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あにいもうと

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例えば、長年気に掛かっていた未見の作品を、やっと見られるという機会に遭遇しても、その時もたまたま忙しくて、残念ながらやり過ごさなければならず、結局またも見逃したという作品なら、そりゃいままでだって数え切れないくらいあったわけですが、しかし、成瀬巳喜男作品だけは、どんなに多忙でも仕事の折り合いをつけて、必ず見るという自分のなかでの決め事だけは守ってきたつもりでした。

しかし、最近、その長年の思いが、結構「そう」でもなかったのかもしれないという事実を突きつけられた事態に遭遇しました。

実は先日、川本三郎の「成瀬巳喜男 映画の面影」(新潮選書2014.12.17刊)を読んでいたときのことでした、読みながら、ずっとある思いに捉われていました。

この本の冒頭は、淀川長治と対談したときのことから書き起こされていて、そこにはこんな遣り取りが記されています。

川本が「成瀬巳喜男は、お好きですか」と問うと、淀川は「いやよ、あんな貧乏くさい監督」とにべもなく即座に答えたというのです。

何事も派手好みで、黒澤明が大のお気に入りだった淀川長治らしい答えですが、川本三郎は、この答えを逆のバネにして、成瀬巳喜男の数々の名作群を語り出しています。

成瀬巳喜男が、十分すぎるくらい地味で貧乏くさい監督なのは、いまさら言われるまでもないことですし、その一方で、抑圧された生活に耐える小市民の悲哀を淡々と描いた成瀬作品のもつ魅力は、すでに海外においても高い評価を得ていることは、僕たちも十分に承知しており、これも「いまさらいわれるまでもない」ことではあります。

つまりこの本が、「いまさらいわれるまでもない」ことについて書かれているだけの本にすぎず、自分にとっても取り立てて得るものはなかったのですが、しかし、読んでいる間、ずっと気に掛かっていたのは、なぜ冒頭に、わざわざあの見当違いで低次元な淀川発言を据える必要があったのかでした。

まあ「貶しておいてから持ち上げる」というその「落差」によって書くテーマに精彩を与えようとするのは、物書きがよく使う姑息な手法にすぎないといってしまえば身もふたもありませんが、しかし「いやよ、あんな貧乏くさい監督」は、いくらなんでもひどすぎるのではないかと、ずっと気に掛かっていたのです(というよりも、とても嫌な気持でした)。

これってまるで、誰かに取り入るために誰かを貶さなければならないみたいなジレンマを課すみたいな、卑劣さと罪悪感とを読む人間に強いるそんな「いかがわしさ」を感じてしまったからだと思います。

しかし、それはそれでいいのです、そういう手法を駆使した本なら世間にはいくらでもあるし、むしろその方が「常道」なのかもしれません。

自分が感じたのは、「いまさらいわれるまでもない」成瀬巳喜男の魅力について書かれたこの本を読みながら、もしかしたら、ここに書かれているもはや言い古された感のある「成瀬巳喜男の魅力」は、本当に「そう」なのかという疑問でした。

例えば、淀川長治が、その「豪放磊落さ」によって黒澤明が大のお気に入りだったというなら、それはやはり「七人の侍」によってだったろうし、そして「用心棒」や「椿三十郎」によってだったに違いなく、決して「静かなる決闘」に対してではなかったはずです。

そういう意味では、性病と愛する許婚者のあいだで思い悩む女々しさを惜しげもなく描いた「静かなる決闘」は、黒澤明らしからぬ作品だったために、あまり語られることのなかった失敗作だったかもしれませんが、しかし、黒澤作品であることには変わりなく、これを「無視」するというのは、なにか違うのではないかという気がしたのです。

作家が抱え込むこの違和感を、「らしさ」で売るための商業上つくられた「虚像」から外れる異端作「静かなる決闘」を無視せざるを得ない行き方が、一方的な「黒澤明」像を確立させてしまったのではないかとずっと考えてきました。

考えてみれば、かくいう自分だって「静かなる決闘」を実際に見たのは、「豪放磊落」な黒澤明の諸作品を見たのち、かなり経ってからのことだったと思います。

そのとき、自分にとって「静かなる決闘」に相当するような成瀬巳喜男作品とはいったいなんだろうと考えたとき、1953年大映東京作品「あにいもうと」が思い浮かんだのでした。

自分が「あにいもうと」を実際に見たのは、つい最近のことです。

それは「あにいもうと」の語られる機会が、とても少ないことと呼応していることと関係あるかもしれません。

川本三郎の「成瀬巳喜男 映画の面影」のなかでも、この作品のタイトルが出てくるのはたったの二箇所で、それも内容を論ずるなどというものではなく、著名作品と撮影場所が同じとかいう理由でチョロっと紹介されるにすぎません。

