滅多にない長い休暇となる年末を読書三昧で過ごそうかと急に思い立ち、適当な本を借りに、先日、図書館に出かけました。
そういえば、今日は今年最後の図書館開館日だったっけ、しかも行った時間が閉館間際の夕方だっただけに、駆け込みで本を借りようとして何冊もの本を重そうに抱えた多くのお客さんたちで貸し出し窓口はごったがえしていて、もはや長蛇の列でした。
もの凄い混雑を横目にしながら、もう面白い本などとっくに借り出されてしまっているに違いないという諦めの気持ちで、館内の雑踏とはウラハラの隙間だらけの寒々しい書棚を見て回りました。
当然、新刊書など残されているわけもありませんが、そんな気持ちで「映画」の棚ものぞいてみて回っていたとき、ある本の背表紙のタイトルが、さっと目に飛び込んできました、「原節子のすべて」とあります。
それってまさか、今年、新潮社から刊行されたばかりのアレじゃないよな、と思いながらさっそく手に取ったところ、まさにその本でした。
借り手ばかりがいやに多すぎるという需要過多のこの状況下で、まだ新刊本が残っていること自体、ホント奇跡とはこのことです。
こんなことって、まずありません。
なんか、ラッキー!という気持ちで借り受けて、家に帰って早速読み始めた次第です。
この本には、本来、原節子の幻の出演作(かどうかは疑問です)「七色の花」という作品のDVDが付録として付いているとのことですが、著作権者からの貸出許諾が得られなかったとかで「貸し出しができません」というシールが貼られています。
むこうさんが、ヤレ著作権がどうしたと騒ぎ立てるなら、それはそれで仕方なく、こちらとしては、ご当人の印税受領の当然の権利を侵害するわけにもいかず、そりゃ諦める立場でしかないわけですが、無資力な庶民にとっては、マコトに恨めしい限りで本当に残念です。
それにしても、自分は、この図書館で、新刊本「原節子のすべて」の借り手がいなかったことを、思わず奇跡的なラッキーと狂喜してしまったのですが、しかしマテヨと。
これって本当にそういうことだったのか、と少しあとになって改めて不安な気持ちに捉われました。
もしかすると「いまどきの人たち」などは、原節子になんか興味を持たず(ヘタすると、若い人たちのなかには、「原節子なんか知らないよ」なんて言い出す連中だっていないとも限りません)、この本が借りられなかったのは、実は「奇跡」などではなくて、最初から借り手なんかいなかったという方が真実だったのではないか、とちょっと疑心暗鬼に捉われたりもしたのですが、いやいや、そんなことはない、現にこうしてメジャーな出版社から単行本として堂々と刊行されているわけじゃないですか、このこと自体、彼女の人気が「一過性」のものなんかではなく「永遠性」を獲得しはじめていることの証拠に違いないく・・・いやいや、そうであらねばならないハズだと自分に言い聞かせた次第です。
それに「著作権」とかの観点からいえば、やっぱ内容を第三者にコト細かに伝えたりしてもいけないことなのでしょうが、しかし、「目次」くらいの紹介なら、かえってこの本の宣伝にも販売促進にもなることでもあるし、べつに咎めだてされるようなこともないだろうと考え、主だった項目だけを筆記してみることにしました。
最初のコラムは、白井佳夫の「なぜ原節子だけが永遠なのか」です。
キネマ旬報の元編集長で、むかしこの人の解説付きで貴重な邦画をテレビで何本も放映していたのを、よく見ていました。
今井正の「にごりえ」とか「どっこい生きてる」など、この番組枠で始めて見ることができて、そうとうに衝撃を受けた記憶があります。
次の論評は、石井妙子という人の「評伝 原節子」です、サブタイトルは「『永遠の処女』の悲しき真実」とあります。
なるほど、なるほど、でも白井氏もそうですが、誰もがこう「永遠、永遠」って幾度も持ち上げて、「永遠の処女」とかをこんなふうに大安売りされると、「永遠の処女」もなんだか少しダレてきて、薄汚れはじめ、ヘタするとどんどんグロテスクなものに変質しかねない嫌な感じを覚えます。
そうか、そのこと(標語化されることで、手垢にまみれて本来の清冽さが失せて、イメージがどんどん薄汚れてしまうという感覚)をいちばん意識したのは、もしかしたら、当時の原節子自身ではなかっただろうかという直感が、そのとき、ふと自分の脳裏を過ぎりました。
