで返す気もないものを借りているような感じだった」という感想は、感受性豊かで率直な彼らしいものだ。
また本作は男女の設定を逆にして、ジュリアン・ムーアとミシェル・ウィリアムズ主演の『秘密への招待状』としてリメイクされたばかり。ヤコブに当たるキャラクター、イザベルをミシェル・ウィリアムズが演じている。

吉本隆明にとって柳田國男とは何だったのか

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月曜日にwowowで見た「名もなき歌」も凄かったが、火曜日のファニー・リヤタール&ジェレミー・トルイユ監督の「GAGARINE/カガーリン」も、ずっしりとした熱い感銘を浴びせかけられた。

その余波を引き摺ってしまって、しばしTVの前から立ち去りがたく、感銘の余韻にひたっていたところ、その次の映画、いままでに何度も見ているアンジェリーナ・ジョリーの「ソルト」まで引き続き見てしまった。

しかし、感銘の余韻に引っ張られて、なんの繋がりもない作品「ソルト」までも見させてしまうという「名もなき歌」とか「GAGARINE/カガーリン」のつかみも凄いのだが、フリの客を捉えて飽きさせることなく息もつかせぬまま見せてしまうハリウッドの強引で手慣れた「ソルト」の構想力にも感心した。作品の内容は既に分かっていたとはいえ、充分に面白かったのには違いない。

これこそが映画を見させてしまうチカラとかいうものなんじゃないのかな、と感じた。

それを思うと、最近の日本の映画作品の、誇りも意欲にも欠いた卑弱さはどうよ、ほとほと呆れるばかりだ。

「老後の資金がありません」とか「サマーフィルムにのって」だの、お前ら何考えて撮ってんだ、その目はフシ穴か、なんの問題意識もなく、撮る素材にそれほどまでも困っているのなら(もちろん、素材を探し出せない無能ということはあるだろうが)、「なにもわざわざ無理して撮らんでもいい」と言いたいところだ。

そもそもフィルムの無駄だろ。

マネーの匂いを嗅ぎつけて利権に群がる薄汚い強欲なハイエナどもに寄ってたかって食い物にされる汚職の温床になり果てるくらいなら、今後オリンピックなどは、どこかの国に開催を任せ、我が邦の選手は精鋭を選んでほそぼそと派遣すればいいのと同じように、映画づくりだってそうだぞ、現実がこれほどまでに腐りきっているのに、撮ってる映画といえば現実から目をそらした能天気な愚策ばかり、こんなことじゃ、むしろ意欲ある海外の有能な才能に製作を任せて、斬新な素材で撮ってもらったその作品をちゃっかり鑑賞・堪能すればいいくらいのものだ。
見掛けだけの社会の豊かさのその向こうを見通せないようなこんなボンクラ作品しか撮れないなら、むしろ作らないでいたほうが、よほどマシだし、罪も軽いというものだ。

てなことで、「老後の資金がありません」も「サマーフィルムにのって」も、最初の30分をじっと我慢して見たけれども、ついに辛抱の限界を越えてしまい、見るのを放棄した。

「名もなき歌」とか「GAGARINE/カガーリン」を見た目で、これらの日本映画を見るのはとても辛くて酷というもので、これではまるで、なにかの制裁か、忍耐を試す懲罰だ。

これなら、むしろ手近にある簡単な印刷物でも読んでいた方がよほど時間の有効活用だと考えた。

実は、つい最近、嵌まっていることがあって、隙間時間をみつけては、全集に挟み込まれている月報をひとつひとつ取り出しては読んでいる。

いままで、ついぞその手の「月報」なんて見向きもしなかったのだが、いざ読んでみると、いろいろ面白い評文のあることを最近になって発見し、それ以来、ちょっと病みつきになってしまった。

このそもそもの始まりは、大昔に筑摩が出版した「定本 柳田國男集 第1巻」の月報だ。

この本は、奥付を見ると昭和43年7月に刊行されたもので、少し前に通りかかった近所の古本屋でたまたま見掛け、全32巻の全巻が3000円弱で売っていたので速攻で購入した。

どうだ、凄いだろう。

世間ではデジタルがどうの、紙の本が消滅するなどという世迷言に誑かされ、どこかの御仁が叩き売ったかして、この値崩れした貴重な全集をチャッカリ手に入れることができて、ついに自分も柳田國男全集の所有者になれたのは、それもこれも軽薄な「デジタル信仰」のお陰というか、余禄みたいなものかもしれない。

紙の本が絶滅するなどあるわけない。

かえって希少価値が出て、猥雑なものは次第に淘汰され、内容相応の正当なアタイがついて、消耗品から貴重品に格上げするに違いない。

ということで購入以来、日々、寝転がって「柳田國男」の珠玉の論稿をひとつひとつ堪能している次第なのだが、あるときたまたま「月報1」を手に取って何気なく目を通したら、旧友や弟子筋の執筆者の中に、なんと吉本隆明の一文が収録されていたので驚いた。

こう言っちゃあなんだが、ほかの執筆者連は、「柳田國男先生」を尊敬し敬愛もしている関係者と係累の方々、いわば「よいしょ系」の人々だが、吉本隆明はそういうタイプの批評は書かないし、似つかわしくもないということを熟知していたので、その名を見掛けたときに思わず奇異に感じたのだと思う。

そもそも、吉本隆明と柳田國男に接点などあったのだろうかという疑問に囚われた。

そうした多少の違和を感じながら読んでみた。

タイトルは「無方法の方法」。

凡庸なアタマでは、うまく要約できそうもないが、重要と思われる文章を引用しつつまとめてみる。
こうだ。

柳田國男が、東北民謡「酒田節」を取り上げて論じている。全集でいえば、第17巻「民謡覚書」のなかの一編だ。

柳田は、この歌をどこかで聞いたような気がするといい、いくつかの文献をあげ、越後にも青森にも同想異種の歌があると指摘し「次第に連環の集中度が高度になり、この歌にある『べんざい衆』という文句は何を意味するかの考察に入る。これは単なる船乗りを意味する言葉ではなく、荷の惹きあい積み込み、代金の仕切りなどにも権限を持った者を意味したので、中世の弁済使などからの転義であろうという推定があとにやってくる。」

つまり、柳田國男のこの追及の仕方こそ、柳田学の方法であると指摘する。

《この酒田節などは、短文でも柳田学の無方法の方法を典型的に語る者と言うことが出来よう。そしてこの無方法は、ほとんど夢幻の数珠玉のように連関する資料の累積と採集を要求するのである。》

《柳田国男の方法を、どこまでたどっても「抽象」というものの本質的な意味はけっして生れてこない。数珠玉と数珠玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけである。》

《かれは土俗共同体の俗習が、そのまま昇華したところに国家の本質を見たのである。そして、土俗を大衆的な共同性の根拠として普遍的なものとみなしたのである。このような認識が、連環法を生み出したのは、いわば必然であった。連環法こそは言葉が語りの次元にあるかぎり時代を超えて続く土俗の方法であったから。》

そして、

《かれは、人間の本質指向力が、つねに土俗からその力点を抽出しながら、ついに、土俗と対立するものであるという契機をつかまえようとはしなかった。総じて、知識というものが、はじめに対象に対する意識の在り方を象徴しつつ、対象と強力に相反するものであり、これを担う人格が、つねに共同性からの孤立を経てしか、歴史を動かさないということを知ろうとはしなかった。》

柳田國男の「無方法」という方法が、前人未到の偉大な達成を果たしているだけに、その膨大な知識の「収拾」と「連環」の円運動の方法をもってしては、ついに「歴史」を動かすまでには到り得ないといい、それを「柳田國男の悲劇」だといっている。

つまり、
《なによりも抽象力を駆使するということは、知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題に属している。柳田國男の膨大な蒐集と実証的な探索に、もし知識が堪え得ないならば、わたしたちの大衆は、いつまでも土俗から歴史の方に奪回することはできない》
という。

そこで、我田引水みたいで恥ずかしいが、あえて言わしていただこう。
わがブログ「映画収集狂」は、柳田学の連環法の正統を受け継ぐ者であることを、ここに宣言する。ああ、恥ずかしい。

ゴダール、死す

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ゴダールの死亡を新聞記事(読売)で知り、その翌日だかに文化欄の全面の「追悼記事」も読んだ。

