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Channel: 映画収集狂
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写経

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先日、若い女子社員のグループから、先週末に京都旅行に行ってきたのでと、京都の珍しいお菓子をもらいました。

美味しそうなお菓子もなによりですが、若い女性たちが旅行の思い出話をいかにも楽しそうに話す賑やかな様子の方も、くたびれ果てた中年おやじには、なによりもの癒しになるのであって、その若々しく華やかな笑い声に囲まれているだけで、こちらも元気をもらえる感じがします。

こんなことでもなければ、会社で仏頂面を崩せる機会など滅多にあるものではありません。

その彼女たちがそれぞれ語る京都の思い出話をつなぎ合わせていくと、思わず「へえ~、そんなに方々回ったの」と、ついあきれてしまうくらい見当違いな地名が飛び交っています。

そのうえさらに、途中では老舗料理屋に立ち寄ってミニ懐石料理まで味わったというのですから、その欲張りすぎる無謀なプランにはあきれ返りました。

このツアー、聞いているだけで支離滅裂で、その掴み所のなさに、思わず「それじゃあ、さぞかし強行軍の忙しい旅行だったろうね」と同情の言葉が反射的に出てしまうほどでした。

客集めのために内容をてんこ盛りにしがちなツアー旅行の弊害を皮肉を込めて言ったつもりだったのですが、思い出話に花を咲かせている彼女たちには全然通じません、楽しげな哄笑に飲み込まれ、ササヤカな皮肉など木っ端微塵に粉砕されてしまいました。

そのときちょうど盛り上がっていた話題というのが、○○寺で体験した「写経」でした。

「へえ~(今日は、なんだか「へえ~」ばかり連発してしまう、やたら感心しまくる日です)そりゃまた古風な」と、今度もまた、興味のないものまで無理やり「させられる」体験ツアーの煩わしさを皮肉ったつもりだったのですが、思い出話に興奮している彼女たちには一向に通ずるわけもなく、やはり、ここも空しく言葉を飲み込まざるを得ませんでした。

「でもさ、お経なんて興味あんの?」

「全然ないです。でもお習字みたくて、すごく楽しかったですよ」

と答える彼女を見ながら、そういえば彼女、目の前に出されたどんなやっかいな仕事でも文句も言わず処理してくれる素直な、そしてそこがちょっと物足りなくもあるイマドキのお嬢さんらしい淡白なリアクションではあるよなと、変な納得の仕方をした次第です。

いちいち「議論」して納得しなければ簡単には物事を受け入れることのできない面倒くさい自分たちの世代とは、この辺が大いに異なるところだなと感じました。

そしてこういう一種の素っ気無さというのが仕事の面にも時折現れ、具体的な事例に接するたびに個々には注意することはあっても、根本的な「姿勢」というか、つまり「性向」批判に繋がるようなことについて、ジカに言うことは、めったにありません。

生まれ育ったその「時代」の空気によって身についてしまったものだから(自分にしたって「そう」ですよね)如何ともしがたいという思いがあるから、追求したり、突き詰めたりすることに気後れみたいなものを感じてしまいます。

でも、いい面ももちろんあるのですが、こうした淡白さが、もしかしたら彼・彼女たちが現在人間関係を構築するうえでとても障碍にもなっているのではないかと、ときどき危惧することがあります。

「他人と深く関わりたくない」という気持ちが、どうしても人間関係を希薄にさせてしまっているという印象が拭えないからでしょうか。

営業としては、致命的な性向だし、もしかしたら最近の若い人の未婚率の高さもこの辺りのことが関係しているのではないかと思ったりしています。

例えば、「結婚」に迷ったとき、それなりに思い悩み、突き詰め、格闘したすえにやっと得た結論(「決着」という方が相応しいかもしれません)というのが、いってみれば自分の決意ともなるのであって、最初からその「突き詰め」自体を厭い、躊躇して「かったるい」とかなんとかと断じて踏み出せずにいたら、結局なにも得られないのではないか、だから自分だけの殻に閉じこもる状況があるような気がします。

