散歩の途中で立ち寄る書店のレジの傍らに、出版各社が、おもに自社の出版物を宣伝するために発行している「書評誌」が、たまに置いてあり、そこには「ご自由にお持ちください」というメモ書きがあったりするので、ついつい習慣的にいただいて来てしまいます。
それぞれのページ数がゴク少ない小冊子という感じなので、いつでも読めるとタカを括ってほったらかしていると、いつのまにかどんどん溜まって、気が付くと相当な量になっており、その「量」に圧倒され、あわてて関心のありそうな二、三の記事をつまみ食い的にチラッと読んだだけで、結局はホカスという、考えてみれば随分と失礼なことを繰り返してきたのだなと、最近になってつくづく反省しています。
この書評誌、いま手元にあるものだけでも、ざっとこんな感じです。
図書(岩波書店)
波(新潮社)
ちくま(筑摩書房)
青春と読書(集英社)
本(講談社)
みすず(みすず書房)
本郷(吉川弘文館)
歴史書通信(歴史書懇話会)
未来(未来社)
書斎の窓(有斐閣)
UP(東京大学出版会)
そのほかに、国書刊行会と平凡社と新潮社と河出のメール会員になっています。
毎週掲載されている新聞の書評なら、几帳面にいちいち読んでいるのに(新聞の書評委員は、淡白な「単なる担当者」にすぎませんが)、書評誌に執筆している人というのは、当の著者自身か、あるいは著者を知悉する深いゆかりの人が書いているという、いずれにしても相当濃厚な書評で、それをこんなふうに「読み捨て」か「読まず捨て」にしていたなんて、実に失礼な、実にもったいないことをし続けてきたものだなと猛省し、このダレた習慣をすぐにでも改める必要があると痛感しました。
きっと、この暴挙を許していたのは、その冊子が「無料」だったからということも少なからず作用していたことは明らかです。本来、そんなことではいけないのですが、事実なので仕方ありません。
そういう切っ掛けもあって、それ以来、それら書評誌をまとめて手近な場所に積み上げて置いて、いつでも手に取り読めるようにしてあります、不意の「隙間時間」というのが、これで結構あるのです。
まあ、「隙間時間」といっても、べつにこれといった特別な時間を設けているわけではなくて、以前ならただぼんやりやり過ごしていただけの「小さな待ち時間」くらいのことで、例えば、パソコンの遅い起動を待っている時とか(自分のパソは容量が少ないのか、相当に重たいので、馬鹿にできないくらい起動に時間がかかります)、あるいは、見たいテレビの番組と番組との間の中途半端な空き時間とか、ウォーキングの最中に疲れ切ってアゴを出し、その回復のための暫しの休憩時間にとか(薄い冊子なので携帯には便利です)、この書評誌それぞれの記事がごく短いので、そうしたときにちゃっちゃと読むことができ、内容の方も相当圧縮されていて濃いので、このなかの優れた書評などは、もしかすると1冊の本を読了したときと同じくらいの収穫をもたらしているかもしれません。
そこで、その「収穫」のひとつというのを紹介してみますね。それは、東京大学出版会が刊行している「UP」2020年10月号のなかに掲載されていた記事のひとつです。
執筆者は藤垣裕子という人、巻末の執筆者紹介を読むと、こう書かれていました。
東京大学大学院総合文化研究科教授、科学技術社会論。1962年生まれ。
著書には
「専門知と公共性」(東京大学出版会)
「大人になるためのリベラルアーツ」(共著)(東京大学出版会)
「続・大人になるためのリベラルアーツ」(共著)(東京大学出版会)
「科学者の社会的責任」(岩波書店)
「科学技術社会論の挑戦」(責任編集)(東京大学出版会)
などがあげられています。
さて、その「UP」2020年10月号に掲載された評文ですが、
タイトルは「フレディ・マーキュリーの複数の人格をめぐって」という、つかみバッチリ、思わず真っ先に読みたくなるような超刺激的なタイトルです、
しかし、いざその内容はというと、虚名・フレディ・マーキュリーの「パキスタン移民の貧しい無名の青年」としての実像と「華やかなロック・スター歌手」=「同性愛」(あるいは、容貌的コンプレックスの「出っ歯」もカウントしておくべきかもしれません)という「複数の虚構に引き裂かれた人格の破綻」が理路整然と論じられていて、さすが東京大学の偉い先生だけあって、映画に描かれていたような下卑た要素はことごとく排除されて、格調高いその論調には高潔な品位が保たれています、
酒池肉林の頽廃とスキャンダラスな桃色のイカガワシサを期待していた自分としては、どうしてもある種の物足りなさを感じないわけにはいかなかったのですが、それでもその「人格の多重性」を論証するために挙げられているプラターズの「グレート・プリテンダー」(1955年の同曲を、1987年にフレディがカバーした)の歌詞というのが気になりました。