不謹慎極まりないが、何年か前に、ゴダールがあまりに高齢を更新しつづけていたのに業を煮やして(もちろん、死ぬのを待っていたわけではないが)、わがブログために、「その時」に備えて、「生涯」とか「作品歴」とか「評論」を、 ネットであれこれと掻き集め、整理しはじめたことがあった。

しかし、それでもゴダールは元気に生き続け、さらに長い時間が経過したために拍子抜けし、あきらめて、それらの「材料」を格納したフォルダさえも結局どこかに見失ってしまった経験があった。

その作業は、いうまでもなく来るべきゴダールの死の準備として為された仕事であったことは、まぎれもない事実だったと思う。

実に不謹慎というか、失礼きわまりなく、罰当たりな話だが、そのときにはすでに自分は、ゴダールを疑いもなく「過去の巨匠」として整理しはじめていたのだし、逆にいえば、ゴダールはそれくらい長い時間を生きてしまったということだろう。

とにかく、享年91歳だから客観的に「長い時間」は当然だが、この追悼記事を読んでいて、記事に書かれていることとか、この「整理をはじめた不謹慎な自分」についてなど、縷々感じた違和感を解明しなければ、どうにも先に進めそうにない。

追悼記事は、フランス文学者の野崎歓氏と映画評論家の秦早穂子氏という人の長めの記事が二本と、そして吉田喜重監督の短いコメントが掲載されている。

秦早穂子氏は、1959年に撮影中の「勝手にしやがれ」のラッシュを見て買い付けを決めた人だそうだ。

この歴史的な作品を発掘したのだから、その慧眼たるや評価に値し、自分をどのように誇ったとしても過大すぎることはないし、誇る心の狭さをあれこれ難じるなどできるわけもない、それくらい凄いことだ。

なにしろ、ゴダールの人や作品が、そもそもそういうことを許すに足るだけの「大風呂敷」に違いないのだから、その許容範囲は無限に広いといえる。

紙面には「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」の2作品のスチール写真が大きく掲載されていて、そのいずれもが古びた作品という印象はなく、それが「大風呂敷」の意味するところでもあるのだが、だからなおさら、紙面下段に小さく掲載されている吉田喜重の、空気を読めない生真面目なコメントは、ちょっと場違いな、白けて「素」に引き戻されてしまう印象は否めない。

吉田喜重は、このように書いている。

《すばらしい映画監督を亡くし、とても残念です。私は27歳の時、松竹で「ろくでなし」を発表しました。その前に封切られた「勝手にしやがれ」 を見て、非常に感銘を受けたことは、はっきり覚えています。ゴダールが一度日本に来た時に会えたことがよい思い出です。冥福をお祈りします。》

こう読むと、「ろくでなし」が、あたかもゴダールの「勝手にしやがれ」の影響下に作られた作品のように聞こえるが、もしそれが本当なら、吉田喜重は「勝手にしやがれ」という作品を根本から理解できなかったか、または誤解したのであって、しょせんは吉田の陰鬱な資質では、「勝手にしやがれ」のエッセンスを消化し、表現することは、到底かなわなかったのだろう。

この作品「ろくでなし」 をいま見てもその絶望的な暗さには、まったくもって辟易させられる。

やたら深刻で、苛立ちと怒りを鬱屈させ、ふてくされ悪ぶって、 大声でがなり立てるばかりだ。それらすべてのどこに、「勝手にしやがれ 」のエッセンスが消化され表現されているといえるだろうか。

頭でっかちのインテリ監督では、「勝手にしやがれ」という作品は、せいぜいその程度の理解しかできなかったのかと思うと、なんだか憐れになる。

小津安二郎でなくとも、その愚昧さには、怒りを通り越してただ呆れるしかない。

「勝手にしやがれ」におけるジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェル・ポワカールは、深刻や苛立ちや怒りの鬱屈などおよそ無縁の男で、ふてくされて悪ぶるわけでもない、彼はチャランポランのただの遊び人で、誰にも拘束されずに自由で、ただいい加減に生きたいだけなのであって、それがカタチとして、あたかも反抗や憤りに見えるとすれば、それは単にカタチとして似通っているだけ、中身は、社会への反抗などとは、およそ無縁のチンピラなのだ。

映画において、そういう虫けらのような空虚な男を主人公を据えたからこそ、この「勝手にしやがれ 」は不朽の名作として評価されたのであって、そのミシェルになにか哲学的な意味付けをするなど、無意味なことなのだ。

いい加減、ゴダールを買いかぶったり見誤ったりするな、彼はそういう映像作家ではない。

かつて、ゴダールは、毛沢東が先導した紅衛兵運動を「権力亡者の毛沢東の捨て身の企み」と見抜けず、 まるで真の革命家と革命運動みたいに過大に評価し、世界に向けて巧みで誇大な虚偽煽動映画を撮って無知な大衆を煽った。

革命好きのフランスの若き間抜けどもが、毛沢東の紅衛兵運動をロマンティック革命として錯覚し、浮かれてお祭り騒ぎを引き起こした「暴動」を、ゴダールも現象として追随し、なぞったにすぎなかっただけで、しかし、その巧みな映画づくりの影響は大きく世界におよぼし(日本も「騒乱」というまともな余波を浴びた、なんだったんだ、ありゃ)、現在につながる中国の先行きもおおきく変えていった。

かつて、少しはまともに動き出していた中国を、ここにきて大きく歪めた厄介な狂王・習近平を生み出した責任の一端は、中身のない巧みなコピー作品を作った映像作家・ゴダールにもあったのだと思う。

野崎歓氏もその記事の中でこんなふうに書いている。

《常に変わらぬ難解さに、ゴダールはゴタールを反復しているだけではないかと憎まれ口を叩きたくもなった。》

ようやく正解に気が付いたとしても、これでは少し遅すぎたかもしれない。

もし、「アルファヴィル」あたりでこのことに気がついていたら、もう少しまともな指導者を中国人民に与えることができたかもしれない、あっ、中国人民の方にもっと問題があるので、そりゃ無理か。だろうな。

そこで思い出した、

ゴダールは「オレが死んだら映画史は終わる」といったそうだ。

知識だけで分かったような気になってしまう「映画」から解放されるという意味でなら、う~ん、それはそうかもしれないな。

そして、野崎歓氏の記事の中にすらっと書いてあったのだが、こんなクダリがあった。

「最期は医療自殺幇助を受けて亡くなり、遺体は火葬に付されるという。」

実は、この一文は真っ先に見つけて、最初はこんな文章で書き出してみた。

「ゴダールは、スイスで自分の命に決着をつけた。たぶん『生きているのなんか、もううんざりだ。さっさとやってくれ』とか言ったかもしれない。

そういえば、『勝手にしやがれ』の最後のセリフはなんだったっけ。

Wikiのストーリーをカンニングした。

《やがて一緒に逃げることを断念したパトリシアが警察に通報してしまう。劇中も何度か出てきた「最低」という言葉を最後にミシェルが言う。「君は本当に最低だ」と、かすれ声で言われたその言葉が訊きとれず、パトリシアは「彼はなんて言ったの?」と刑事にたずねると、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられる。パトリシアは「最低ってなに?」と訊き返す。 》

なるほど、『最低だ』か。それでいいんじゃないかな」

神様おねがい、私のオッパイ、もっと大きくして!!

