新聞記事を読んでいて、ちょっと不審に思うことが時たまあります。
社会面などの事件報道というのは、殺人事件が発生して、そのことを報道するわけですし、政治欄とか経済欄では、いま現在世界で起こっている政治経済のリアルタイムな情勢や動向を報じ解説するという、総じて現状に即した記事が書かれるのが普通なのに、学芸欄(もしかしたら文化欄というのかもしれません)ときたら、なんの脈絡もない事項が突然取り上げられ、それがあまりにも唐突なので、もしかしたら自分ひとりが知らないだけで、これっていま世間で流行していたり、話題になっていることなのかと、なんだか時代に取り残されたような感じがして、ちょっと不安になるなんてことがよくあります。
先週の水曜日、読売新聞朝刊の文化欄(17面「ことばの魔術」)に「虎造節 ラジオ通じ浸透」という記事が掲載されていました。
一代の天才・二代目広沢虎造なら、もちろん、よく知っています。
記事の内容は、虎造の十八番「清水次郎長伝 石松三十石船道中」の紹介と解説なのでしょうが、「なにをいまさら」という思いしかない自分としては、あえていまこれを報じなければならない理由(隠れた流行になっているとか、生誕〇〇周年記念イベントでもあるのか)というのを、必死になって探しました、いわば行間読みというやつです。
記事の内容を箇条書きにまとめながら、読んでみました。
1 「清水次郎長伝 石松三十石船道中」は、二代目広沢虎造の十八番(折り紙付きの名作)である。
2 しかし、虎造の印象が強烈(中途半端に演ずればむかしを知っている贔屓筋から非難される)で、演じる者が絶えてしまった。
3 ある落語家から「一番有名な名作をなぜやらない」と忠告されて現代の浪曲師・玉川大福が復刻継承して演じている。
なるほど、なるほど、内容的には「清水次郎長伝 石松三十石船道中」が隠れた流行になっているわけではなく、そして虎造の「生誕〇〇周年記念イベント」というのがあるというわけでもないようです、単に(「単に」などと言っては失礼かもしれませんが)、現在活躍中の浪曲師が、むかしの名作を掘り起こして自分の演目の中に意識的に取り入れた記事と理解しました。
う~ん、そうですか、でも、これだけのことが、あえて記事とするに値することなのでしょうか、なんだか報道必要性というものが、あまりにも薄弱な感じがして仕方ありません。
故・桂米朝が、大阪の落語界に身を投じたとき、上方落語は消滅寸前の超低迷期、師匠格の落語家は数人しかおらず、それも程なくして相次いで死去するという最悪の事態の中で、米朝は、もはや語る者がなく絶えた状態になっている演目を速記本からひとつひとつ掘り起こし、参考にする音源のないなかで、古い贔屓筋からアドバイスを受けて口調を真似、そうやって地道な努力を積み重ねて多くの噺を世に出し、それが礎(「いしずえ」と読みます)となって、現在の上方落語の隆盛をもたらしたと聞いています。
それに比べたら、二代目広沢虎造の十八番「清水次郎長伝 石松三十石船道中」ならずとも、音源は豊富にあり、you tubeでも容易に聞くことが出来る好環境の、その贅沢な現在を考えれば、このささやかな「継承のエピソード」が、はたして大新聞社の栄えある学芸欄の一画を占めるに値するものかどうか、疑問を呈さざるを得ません。
つい先日、旧友と雑談していたおりに、この感じたままのことを話してみました。
「いやあ~、そりゃ違うな」と、友人は答えました。「広沢虎造をよく知っていて、『清水次郎長伝 石松三十石船道中』のなんたるかを既に知っているあなたならそう思うかもしらんが、最近の人たちは、虎造も三十石船も、なんも知らんもん。あの記事は、その『なんも知らん』人たちに向けて書かれているわけだから、概略を伝えるという意味で、あれはあれでいいんでないですか。それに、その記事を書いた記者本人だって虎造を聞いたことがあるかどうか、すこぶる疑問ですよ。いまの人たちときたら、文字だけコピペして、右から左へ流すだけだから、実のところの内容なんかなんも分かっちゃいないオソレはありますよ、分かったようなことを書いてあったとしても、本当の理解が伴っているかどうかは疑わしいと考えたほうがいい」
「はあ、そんなもんですかね」と、本来なら話はここで終わりになるはずでした。多くの場合、「はあ、そんなもんですかね」は、会話の終息宣言を意味します。