≪そうだよ、僕は大いなる「みせかけ」なんだ
うまく化けているだろう
それは僕が望んだこと。僕は化けすぎ
僕は孤独だけれど誰にも分らない
そうさ、僕は大嘘つきなんだ
ただ単に笑って、ピエロみたいに陽気
ほんとうの僕なんて見えないだろう
王冠を心にかぶって
『モンスター像の裏の孤独』の項でみた彼のセリフと重ねると、この歌詞に込められた彼の孤独が伝わってくる。フレディはクイーンのファーストアルバム1973で『Liar』(嘘つき)という歌を収録している。『Liar』では嘘をつくことに対する逡巡と、神の前での罪悪感がつづられているのに対し、グレート・プリテンダーにはそのような罪悪感はない。自らを偽ることを引き受けてしまっているかの感がある。
彼がグレート・プリテンダーを演じざるをえないのは、舞台の上のモンスター像と素の自分との間にギャップがあるからだが、実はもう一つの大事な理由がある。それは、彼のセクシャリティに関することである。≫
と論文はこれ以降、フレディ・マーキュリーの同性愛嗜好が展開されていくことになるのですが、この段落に付された「注」に、こんなことが書かれていました。
≪ちなみに、1973年の楽曲『Liar』のなかにあった罪悪感は、1975年の楽曲『ボヘミアン・ラプソディ』のなかで、「ママ、ひとを殺しちゃったよ」と歌われるように「もう一人の自分」(異性愛のいい子の自分)を殺すことによって薄められてしまい、1987年にいたっては罪悪感のかけらもない、と考えることも可能である。こういった状況を「なんだか『ライアー』が極限まできてしまったように感じます」と形容する俊逸な記事もある≫
とあって、『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞が、フレディ・マーキュリーがみずからの同性愛嗜好を隠し続けているための自己欺瞞・自己分裂をほのめかしたものだと解釈しているサイトも紹介しています。
なるほど、なるほど、自分も映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たとき、そのなかで歌われていたフレディ・マーキュリーの圧倒的な歌唱に終始押されっぱなしの一人だったのですが、同時に、字幕で歌詞を読みながら、気持ちのどこかで「それにしても、これってずいぶんと変な歌詞だな」とぼんやり考えていたことを思い出しました。
歌詞なんてものは、だいたいが「惚れた、はれた」とか、「遠く離れた故郷がどうした」なんてものが定番なのに、突然「ママ、ついさっき人を殺してしまった」なんて出だしは、どう考えても異常としかいいようがありません、これってどういうシチュエーションなんだと誰だって悩むのは当然じゃないですか。
その「わけの分からなさ」に一定の理解を与えてくれるはずの「同性愛嗜好を隠す自己分裂」という解釈だけでは、なんだか突飛ですっきりしません、本当に、この歌詞が「みずからの同性愛嗜好を隠し続けているための自己分裂」を表わしている歌詞なのだろうか、本当に!? という疑念に捉われた自分は、それから幾日も悩み続けました。
そして悩み続けたすえに、どうにも疑念が晴れないまま、ついに関連事項の検索を始めてみました。
そして、ありました、ありました、例のあの論文が「注」でほのめかしていたサイトというのは、多分これですね。
Mama, just killed a man,
Put a gun against his head,
Pulled my trigger, now he’s dead.
Mama, life had just begun,
But now I’ve gone and thrown it all away.
ママ、ついさっき人を殺してしまったよ
彼の頭に銃を突き付けて
引き金を引いたら、彼は死んでしまったんだ
ママ、人生は始まったばかりだったのに
もう台無しにしてしまった
Mama, ooh,
Didn’t mean to make you cry,
If I’m not back again this time tomorrow,
Carry on, carry on as if nothing really matters.
ママ、悲しませるつもりなんかなかったんだ
もし明日の今頃、僕が戻らなくても、
あなたの人生を歩んでほしい、
なにもなかったみたいにね
Too late, my time has come,
Sends shivers down my spine,
Body’s aching all the time.
