この作品を見る前に、見たあとできっと原題にないサブタイトル「ふたつの心をつなぐ旅」は必要ない、余計なものだと感じるだろうなという予感を持っていました。
いままで、鑑賞前にもったこうした予感は、だいたい的中するのですが、しかし、今回に限っては違っていました、別に、これくらいのサブタイトルならあってもいいかなと。
この「これくらいなら、いいかな」は、おそらく、この作品に対する自分の「期待」と「失望」の落差を示しているような気がします。
それは、そのまま、この作品を予告編で見たときの印象と、実際に本編を見たときの微かな失望を現わしているのですが、実は、そのまえに、あえて「抑えたモノクロ画面」で撮られた作品というものに対する自分の先入観、というか「偏見」について説明しておかなければなりません。
この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」が、なぜ、あえてモノクロにこだわって撮られなければならなかったのか、という考察のまえに、映画史における多くの監督たちが、転換期の時代的な要請に従って「モノクロ作品」から「カラー作品」に移行しなければならなくなったときの「煩悶」についてどうしても考えておきたいと思ったからでした。
その「煩悶」こそが、「あえてモノクロにこだわって撮られなければならない作品」という問いの答えになるかも、と考えたのでした。
発明以後、映画を大きく変えた事件は、「発声」と「発色」だったといわれています。
特に、いままでは白黒だけでしか表現できなかった世界を、現実の色彩を反映させて描けるようになったということは、それだけで大きな事件、まさに革命的なことだったわけで、映画作家にとってその表現の広がりは、きっと驚天動地といえるくらいの喜びだったはずです。
しかし、色がついたことによって、失うものもまた少なくなかったのではないか、つまりそれが「煩悶」の意味だったに違いありません。
とりわけ人間の悲惨や悲痛な絶望を描くことに執着した映画作家たちにとっては、「そう」だったはずです。
小津作品が「色彩」を獲得たことによって、以後辛らつな「ペシミズム」や強烈な「絶望感」は影を潜めて、それらをストレートには描きづらくなったという事実をみれば、おおよそ分かるような気がします。
華やかで静謐な画調だけが描くことのできる上品で小市民の静かな絶望は、しかし「できる」というよりは、むしろ色彩の華やかな多弁性によって、逆にストーリーの饒舌を阻む「限界」ともなったのではないかという気がします。
はたして総天然色のシネマスコープとやらで、あの「風の中の牝鶏」の暴力的なまでに殺伐とした夫婦関係の感情の昂ぶりを、あのように描くことができただろうかと思わずにいられません。
以後、小津の描いたこの過激な「殺伐」は、時代を遡って「ぶれ過ぎ」と決め付けられ、戦争直後という時代の特殊性のなかに括られて封じ込められたあげく、評者たちの理解からも遠ざけられるという否定的な扱いを受けました(非難→無視)。
黒澤明にしても、色彩を獲得(熱中)することによって、「絶望→希望」を描けた世界観を次第に失い、晩年は「絶望→悲観」までしか描けなくなります。
それは、以前の黒澤なら、さらにもう一歩突き進んで、その先にある「希望」までをも強引に切り開いてみせた活力をすっかり失い、疲労感にみちた中絶に甘んじた無力な「悲観」の情景しか描けなくなったことを見れば明らかです。
いずれにしても(小津にしても黒澤にしても)、その凋落の根本には色彩の多弁に阻まれた限界が障碍となったからだと考えたのですが、それともうひとつ、モノクロに相応しい題材とのミスマッチということもあったかもしれません。
この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」を見ながら、その「ミスマッチ」について考えていました。
あえてモノクロで撮ったというこだわりの傑出した名作ということで連想した作品が、ふたつありました、「ラストショー」と「ペーパームーン」です。
粗くざらついた白黒画面は、荒廃したアメリカの田舎町の風景を生々しく描くのにふさわしく、その寒々しい風景を的確に描き得ていたのですが、しかし、ただそれだけではない、寒々しい人間関係の絶望的なあり方が、まさにその風景と同調して痛烈に描き込まれていたからこそ、その「白黒画面」は、僕たちの楽観を傷つける強烈な印象と深い感銘を与えることができたのだと思います。
