この猛暑のなか、格別な用事でもなければ、炎天下にわざわざ外出するなど、思っただけでもウンザリなので、結局、冷房をギンギンにきかせた部屋で寝転がりながら、終日、新作・旧作の映画を手当たり次第見ている毎日です。
しかし、いざ映画を見るとなると、どうしても録画したストックのなかから古いものを見なければという気持ちが強く、結構な旧作を見ることが多いのですが、昨日もそんな感じで、増村保造の「巨人と玩具」1958と「最高殊勲夫人」1959、そして吉田喜重の「告白的女優論」1971を立て続けに見ました。
録画データによれば、この3作品、かなり以前に(残念ながら正確な日付は記されていません)「日本映画専門チャンネル」で放映時期が一緒だったみたいで、ともに追いたてられるような逼迫した時代の雰囲気みたいなものがシビアに感じられる秀作だと思います。
増村保造の2つの作品は、日本経済が加速度的な高度成長をとげていくなかで、その過酷な渦に否応なく巻き込まれて翻弄されるサラリーマンの焦燥と破滅への無残な活力と、そして絶望とを人間喜劇としてヒステリックに描いた秀作です(まさに60年安保直前の不安と動揺感が伺えます)し、一方の吉田喜重の「告白的女優論」の全編に漂う過度の内向き姿勢は、あの経済の狂奔と破綻、政治の季節の終焉の底深い絶望のなかで、結局なにひとつ得ることのなかった日本人の静かに内向した絶望が描かれた魅力的な作品だといえるかもしれません(あの浅丘ルリ子までが全裸になって性交画面を撮らせるなど、ある「時代」が終わり、その絶望感が過度に「性」へと振り切れた時代の片方の歯止めのきかない異常さも顕著に描かれていました)が、しかし、そういうことをすべて認識しながらこれら諸作品をいざ見るとなると、そこに描かれた状況が「いま」ではないというズレの決定的な理由によって、観客たちに見る集中力を止切らせてしまうということは、どうしても否めない事実だと思います。
なかでも出だしから結末が見えてしまう「最高殊勲夫人」では、それが特に顕著で、若尾文子が、自分の置かれた恵まれすぎるシチュエーション(姉たちが秘書から玉の輿を得るという道筋)に反発して決意した最初の「約束」に反して、徐々に川口浩に惹かれていくという定番の展開も、しかし、集中力を欠いてしまった不運な目の端で、すぐ脇の金魚の水槽の汚れの方がどうしても気に掛かり、結局映画鑑賞を中止して、水槽洗いを思い立つという実に情けない仕儀になってしまいました。
しかし、この不謹慎な「水槽洗い」にも、一定の収穫はありました。
水の滴りを受けるため、水槽の下に敷いていた日経新聞(2015.2.15朝刊。つまりこの日以後水槽を洗っていなかったのかも)に魅力的な記事を見つけたのです。
水槽洗いなどそっちのけで、記事を読みふけってしまいました。
最終の文化面に掲載されている「芸術と科学のあいだ」という小さなコラム(生物学者・福岡伸一筆)です、題して「ダリにもまた科学者の心」。
本文で、「科学者にとって、ときにアートの心が必要であるように、芸術家にもサイエンスの解像度が求められることがある」と書き出され、サルバドール・ダリのフェルメールへのオマージュ作品「フェルメールの〈レースを編む女〉に関する偏執狂的=批判的習作」(つまりデフォルメということだと思います)を掲げながら、「よほどフェルメールのことが好きだったのだろう、繰り返し自作のなかにフェルメールの〈レースを編む女〉を引用している。シュルレアリズム、ある意味でSF的世界を精密に描き続けたダリも科学者の心を持った芸術家といえるのではないか。」と結論づけられている小文なのですが、問題の箇所は、ダリのフェルメールへのオマージュを導き出すために挿入されたエピソードにあります。
ちょっと長い引用になりますが、筆写してみますね。
「そういえば、スペイン出身の映画監督ルイス・ブニュエルは、若い一時期、解剖学者ラモニ・カハールの研究室で学んだ経験があると聞いた。
カハールは顕微鏡であらゆる細胞を探求し、今日の神経化学の基礎となるニューロン説を唱え、ノーベル賞を受賞している。
ブニュエルの映画の中で、眼球にカミソリを入れる衝撃的なシーンがあるが、彼は研究室で来る日も来る日も細胞を削ぎきりする作業を命ぜられていたのかもしれない。
そう思って「アンダルシアの犬」1928をもう一度眺めていたら奇妙なシーンに気がついた。
本のページが風でめくれ一瞬だけ絵が見える。
それはフェルメールの「レースを編む女」なのだ。
ここにはどんな意味が込められているのだろう。
思えば、フェルメールほど科学的なマインドで絵を描いた画家もいなかった。
三次元空間をありのまま二次元のキャンバスに写し取りたい。最先端技術を使って。
これは科学的探究心以外の何ものでもない。彼は焦点深度のずれやレンズ視野周囲のにじみまで正確に描きとめた。」
ブニュエルが「アンダルシアの犬」のなかにフェルメールの「レースを編む女」を密かに描き込だという目新しいエピソードの引用でこの文を感動的に閉じてもいいのですが、実は、自分が興味を引かれたのは「ブニュエルとフェルメール」のエピソードというより、「引用する」という行為そのものの方にあったことを書いておかねばなりません、もう少し書いてみます。
この同じ文化面には、もうひとつ富士川義之の「詩話について」というエッセーが掲載されています。
実は、こちらの方が紙面の半分を領する大きな記事で、その日の文化面のメイン記事なのですが、筆者は文学形式としての「詩話」を現代に蘇生させるために、こんなふうに解説しています。
そもそも「詩話」とは、江戸時代の文人たちが愛好したジャンルで、「著名な先人の名詩や人柄や生活などに関する故事逸話が、古書の渉猟を通じてまとめられ、語りなおされたもの。
江戸時代の代表的な知識人である儒者たちは文化の継承に不可欠なものとしての知識の伝承行為を重視し、それを主として逸話や逸事の蒐集を通じて行っていた」のだそうで、「日本随筆大成」全71巻という書物も刊行されており、そのなかに多数の「詩話」が収められているのだそうです。
つまり江戸期の文人墨客のエピソードを集めたものということでしょうか。
そして、この「詩話について」を読んだあと、同じ紙面のコラム「ダリにもまた科学者の心」を読み、「ブニュエルとフェルメール」のエピソードに遭遇したのですが、アタマのなかには、まだ「詩話について」の読後のイメージがあって、「ブニュエルとフェルメール」のエピソードが、その江戸期の文人墨客のエピソードを集めた「詩話」と共通するものがあるような気がして興味をそそられ、「詩話」の映画編みたいなものがあったら面白いなという気持ちで、この文章を書いた次第です。
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ブニュエルとフェルメール
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