Goodbye, everybody, I’ve got to go,
Gotta leave you all behind and face the truth.
もうなにもかも手遅れなんだ
時は来てしまった
背筋にゾッと震えが走り
身体中がいつも痛むんだ
さようなら、みんな、もう行かなくちゃ
君たちの元を去って、真実と向き合わないとね
Mama, ooh (any way the wind blows),
I don’t wanna die,
I sometimes wish I’d never been born at all.
ママ、
ぼくは死にたくなんかないよ
いっそのこと、生まれてこなければ、よかったと思うくらいだよ
それでも「これって、どういうシチュエーションの歌詞なんだ」という疑念は一向に晴れません。
そのほか、「謎単語だらけのクイーン『ボヘミアン・ラプソディ』」なんてタイトルのブログまでありました。
しかし、言い方だけが違うだけで、いずれにしても「わけが分からない」という混乱をさらにかき回すという攪乱要素の部分では一緒です。
いわく
≪クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』は、1975年10月31日に発表された楽曲です。その歌詞については、そのまま読めば「気ままに生きてきた主人公が人を殺めてしまい逃げ延びようとするものの、ついには悪魔にとらわれてしまい観念する」という内容です。今回はそれ以上の深い意味を求めることはいたしません。≫
なるほど、どこまでいっても、歌詞の意味については難解すぎて(無理に解釈しようとすれば泥沼に足を取られるだけの)お手上げ状態、結局は「わけが分からない」という感じのものばかりでした。
いつしか自分もその疑念が晴れないもどかしさに業を煮やしてモヤモヤした感じを抱えたまま、ずるずると幾日かが過ぎていきました。
そして、そんなある日の夕方、いつものように配達されてきた夕刊を何気なく見ていたら、いくつかの映画広告のなかに、ひときわ目につく大きな広告写真が目に飛び込んできました。マルチェロ・マストロヤンニ!! !? !!?? ??
むかし懐かしいマルチェロ・マストロヤンニの大写しの写真、目の前の斜めに渡された鎖を強く握り締め、憑かれたように、じっと一点を見つめている写真、これは言わずと知れた、かのヴィスコンティの名作「異邦人」に違いありません、なになに、デジタル復元版でリヴァイバル上映されるらしいですね。これは懐かしい、最初の公開は1968年とありますから、実に53年も前の映画ということになりますか。
それにしても、またしても1968年です。1968年に特別な意味を感じる人にとっては、特別な年・1968年ということになります。
思わず嬉しくなって極小の活字もいとわず隅から隅まで読み尽くしました。
なになに
≪「異邦人」デジタル復元版
ヴィスコンティ×カミュ×マストロヤンニ
奇跡のコラボレーションが生んだ映像の世界遺産≫
へえ~、「映像の世界遺産」とはね、まあ言い過ぎとは思わないけれど、なにもそこまで言わなくとも、ねえ。
そして、なんだって、
≪半世紀以上再上映 ソフト化されず封印され続けた幻の文芸大作、遂に解禁。
日本国内最新技術によるデジタル復元版にて世界初公開≫
ふむふむ、「日本国内最新技術によるデジタル復元版」だから「世界」に先がけて初公開というわけね、これって世界的な気運の盛り上がりとかじゃなくて、国内的な事情による「初公開」というふうな理解でいいのかな。
そこには何やら深刻にして複雑な事情がありそうなので「まあいいや」とそのへんは飛ばして、それから幾つかの惹句に目を通していたとき、なななんと、驚愕の一文に遭遇しました。
これですよ、これ!!
≪「アルベール・カミュによる不条理な世界」
原作はクイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」にも多大な影響を与え、もう一つの代表作「ペスト」は現在大ベストセラーを記録中≫
あったあったあたたたたたた、あったじゃないですか。
ほらほら、「ボヘミアン・ラプソディ」のあの奇妙な歌詞は、いくら難解だからって、なにも「みずからの同性愛嗜好を隠し続けているための自己分裂」なんて捏ね繰り回して考えないともよかったんだ、ただ単に「異邦人」のシチュエーションを借りた楽曲だったんですよね。そうなんだ、そうなんだ、
ああ、すっきりした!!