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がんらい神様のたぐいは、ハナから信じていないので、個人的には初詣など行く義理も道理もないと考えている自分ですが、家族が行くとなれば頑なに否定してもおられず、意地を押し通すのもなんだか大人げないので、そこは渋々ながらもお付き合いさせていただくというのが長年の習わしになっています。

もちろん浮世の義理とか世間体も大いに影響していることは事実です。

そんなこんなで、去年のお守り札の返納と、新たなお札を受けるために、今年も家族で某神社にお参りに行ってきました。

その神社の拝殿前で、礼拝している人の「二礼二拍手一礼」を見様見真似でどうにかお参りを済ませたとき、すぐ隣にいた中学生くらいの女の子が、上のタイトルそのまま「神様おねがい、私のオッパイ、もっと大きくして!! 」と周囲に聞こえるくらいの大声で叫んだので、思わずびっくりしてしまいました。

もっとも、彼女の周囲には同年代の連れの女の子が多数群れていてキャッキャとはしゃぎ廻っていたので、その子の「神様お願い」の絶叫も、たぶん熱くなった周囲の少女たちのノリに誘われた悪ふざけとも推察できますが、それにしてもマリリン・モンローが持てはやされた時代ならいざ知らず、「ボイン」とか「ナイン」だのと口を滑らしでもしたら、それこそ女性蔑視と厳しく糾弾されかねない今のこの似非平等時代にあって、それら同調圧力を撥ね返して片田舎の一少女が秘めた豊胸願望たる内なる本音の絶叫に立ち会えたことに、実に爽やかな感動を覚えました。

ぶっちゃけ親の立場から言わしてもらえば、この男社会にあっての女子の容貌(美醜)は、生涯の幸運の呼び込みに直結する実に心強いアドバンテージであることは否定しがたく、その証拠には女子の命名の際には相変わらずの「美」の字の頻度を見れば一目瞭然です。

そして、さらにそこに「豊胸」でも加われば、世渡り最強と彼女たちが考えているらしいことは明らかです。

建前のうえでなら、耳障りの言い多様性の時代などとうそぶきつつ、あたかも「平等」であるかのような体裁だけは整えながら、しかしその実態ときたら封建時代と何ひとつ変わることのない旧態依然の、まだまだ厳しい女性蔑視のこの男社会を生き抜いていかなければならない彼女たちにとってのアイテム「豊胸」こそ、ささやかではあっても力強い味方と認識しているらしい少女たちの本音を、今回確認できたような気がして、なんだか久々に嬉しくなり、実に爽やかな感動を覚えたのだと思います。

そんな感慨に浸りながら、そういえば昔、そんなようなタイプの小説を読んだことがあったな、なんだったっけと、考えながら帰途につきました。

そして、帰宅後、ようやく思い出しました、そうそう、川上未映子の「乳と卵」でした。

長い間、読み直すこともなかった「乳と卵」を本棚から抜き出し久しぶりに手に取りました。

パラパラとページをめくっていると、ときどき行の頭に鉛筆で薄くチェックの入っている箇所があったりするので、そんな個所を拾い読みしているうちに、だんだん思い出してきました。

女子にとって「胸が大きい」ということが、男社会にあってどういう問題があるのかについて、ふたりの少女が侃々諤々論争するクダリです。

この部分、最初に読んだときは、小説全体の流れを停滞させるずいぶん観念的な挿入だなと感じたのですが、二度目に読んだときには、停滞かもしれないが、魅力にもなっていると感想が一変し、その卓越を改めて再認識したことを記憶しています。

素晴らしい箇所なので、ちょっと筆写してみますね。

なお、原文は川上未映子らしい改行なしのずいぶん挑発的な書き方をしているのですが、「ふたりの会話」というところを汲んで理解していただきたいと思います。



実際に自分が誰かと会話したのか、単に本で読んだだけなのか、テレビなんかで耳に入っただけなのかの真相が壊滅的にはぐれおってそんな始末。でも確か、胸おおきくしたいわあ、とある女の子が云って、わたしじゃなくてそこにはもうひとり別の女の子がおって、その女の子がそれに対してネガティブな物言いをしたんやった、え、でもそれってさ、結局男のために大きくしたいってそういうことなんじゃないの、とかなんとか。男を楽しませるために自分の体を改造するのは違うよね的なことを冷っとした口調で云ったのだったかして、すると胸大きくしたい女の子は、そういうことじゃなくて胸は自分の胸なんだし、男は関係なしに胸ってこの自分の体についているわけでこれは自分自身の問題なのよね、もちろん体に異物を入れることはちゃんと考えなくちゃいけないとは思うけれど、とかなんとか答えて、すると、そうかな、その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかないのよね実際、あなたが気がついていないだけで、とかなんだかもっともらしいことを云って、胸大きくしたい女の子はそれに対して、なんだって単純なこのこれここについているわたしの胸をわたしが大きくしたいっていうこの単純な願望をなんでそんな見たことも触ったこともない男性精神とかってもんにわざわざ結びつけようとするわけ? もしその、男性主義だっけ、男根精神だっけかが、あなたの云うとおりにあるんだとしてもよ、わたしがそれを経由してるんならあなたのその考えだって男性精神ってもんを経由してるってことになるんじゃないの、わたしとあなたで何が違うの、と答えたわけだ、するとその冷っと女子は、だーかーら、自分の価値観がいったいどこから発生してるのかとかそういうことを問題にしつつ疑いを持つっていうか飽くまでそれを自覚してるのと自覚してないのとは大違いだって云ってんのよ、とこう云って、その批判に対して胸大きく女子は、まあ何がそんなに違うのかあたしさっぱりわかんないけれど、わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ、それだけのことに男性精神云々をくっつけて話ややこしくしてんのはあなたで、あなたが実はその男性精神そのものなんじゃないの? 少なくともわたしは男とセックスしたりするとき、例えば揉まれるときなんかにああこの胸が大きくあって欲しかったこの男の興奮のために、なんてことは思わない、ってことははっきりわかってるっていう話よ、ただ自分ひとりでいるときに思うってそれだけよ、ぺったんでまったいらなこれになぜだか残念を感じてしまうだけのことで。すると冷っと女子は、だからその残念に思う気持ちこそがそもそもすっかり取り込まれてんのよ、その感慨を、その愁嘆を、そういう自分自身の欲望の出自を疑いもせずに胸が大きくなったらいいなあ! なんてぼんやりうっかり発言したりするのが不用意極まりないっていうか、腹立たしいっていうか無知というかなんていうかさ、とさらにその冷っ、が増した声で冷り女子は静かに云うと、は、じゃあさ、あなたがしてるその化粧は男性精神に毒されたこの世界におかれましてどういう位置づけになんのですか、その動機はいったい何のためにしてる化粧になるの、化粧に対する疑いは? と胸女子が云えば、これ? これは自分のためにやってんのよ、自分のテンション上げるためにやってんの、と冷っと女子、それを受けて胸派女子は、だからあたしの胸だって自分のために大きくしたいってそういう話じゃないの? あんたのそのそのばちばちに盛った化粧が自分のためだっていうのがあんたのさっきの理屈に沿うんならね、だいたいおんなじ世界で生きててこっちは男根主義的な影響受けてますここは受けてませんて誰が決定するんだっつの。と鼻で笑えば、何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうが、だいたい女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ? あなたのその胸を大きくしたいってんならまずあなたの胸が包括している諸問題について考えることから始めなさいよって云ってんの、それに化粧はもともと魔よけで始まったもんなのよ、人間が魔物を恐れてこれを鎮めるために考えられた知恵なのよこれは人間の共同体としての、儀式なのよ。文化なの。大昔には男だって化粧やってるんだしだいたいあんたはそもそもわたしの云ってる問題点がまったく理解出来てないわ、話にならない、と顎で刺すように云えば、は、じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、大体女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう云わせてもらうっつの。まずあんたのそのわたしに対する今の発言をまず家に帰ってちくいち疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿保らしい、阿保らしすぎて阿保らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわお前のド頭に、とか云って、なぜかこのように最後は大阪弁となってしまうこのような別段の取り留めも面白みもなく古臭い会話の記憶だけがどういうわけかここにあるのやから、やはりこれはわたしがかつて実際に見聞きしたことがあったのかどうか、さてしかしこれがさっぱり思い出せない。



川上未映子の強引な筆力をいかんなく見せつけたクダリで、この「乳と卵」はさまにオッパイ小説の白眉として記憶の中に位置づけられた作品ではありました。

失笑の極み、中国共産党・偵察スパイ気球バレバレ茶番劇

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アメリカ上空を飛んでいた中国の偵察スパイ気球が米軍機によって撃ち落されたという記事と、それに対応する中国共産党の往生際の悪さ、バレバレのバカっぽいステートメントの記事を連日読まされて、もういい加減ウンザリさせられていたところ、なんと今日は、こんな報道がありました。