しかし、友人は、続けて「寿々木米若のね」と話を引っ張ってきました。
はは~ん、自分がこんなふうに浪曲の記事をけなすからには、浪曲のことをどれだけ知っているか、こりゃ「値踏み」に掛かってきたなと。いわば「試し」です
「知ったかぶり」のヤカラを見ると、どうしても揺さぶって潰してみたくなるのが人の常、人情というものです。自分にだって、そのケは大いにありますし、ついやす時間なら気の遠くなるほど自分にはあります、なにせこちらは、超暇な身ですから。受けて立つのに、なんの躊躇も障碍もありません。
「寿々木米若の『佐渡情話』って、あるじゃないですか、ほらあの有名なやつ」
もし、こちらが知らなければ、「あの有名なやつ」のひとことは、十分なダメージになるに違いないなと思いつつ「はあ、はあ」と受けました。
「自分がレコードで聞いたのは、佐渡ヶ島で出会って恋仲になった吾作とお光、だけど吾作(この人、もともと柏崎の人で時化で遭難したところをお光の父親に助けられました)は柏崎に帰らねばならず、しかし、柏崎に去ってしまった吾作のことをどうしても忘れられないお光は、恋しさのあまりたらい舟を漕いで柏崎まで逢いに通います。実際に佐渡から柏崎までたらい舟で行けるかどうかは、ひとまず置いときますが、そこに飲んだくれのお光の許婚者というのが現れからんできて(よく聞けば、許婚のお光が吾作に惚れて彼を裏切ったために、傷ついた彼は酒浸りになってしまったというのですから、同情の余地はありますし、自分にもその辺の心当たりなら、なくもありません)、腹いせに「たらい舟」を破壊したため、もはや柏崎に通えなくなったお光は悲嘆と絶望のために気が狂ってしまいます。そのあとに吾作が戻ってきて、わけを知り、狂ったお光を哀れに思い、一生面倒を見ようと決意する、というそのクダリを語りあげる寿々木米若の興に乗った猛烈な唸り具合というか節回しが壮絶にして華麗すぎて実はよく聞き取れなかったのですが、なんですか、通りかかった日蓮上人(実際佐渡へ島流しになっていたとか)がお光を正気に戻すなどというハッピーエンドで終わるんだそうですよ。」
「そりゃあ、また」
「えっ、『また』って、なんで?」
「いえ、その、ただの合いの手で」
「いりませんから、そんなもの」
「あっ、はあ、すみません」
「しかしですよ、この話は、寿々木米若が、どこぞの悲恋物語を借用して勝手自在に改変・創作したものらしくて、地元で言い伝えられている元々の話っていうのが、これとは全然違うんですわ、これが」
「そりゃあ、また。あっ!!」
「『あっ』じゃねえし。いいですか、よく聞いてくださいよ。
言い伝えの中では名前は藤吉とお弁となっているんだそうで、ふたりが恋仲になって、藤吉が柏崎へ帰り、藤吉への想いを断ち切れないお弁は毎晩たらい舟を漕いでは柏崎まで通う、ここまでは米若の浪曲と同じですが、ここからが凄いんですよ。毎晩通ってくるお弁の執念(恋路を執念としか捉えられなくなってしまうようでは、もう恋愛もオシマイです)を恐れ、疎ましくなった藤吉はお弁が海路をかよう目印として頼りにしていた柏崎の岬にある常夜灯を消してしまいます、目印を失ったお弁のたらい舟は波間に沈んで、数日後に佐渡の海岸に彼女の亡骸が打ち上げられたという、実に陰惨な話なのです。どうです、凄いでしょう」
「いや~あ、凄いもなにも、凄いじゃないですか(同じだ、そりゃ)、浪曲の方では、恋人の気が違ったのを哀れに思い、一生世話をすると決意する慈悲に富んだ悲恋物語ですが、一方は、娘の求愛がだんだん疎ましくなって殺してしまうという身勝手な殺人ですものねえ。へえ~、こりゃあ、ずいぶんと罪な話だわ。でもこうして比べてみると、執念深い女が疎ましくなって常夜灯を消して女を始末したという方が、なんだか実際の事件を基にしたようなリアリティがありますね。じゃあ、あれですか、浪花亭綾太郎の『壷坂霊験記』なんかずいぶんきれいな話に仕上がってますけど、これなんかも結構眉唾かもしれませんね」
「浪花亭綾太郎か、そりゃ懐かしいね。『妻は夫をいたわりつうう、夫は妻をおお慕いつつううう、頃は六月なかのころおお、夏とはいえどお片田舎あああ』だね」
「その先もいけますか」