まあ、余計な話ですが。

午後、渋茶をいれてもらって、例の京都のお菓子をいただきながら、さっき聞いた「写経」についてぼんやりと考えていました。

自分もお経などついぞ今まで縁がなく、興味すらもなかったので、その有り難さまではよく理解できないでいるのですが、それでも最近「写経」というのが一応ブームみたいになっていることは、ちょっと耳にしたことがありました。

経文を一字ずつ正確に書き写すことによって心を鎮め、静謐な境地を得るとかいうアレですよね。

「正確に」といっても、聞くところによると、すでに「写経」用の半紙が印刷物として存在し、そこには漢字が薄く印刷されていて、ただそれを上からなぞるだけなので、そこにはむしろ「不正確」に書こうとすることの方が「有り得ないこと」らしいのです。

でも、よく考えてみれば、これってずいぶん人を馬鹿にした話じゃないですか。

意味を理解していない経文を、アタマから有り難がって、ただ単に書き写すなどという行為に、どれほどの意味があるのか、とても疑問ですし、むしろ、そういう変な観念が付きまとわないという意味でなら、「ぬり絵」の方がまだしも自分なりの工夫がほどこせるし、無心に色をぬるという行為の方が、(おそろしく頽廃した空虚な「写経」に比べたら)まだまだ意義のあることのような気がします。

そこで考えました。

「書き写す」という行為は、確かに貴重な行為です。

自分たちが小学生のとき、国語の授業でよく、「書き取り」という学習をやらされました。

教科書の重要な箇所をマルゴト書き写すアレです。

デジタル時代のいま小学生がこういう学習をやっているかどうかは知りませんが、子どもの書く力を培うには、これがなかなかスグレモノで、教科書を眺めていただけでなんか分かったような気でいた漢字が、いざ自分で実際に書いてみるとさっぱり書けない、ヘンテコな字を書いてしまって、まるで理解していないことが一目瞭然に分かります。

ですので、「書き写す」という行為は絶対に残しておくべきだとしても、しかし、問題は、「意味の分からない経文を、アタマから有り難がって、ただ単に書き写すなどという行為に、どれほどの意味があるのか」の方です。

つまり、意味が分からない経文を、ただ闇雲に書き写して有り難がるという空しい行為がNGだとすれば、ここは「経文」などに拘らず、自分がいままでに出会って感動した文章、ここでいう「経文」に匹敵するくらい意義ある文章を書き写すということにしたらどうだろう、そして、自分にとって実際「それ」がいったいなににあたるのか、と考えてみました。

いままで自分が出会った、そして最初に感動した文章(それこそ自分にとって「写経」に相応しいもの)とはなにか、実は、自分のなかにこの問いを発した瞬間、いや、もしかすると発するずっと以前から、その答えは既に自分の中に用意されていたような気がします。

それはアルベール・カミュの「異邦人」の最後の一節、死刑の執行を待つムルソーが、司祭から諭されます、自分の罪を認め、悔い改めれば救われるのだぞと。

そのとき、突然ムルソーは怒りに駆られ逆上します。

社会のなかで、どうすれば自分の居場所を定めることができるのか、そもそもこの世の中をどのように生きていけばいいのかと、自分もまた思い迷っていたときでした。

自分が抱いていた世間に対する違和感を、どうにか縮めることばかり考えていた自分に、「異邦人」は、そんなものは突き放してしまえ、社会におもねることなく、自分は自分らしく自分なりに生きていけばそれでいい、自分を理解されないことなど恐れるな、たとえ世間から非難され、八つ裂きにされ、殺されようとも、それでいいではないかと、生きる意味(無意味)を教えてくれたうえに、勇気を与えてくれた一文のような気がします。

というわけで、自分なりの「写経」第1回目というのを始めてみますね。

文庫本を参照しながらタイピングしていくのですが、長い時間をかけて既に自分の中で完成してしまっているものとのズレがあるとすれば、やはり「自分優先」ということになりますので、実際の本文との齟齬は当然生じることをお断りしておかなければなりません。