【正体不明】「撃墜の準備をしている」 中国でも“飛行物体”発見
2/13(月) 10:18配信  テレビ朝日系(ANN)
中国東部・山東省の地元当局はきのう、正体不明の飛行物体を発見し撃墜の準備をしていると通知しました。
しかしその後、新しい情報は入っていません。
山東省青島市の海洋発展局はきのう、中国メディアの取材に対し「山東省日照市付近の海域で正体不明の飛行物体を発見し、撃墜の準備をしている」という通知を出したことを認めました。
通知では、付近の漁船に対して注意を呼び掛け、落下物を見つけた際、写真を撮ったり、回収したりするよう求めていました。
けさの時点で、撃墜についての新しい情報は入っていませんが、大手検索サイトなどではニュースランキングの1位になるなど中国でも高い関心を集めています。



また、テレビ朝日か。

茶坊主よろしく中国のお先棒かついで、姑息なフェイク・ニュースを相も変わらず御注進とは、まったく自分の意見というものはないのかオマエラ、中国の自作自演のバレバレの茶番劇を、無批判に「そのまま」垂れ流してんじゃねえぞ。

いったいお前らに報道に携わるもののプライドとか「姿勢」というものがないのかと、苛立ちを通り越して怒りさえ感じてしまいます。

幾らもらっているのかしらないけどもさ。

戦前の朝日新聞が軍部のお先棒をかついで戦争を煽り立てたように、(その贖罪感からかどうか知らないが)戦後は一転、左に大きく振れて、「共産主義」なら何でも正義だと思い込んでいやがる、こんな思考停止した愚劣なメディアしか持てない国民は、実に不幸というしかありません。

だいたい、人民を欺き、恫喝し(政治むきのことに口出ししなければ生かしてやるなど)、いっさいの社会的福祉を無視して、ひたすら権力維持に励む現在の中国は「共産主義」とは名ばかり、およそ無縁の単なる「ならずもの集団」にすぎないことは、誰もが分かっているはず。

しかし、今回のフェイク記事を読みながら、そうそう、幾日か前の「中国版紅白歌合戦」という記事を思い出しました。

ちょっと前の記事だったので、消されてしまったかもしれないなと思いながら検索したところ、あっ、ありました。

これです、これです。


《中国版紅白歌合戦、ゼロコロナ抗議起きた大学の学生出演…SNSで検索制限》
2023/01/22 23:38
 【北京】21日夜に放送された中国版紅白歌合戦とも呼ばれる「春節聯歓晩会」(春晩)に、新型コロナウイルス感染を抑え込む「ゼロコロナ」政策に対する抗議活動が昨年11月に起きた南京の大学の学生らが出演し、波紋が広がった。
 春晩は、旧暦の大みそかに放送される国民的番組だ。
今回、「南京伝媒学院」でダンスを学ぶ学生らが四つのプログラムにダンサーとして出演した。
この学生らが昨年11月に抗議する活動に参加したかどうかは不明だが、ゼロコロナ政策の終了を早めたといわれる抗議活動の引き金を引いた大学名が「政治的に敏感」(メディア関係者)となる中、「厚遇だ」(香港紙・明報)と注目された。
 SNSでは、政策変更後の感染拡大で「身近な親戚がどれほど亡くなったことか」と放送した中国中央テレビを批判する投稿がある一方、「政治的に鋭敏でないかもしれないが、演芸とは本来こうあるべきだ」と番組担当者を擁護する書き込みもあった。
 中国版ツイッター・ 微博ウェイボー で22日、同大の名前と「春晩」で検索すると「関連法規や政策に基づく」として結果が表示されなかった。
抗議活動に再び注目が集まる事態を避けたい当局の意向に沿った制限措置とみられる。


記事の傍らには《中国政府の「ゼロコロナ」政策に対し、白紙を掲げて抗議の声を上げる若者たち》の写真も掲載されていました。

白紙を掲げて抗議の声を上げるこの若者たちの姿を、自分もyou tubeで見ました。

きっと誰もがそうだと思いますが、この映像を見て、まっさきに思い浮かべたのは、かつて天安門前で民主化要求のデモに参加した大学生たちを中国共産党が何千人という規模で無差別に虐殺した「天安門事件」です。

国民を何千人殺しても権力維持を優先させようとする中国共産党の姿勢は今も変わらないのですから、今回だって当然「銃撃」があって然るべきケースです。

しかし、恐れをもって見ていた「白紙デモ」の映像は、あにはからんや、地方政府の公安部長とかいうオッサンがしゃしゃり出てきて、デモの若者たちにこういうのです。

「君たちの要求はよく分かった。決して悪いようにしないから、今日のところは大人しく引き上げてくれ」

いつ「人民解放軍」の銃撃が始まるかと危惧しながら、恐れ慄いて見ていた身からすると、その穏やかな対応と物言いは、いささか意表を突くものがありました。

そして、さらに意外だったのは、それを聞いたデモの若者たちが、まるで何事もなかったかのように、そそくさと「解散」した穏やかさと素直さにも驚かされました。

これではまるで飼いならされたヒツジです。

かつて日本大使館を取り囲んで、口汚く罵り、罵声を浴びせて汚物を投げ込んだあの活力にみちた「逆上ぶり」など、この白紙革命戦士からは、まったく伺い知ることはできませんでした。

そのあとで、習近平が長い間つづけてきた「ゼロ・コロナ政策」の大転換が発表されました。

阿呆くさい「ゼロ・コロナ政策」の大失敗を、メンツと虚栄心を重んじる中国共産党がどのような出口戦略をもって、言い抜けるかを世界が注目していたさ中での開き直りともいえる大転換でした。

そして、そのあとすぐで、あの「中国版紅白歌合戦、ゼロコロナ抗議起きた大学の学生出演」という報道があったのです。

デモに参加した大学生を加えたこのお祭り騒ぎを、自分は当初、反乱大学生に気を遣った厚遇で、いわば当局の懐柔策と理解していました。

しかし、それでは、この記事の趣旨に沿ったそのままの理解でしかないことになんだか変だなという気持ちは拭えません。

むしろ、こう考えたほうが自然ではないか、つまり、あの「反乱」大学生たちこそが、「ゼロ・コロナ政策」を終了させるための茶番劇の第1幕で一役かった「役者」だったのだと。

そして、「中国版紅白歌合戦、ゼロコロナ抗議起きた大学の学生出演」は、脱「ゼロ・コロナ政策」という茶番劇の役者たちを総出演させた大パレードだったのだと。

やれやれ、こういう話を書くと心底疲れます。

そうそう、中国人の民族性をよく現しているこんなエピソードがありますので、紹介しておきますね。

1979年、米中国交が樹立され、アメリカの代表的な科学者たちが中国に招待され、そのなかには、DNAとタンパク質を結んでいる物質がRNAであること、さらにRNAを遺伝子としているウイルスの存在の発見に寄与したスピーゲルマン博士も含まれていて、博士は、中国各地で講演しました。

なんといっても、そこはお洒落のニューヨーカーの博士のことです、粋なジョークをまじえた講演の面白さには、定評があります。

博士の講演を熱心に聞き入っている中国人の聴衆も、ここぞというジョークの個所に反応して気持ちの良い爆笑が沸き起こりました。

講演が終わり、微妙なジョークの機微を巧みに訳してくれた通訳の女性の労をねぎらいました。

「いえいえ」と恐縮して通訳の彼女は答えます。「私にはとても訳せません。ただ、博士はいまジョークを話しておられます。全員で笑いましょう、と言いました」

なるほど、なるほど、転覆事故車両を即埋めて「なかったこと」に誤魔化してしまった精神に繋がる、いかにも中国らしいエピソードでした。

そうそう、忘れているかもしれませんが、こんなこともあったじゃないですか、ほら。

【テニス】中国・彭帥のスキャンダル暴露から1年…今も安否不明の状況を英紙が懸念
2022年11月7日 20:30 東スポWEB

 中国で行方不明となっている女子テニスの彭帥(36)を巡り、改めて安否が心配されている。同選手は昨年11月、元副首相の張高麗氏に性的関係を強要されたとSNSで告白。その後は北京五輪の会場で姿が目撃されるなど一部のケースを除いて所在が不明になっていた。
 こうした中、英紙「サン」は「何が起きた? ウィンブルドンのダブルスのチャンピオン、ペン・シューアイ(彭帥)の行方はスキャンダルから1年たっても謎のまま」と題する記事を掲載。「彼女の主張は、中国政府にとって非常に挑発的でダメージが大きく、彼女の動きや生活が国家によって監視、管理されていることがずっと危惧されていた」と同選手の身を案じた。
 その上で「IOC(国際オリンピック委員会)会長のトーマス・バッハは恥ずかしげもなく彼女を(北京五輪の)会場内に登場させ、皆に大丈夫だと安心させようとした。IOCはスポーツ団体として初めてペンと接触したが、誰もが五輪開催前に起きた国際的な圧力をかわすためのPRだと感じていた」「少数の五輪関係者以外には、彼女の正確な居場所は謎のままである」などとIOCの姿勢を批判。また、WTA(女子テニス協会)に中国での大会開催を再開する動きがあることを懸念した。
 同記事では最後に「ペン・シューアイはどこにいるのか? 悲しいことに、我々は知らない」。彭帥は今後、公の場に姿を見せることはあるのか。