そりゃあ「めし」1951や「おかあさん」1952、そして「稲妻」1952、「夫婦」1953、「妻」1953、「山の音」1954から「晩菊」1954、「浮雲」1955と至る成瀬巳喜男のピークを論じるとき、たしかに「あにいもうと」1953の成瀬らしからぬ荒々しさは異色ですし、とても違和感があって、そういう作品をあえて諸作品の系譜のなかに無理やり溶け込ませようとすれば、辻褄あわせがたたって論旨が破綻してしまうかもしれません。

実をいうと、自分もずっとこの「あにいもうと」の荒々しさは、苦手でした。

京マチ子の「もん」はともかく(炸裂するその激しい演技は「羅生門」ですでに経験済みです)、名優・森雅之を粗暴でぐうたらな川人足役で起用するなんて、ミスキャストも甚だしいではないかと人一倍感じてきました。

それは、兄・伊之吉を演じた森雅之が、「妹を思う気持ちは人一倍あるが、それをうまく現わすことのできない兄の、面と向かえば口汚く罵ることしかできない」表面的なことは演じられても、はたして、「妹との深い兄弟愛」という深い部分を演じ切ることができただろうか、という疑問です。

「口汚く罵る」ことの更にその向こうにあるという「妹を思う気持ち」がその演技に感じられてさえいれば、他の著名作品にくらべても遜色なく、この作品がこれまでこんなにも不遇をかこつこともなかったに違いありません。

おそらく、妹を孕ませた学生・小畑(船越英二が演じています)が「もん」を訪ねてやってきたその帰り道、伊之吉が小畑を待ち伏せする場面に、兄が「妹を思う気持ち」をどのよう表現すればよかったのか、そのすべてが掛かっていたのだと思います、そして結果は、残念ながら支離滅裂の印象しか受けませんでした。

最初、伊之吉は小畑に、妹を孕ませたことに激しく言いがかりをつけ、恐喝するだけなのかと思っていると、突然妹とのむかしの思い出をしんみりと語りだし、自分がいかに妹を心配してきたかをしみじみと小畑に訴えかけます。

伊之吉から凶暴な怒りをぶつけられて危害を加えられるのかと恐れおののいていた小畑は、突然妹との懐旧の思いを聴かされる伊之吉のその豹変ぶりに呆然自失して、棒立ち状態に見えてしまいました。

演者の船越英二自身が、その演技の豹変をどう受けていいのか戸惑っている様子がありありとしていました。

それはちょうど、伊之吉の荒々しさが「妹を思う気持ち」にまで辿ることのできない置き去りにされた観客の「呆然」に通ずるものがあったからに違いありません。

暴力を振るっておいて、オマエを殴るのはお前を思う「優しさ」からなどという歪んだアクロバティックな論法に、そもそも無理があったのだと思います。

しかし、世の中にはDVを受けたながら「あの人は私を愛しているから殴るの」とか訳の分からないことを言って別れられない女性もいるとかいうくらいですから、それを思うと森雅之のあの演技の分裂も、結構あれはあれでよかったのかもしれませんね、そんなふうに思えてきました。

キネマ旬報5位。
この年の1位は、今井正の「にごりえ」、2位「東京物語」、3位「雨月物語」、4位「煙突の見える場所」。
同じ原作の映画は、木村荘十二監督による「兄いもうと」1936がある。

(1953大映東京)監督・成瀬巳喜男、企画・三浦信夫、原作・室生犀星、脚本・水木洋子、撮影・峰重義、録音・西井憲一、照明・安藤真之助、美術・仲美喜雄、装置・小宮清、音楽・斎藤一郎、編集・鈴木東陽、助監督・西條文喜、製作主任・西沢康正、装飾・尾上芳夫、小道具・永川勇吉、背景・中村柱太郎、園芸・坂根音次郎、工作・田村誠、電飾・金谷省吾、技髪・鈴木英久、結髪・篠崎卯女賀、衣装・堀口照孝、音響効果・花岡勝次郎、移動・小野秀吉、スチール・椎名勇、記録・堀口日出、俳優事務・中山照子、撮影助手・中尾利太郎、記録助手・三橋真、照明助手・田熊源太郎、進行係・阪根慶一、
出演・京マチ子(もん)、森雅之(伊之吉)、久我美子(さん)、堀雄二(鯛一)、船越英二(小畑)、山本礼三郎(赤座)、浦辺粂子(妻・りき)、潮万太郎(貫一)、宮嶋健一(喜三)、河原侃二(坊さん)、山田禅二(豊五郎)、本間文子(とき子婆さん)、高品格、高見貫、原田該、鈴木信、日下部登、筑紫美枝子、目黒幸子、美川陽子、谷遥子、花村泰子、村松若代、松永倭文子、
2378m(10巻)、1953.8.19


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