では。

《そのとき、私の中で何かが裂けた。
私は大口を開けて怒鳴り、彼らを罵り、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞと叫んだ。
私は法衣の襟首をつかみ、私のなかに沸き立つ喜びと怒りとにおののきながらも、彼に向かって、心の底をぶちまけた。
君はまさに自信満々じゃないか。そうだろう。
しかし、その信念のどれをとっても女の髪の毛一本の重さにも値しないことが分からないのか。
君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ自信がない。
私はどうだ、このとおり両手は空っぽだが、しかし、私には自信がある。自分について、すべてについて、君なんかよりはよほどに強く。
また、私の人生について、来るべきあの死についても。
そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私をとらえているのと同じだけ、私はこの真理をしっかりととらえている。
私はかつて正しかったし、いまもなお正しい。いつも私は正しかったのだ。
私はこのように生きたが、また別なふうにも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、そのあとは? 
私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたように思う。なにものも、なにものといえども重要なものはなにひとつなかったといえる。そのわけを私は知っているし、君もまた知っているはずだ。
これまでのあの虚妄な人生の営みのあいだじゅう、私の未来の底から、まだやってこない年月を通じて、ひとつの暗い息吹が私のほうへ立ち上がってきた。
その暗い息吹がその道筋において、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにしたのだ。
他人の死、母の愛-そんなものがいったいなんだろう。いわゆる神、人々の選び取る生活、人々の選ぶ宿命-そんなものに何の意味があるだろう。
ただひとつの宿命がこの私を選びとり、そして、君のように、私を兄弟とよぶ、その無数の特権ある人々を、私とともに、選ばなければならないのだから。
君は分かっているのか? いったい君は分かっているのか? 
誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、この世にいはしないのだ。他の人たちもまたいつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。
そのなかでたまたま人殺しとして告発されたその男が、母の埋葬に際してただ涙を流さなかったという理由のために処刑されたとしても、そんなことに何の意味がある? 
サラマノの犬には、その女房と同じ値打ちがあったのだ。機械人形みたいな小柄な女もマソンが結婚したパリ女と等しく、また、私が結婚したかったマリイと等しくすべて罪人だったのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それがなんだ? マリイが今日、もう一人のムルソーに接吻を与えたとしても、それがなんだろう? 
この死刑囚め、君はいったい分かっているのか? 
私の未来の底から・・・

すべてをこのように叫びながら、私は息が詰まった。
すでに司祭は私の手から引き離され、看守たちは私を脅しつけていた。しかし、司祭は彼らをなだめ、そして一瞬黙って私を見た。不可解だったが、その目には、たしかに涙が溢れていた。彼はきびすを返して、消えていった。

彼が出て行くと、私は平静を取り戻した。
私は精根尽きて寝台に身を投げた。
私は眠ったらしい、顔の上に星々の光を感じて目を覚ましたのだから。
田園のざわめきが私のところまで届いた。夜と大地と塩の匂いが、こめかみをさわやかにした。この眠れる夏の素晴らしい平和が、潮のように、私を浸した。
このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った。
それは、いまや私とは永遠に無関係になったひとつの世界との決別を告げているかのようだった。
そして、ほんとうに久しぶりで、私はママンのことを思った。
ひとつの生涯のおわりに、なぜママンが「許婚者」を持ったのか、そして生涯をやり直す振りをしたのだろうか、それがいまなら分かるような気がする。
いくつもの命が消えていくあの養老院のまわりでも、夕暮れは憂愁にみちた休息のひとときをもたらす。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、あらためて生きることを実感したに違いない。なんびとも、なんびとといえども、ママンのことを泣く権利などない。
そして私もまた、いまこそ生きていることを実感できる。
私をとらえたあの大きな憤怒が、私の罪を洗い浄め、愚劣な「希望」などすべてを空にしてしまったおかげで、星々にみちた静かな夜につつまれて、私ははじめて世界の優しい無関心に心を開くことができた。
自分を世界の一部と感じる安らぎのなかで、私は、いままで自分が幸福だったことと、いまもなお幸福であることをつよく悟った。
一切がはたされ、わたしがより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといえば、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えるであろうという思いにとらわれたとき、これほど世界を自分に近いものと感じたことはなかった。》


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