「もち。木立のお森のおいとお涼しいい、小田の早苗も青々と、蛙のなく声ここかしこ、聞くも涙の夫婦連に、その夜にかぎ雲一片あるでなし、名月や浅黄に銀の一つ紋、老いたるごとくをさしこみし、葉越しの月を拝みつつ、ようやくたどる足成山の狼谷、だろ」
「やりますねえ、じゃ、玉川勝太郎の『天保水瀞伝』はどうです」
「なに言ってんの、あんた、『利根の川風え、袂に入れてええ、月にさおさす高瀬舟。人目関の戸たたくは川の水にせかれる水鶏鳥、恋の八月大利根月夜よ~お~お~お』だよ」
「へえ~、こりゃすごい、どんどん出てきますね。」
「だいたい、あんたさあ、おれに聞くばっかりだけどさ、虎造の『清水次郎長伝 石松三十石船道中』のサワリのところ、できるのかい」
「任せてくださいよ、任せてくださいって。『旅いいゆけばああ、駿河の国にいい茶の香りいい、名題なるかなあ東海道おお、名所古蹟の多いところ。なかに知られる羽衣の、松とならんでその名を残すう、街道一の親分は、清水港の次郎長の数多身内のあるなかで、四天王の一人で乱暴者といわれたる、遠州うう森のおおお石松のおお、苦心談のお粗末をお、悪声ながらもつとめましょうおお。』ですよね。それに私ね、虎造の最後の締めのところが大好きなんですよ。『ちょうど時間となりますた。ちょと一息願いますて、またの御縁とおお、お預かりい』でしょ」
「いいな、いいな、いいな。こんどいっぺん、腰据えてじっくり話したいね。えっ。三門博とか相模太郎とか春日井梅鶯とかね。小さいときはさあ、耳だけで聞いて名前を憶えたものだからさ、『かすがい・ばいこう』だとずっと思っていたけどさ、漢字が読めてさえいれば『ばいおう』だってすぐに分かったろうにね、わがことながら可愛いねえ」
そのとき、自分的には「あっ!」と思い当たるものがありましたが、その思いを口には出しませんでした。
まだ家庭にテレビが入り込んでない頃の時代の話です。
子供のころ、この人も、もしかしたら、夜、寝付く時間に部屋の明かりをすべて消して、親と一緒にラジオ(落語と講談と浪曲)を聞きながら寝付いたクチなのではないか。幼いときに植え付けられたこれらの「素養」の背後には、今は亡き親たちの、幼い目を通した若き日々の面影がよみがえっているに違いないと感じました。
社会面などの事件報道というのは、殺人事件が発生して、そのことを報道するわけですし、政治欄とか経済欄では、いま現在世界で起こっている政治経済のリアルタイムな情勢や動向を報じ解説するという、総じて現状に即した記事が書かれるのが普通なのに、学芸欄(もしかしたら文化欄というのかもしれません)ときたら、なんの脈絡もない事項が突然取り上げられ、それがあまりにも唐突なので、もしかしたら自分ひとりが知らないだけで、これっていま世間で流行していたり、話題になっていることなのかと、なんだか時代に取り残されたような感じがして、ちょっと不安になるなんてことがよくあります。
先週の水曜日、読売新聞朝刊の文化欄(17面「ことばの魔術」)に「虎造節 ラジオ通じ浸透」という記事が掲載されていました。
一代の天才・二代目広沢虎造なら、もちろん、よく知っています。
記事の内容は、虎造の十八番「清水次郎長伝 石松三十石船道中」の紹介と解説なのでしょうが、「なにをいまさら」という思いしかない自分としては、あえていまこれを報じなければならない理由(隠れた流行になっているとか、生誕〇〇周年記念イベントでもあるのか)というのを、必死になって探しました、いわば行間読みというやつです。
記事の内容を箇条書きにまとめながら、読んでみました。
1 「清水次郎長伝 石松三十石船道中」は、二代目広沢虎造の十八番(折り紙付きの名作)である。
2 しかし、虎造の印象が強烈(中途半端に演ずればむかしを知っている贔屓筋から非難される)で、演じる者が絶えてしまった。
3 ある落語家から「一番有名な名作をなぜやらない」と忠告されて現代の浪曲師・玉川大福が復刻継承して演じている。
なるほど、なるほど、内容的には「清水次郎長伝 石松三十石船道中」が隠れた流行になっているわけではなく、そして虎造の「生誕〇〇周年記念イベント」というのがあるというわけでもないようです、単に(「単に」などと言っては失礼かもしれませんが)、現在活躍中の浪曲師が、むかしの名作を掘り起こして自分の演目の中に意識的に取り入れた記事と理解しました。