参考 【「異邦人」広告全文】
ヴィスコンティ×カミュ×マストロヤンニ奇跡のコラボレーションが生んだ映像の世界遺産、長きに渡り封印されていた幻の文芸大作、ついに解禁。
ノーベル賞作家アルベール・カミュの大ベストセラー「異邦人」は、現代人の生活感情の中に潜む不条理の意識を巧みに描いて大反響を巻き起こした。イタリア映画界の至宝ルキノ・ヴィスコンティ監督は早くからこの20世紀文学の傑作の映画化を志し、長年の構想の末に最高のスタッフ・キャストを集結させ、1967年に完成した。主演はフェリーニ、デ・シーカ監督作品等でも有名な名優マルチェロ・マストロヤンニ、ヒロインは2019年12月惜しくも急逝したアンナ・カリーナ。
没後45年を経ても燦然と輝き続けるヴィスコンティの残された1本、本邦初公開となるイタリア語ヴァージョンで復活。ルキノ・ヴィスコンティ監督は「イノセント」発表後の1976年3月に逝去、2021年は没後45年を迎えるが、その作品群は世代を超え映画ファンに愛され、繰り返しリヴァイバル上映され続けミニシアターの人気番組として定番化している。長編8作目となった本作の日本初公開は1968年9月、大きな反響を呼んだものの、以降は短縮日本語吹替版がTV放映されたが、複雑な権利関係・散逸した映像原版等、様々な理由でVHSはおろかソフト化されることもなく、ヴィスコンティ特集等の限定上映以外長期に渡り鑑賞する機会が皆無であり、まさにファン垂涎の作品となっていたが、遂に今回各映像素材を最新技術によってデジタル復元化し、上映実現となった。また初公開時英語版だった音声は、待望のイタリア語版での公開となる。
混迷の現代に影響を与え続けるカミュの不条理な世界。カミュの原作が発表された年は奇しくもヴィスコンティ監督デビュー作「郵便配達はベルを鳴らす」と同じ1942年であり、早くから映画化の希望をカミュ(1960年没)に直接伝えていたという。本作の主人公の不条理な言動は、クイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞とも類似しており、元ネタとしても有名。また未曾有のコロナ禍の現在を予期していたかのような、伝染病の恐ろしさを描いたもう一つの代表作「ペスト」は、現在全世界で特大ベストセラーを記録している。
映画ファンを魅了するキャスティング。難解な主人公ムルソー役は、フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」「8 1/2」や、本年リヴァイバル上映されたヴィッドリオ・デ・シーカ監督「ひまわり」他、数え切れぬほどの代表作を持つマルチェロ・マストロヤンニ。恋人役には「気狂いピエロ」等ヌーベルバーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督作品でアンナ・カリーナ。2019年12月に惜しくも逝去したが、わが国ではすぐに旧作の特集上映が組まれたほどの熱狂的ファンを数多く持っている。
< STORY >
第二次大戦前のアルジェ、会社員のムルソーは、アルジェ郊外の老人施設から母親の訃報を受け取る。遺体安置所で彼は遺体と対面もせず、通夜の席でコーヒーを飲み、タバコを吸い埋葬の場でも涙を見せなかった。その翌日、偶然再会したマリーと海水浴に行き、映画を見て一夜を共にした。ムルソーは、同じアパートに住む友人とトラブルに巻き込まれ、たまたま預かったピストルでアラブ人を射殺する。太陽がまぶしかったという以外、ムルソーにも理由は分からない。裁判所の法廷では殺害については何も言及されず、ムルソーの行動は非人間的で不道徳であるとされ死刑を宣告される…
< STAFF & CAST >
監督ルキノ・ヴィスコンティ(「ベニスに死す」「家族の肖像」「山猫」)
製作ディノ・デ・ラウレンティス(「道」「天地創造」「戦争と平和」)
原作アルベール・カミュ(「ペスト」)
脚本スーゾ・チェッキ・ダミーコ、エマニュエル・ロブレ、ジョルジュ・コンション
撮影ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽ピエロ・ピッチオーニ(「華やかな魔女たち」「芽ばえ」)
出演マルチェロ・マストロヤンニ(「ひまわり」「昨日今日明日」「ひきしお」)
アンナ・カリーナ(「気狂いピエロ」「女と男のいる舗道」「アンナ」)
ベルナール・ブリエ
ブルーノ・クレメル
日本初公開 1968年9月
キネマ旬報ベストテン 第8位
スクリーン誌ベストテン 第9位
1967年 イタリア/フランス映画
104分 カラー イタリア語 ヴィスタサイズ DCP
© Films Sans Frontieres
