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果しなき情熱

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「見てから処理する」というコンセプトで、溜まりに溜まったVHSの録画済みのビデオテープを片っ端から見始めています。

というのは、長い期間、それなりの労力を費やして、せっせと録画してきたものを、いくらご時世が代わってしまったからとはいえ、見ないで処理(破棄)するというのは、気持ち的にどうしても引っ掛かるものがあるからなのですが、なら画像の方はどうなのよと突っ込まれれば、そりゃあ多少劣っていることは否めませんけども、自分のようなモノクロの邦画が大好きな時代遅れの人間にとっては「画調」など、もともとがアレなのですから、なんら支障はありません、立派に見られればOKです。

家人などにいわせると、いまのご時世、300円とか400円とかだせば簡単にダビングできるのだから、片っ端からDVDにしてしまえばええやんかとか言われますが、うかうかそんな甘言にのせられるわけにはいきません、それこそ「それほどまでは、する気イはないねん」とか迂闊なことを口走ったりしたら、なにしろ敵はこんなもの、さっさとゴミとして捨ててしまいたい腹でいて、絶えずこちらのスキを狙っているので、そんな失言でもしようものなら聞き逃すことなく、すかさず柳眉を逆立て厳しく突いてくるに違いありません。なにしろ場所塞ぎの数百本のVHSテープ(すべて3倍速録画なので重複したものも含めて優に映画千本分はあるかもしれません)に対しての敵意と殺意を抱いているのですから、こちらが反応する言葉のひとつにも、入念な心配りが必要とされるというわけです。

それに当のVHSテープに入っている映画といっても、なにも手元に置いておきたいほどの「名作」などはなく、ただ、会社勤めをしていたときに、見るに見られない日中に放映されている未見の映画を見逃すのが口惜しくて片っ端から録画していただけにすぎず、いざ見てみると、だいたいは「な~んだこりゃ、がっかり」みたいな映画ばかりなので、「そんなもの、さっさと捨ててしまえ」という家人の苛立ちや断捨離にも一理あることはあるものの、しかし、そうはいっても「な~んだこりゃ、がっかり」も愉しみのうちのひとつには違いなくて、現在のところ「それ」を楽しんでいる最中というわけです。

そういうことで、暇になったとき、適当に選んだ1本のテープ(ラベルには「東北の神武たち」1957と「果しなき情熱」1949というメモがあります)を見始めました。

特段、録画した年月日の記載がないので、いつ頃録画したものかは見当もつきませんが、たぶん市川崑監督が亡くなられたときに特集で放送されたものだったと思います。

かつては貧農の家に生まれた次男坊以下は、無駄飯食らいの単なる厄介者にすぎず、蔑まれて虐げられ無視された、そういう悲哀と絶望的な状況を描いた「東北の神武たち」は、まるで極限にまで研ぎ澄まされた寓話のような深沢七郎の原作です、思えば、あの「楢山節考」だって、見ようによってはとことん現実離れの抽象化された寓話(というか昔話)じゃないですか。木下恵介監督が、あの陰惨なストーリーを描くに際して、極力リアリズムを避けて「母親と息子の情愛」の奇麗な部分だけに焦点を絞り、貧しさから口減らしのために生きたまま生母を捨てるというこの物語の持つ陰惨さを薄めるため劇中劇みたいな舞台劇風な歌舞伎的にデフォルメした気持ちがなんだか分かるような気がします。

しかし、木下監督が目をそらした「陰惨さ」と「リアリズム」のそぎ落とした部分こそが、まさに「楢山節考」の欠かせない核心ではないかと見定めた今村昌平の描き方にも、やはり納得できるものがありました。

もちろん今村作品は見ることができなかったでしょうが原作者深沢七郎にとって、どちらが納得できる映画だったかといえば、これはあくまでも予想にすぎませんが、やはり今村作品の方だったのではないかという気がします。