う~ん、そうですか、でも、これだけのことが、あえて記事とするに値することなのでしょうか、なんだか報道必要性というものが、あまりにも薄弱な感じがして仕方ありません。
故・桂米朝が、大阪の落語界に身を投じたとき、上方落語は消滅寸前の超低迷期、師匠格の落語家は数人しかおらず、それも程なくして相次いで死去するという最悪の事態の中で、米朝は、もはや語る者がなく絶えた状態になっている演目を速記本からひとつひとつ掘り起こし、参考にする音源のないなかで、古い贔屓筋からアドバイスを受けて口調を真似、そうやって地道な努力を積み重ねて多くの噺を世に出し、それが礎(「いしずえ」と読みます)となって、現在の上方落語の隆盛をもたらしたと聞いています。
それに比べたら、二代目広沢虎造の十八番「清水次郎長伝 石松三十石船道中」ならずとも、音源は豊富にあり、you tubeでも容易に聞くことが出来る好環境の、その贅沢な現在を考えれば、このささやかな「継承のエピソード」が、はたして大新聞社の栄えある学芸欄の一画を占めるに値するものかどうか、疑問を呈さざるを得ません。
つい先日、旧友と雑談していたおりに、この感じたままのことを話してみました。
「いやあ~、そりゃ違うな」と、友人は答えました。「広沢虎造をよく知っていて、『清水次郎長伝 石松三十石船道中』のなんたるかを既に知っているあなたならそう思うかもしらんが、最近の人たちは、虎造も三十石船も、なんも知らんもん。あの記事は、その『なんも知らん』人たちに向けて書かれているわけだから、概略を伝えるという意味で、あれはあれでいいんでないですか。それに、その記事を書いた記者本人だって虎造を聞いたことがあるかどうか、すこぶる疑問ですよ。いまの人たちときたら、文字だけコピペして、右から左へ流すだけだから、実のところの内容なんかなんも分かっちゃいないオソレはありますよ、分かったようなことを書いてあったとしても、本当の理解が伴っているかどうかは疑わしいと考えたほうがいい」
「はあ、そんなもんですかね」と、本来なら話はここで終わりになるはずでした。多くの場合、「はあ、そんなもんですかね」は、会話の終息宣言を意味します。
しかし、友人は、続けて「寿々木米若のね」と話を引っ張ってきました。
はは~ん、自分がこんなふうに浪曲の記事をけなすからには、浪曲のことをどれだけ知っているか、こりゃ「値踏み」に掛かってきたなと。いわば「試し」です
「知ったかぶり」のヤカラを見ると、どうしても揺さぶって潰してみたくなるのが人の常、人情というものです。自分にだって、そのケは大いにありますし、ついやす時間なら気の遠くなるほど自分にはあります、なにせこちらは、超暇な身ですから。受けて立つのに、なんの躊躇も障碍もありません。
「寿々木米若の『佐渡情話』って、あるじゃないですか、ほらあの有名なやつ」
もし、こちらが知らなければ、「あの有名なやつ」のひとことは、十分なダメージになるに違いないなと思いつつ「はあ、はあ」と受けました。
「自分がレコードで聞いたのは、佐渡ヶ島で出会って恋仲になった吾作とお光、だけど吾作(この人、もともと柏崎の人で時化で遭難したところをお光の父親に助けられました)は柏崎に帰らねばならず、しかし、柏崎に去ってしまった吾作のことをどうしても忘れられないお光は、恋しさのあまりたらい舟を漕いで柏崎まで逢いに通います。実際に佐渡から柏崎までたらい舟で行けるかどうかは、ひとまず置いときますが、そこに飲んだくれのお光の許婚者というのが現れからんできて(よく聞けば、許婚のお光が吾作に惚れて彼を裏切ったために、傷ついた彼は酒浸りになってしまったというのですから、同情の余地はありますし、自分にもその辺の心当たりなら、なくもありません)、腹いせに「たらい舟」を破壊したため、もはや柏崎に通えなくなったお光は悲嘆と絶望のために気が狂ってしまいます。そのあとに吾作が戻ってきて、わけを知り、狂ったお光を哀れに思い、一生面倒を見ようと決意する、というそのクダリを語りあげる寿々木米若の興に乗った猛烈な唸り具合というか節回しが壮絶にして華麗すぎて実はよく聞き取れなかったのですが、なんですか、通りかかった日蓮上人(実際佐渡へ島流しになっていたとか)がお光を正気に戻すなどというハッピーエンドで終わるんだそうですよ。」
「そりゃあ、また」