原節子をミステリアスな存在にしている「永遠の処女」というイメージを形作っているものは、たぶん「一生結婚しない」とか「決然とした引退」とか「二度と人前には姿を見せない」という、あの楚々とした面差しからは到底推し量りがたい決然としたもの、それらの衝撃的な幾つかの事実が積み重ねられて形作られているものだと考えられます。
そして、そのどれにも彼女の強い意思が秘められていて、女優として、あるいは人間としての人生のターニングポイントにおける彼女の選択のどれもが、あまりに純粋すぎて、庶民の通念からはちょっと推し量ることのできない常識を超えた、「虚を突く」ような決然とした判断があってのことと気づかされます。
彼女の標語の「気高い貞操観念」とか「純潔」とか「強固な道義心」など、それら彼女の揺るぎない意思が、庶民に衝撃的な感銘を与えたことは、たぶんそれはその通りだったでしょうが、同時にそれは庶民が「敬遠」せざるを得ないものでもあったことが、借り手がつかないまま図書館の書棚にいつまでも取り残されていたあの現象に繋がるのかもしれないなと思い至りました。
確固とした貞操観念や純潔や強固な道義心などは、それは確かに「感銘」を与えはするでしょうが、庶民には、それはあくまでも映画館の中だけで感銘するくらいでいい「理想」に過ぎず、その日暮しで世過ぎ身過ぎをしなければならない泥にまみれた庶民にとっては、到底無縁の、かえって疎ましいものでしかないこと(庶民にとっては、「高潔さ」など、あくまでも「商標」としてだけ理解すればいい馬の糞か駱駝のゲップほどの価値しかないもの)、それこそが「原節子」と「観客」を隔てる正しい距離だったはずです。
そして、そのことをいち早く、そして最も正しく認識したのは、原節子本人だったのではないか(当然それは、自身の受けるべき真正な「屈辱感」としてだったはずです)と考えました。
つまり、メディアが飾り立てた商標的な虚飾の部分を洗い流していけば「純潔」や「貞操」や「隠棲」の真正な姿が(いかがわしい部分も)現れるのではないか、少しは原節子の実像(庶民の実像とともにです)に近づけるのではないかと考えたのですが、しかし、単にこれらの関係性だけに拘っていたら、なにも見えてこないことは、統一性を欠いたこのヨイショ本「原節子のすべて」の雑多な内容(そのどれもが随筆「馬の糞」か論考「駱駝のゲップ」です)を誠実に隅々まで精読しても、なにひとつ得るものがなかったことからも明らかです。
それは、単にいままでの「原節子像」の認識の失敗を繰り返すだけの、前車の轍を踏む愚行を繰り返すだけのことでしかないような気がします。
「原節子のすべて」の中ほどに「1937年 原節子の世界一周」という二色刷りのページがあります。
ドイツとの合作映画「新しき土」のドイツでの公開に合わせて、出演した原節子が招聘されたもので、ほかに川喜多長政・かしこ夫妻と義兄の熊谷久虎監督が同行したとあります。
東京駅(1937.3.10)を出発して中国・大連(1937.3.14)からシベリア鉄道経由でベルリン(1937.3.26)に入り、パリ(1937.5.21)からニューヨーク(1937.6.21)、ニューオリンズをまわってサンフランシスコ(1937.7.12)、太平洋を渡って日本(1937.7末)へ帰るという、4ヶ月余にわたるまさに世界一周の旅をした行程が7頁にわたり詳細に書かれていて、各地で撮られて当時の写真も何枚か掲載され、川喜多夫人とのツーショット写真では、旅の疲れも見せずに笑顔さえ見せている朗らかな若き原節子の姿が写されています。
それだけに、熊谷久虎と隣り合わせで撮られたほかの2枚の写真の原節子のいやに緊張した表情が、異様に見えてしまいました。
そもそもドイツに招聘さるというのなら、原節子はともかく、同行者に熊谷久虎というのは、ちょっと意外な感じがします。
映画の関係者という線なら、まずは監督の伊丹万作が同行するというのが自然でしょうし、伊丹監督が病弱で無理というなら、主演の小杉勇が同行するというのが道理にかなったことのような気がします。
「義兄が一緒でなければ、自分は行かない」と原節子が駄々をこねたのか、熊谷が「俺を同行させなければ、義妹は行かせない」と凄んだのか、しかし、そのどちらにしても、限られた「同行者枠・一名」という貴重な席を「義兄」が捻じ伏せるように座を占める強引さは、とても不自然です。