配給:ジェットリンク 配給協力:ラビットハウス
それぞれのページ数がゴク少ない小冊子という感じなので、いつでも読めるとタカを括ってほったらかしていると、いつのまにかどんどん溜まって、気が付くと相当な量になっており、その「量」に圧倒され、あわてて関心のありそうな二、三の記事をつまみ食い的にチラッと読んだだけで、結局はホカスという、考えてみれば随分と失礼なことを繰り返してきたのだなと、最近になってつくづく反省しています。
この書評誌、いま手元にあるものだけでも、ざっとこんな感じです。
図書(岩波書店)
波(新潮社)
ちくま(筑摩書房)
青春と読書(集英社)
本(講談社)
みすず(みすず書房)
本郷(吉川弘文館)
歴史書通信(歴史書懇話会)
未来(未来社)
書斎の窓(有斐閣)
UP(東京大学出版会)
そのほかに、国書刊行会と平凡社と新潮社と河出のメール会員になっています。
毎週掲載されている新聞の書評なら、几帳面にいちいち読んでいるのに(新聞の書評委員は、淡白な「単なる担当者」にすぎませんが)、書評誌に執筆している人というのは、当の著者自身か、あるいは著者を知悉する深いゆかりの人が書いているという、いずれにしても相当濃厚な書評で、それをこんなふうに「読み捨て」か「読まず捨て」にしていたなんて、実に失礼な、実にもったいないことをし続けてきたものだなと猛省し、このダレた習慣をすぐにでも改める必要があると痛感しました。
きっと、この暴挙を許していたのは、その冊子が「無料」だったからということも少なからず作用していたことは明らかです。本来、そんなことではいけないのですが、事実なので仕方ありません。
そういう切っ掛けもあって、それ以来、それら書評誌をまとめて手近な場所に積み上げて置いて、いつでも手に取り読めるようにしてあります、不意の「隙間時間」というのが、これで結構あるのです。
まあ、「隙間時間」といっても、べつにこれといった特別な時間を設けているわけではなくて、以前ならただぼんやりやり過ごしていただけの「小さな待ち時間」くらいのことで、例えば、パソコンの遅い起動を待っている時とか(自分のパソは容量が少ないのか、相当に重たいので、馬鹿にできないくらい起動に時間がかかります)、あるいは、見たいテレビの番組と番組との間の中途半端な空き時間とか、ウォーキングの最中に疲れ切ってアゴを出し、その回復のための暫しの休憩時間にとか(薄い冊子なので携帯には便利です)、この書評誌それぞれの記事がごく短いので、そうしたときにちゃっちゃと読むことができ、内容の方も相当圧縮されていて濃いので、このなかの優れた書評などは、もしかすると1冊の本を読了したときと同じくらいの収穫をもたらしているかもしれません。
そこで、その「収穫」のひとつというのを紹介してみますね。それは、東京大学出版会が刊行している「UP」2020年10月号のなかに掲載されていた記事のひとつです。
執筆者は藤垣裕子という人、巻末の執筆者紹介を読むと、こう書かれていました。
東京大学大学院総合文化研究科教授、科学技術社会論。1962年生まれ。
著書には
「専門知と公共性」(東京大学出版会)
「大人になるためのリベラルアーツ」(共著)(東京大学出版会)
「続・大人になるためのリベラルアーツ」(共著)(東京大学出版会)
「科学者の社会的責任」(岩波書店)
「科学技術社会論の挑戦」(責任編集)(東京大学出版会)
などがあげられています。
さて、その「UP」2020年10月号に掲載された評文ですが、
タイトルは「フレディ・マーキュリーの複数の人格をめぐって」という、つかみバッチリ、思わず真っ先に読みたくなるような超刺激的なタイトルです、
しかし、いざその内容はというと、虚名・フレディ・マーキュリーの「パキスタン移民の貧しい無名の青年」としての実像と「華やかなロック・スター歌手」=「同性愛」(あるいは、容貌的コンプレックスの「出っ歯」もカウントしておくべきかもしれません)という「複数の虚構に引き裂かれた人格の破綻」が理路整然と論じられていて、さすが東京大学の偉い先生だけあって、映画に描かれていたような下卑た要素はことごとく排除されて、格調高いその論調には高潔な品位が保たれています、
酒池肉林の頽廃とスキャンダラスな桃色のイカガワシサを期待していた自分としては、どうしてもある種の物足りなさを感じないわけにはいかなかったのですが、それでもその「人格の多重性」を論証するために挙げられているプラターズの「グレート・プリテンダー」(1955年の同曲を、1987年にフレディがカバーした)の歌詞というのが気になりました。
≪そうだよ、僕は大いなる「みせかけ」なんだ
うまく化けているだろう