この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」においても、そのモノクロ画面は、まさに「寒々しい風景」を的確に捉えていたのですが、その情景の画調が、すさんだ感情の象徴でも有り得たのかどうか、そこはしごく疑問と感じました。
この映画が傑出しているのは、「100万ドル当選」が、耄碌した老父の妄想でしかないことを、「生まれ故郷」の近親者や「親友」によって、タカられ、辛らつに暴かれ、そして、あからさまに嘲笑される過程に、息子もまた身を置くところにあります。
そこでは、「100万ドル当選」が、ただの妄想にすぎなかったように、「生まれ故郷」に抱いていた親しみや郷愁だって同じようなものだったのだと徐々に描かれます。
いや、むしろ「100万ドル当選」はともかく、「故郷」こそ馬鹿げた唾棄すべきものとさえいっているような気がします。
なにしろ、「100万ドル当選」の代わりとはいえ、ネブラスカの出版社は、輝かしい記念キャップをくれたのですから、タカルことばかり考えていた生まれ故郷の近親者や親友たちとは大違いだったわけで、「故郷」より余程誠実だったということができたのですから。
妄想だったとはいえ(しかし、「それ」がなければ、故郷の者たちの悪意は、ここまであぶりだされることもなかったかもしれませんが)「100万ドル」にタカリ、それが妄想とわかると嘲笑するような故郷につくづく嫌気がさして、その地を見放して立ち去る親子の姿に、かつて見た「ペーパームーン」をダブらせることで、なんだか複雑なものを感じてしまいました。
息子は、老父が嘲笑され、非難を浴びたとき、はじめて老父の妄想に徹底的に付き合おうと決意します。
それまで息子は、父の妄想に付き合うとはいっても、それを事実として真に受けていたわけではありません。
ネブラスカに向かう父の気持ちをどうにか紛らわすために数日付き合うくらいに考えていただけで、そのついでに親類縁者や旧友のいる故郷に立ち寄ることが父のためにもいいと感じたはずです。
あの「ペーパームーン」の擬似親子には、ラストで心を通わせ、ほのぼのと「結束」する様子が描かれたのですが、この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」に、そういうものが、果たして描かれているのだろうかと。
最初息子は、父の妄想を拒絶します。
それは、まだまだ父の「正気」の部分があるのに、「妄想」など受け入れられないというのが本心だったでしょう。
しかし、ありもしない「100万ドル」によって親類縁者や旧友から無心され、否定すると非難され、そしてそれが単なる妄想だったと知れたとき嘲けられたことで息子は父をかばい、自分だけは父の妄想(残された「正気」を含めて、ですが)を受け入れようと決意します。
いささか食い違ってはいてもそれでもいいのだと。
しかし、それが、サブタイトルにあったあの「ふたつの心をつなぐ旅」ということだったのか、という疑問が、やはりふたたび自分を捉えます。
残された「正気」の部分だけでなく、まだらにボケタ部分をも(口裏を合わせて)すべて受け入れることもまた愛情なのか、結局のところ、最後まで納得できないで終わるかもしれないという戸惑いをやり過ごしながら、このサブタイトルを受け入れてもいいような気にだんだんなってきました。
(2013アメリカ)監督・アレクサンダー・ペイン、製作・アルバート・バーガー、ロン・イェルザ、製作総指揮・ジョージ・パーラ、ジュリー・M・トンプソン、ダグ・マンコフ、ニール・タバツニック、脚本・ボブ・ネルソン、撮影・フェドン・パパマイケル、美術・デニス・ワシントン、衣装・ウェンディ・チャック、編集・ケビン・テント、音楽・マーク・オートン
出演:ブルース・ダーン(ウディ・グラント)、ウィル・フォーテ(デヴィッド・グラント、ウディの次男)、ジューン・スキッブ(ケイト・グラント、ウディの妻)、ステイシー・キーチ(エド・ピグラム、かつてウディと自動車整備工場を経営していた男)、ボブ・オデンカーク(ロス・グラント、ウディの長男)、アンジェラ・マキューアン(ペグ・ナギー、ウディの結婚前の恋人)、ティム・ドリスコル、デヴィン・ラトレイ(コール、レイとマーサの息子)
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ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅
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