義兄をカギ括弧でも括らなければ、この「影響大」の不自然さの納まりがつきません。
もし、そこに信頼関係以外になんらかのことがあったとすれば、この「同行者枠・一名」の強引な印象への疑惑から発した《「純潔」や「貞操」や「隠棲」の真正な姿が(いかがわしい部分も含めて)現れるのではないか》という投げ掛けの、一応の答えの体裁としては整ったかなと考えました。
石井妙子「評伝 原節子-『永遠の処女』の悲しき真実」には、東宝プロデューサー・藤本真澄が原節子との関係についての語った述懐が、孫引き引用されています。
《原節子に、実は惚れてたんだよ、昔だけどもね。
できたら結婚したいなんて若気の至りで思ったんだが、そのとき、ほら、熊谷久虎。知ってるだろう、姉さんの旦那さ。
あの右翼野郎と出来てるってきいてね、それで、あきらめたのさ》40頁下段、(原出「シナリオ別冊 脚本家 白坂依志夫の世界」平成20.6)
《小津は死に、熊谷は映画を撮ろうとはしなくなり、そして節子は女優をやめた。
数々の小津映画に出演し、それがゆえに女優としての評価を高めた節子である。
にも拘わらず、彼女は昭和27年の時点で、自分の出演作で気に入っているものを聞かれて、「晩春」も「麦秋」も挙げてはいない。
そのうえでこのように述べているのである。
「いまやってみたいと思っている役に細川ガラシャ夫人があります。実現できれば義兄の熊谷(久虎のこと)に演出してもらいたいんです。私の見た日本映画でほんとに心に迫るものを感じたのは、義兄の監督した『阿部一族』でした。義兄のことを褒めて気が引けるんですが、私は熊谷の演出を高く買っています。」
小津よりも熊谷を高く評価していたと受け取れる発言である。
それほどまでに熊谷への崇敬の念は強かったのか。
熊谷の才能を認めようとせず、『細川ガラシャ伝』の企画を潰した日本の映画界に彼女は背を向けたのかもしれない。》39頁中段(「近代映画」昭和27.1)
wikiでの熊谷久虎の紹介は、こんなふうに始まっています。
「戦時中多くの映画監督たちが国策映画や戦意昂揚映画を撮ったことはよく知られているが、そのなかでも熊谷久虎の存在は特異である。」
【熊谷久虎】1904.3.8~1986.5.22
1904年大分県中津市に生まれた。隣家は福沢諭吉の生家だった。中津中学校を経て
22年大分高等商業を卒業。
25年、父親の従兄弟で日活の重役・池永浩久のツテで大将軍撮影所に入社した。当時、池永は撮影所長を兼ねていて、豪放な性格から「聯隊長」の異名をとっていて、その人情味あふれる人柄で厚い人望を集めていた。熊谷は田坂具隆の組についた。
30年に監督昇進。第一作「恋愛競技場」。監督五年ほどは青春謳歌の明るい作品が多いが、師匠の田坂のスタイルを表面的になぞったものだった。
35年日活多摩川撮影所に移る。
36年の「情熱の詩人啄木」で一躍日本映画界期待の新人監督として認められる。渋民村時代の石川啄木を主人公に代用教員の啄木が自由で進歩的な教育を志し、ついには頑迷な校長や村人の反感を買い村を追われるという内容。熊谷は、主人公を愛情込めて描くとともに、彼の生活との結びつきに力を注ぎ、そこから溢れ出る哀傷と激情は、観客の心を深く捉えた。
37年の「蒼氓」での成功は、早くも彼を一流監督の地位に昇りつめさせた。原作は、石川達三の第1回芥川賞受賞作品で、ブラジルへ移民する農民たちが神戸の移民収容所で乗船する一週間前の集団生活の日々を描いた群像劇で当時の日本の暗い社会事情を反映した骨太な作品である。映画にするにはあまりにも重苦しい作品と危ぶまれたが、敢えてこれに取り組んだ熊谷にはひとつの決意があって、それはともすれば安易な境地になずもうとする自分への叱咤でもあり、また彼の入社当時に発表された村田実の「灰燼」、内田吐夢の「生ける人形」、溝口健二の「唐人お吉」などに対する奮起でもあった。「蒼氓」は、ブラジル渡航直前の移民の群像を神戸の収容所に捉えたものだが、熊谷はそこに当時の日本をおおう暗い社会事情を暗示的に語り、いわゆる小市民映画とは一線を画する熊谷の重厚な作風であり、社会的感覚を持った当時一級の知性映画として当時の現代劇の主流ではなかったために貴重な存在だった。この「蒼氓」を最後に彼は、古巣の日活を去り東宝に移った。
東宝に移籍した熊谷は38年森鴎外原作の『阿部一族』を発表した。