それは僕が望んだこと。僕は化けすぎ
僕は孤独だけれど誰にも分らない
そうさ、僕は大嘘つきなんだ
ただ単に笑って、ピエロみたいに陽気
ほんとうの僕なんて見えないだろう
王冠を心にかぶって
『モンスター像の裏の孤独』の項でみた彼のセリフと重ねると、この歌詞に込められた彼の孤独が伝わってくる。フレディはクイーンのファーストアルバム1973で『Liar』(嘘つき)という歌を収録している。『Liar』では嘘をつくことに対する逡巡と、神の前での罪悪感がつづられているのに対し、グレート・プリテンダーにはそのような罪悪感はない。自らを偽ることを引き受けてしまっているかの感がある。
彼がグレート・プリテンダーを演じざるをえないのは、舞台の上のモンスター像と素の自分との間にギャップがあるからだが、実はもう一つの大事な理由がある。それは、彼のセクシャリティに関することである。≫
と論文はこれ以降、フレディ・マーキュリーの同性愛嗜好が展開されていくことになるのですが、この段落に付された「注」に、こんなことが書かれていました。
≪ちなみに、1973年の楽曲『Liar』のなかにあった罪悪感は、1975年の楽曲『ボヘミアン・ラプソディ』のなかで、「ママ、ひとを殺しちゃったよ」と歌われるように「もう一人の自分」(異性愛のいい子の自分)を殺すことによって薄められてしまい、1987年にいたっては罪悪感のかけらもない、と考えることも可能である。こういった状況を「なんだか『ライアー』が極限まできてしまったように感じます」と形容する俊逸な記事もある≫
とあって、『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞が、フレディ・マーキュリーがみずからの同性愛嗜好を隠し続けているための自己欺瞞・自己分裂をほのめかしたものだと解釈しているサイトも紹介しています。
なるほど、なるほど、自分も映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たとき、そのなかで歌われていたフレディ・マーキュリーの圧倒的な歌唱に終始押されっぱなしの一人だったのですが、同時に、字幕で歌詞を読みながら、気持ちのどこかで「それにしても、これってずいぶんと変な歌詞だな」とぼんやり考えていたことを思い出しました。
歌詞なんてものは、だいたいが「惚れた、はれた」とか、「遠く離れた故郷がどうした」なんてものが定番なのに、突然「ママ、ついさっき人を殺してしまった」なんて出だしは、どう考えても異常としかいいようがありません、これってどういうシチュエーションなんだと誰だって悩むのは当然じゃないですか。
その「わけの分からなさ」に一定の理解を与えてくれるはずの「同性愛嗜好を隠す自己分裂」という解釈だけでは、なんだか突飛ですっきりしません、本当に、この歌詞が「みずからの同性愛嗜好を隠し続けているための自己分裂」を表わしている歌詞なのだろうか、本当に!? という疑念に捉われた自分は、それから幾日も悩み続けました。
そして悩み続けたすえに、どうにも疑念が晴れないまま、ついに関連事項の検索を始めてみました。
そして、ありました、ありました、例のあの論文が「注」でほのめかしていたサイトというのは、多分これですね。
Mama, just killed a man,
Put a gun against his head,
Pulled my trigger, now he’s dead.
Mama, life had just begun,
But now I’ve gone and thrown it all away.
ママ、ついさっき人を殺してしまったよ
彼の頭に銃を突き付けて
引き金を引いたら、彼は死んでしまったんだ
ママ、人生は始まったばかりだったのに
もう台無しにしてしまった
Mama, ooh,
Didn’t mean to make you cry,
If I’m not back again this time tomorrow,
Carry on, carry on as if nothing really matters.
ママ、悲しませるつもりなんかなかったんだ
もし明日の今頃、僕が戻らなくても、
あなたの人生を歩んでほしい、
なにもなかったみたいにね
Too late, my time has come,
Sends shivers down my spine,
Body’s aching all the time.
Goodbye, everybody, I’ve got to go,
Gotta leave you all behind and face the truth.