当時、木下恵介の「楢山節考」を深沢七郎がどう反応したのか、知りたいような気がしますので、その辺の当時の社会状況など機会があれば後日調査してみたいと思います。

さて、市川崑の描いた「東北の神武たち」のリアリズムも、第一印象的には「すごいな」と感じましたが、今村昌平の「くそリアリズム」と比べると、それらは明らかにタイプの異なるものであることは明確です。

この映画に登場する人物たちの「汚さ」をつきつめた市川崑の姿勢は、「細雪」でみせた晴れやかできらびやかな衣装を凝らすための「つきつめの姿勢」のタイプに通ずるものがあって、やはり同じようなスマートさを感じてしまいました。

その姿勢を「リアリズムにとっては贋物」とまでは言いませんが、今村昌平が目指して捉えようとした「汚さ」とは明らかに異質なものであることは歴然です。

さて、VHSテープの収録されていたもう1本の作品「果しなき情熱」は、この「贋物感」という観点からいえば、このひたすら陰々滅々の厄介なストーリー(なにしろ主人公の歌謡曲の作曲家は自殺することばかり考えているような御仁です)に食らい付いていく初期の市川崑の必死感とか格闘感(ストーリーはともかく素晴らしい映像美です)に自分的には大変好感が持てて、これは小手先で処理したような器用でスマートさからは完全に免れているという印象を持ちました。

そこでこの市川崑監督作「果しなき情熱」にアプローチする手がかりにするために、どこかのサイトでざっくりした「あらすじ」をチョイスしようと検索してみたのですが、やはり超マイナーな作品だけあって、ヒットしたのは、ほんのわずかでしたが、いつもお世話になっている「昔の映画を見ています」さんのブログに素晴らしいコメントがあったので拝借してエッセンスだけちゃっかり要約しちゃいますね。

ここまで書き込んでいただいたなら、「ほかになにも言うことなんてあるわけない」というくらい素晴らしいコメントです。(部分的修正はご容赦ください)

≪(1)作曲家・堀の妄想の一端は、信州の湖畔で出会った麗人(にしては、オバン臭い顔の折原啓子)への一方的な片思いにあるということになっていて、この逢う事さえままならない女性(何しろ名前も住所も知らない)への堀の想いが、次々曲を作る動機になっており、その彼女への妄執が曲として「湖畔の宿」「夜のプラットフォーム」に結実して、これがまた次々とヒットしてしまい、「自分だけの想い」だったものが、「大衆の愛唱歌」になっていくことで汚されてしまうというその怒りが、彼をさらに破滅的な行動に駆り立てていく。
(2)和田夏十・市川崑の「流行歌」という存在の「読み替え」が、そもそも無茶があるのだ。「流行歌」というのが、すでにもう、ずぶずぶの「俗情との結託」なのだから、そこには作家個人の「私情」などあるわけがない。おまけに、この夏崑コンビは、おそらく意図的に、作曲家が作詞(私情の吐露)も担当しているという誤解を貫き通している。
(3)もうどうしようもない超根暗野郎として描写されている堀雄二=服部良一のドラマに、たぶん苦笑しつつ、音楽監督として付き合う服部良一の度量! しかし、こんな映画でも、すばらしいのは「モダンな職人さん」市川崑の、モダンな映像。キャメラ移動、ミニチュア適時使用、光と影の演出の素晴らしさ。ドラマ部分はダメだが、映像のしゃれた展開には、ニヤニヤするばかり。快だなあ。撮影は小原譲治、やはりか。≫

もうこれだけ要約してしまえば、自分の書きたいことなどすべて語り尽くされていて、さらに語ることなどさらさらないのですが、ただひとつだけ補足してみたい「視点」があるのです。

作曲家・堀に、あたかもお情けで拾われ、もうちょっとで結婚までいきそうになった忍従の女性・月丘千秋の存在です。あれじゃあまるで、DVを受けることと、そこに愛情を感じることとが等価で、暴力を振るわれるたびに(自分以外のことでですよ)、そのこと自体に愛も感じるという、なんとも絶望的な被虐の再生産というか、完全なる負のスパイラルとしか言いようのないものだと思うのですが、作曲家・堀は、彼女のそういう卑屈なところに苛立って、彼女に異常ともいえる執拗さでつらく当たっていたのではないかと、ふと考えてみました。