さて、気球に搭載されていた機器からどんなものがでてくるか、中国の自作自演のバレバレの茶番劇を絡めながら、まだまだ喜劇は続きそうですね。

リコリス・ピザ

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ポール・トーマス・アンダーソン監督の「リコリス・ピザ」を面白く見たあと、幾つかの映画サイトでこの作品の感想をひと当り読んでみました、

そこで、ちょっと驚いたのは、自分の感じたこととは若干異なる趣旨のコメントが結構多いので、読みすすめるうちにだんだん消化不良というか、モヤモヤ感が増し、このむかつきを抑えるためにも、その辺のギャップを意識しながら印象に残ったシーンを書き出してみようと思いたちました。

あちらこちらのサイトにのっていた気に掛かる感想を要約すると、だいたいこんな感じになります。


《70年代のノスタルジックな青春映画だが、何故か主演の二人にときめかない。
それは15歳の高校生と25歳の年上の女性という組み合わせのために、なかなか手もつながないしキスもしないという「距離を置く二人の微妙な関係」が、従来のアメリカ映画としては違和感を覚えさせるためなのか、この二人、ことさらに美男美女という感じでもないし。
要するにラブストーリ映画の王道からかけ離れているということで、これはポール・トーマス・アンダーソン監督が意図的にリアル感を出すために選択したのかも知れないけれども。》


文中に記されている「距離を置く二人の微妙な関係」の部分にこだわらなければ、そのままスルーして、それはそれで結構この作品も心温まる爽やかな純愛映画といえるかもしれませんが、しかし、それではあまりにも寂しいし、もったいない気もします。

15歳の高校生ゲイリーから「ひとめ惚れ」された25歳の年上の女性アラナが、ジェネレーション・ギャップに悩み格闘しながら紆余曲折・七転八倒して、精一杯背伸びした15歳の高校生ゲイリー(彼の方は大人に見せようと精一杯背伸びしているのですから、「悩み」は描かれておらず淡白な立ち位置です)との「距離」をどのように縮めていくかがこの映画の「おいしい部分」であって、もし、この同じようなシチュエーションをフランスとかのヨーロッパで撮るとするなら、それはもう、生真面目で救いのない相当シリアスな惨憺たるジェネレーション・ギャップ映画になってしまったに違いありません。

だからこそ、このハリウッドの底なしの軽妙さで描かれるアラナの、迷い逡巡しながらもゲイリーの求愛に応え受け入れるまでの心の遍歴を、それほどの深刻さもないスムーズさで僕たちも納得することができたのだと思います。

トオは立っているが、やたら商才のある子役の高校生ゲイリーは、ウォーターベッドの委託販売で大きく当ててひと儲けするものの、突然のオイルショックに見舞われあっけなく頓挫しますが、怪しい映画プロデューサー宅にウォーター・ベッドを設置する際、威圧されたことの意趣返しに、ベッドへの水の注入を中断し逃げ出してしまいます。

相当タチの悪い悪戯がもうすこしで露見するニアミスをかわして、どうにか逃げ延びた少年たちは、その奇蹟の逃亡の成功にはしゃぎ廻って大喜びしますが、大人のアラナには、どうしてもそんな風に喜ぶことができません。

ゲイリーたちの子供っぽいはしゃぎっぷりを遠くに遠くに眺めながら、ひとりウンザリしているアラナの姿が描かれています。

そういう二人の「世代のギャップ」からくる不満と苛立ちのぶつかり合いとして、この映画の最大のクライマックスが、剥き出しの言い争いのシーンにつながっています。

いつまでもこんなことを子供っぽいことをしていては駄目だと、アラナは自分の人生を立て直そうと、ボランティアで市長候補ブライアンの選挙に加わりますが、彼女の過剰に肩入れする媚びた様子に苛立ちと不満をどうしても隠せないゲイリーとのあいだで、感情むき出し、本音で激しく言い争う素晴らしい場面です。

言い争っているのは、まさに「年の差」ですが、きっかけは、ゲイリーが選挙事務所で小耳に挟んだLAで長い間禁止されていた「ピンボール・マシン」が解禁されるらしいという情報を得て、早速、金儲けに動こうとするゲイリーと、それを不純だととがめ言い争う素晴らしい場面です。


アラナが台所で洗いものをしながら、ゲイリーの電話を聞いています。
「新会社を始めるのでピンボールがいるんだけど。ない? OK」
電話を切ったゲイリーにアラナが聞きます。
「私の推測、あたっているかしら?」
「えっ、どんな推測?」
「ピンボール・マシン探し」
「あたり」
「なんでよ?」
「ピンボールの店第1号を開くんだ。ピンボール・パレスだよ」
「この街を変えようという立派な人といて、話を聞いたのはピンボールのことだけってこと?」
「ほかにも聞いたよ」
ふたたび電話がかかってきて、ピンボールの都合がついたから今からでも見にこいという先方へ、返事を返すゲイリーの未熟な言葉遣いをあからさまに冷笑しながらアラナは言います。
「私は運転しないからね」
「OK、それなら自分で運転する」とゲイリー。
「自分でするって。免許もないあんたが。たいしたものね」
「そうとも」
「タバコ吸ったら、みじめに吐くくせに」
「このタバコのこと? マルボロ・キングサイズ」
「吸う度胸なんか、ないくせに」
しかし、アラナの制止を抑えて吸い込んだ煙を彼女に吹きかけるゲイリー。
むかついたアラナはゲイリーに挑むように顔を近づけて「私の方がクールだからね。いい、頭に叩き込んでおいて」
負けずにゲイリー「いわれたくないね、おばさんに」
気色ばんだアラナは「おばさん? おばさん?」と怒りも隠さず言い返す。
ゲイリー「ミレディって言ったんだ、貴婦人だよ。僕がクールかどうか、分かるのかよ」
アラナ「あんたなんかクールじゃないし、息が臭いよ」
ゲイリー「そうかい、君はもう年だ」
アラナ「私が年だって、やぼったいって? えっ、世の改革はクールじゃないっていうの?」
ゲイリー「そんなこと、ブライアンに聞けよ」
アラナ「もちろん、そうする。あんたをクールと思うのはウォーター・ベッド仲間、スー、カーク、マークくらいよね」
ゲイリー「友だちは山ほどいるさ」
アラナ「世間知らずのガキども。世界はゲイリー・ヴァレンタインで廻っているわけ?」
ゲイリー「そうとも」
アラナ「世界はそれ以上よ」
ゲイリー「違うね」
アラナ「違う?」
ゲイリー「僕がいなければ、君はまだ生徒の写真を撮っていただろ」
アラナ「あんたはピンボール・マシン、私は政治の世界、人生を立て直したいのよ」
ゲイリー「じゃあ立て直せよ」
アラナ「どこ行くの?」
ゲイリー「出かける」
アラナ「分かったわよ、送ってく。ピンボールを見にいくの? 送ってあげるってば。ゲイリー、いったい何なの、乗ったら駄目よ、乗るんじゃない。ゲイリー・クソV。もし乗るんなら二度と口をきかないわよ、待ちなさいってば!!」