森鴎外の原作は封建制度化の殉死を冷たく見据えたものだが、映画は領主の病死をめぐって起こる藩臣間の腹の探りあいと思惑や、その中心に置かれた一族の抵抗を通じて武士階級への批判を示し、前進座俳優の好演も得て、見事なドラマとなった。熊谷は、封建制度下の殉死というテーマで彼の抵抗精神をモチーフにした重厚な作風は一流監督の地位を得、頂点を極めたかにみえたが、しかし戦時体制下の思想統制は、彼の作家的資質の方向性を大きく変え、直後に撮った『上海陸戦隊』(39年)や『指導物語』(41年)は極端に形骸化された国策映画であり、それまでの作品に見られた批判性や抵抗精神などは姿を消し、その変貌ぶりに周囲の関係者は戸惑いを隠せず、次第に名声と信頼を失い始める。「阿部一族」に続く「上海陸戦隊」39、「指導物語」41は、ともに戦時国策型の映画で、構えの大きさに似ず内容的には「啄木」以後の作品に見られた批判性も抵抗性も持たない作家不在の迎合型映画であった。この変質については幾つかの憶測がつく。
所属会社東宝の保身第一の安全主義、さらにその背後にあって強圧を加えた軍部の要請など。だが、たとえそれが要因であったとしても、この変質、作家的変貌は、人々を落胆させるに十分であり、かつての反世俗的な抵抗精神は姿を消して、熊谷に残ったものは、事大主義の形骸だけであった。
その後、熊谷は映画を離れて、国粋主義思想研究団体「すめら塾」を結成し、リーダーとして政治活動に没頭していった。太平洋戦争中は海軍報道班員としてジャワ島に渡ったりした。当時の国家の指導のもと多くの映画人が戦意昂揚・国策映画を製作し戦争協力を果たしたことは周知の事実だが、熊谷の場合その大真面目な極右的国粋主義思想への傾倒ぶりが人々の(特に映画評論家の)困惑をいっそう大きくした。後年研究者たちはその変貌の要因を「ドイツに渡りヒットラーにあってファシズムにかぶれた」ことや、「所属会社の東宝の保身第一の安全主義」や「強圧を加えた軍部の要請」といったことに見出したりしたが、いずれにせよ熊谷の評価はこの時期に大きく変化し、以後覆ることはなく、終戦後8年の間、監督に復帰することはなかった。
49年、義理の妹にあたる原節子も参加した芸研プロを創立し、プロデューサーとしての活動を始める。そして53年には東宝に復帰して映画監督を再開した。58年にかけての5年間に5本の作品を発表するが、57年の『智恵子抄』が評価を受けた程度であったが、それも高村光太郎の原作に負うところが少なくなく、戦後の熊谷の映画活動は、戦争中の彼の政治活動に対する贖罪とはならなかった。しかしさわやかな好篇として人気を博した1954年の『ノンちゃん雲に乗る』と『柿の木のある家』は、熊谷が第二次芸研プロでプロデュースした作品であることを記憶にとどめたい。
人間 前後篇(1925.12.01日活大将軍)助監督
結婚二重奏 前後篇(1928.01.21日活大将軍)助監督
恋愛競技場(1931.03.06日活太秦)
玉を磨く(1931.06.23日活太秦)
本塁打(1931.09.10日活太秦)
動員令(1931.10.08日活太秦)
北満の偵察(1931.12.18日活太秦)
さらば東京(1932.05.20日活太秦)
喜卦谷君に訊け(1932.08.25日活太秦)
彼女の道(1933.02.08日活太秦)
青春の唄(1933.09.30日活太秦)
炬火 田園篇(1933.11.30日活太秦)
群盲有罪(1933日活太秦)
炬火 都会篇(1934.02.01日活太秦)
三家庭(1934.06.28日活多摩川)
巌頭の処女(1934.11.08日活多摩川)
わたしがお嫁に行ったなら(1935.01.05日活多摩川)
青春音頭(1935.04.03日活多摩川)
情熱の詩人琢木 ふるさと篇(1936.03.12日活多摩川)
気まぐれ夫婦(1936.12.17日活多摩川)
蒼氓(1937.02.18日活多摩川)
阿部一族(1938.03.01東宝映画東京=前進座)
上海陸戦隊(1939.05.20東宝映画東京)
指導物語(1941.10.04東宝映画東京)
白魚(1953.08.05東宝)
かくて自由の鐘はなる(1954.06.01東宝)
美しき母(1955.12.04東宝)
智恵子抄(1957.06.29東宝)
密告者は誰か(1958.11.18東宝)
↧
永遠の処女
↧