「えっ、『また』って、なんで?」
「いえ、その、ただの合いの手で」
「いりませんから、そんなもの」
「あっ、はあ、すみません」
「しかしですよ、この話は、寿々木米若が、どこぞの悲恋物語を借用して勝手自在に改変・創作したものらしくて、地元で言い伝えられている元々の話っていうのが、これとは全然違うんですわ、これが」
「そりゃあ、また。あっ!!」
「『あっ』じゃねえし。いいですか、よく聞いてくださいよ。
言い伝えの中では名前は藤吉とお弁となっているんだそうで、ふたりが恋仲になって、藤吉が柏崎へ帰り、藤吉への想いを断ち切れないお弁は毎晩たらい舟を漕いでは柏崎まで通う、ここまでは米若の浪曲と同じですが、ここからが凄いんですよ。毎晩通ってくるお弁の執念(恋路を執念としか捉えられなくなってしまうようでは、もう恋愛もオシマイです)を恐れ、疎ましくなった藤吉はお弁が海路をかよう目印として頼りにしていた柏崎の岬にある常夜灯を消してしまいます、目印を失ったお弁のたらい舟は波間に沈んで、数日後に佐渡の海岸に彼女の亡骸が打ち上げられたという、実に陰惨な話なのです。どうです、凄いでしょう」
「いや~あ、凄いもなにも、凄いじゃないですか(同じだ、そりゃ)、浪曲の方では、恋人の気が違ったのを哀れに思い、一生世話をすると決意する慈悲に富んだ悲恋物語ですが、一方は、娘の求愛がだんだん疎ましくなって殺してしまうという身勝手な殺人ですものねえ。へえ~、こりゃあ、ずいぶんと罪な話だわ。でもこうして比べてみると、執念深い女が疎ましくなって常夜灯を消して女を始末したという方が、なんだか実際の事件を基にしたようなリアリティがありますね。じゃあ、あれですか、浪花亭綾太郎の『壷坂霊験記』なんかずいぶんきれいな話に仕上がってますけど、これなんかも結構眉唾かもしれませんね」
「浪花亭綾太郎か、そりゃ懐かしいね。『妻は夫をいたわりつうう、夫は妻をおお慕いつつううう、頃は六月なかのころおお、夏とはいえどお片田舎あああ』だね」
「その先もいけますか」
「もち。木立のお森のおいとお涼しいい、小田の早苗も青々と、蛙のなく声ここかしこ、聞くも涙の夫婦連に、その夜にかぎ雲一片あるでなし、名月や浅黄に銀の一つ紋、老いたるごとくをさしこみし、葉越しの月を拝みつつ、ようやくたどる足成山の狼谷、だろ」
「やりますねえ、じゃ、玉川勝太郎の『天保水瀞伝』はどうです」
「なに言ってんの、あんた、『利根の川風え、袂に入れてええ、月にさおさす高瀬舟。人目関の戸たたくは川の水にせかれる水鶏鳥、恋の八月大利根月夜よ~お~お~お』だよ」
「へえ~、こりゃすごい、どんどん出てきますね。」
「だいたい、あんたさあ、おれに聞くばっかりだけどさ、虎造の『清水次郎長伝 石松三十石船道中』のサワリのところ、できるのかい」
「任せてくださいよ、任せてくださいって。『旅いいゆけばああ、駿河の国にいい茶の香りいい、名題なるかなあ東海道おお、名所古蹟の多いところ。なかに知られる羽衣の、松とならんでその名を残すう、街道一の親分は、清水港の次郎長の数多身内のあるなかで、四天王の一人で乱暴者といわれたる、遠州うう森のおおお石松のおお、苦心談のお粗末をお、悪声ながらもつとめましょうおお。』ですよね。それに私ね、虎造の最後の締めのところが大好きなんですよ。『ちょうど時間となりますた。ちょと一息願いますて、またの御縁とおお、お預かりい』でしょ」
「いいな、いいな、いいな。こんどいっぺん、腰据えてじっくり話したいね。えっ。三門博とか相模太郎とか春日井梅鶯とかね。小さいときはさあ、耳だけで聞いて名前を憶えたものだからさ、『かすがい・ばいこう』だとずっと思っていたけどさ、漢字が読めてさえいれば『ばいおう』だってすぐに分かったろうにね、わがことながら可愛いねえ」
そのとき、自分的には「あっ!」と思い当たるものがありましたが、その思いを口には出しませんでした。
まだ家庭にテレビが入り込んでない頃の時代の話です。
子供のころ、この人も、もしかしたら、夜、寝付く時間に部屋の明かりをすべて消して、親と一緒にラジオ(落語と講談と浪曲)を聞きながら寝付いたクチなのではないか。幼いときに植え付けられたこれらの「素養」の背後には、今は亡き親たちの、幼い目を通した若き日々の面影がよみがえっているに違いないと感じました。