この場面は、何度見ても素晴らしい。

しかし、それにしても、見れば見るほどアラナ・ハイムが、香川京子に見えてしかたがない。


(2022アメリカ)監督脚本製作・ポール・トーマス・アンダーソン、製作・サラ・マーフィ、アダム・ソムナー、製作総指揮・ジェイソン・クロース、スーザン・マクナマラ、アーロン・L・ギルバート、ジョアン・セラー、ダニエル・ルピ、音楽・ジョニー・グリーンウッド、撮影・ポール・トーマス・アンダーソン、マイケル・バウマン、編集・アンディ・ジャーゲンセン、美術・フローレンシア・マーティン 、衣装デザイナー・マーク・ブリッジス、 キャスティング・カサンドラ・クルクンディス、 製作会社・メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、フォーカス・フィーチャーズ、ブロン・クリエイティブ、グーラルディ・フィルム・カンパニー、配給・ビターズ・エンド=パルコ=ユニバーサル映画、
2022年・第94回アカデミー賞で作品、監督、脚本の3部門にノミネート。
2022年・第96回キネマ旬報ベスト・テン外国映画第1位作品。

出演・アラナ・ハイム(アラナ・ケイン)、クーパー・ホフマン(ゲイリー・ヴァレンタイン)、ショーン・ペン(ジャック・ホールデン)、トム・ウェイツ(レックス・ブラウ)、ブラッドリー・クーパー(ジョン・ピーターズ:)、ベニー・サフディ(ジョエル・ワックス)、マーヤ・ルドルフ(ゲイル)、スカイラー・ギソンド(ランス)、メアリー・エリザベス・エリス(マンマ・アニタ)、デストリー・アリン・スピルバーグ(フリスビー・カヒル)、ジョセフ・クロス(マシュー)、ネイト・マン(ブライアン)、ジョン・C・ライリー(フレッド・グウィン)、クリスティーン・エバーソール(ルシル・ドゥーリトル)、ジョージ・ディカプリオ(ミスター・ジャック)、ユミ・ミズイ(ミオコ)、安生めぐみ(キミコ)、エスティ・ハイム(エスティ)、ダニエル・ハイム(ダニエル)、モルデハイ・ハイム(モルデハイ)、ドナ・ハイム(ドナ)、

「心の旅路」について生成AIを問い詰める

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一昨日の夜、遅くまで海外メディアが発信する「プリゴジン=ワグネル部隊の反乱」のニュースをわくわくしながらyoutubeで深夜まで注目していました。

最近にない痛快なニュースじゃないですか。まるで「本能寺の変」だと、期待をしてしまったのですが、結果的には、この過剰な期待(「本能寺の変」だなんて)がよくなかったのかもしれません。

二万五千人のワグネル軍があのままの勢いで北進すると、翌朝(つまり「今日」ですが)にはモスクワに到達し、たぶんロシア国軍のほとんどがウクライナ前線に投入されていると思うので、守りの薄くなったモスクワは一挙にワグネルに制圧され、自分が目覚めたときには、「クーデター成功」「モスクワ制圧」「ウクライナ侵攻停止」「プーチン、中国へ亡命」とかいうニュースが待ち受けているものと期待しながら眠りにつきました。

しかし、目覚めた自分を待ち受けていたものは、なんとREUTERS電の
「ワグネル、部隊進軍停止発表 ベラルーシ仲介でロシア反乱沈静化か 6/25(日) 3:33配信」および
「ワグネル、部隊に引き揚げ命令 モスクワ進軍せず「流血回避」 6/25(日) 6:33配信」
というニュースでした、亡命したのはプリゴジンの方で本当にがっかりです。

またしてもプーチンの茶坊主ベラルーシのルカシェンコがちょろちょろ動いて「反乱お咎めなし」「身柄引き受け」を餌に、怒れるプリゴジンを懐柔したそうです。

なんなんだよ、こんな終わり方ってあるかよ、

亡命だかなんだか知りませんが、もう、こうなると、この「反乱」自体も胡散臭い陰謀めいて、疑わしいものにしか思えてきません。

だって、最初は「あの野郎、許しちゃおけねえ、俺のこの手でぶっ殺してやる」とかなんとか、プーチンは息巻いていたじゃないですか。

それがあっさり「お咎めなし」で「亡命」を認めて、さらに助命までするなんておかしいじゃないですか、話ができすぎていますよ。
自分にさからう奴は、片っ端から毒殺してきたイカレ野郎ですよ。

自分が憶測するところでは、ここのところウクライナ軍と呼応して国内でテロを頻発させているロシア国内の反プーチンのゲリラ活動家を、「偽クーデター」で炙り出しておびき寄せ、一挙に殲滅しようと画策したんじゃないか、これは凸凹3人組の、いわゆる「戒厳令ごっこ」だったんじゃないのかと思うくらいです。

なにしろ、あの「スターリン」になりたがっている殺し屋プーチンが考えることですから、きっとそれくらいの猿知恵は働かせかねません。

でも、もしかりに、この「クーデター」なるものが本当で、それが成功したとしても、それでロシアにバラ色の世界が待ち受けているかといえば、決してそんなことはありません、戦争屋プリゴジンが新たな指導者になったって、やっこさんの出来ることとといえば、新たな戦争をおっぱじめることくらいしか能はなく、そう考えるとロシアという国の将来は、本当に八方塞がりで暗澹たるものしかないような気がします。

洗脳された振りのできない醒めた人にとって、あの国で生きることの絶望は、考えるに余りあるものがあります。

そういえば、「日本褒め」のyou tuberに、やたら帰化希望のロシア人が多いのは、そんなことが背景にあるのかもしれません。

いずれにしても、もっとも恐れるのは、苦境に追い詰められた狂った指導者が目先の戦況を好転させるために、核兵器のレバーを引くことです。

あっ、そういえば、以前、読んだ新聞記事に、生成AIについて書かれたこんな一節を思い出しました。

《生成AIで特に怖いのは、言葉で人心を操作するということだ。
AI自体はレバーを引けなくとも、人に引かせることはできるかもしれない。》


実は、このコラムは、「コロナ、一応終息」なんてところから、のんびり書きはじめようと思ったのですが、次々に起こる大きな事件に一挙に持って行かれてしまいました。

タイタニック号の残骸を見に行く潜水艇消息不明なんていう思いもよらない物騒な事件もありました、うかうかしていると事態はどんどん動いていき、なかなか本題に入ることができません。


改めて仕切り直しです。


ここにきてコロナもインフルエンザ並みの第5類に指定されて、世間もようやく落ち着きを取り戻した感じです。
待ちに待った「やれやれ」ですが、

それにしても、「まだまだ感」のウクライナ戦況の膠着状態(西側から武器供与されたにも関わらず、まだまだ戦況が泥沼化している印象です)は気掛かりです。

でも、ようやくコロナ禍の閉塞感から解き放たれつつある現状には、素直に喜びたいと思っています。

暗闇の彼方に一点の光明が兆したという感じでしょうか。

光明と言えば、やはり、唐突な日経平均株価の、バブル期崩壊以来の最高値というのを挙げないわけにはいきません。

残念ながら、この文を打っているあいだに、突然ダウも日経もナスダックまでもが一斉に下げ始め、先行き不安な部分もなくはありませんし、それにまるで政府の介入を徴発しているかのような円安の加速も気がかりです。

しかしここはまあひとつ、不吉な兆候にはあえて目を瞑り、いいことだけを信じることと致しましょう。

ここ数か月の急上昇の株価グラフを見ると、1989年12月29日につけた38,915円の史上最高値に、もうすぐ届いてしまうのではないかというアナリストもいましたが、当面やはり利食いということもあるわけで、先行きどうなるのかは分かりませんが。

そりゃあ仕方ないですよ、私も含めて投資家の皆さんは、ここ何年も苦い思いでじっと堪え続けてきたわけですから、これから先、この勢いがどう変わるか分からない拭い難い疑心暗鬼を考えれば、とりあえずここは利食っておくのも、もっともなことだと思います。

そんなことですぐにへたるような現下の日本の相場とも思えませんしね。

なにしろ、今回の隆盛を主導したのが天才投資家バフェット氏をはじめとした海外の投資家の膨大な資金の流入があって、何週間にもわたる日本株の買い越しが続いているというのですから、当面の足元は揺るぎないものがあると信じていいと思いってます、もちろん安易な「妄信」はいけませんが。