堀には心に秘めた意中の人があり、その思いが曲となって結実し、流行歌として世間に流布されると形骸化した曲の流布に苛立って憤懣を不幸な許婚者・月丘千秋にぶつける、あるいはこれみよがしのようなあてつけの自殺未遂をしでかすという、これじゃあなんとも許婚者・月丘さんの立場というものがまるっきりないじゃないかと思えたからでした。たとえ無茶苦茶をされるにしても、せめてその理由なりとも本人が自覚していれば本人もまた納得して虐められることに耐えられるという構図は、一応は成り立つのではないかと考えた次第です。

実は、この作品を見ながら、むかし読んだ志賀直哉の「孤児」という小説を思い出していました。従妹にあたる「敏(とし)」という女性のことを書いたこの作品、幼くして父を失い、まだ若かった母親は幼な子を志賀直哉の実家にのこして嫁いでしまいます。その実家で彼女は志賀直哉の妹として育てられますが、適齢期になり縁談がおこり(彼女はあまり乗り気でない様子も少し描かれています)神戸に嫁いでいきます。

しかし、姑との折り合いが悪いという便りを聞くうちに妊娠し、子供でもできればうまくいくかもしれないと話しているうちに出産しますが、しかし事態は好転せず、ほどなく子供を置いて実家に戻されてくるという小説です。

二親の愛情を知らずに育った敏は、無条件に注がれる愛情の前で他人と接することも、他人にあまえかかることも知らずに、心を閉ざして育ってきました。

この小説の中に2箇所、敏の性格についての記載があります。

「敏は冷ややかなところのある女です。欠点だけれど、これあるがゆえに忍べるのだと思ったら、なお可哀そうになりました」

「あの大きな欠点を認めてもなお愛さずにはいられない美しい性質があるのではないかと思う。冷ややかかもしれないが親切な女だ。強いかもしれないが優しいところのある女だ。誰にもこういう矛盾はあることだ。ただ敏のは、避けられない境遇のために、それが著しくなったばかりではないだろうか、そして敏からこの冷ややかさと強さとをまず認めたのがあの鋭い姑ではなかったろうかなど思う。」

度重なる不幸の中に育った敏の性格が、その過酷な環境に耐えるために、いつの間にか異常な強さで歪んでしまったとしても、それは悲しいことではありますが、たぶん無理ならぬことだったかもしれない、と志賀直哉は書いています。

そう考えると、この役はとても困難な役だったのだなあと、つくづく思います。こうしたしっかりとした役の性格付けが欠けていれば、たぶんこの映画で石狩しんを演じた月丘千秋のような、ちょっとつかみどころのない訳の分からない女性像になってしまったのだと思います。
そして、もしこの役を高峰秀子が演じたなら、結構うまく演じられたかもしれないなと、ちらっと思ったりもしました。

(1949新世紀プロ・新東宝)監督・市川崑、脚本・和田夏十、製作・井内久、音楽・服部良一、撮影・小原譲治、助監督・山崎徳次郎、美術・小川一男、録音・根岸寿夫、照明・藤林甲、挿入歌「雨のブルース」「夜のプラットホーム」「蘇州夜曲」「私のトランペット」「湖畔の宿」「セコハン娘」「ブギブギ娘」
出演・堀雄二(三木竜太郎)、月丘千秋(石狩しん)、笠置シヅ子(雨宮福子)、折原啓子(小田切優子)、清川虹子(石狩すて)、江見渉(千光)、斎藤達雄(砂堂)、鮎川浩(野々宮元)、服部富子(夏目千鳥)、若月輝夫(阪東梅吉)、伊藤雄之助(料理人・塙)、山田長正(肥満したコック)、山室耕(暴漢)、山口淑子(美しき歌手)、淡谷のり子(ブルースを唄う女)、
配給=東宝 1949.09.27 10巻 2,503m  91分 白黒
 


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