もうなにもかも手遅れなんだ
時は来てしまった
背筋にゾッと震えが走り
身体中がいつも痛むんだ
さようなら、みんな、もう行かなくちゃ
君たちの元を去って、真実と向き合わないとね
Mama, ooh (any way the wind blows),
I don’t wanna die,
I sometimes wish I’d never been born at all.
ママ、
ぼくは死にたくなんかないよ
いっそのこと、生まれてこなければ、よかったと思うくらいだよ
それでも「これって、どういうシチュエーションの歌詞なんだ」という疑念は一向に晴れません。
そのほか、「謎単語だらけのクイーン『ボヘミアン・ラプソディ』」なんてタイトルのブログまでありました。
しかし、言い方だけが違うだけで、いずれにしても「わけが分からない」という混乱をさらにかき回すという攪乱要素の部分では一緒です。
いわく
≪クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』は、1975年10月31日に発表された楽曲です。その歌詞については、そのまま読めば「気ままに生きてきた主人公が人を殺めてしまい逃げ延びようとするものの、ついには悪魔にとらわれてしまい観念する」という内容です。今回はそれ以上の深い意味を求めることはいたしません。≫
なるほど、どこまでいっても、歌詞の意味については難解すぎて(無理に解釈しようとすれば泥沼に足を取られるだけの)お手上げ状態、結局は「わけが分からない」という感じのものばかりでした。
いつしか自分もその疑念が晴れないもどかしさに業を煮やしてモヤモヤした感じを抱えたまま、ずるずると幾日かが過ぎていきました。
そして、そんなある日の夕方、いつものように配達されてきた夕刊を何気なく見ていたら、いくつかの映画広告のなかに、ひときわ目につく大きな広告写真が目に飛び込んできました。マルチェロ・マストロヤンニ!! !? !!?? ??
むかし懐かしいマルチェロ・マストロヤンニの大写しの写真、目の前の斜めに渡された鎖を強く握り締め、憑かれたように、じっと一点を見つめている写真、これは言わずと知れた、かのヴィスコンティの名作「異邦人」に違いありません、なになに、デジタル復元版でリヴァイバル上映されるらしいですね。これは懐かしい、最初の公開は1968年とありますから、実に53年も前の映画ということになりますか。
それにしても、またしても1968年です。1968年に特別な意味を感じる人にとっては、特別な年・1968年ということになります。
思わず嬉しくなって極小の活字もいとわず隅から隅まで読み尽くしました。
なになに
≪「異邦人」デジタル復元版
ヴィスコンティ×カミュ×マストロヤンニ
奇跡のコラボレーションが生んだ映像の世界遺産≫
へえ~、「映像の世界遺産」とはね、まあ言い過ぎとは思わないけれど、なにもそこまで言わなくとも、ねえ。
そして、なんだって、
≪半世紀以上再上映 ソフト化されず封印され続けた幻の文芸大作、遂に解禁。
日本国内最新技術によるデジタル復元版にて世界初公開≫
ふむふむ、「日本国内最新技術によるデジタル復元版」だから「世界」に先がけて初公開というわけね、これって世界的な気運の盛り上がりとかじゃなくて、国内的な事情による「初公開」というふうな理解でいいのかな。
そこには何やら深刻にして複雑な事情がありそうなので「まあいいや」とそのへんは飛ばして、それから幾つかの惹句に目を通していたとき、なななんと、驚愕の一文に遭遇しました。
これですよ、これ!!
≪「アルベール・カミュによる不条理な世界」
原作はクイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」にも多大な影響を与え、もう一つの代表作「ペスト」は現在大ベストセラーを記録中≫
あったあったあたたたたたた、あったじゃないですか。
ほらほら、「ボヘミアン・ラプソディ」のあの奇妙な歌詞は、いくら難解だからって、なにも「みずからの同性愛嗜好を隠し続けているための自己分裂」なんて捏ね繰り回して考えないともよかったんだ、ただ単に「異邦人」のシチュエーションを借りた楽曲だったんですよね。そうなんだ、そうなんだ、
ああ、すっきりした!!