幾つかの重要指標は、つねに注視しておかないと、いつなんどき、この流れが急変しアメリカへと還流しかねないとは限りませんから、心して備えておくことはもちろんです。

アメリカのインフレ抑制と消費者および生産者物価指数、今回は見送られましたが利上げが7月に実施するぞと明言された年内あと2回の利上げ動向、それに連動する為替の動き(足もと円安への気運がどんどん高まっています)なんかも気に掛かります。

とにかく、この景気風、現在はたまたま日本に吹いているだけで、その実態はただの「一時の好運」にすぎず、本来はアメリカで吹いていたものが、諸事情から日本に避難してきただけの、とても脆いものであることをしっかりと認識しておく必要があります。

ここ最近のマスコミは、「日本株絶好調」などと、やたら持ち上げ「買い」を煽っていますが、投資の常識からいえば、はっきりいって今からじゃ高値づかみの危険もあって遅きに失するような気がします。

日本経済の停滞と閉塞の中でじっと我慢して投資を積み上げてきた在来の投資家なら、いつ襲ってくるか分からない「怒涛の退潮」の不吉な兆候に神経をとがらせていて、びくびくしながら、少しずつ利食って逃げ道を確保しておくのが正解かもしれません。

いままで、株をやったことのないような一般人が、マスコミの煽りに乗せられ、欲につられてドカドカと買い始めるとしたら、それこそ凋落のサイン、経験を積んだ投資家ならその時点で撤退を考えはじめるというのは、過去の教訓が教えているところです。

よくいうじゃないですか、「頭と尻尾はくれてやれ」なんて。

しかし、それにしても「撤退の時期」というのが、いつも難しいんですよね。

さて、コロナ開けにもうひとつ、突如出てきた感のあるトレンドがありました、「生成AI」という例のアレです。

それってどんな大そうなものなのかと興味津々、「生成AI」について書かれた新聞の記事を幾つか読んでみると、なんのことはない、コンピューターが質問に答えて情報を集め器用に作文を創作してくれるという(ただそれだけの)ことなんだそうですね。

なんだ、「そんなことか」みたいな肩透かしをくらった脱力感に囚われました。

でも、そうはいっても、新聞を読むと、これってやっぱり使い方によっては相当効率的な働きをするらしく、政府も相当な肩入れをしています。

うまく使えば煩瑣な行政サービスの事務の効率化とか人手不足の解消にもなるらしいので、人口減少にむかう日本には、大いに結構なことかもしれません。

そして、さらにもうひとつ、その記事には、生徒たちが、学習するうえで、例えば宿題などを「生成AI」にたよってしまって、資料収集や自分で考える努力をしなくなるために学習能力の減退につながるのではないかという危惧が指摘されていましたが、もっともなことだと思います、とかいって、自分などは、宿題はひたすら他人のノートをちゃっかり写させてもらっていた人間です、そんなお前が同調するな、と叱られそうですが、いえいえ、そうじゃありません。

たとえ他人のノートを丸写しするとしても、その「書き写す」という行為自体によって、知識というものが身につくこともあるのです。これは実体験です。

そんなことを考えていたとき、近所の人との世間話で、こんな話を聞きました、小難しいことなど考えず生成AI相手に「お題」を出してひとり遊びしている粋人がいるらしいのです。

う~ん、そりゃあ面白いかもしれない。

しかつめらしい政治や行政がらみの話より、そういう遊びの話ならコチトラ大好きです。

さっそくPCの前に坐り、さて何を聞こうかと考えながら、とっさの思い付きで、「映画・心の旅路について教えて」と打ち込んでみました。

なにを隠そう、自分はコテコテのラブ・ストーリー好き人間で、その中でも殊更に「心の旅路」が、ダントツのベスト・ワン作品だと思っています。

その「映画・心の旅路について教えて」の問いに対するAIの答えは、こうでした。


《「心の旅路」は、1942年にアメリカで公開された恋愛映画です。
監督マーヴィン・ルロイ、出演はロナルド・コールマンとグリア・ガースンです。
第一次世界大戦の終わり頃(1918)、フランス戦線で負傷し、記憶を失った英国陸軍大尉がメルブリッジ陸軍精神病院に入院するところから物語が始まります。
彼は、砲撃を受けたショックで完全な記憶喪失になっていました。
ある時、散歩に出た大尉は、戦争終結で喜ぶ群衆を避けて街角の煙草屋へ入りますが、そこで親切な踊り子ポーラ・リッジウェイと出会います。
彼女は大尉の境遇に同情し、やがて深い恋にとらわれ結婚します。
幸せで平穏な家庭を築き、二人のあいだに子供も授かった矢先、男は出張先で転倒して、その衝撃で過去の記憶を取り戻したものの、それまでのポーラとの生活のすべての記憶を失ってしまう。
実は、男は裕福な実業家の御曹司で、大企業の跡を継いで社長に就任しますが、大金持ちにはなったもののその実生活のむなさしに堪えられず、自分の失った記憶と過去を取り戻そうと必死にもがく苦悩の物語です。
この映画は、ジェームズ・ヒルトンの小説「心の旅路」を原作としています。
ヒルトンは、この小説で、戦争の悲惨や残酷、愛の力、人生の意味を描いています。
映画「心の旅路」も、ヒルトンの小説のテーマを忠実に再現し、美しい映像と感動的なストーリーで観客を魅了しました。
この映画は、第15回アカデミー賞で作品賞を含む7部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演女優賞など、5部門を受賞しました。
「心の旅路」は、1942年に公開された映画で、Amazonのレビューでは4.4の評価を得ています。
ただし、Rotten Tomatoesによると、批評家からは「安っぽい感傷と陳腐な決まり文句によって台無しにされた」という評価もあります。》


おいおい、なんだよ、最初はヤタラ持ち上げクライアントをいい気持にさせておいて、最後では「安っぽい感傷と陳腐な決まり文句によって台無しにされた」って、どういうこと。

ひどいじゃないの、AIさん。

この映画にそんなひどい評価があったの? ちっとも知らなかった。

行きがかり上、仕方ないので、その「ひどい評価」という出所を調べてみることにしました。

う~ん、なんなんだこれ。

AIを無害な知的太鼓持ちのようなものだと思っていた自分には、少なからずショックでした。

でも、せっかくですから、wikiで検索してみました。

ああ、なるほど、これですね、「ひどい評価」っていうのは。


《興行的には成功したにもかかわらず、当時の批評家たちからの評価は低い。
ジェームズ・エイジーは「ロナルド・コールマンの記憶喪失に2時間も興味を持ち続けることができ、朝食にヤードレーのシェービングソープを喜んで食べられる人に、この映画を勧めたい」と書いている。

ニューヨーク・タイムズのレビューで、ボズレー・クラウザーは「過剰に感情的な割に、『心の旅路』は奇妙なほど空虚な映画である」「ミス・ガースンとミスター・コールマンは魅力的で、完璧な演技をしている。しかしリアルには全く見えない」との意見を述べている。

バラエティ誌は2人の主演、特にガースンの演技を賞賛しているが、コールマンは役柄に対して老けて見えると指摘している。

しかし、公開から数十年後には高く評価する批評家も現れている。

シカゴ・リーダーのジョナサン・ローゼンバウムは、この作品には「その意図通りに、ある種の錯乱した誠実さと高潔さ」があると認めている。

レナード・マルティンのミニレビューには「ジェームズ・ヒルトンの小説は、コールマンとガースンが最高の状態で、MGMから最高に楽しい扱いを受けている」と書かれている。

ハル・エリクソンは「通常の状況では、『心の旅路』のうち1分も信じないだろうが、スターたちと著者のジェームズ・ヒルトン(『失われた地平線』『チップス先生さようなら』など)が織りなす魔法の呪文が信じられないような荒唐無稽さを完全に信憑性のあるものに変えている」と書いている。

アメリカン・フィルム・インスティチュートが2002年に発表した「情熱的な映画ベスト100」では36位にランクインしている。

Rotten Tomatoesによれば、10件の評論のうち高評価は90%にあたる9件で、平均点は10点満点中7.8点となっている。

Metacriticによれば、11件の評論のうち、高評価は6件、賛否混在は4件、低評価は1件で、平均点は100点満点中62点となっている。》


まあ、ついでといっちゃなんですが、文中の「36位にランクイン」したとかいう「情熱的な映画ベスト100」を末尾に貼っておきますね、シリアスから軽い喜劇まで、あまりにジャンルが違いすぎて、このベスト100、どういう意味があるのか、ただただ疑問ですが、まあ参考になれば幸甚です。

最後になりましたが、自分がAIに教えてほしかったことというのは、ラストシーン、

ようやくチャールズが、かつてポーラと暮らした小さな家にたどり着き、きしむ門扉を開け、しだれかかる桜の枝を潜り抜けて甦る薄い記憶に動揺しながら玄関のドアの前に立つ、肌身離さず持っていた鍵を取り出して、ドアに差し込むとピタリと鍵穴に合って、目の前に開ける懐かしい居間、彼の記憶は鮮明に甦り、呆然とたたずむチャールズに、背後で見守っていたマーガレットが「スミシー」と呼びかける。一気に記憶を取り戻したチャールズは、振り返って、マーガレットを見止め「ポーラ!」と叫んで駆け寄り抱き締める。

というこの部分です。

このように描かれる歓喜のラストシーンのあとで、チャールズは、自分の子供が既に死亡していることをポーラから知らされることとなるのでしょうが、ラストシーンはそこまでカバーしていない。

以前、彼は「チャールズ」として、マーガレットに子供がいて既に死亡していることを一度聞いている、そのときの彼の無関心の反応を、マーガレットは「ポーラ」として責めることはないだろうか。

何の問題もなく、幸せに暮らしていた夫婦が、子供の死を切っ掛けにして破綻していくケースを見てきた自分には、この中途半端な「ラストシーン」は、まだまだ「最後」のような気が、どうしてもしないのであります。


「情熱的な映画ベスト100」

1、カサブランカCasablanca1942
2、風と共に去りぬGone with the Wind1939
3、ウエスト・サイド物語West Side Story1961
4、ローマの休日Roman Holiday1953
5、めぐり逢いAn Affair to Remember1957
6、追憶The Way We Were1973
7、ドクトル・ジバゴDoctor Zhivago1965
8、素晴らしき哉、人生!It's a Wonderful Life1946
9、ある愛の詩Love Story1970
10、街の灯City Lights1931
11、アニー・ホールAnnie Hall1977
12、マイ・フェア・レディMy Fair Lady1964
13、愛と哀しみの果てOut of Africa1985
14、アフリカの女王The African Queen1951
15、嵐が丘Wuthering Heights1939
16、雨に唄えばSingin' in the Rain1952
17、月の輝く夜にMoonstruck1987
18、めまいVertigo1958
19、ゴースト/ニューヨークの幻Ghost1990
20、地上より永遠にFrom Here to Eternity1953
21、プリティ・ウーマンPretty Woman1990
22、黄昏On Golden Pond1981
23、情熱の航路Now, Voyager1942
24、キング・コングKing Kong1933
25、恋人たちの予感When Harry Met Sally...1989
26、レディ・イヴThe Lady Eve1941
27、サウンド・オブ・ミュージックThe Sound of Music1965
28、桃色の店The Shop Around the Corner1940
29、愛と青春の旅だちAn Officer and a Gentleman1982
30、有頂天時代Swing Time1936
31、王様と私The King and I1956
32、愛の勝利Dark Victory1939
33、椿姫Camille1936
34、美女と野獣Beauty and the Beast1991
35、恋の手ほどきGigi1958
36、心の旅路Random Harvest1942
37、タイタニックTitanic1997
38、或る夜の出来事It Happened One Night1934
39、巴里のアメリカ人An American in Paris1951
40、ニノチカNinotchka1939
41、ファニー・ガールFunny Girl1968
42、アンナ・カレニナAnna Karenina1935
43、スタア誕生A Star Is Born1954
44、フィラデルフィア物語The Philadelphia Story1940
45、めぐり逢えたらSleepless in Seattle1993
46、泥棒成金To Catch a Thief1955
47、草原の輝きSplendor in the Grass1961
48、ラストタンゴ・イン・パリLast Tango in Paris1973
49、郵便配達は二度ベルを鳴らすThe Postman Always Rings Twice1946
50、恋におちたシェイクスピアShakespeare in Love1998
51、赤ちゃん教育Bringing Up Baby1938
52、卒業The Graduate1967
53、陽のあたる場所A Place in the Sun1951
54、麗しのサブリナSabrina1954
55、レッズReds1981
56、イングリッシュ・ペイシェントThe English Patient1996
57、いつも2人でTwo for the Road1967
58、招かれざる客Guess Who's Coming to Dinner1967
59、ピクニックPicnic1955
60、脱出To Have and Have Not1944
61、ティファニーで朝食をBreakfast at Tiffany's1961
62、アパートの鍵貸しますThe Apartment1960
63、サンライズSunrise1927
64、マーティMarty1955
65、俺たちに明日はないBonnie and Clyde1967
66、マンハッタンManhattan1979
67、欲望という名の電車A Streetcar Named Desire1951
68、おかしなおかしな大追跡What's Up, Doc?1972
69、ハロルドとモード 少年は虹を渡るHarold and Maude1971
70、いつか晴れた日にSense and Sensibility1995
71、東への道Way Down East1920
72、愛しのロクサーヌRoxanne1987
73、幽霊と未亡人The Ghost and Mrs. Muir1947
74、女性No.1Woman of the Year1942
75、アメリカン・プレジデントThe American President1995
76、静かなる男The Quiet Man1952
77、新婚道中記The Awful Truth1937
78、帰郷Coming Home1978
79、黒蘭の女Jezebel1938
80、シークThe Sheik1921
81、グッバイガールThe Goodbye Girl1977
82、刑事ジョン・ブック 目撃者Witness1985
83、モロッコMorocco1930
84、深夜の告白Double Indemnity1944
85、慕情Love Is a Many Splendored Thing1955
86、汚名Notorious1946
87、存在の耐えられない軽さThe Unbearable Lightness of Being1988
88、プリンセス・ブライド・ストーリーThe Princess Bride1987
89、バージニア・ウルフなんかこわくないWho's Afraid of Virginia Woolf?1966
90、マディソン郡の橋The Bridges of Madison County1995
91、ワーキング・ガールWorking Girl1988
92、ポーギーとベスPorgy and Bess1959
93、ダーティ・ダンシングDirty Dancing1987
94、白いドレスの女Body Heat1981
95、わんわん物語Lady and the Tramp1955
96、裸足で散歩Barefoot in the Park1967
97、グリースGrease1978
98、ノートルダムの傴僂男The Hunchback of Notre Dame1939
99、夜を楽しくPillow Talk1959
100、ザ・エージェントJerry Maguire1996


心の旅路(Random Harvest)
(1942MGM)監督マーヴィン・ルロイ、脚本クローディン・ウェスト、ジョージ・フローシェル、アーサー・ウィンペリス、原作ジェームズ・ヒルトン、製作シドニー・フランクリン、音楽ハーバート・ストサート、撮影ジョセフ・ルッテンバーグ、編集ハロルド・F・クレス
出演 ロナルド・コールマン(チャールズ・レイニア、"ジョン・スミス(スミシー))、
グリア・ガースン(マーガレット・ハンソン、"ポーラ・リッジウェイ")、
フィリップ・ドーン(ジョナサン・ベネット医師、(精神病院の医師、ポーラの相談相手))、
スーザン・ピータース(キティ(チャールズの姉の夫の連れ子))、
ヘンリー・トラヴァース(シムズ医師(村の医師))、
レジナルド・オーウェン(ビファー(酒場の主人))、
ブラムウェル・フレッチャー(ハリソン(チャールズの部下))、
ライス・ウィリアムズ(サム(ポーラのショー仲間))、
ユナ・オコーナー(煙草屋の女主人)、
オーブリー・メイザー(シェルドン(執事))、
マーガレット・ウイチャリイ(デヴェンター夫人(宿屋の女主人))、
アーサー・マーゲットソン(チェットウィンド・レイニア(チャールズの兄))、
メルヴィル・クーパー(ジョージ・レイニア)、
アラン・ネイピア(ジュリアン・レイニア)、
ジル・エズモンド(リディア・レイニア)、
アイヴァン・シンプソン(牧師)、
マリー・デ・ベッカー(牧師の妻)、
チャールズ・ウォルドロン(ロイド氏)、
エリザベス・リスドン(ロイド夫人)、



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