参考 【「異邦人」広告全文】
ヴィスコンティ×カミュ×マストロヤンニ奇跡のコラボレーションが生んだ映像の世界遺産、長きに渡り封印されていた幻の文芸大作、ついに解禁。
ノーベル賞作家アルベール・カミュの大ベストセラー「異邦人」は、現代人の生活感情の中に潜む不条理の意識を巧みに描いて大反響を巻き起こした。イタリア映画界の至宝ルキノ・ヴィスコンティ監督は早くからこの20世紀文学の傑作の映画化を志し、長年の構想の末に最高のスタッフ・キャストを集結させ、1967年に完成した。主演はフェリーニ、デ・シーカ監督作品等でも有名な名優マルチェロ・マストロヤンニ、ヒロインは2019年12月惜しくも急逝したアンナ・カリーナ。
没後45年を経ても燦然と輝き続けるヴィスコンティの残された1本、本邦初公開となるイタリア語ヴァージョンで復活。ルキノ・ヴィスコンティ監督は「イノセント」発表後の1976年3月に逝去、2021年は没後45年を迎えるが、その作品群は世代を超え映画ファンに愛され、繰り返しリヴァイバル上映され続けミニシアターの人気番組として定番化している。長編8作目となった本作の日本初公開は1968年9月、大きな反響を呼んだものの、以降は短縮日本語吹替版がTV放映されたが、複雑な権利関係・散逸した映像原版等、様々な理由でVHSはおろかソフト化されることもなく、ヴィスコンティ特集等の限定上映以外長期に渡り鑑賞する機会が皆無であり、まさにファン垂涎の作品となっていたが、遂に今回各映像素材を最新技術によってデジタル復元化し、上映実現となった。また初公開時英語版だった音声は、待望のイタリア語版での公開となる。
混迷の現代に影響を与え続けるカミュの不条理な世界。カミュの原作が発表された年は奇しくもヴィスコンティ監督デビュー作「郵便配達はベルを鳴らす」と同じ1942年であり、早くから映画化の希望をカミュ(1960年没)に直接伝えていたという。本作の主人公の不条理な言動は、クイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞とも類似しており、元ネタとしても有名。また未曾有のコロナ禍の現在を予期していたかのような、伝染病の恐ろしさを描いたもう一つの代表作「ペスト」は、現在全世界で特大ベストセラーを記録している。
映画ファンを魅了するキャスティング。難解な主人公ムルソー役は、フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」「8 1/2」や、本年リヴァイバル上映されたヴィッドリオ・デ・シーカ監督「ひまわり」他、数え切れぬほどの代表作を持つマルチェロ・マストロヤンニ。恋人役には「気狂いピエロ」等ヌーベルバーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督作品でアンナ・カリーナ。2019年12月に惜しくも逝去したが、わが国ではすぐに旧作の特集上映が組まれたほどの熱狂的ファンを数多く持っている。
< STORY >
第二次大戦前のアルジェ、会社員のムルソーは、アルジェ郊外の老人施設から母親の訃報を受け取る。遺体安置所で彼は遺体と対面もせず、通夜の席でコーヒーを飲み、タバコを吸い埋葬の場でも涙を見せなかった。その翌日、偶然再会したマリーと海水浴に行き、映画を見て一夜を共にした。ムルソーは、同じアパートに住む友人とトラブルに巻き込まれ、たまたま預かったピストルでアラブ人を射殺する。太陽がまぶしかったという以外、ムルソーにも理由は分からない。裁判所の法廷では殺害については何も言及されず、ムルソーの行動は非人間的で不道徳であるとされ死刑を宣告される…
< STAFF & CAST >
監督ルキノ・ヴィスコンティ(「ベニスに死す」「家族の肖像」「山猫」)
製作ディノ・デ・ラウレンティス(「道」「天地創造」「戦争と平和」)
原作アルベール・カミュ(「ペスト」)
脚本スーゾ・チェッキ・ダミーコ、エマニュエル・ロブレ、ジョルジュ・コンション
撮影ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽ピエロ・ピッチオーニ(「華やかな魔女たち」「芽ばえ」)
出演マルチェロ・マストロヤンニ(「ひまわり」「昨日今日明日」「ひきしお」)
アンナ・カリーナ(「気狂いピエロ」「女と男のいる舗道」「アンナ」)
ベルナール・ブリエ
ブルーノ・クレメル
日本初公開 1968年9月
キネマ旬報ベストテン 第8位
スクリーン誌ベストテン 第9位
1967年 イタリア/フランス映画
104分 カラー イタリア語 ヴィスタサイズ DCP
© Films Sans Frontieres
配給:ジェットリンク 配給協力:ラビットハウス