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寺田寅彦の映画論

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ある人から寺田寅彦の著作に映画評論があると聞いたとき、なんだか物凄く興味を惹かれたのは、この作家の固定観念に対して「映画」という言葉のイメージに物凄い違和感を覚えたからだと思います、それはまさに「ギャップ」といっても差し支えないくらいのものだったかもしれません。

物理学者で随筆家として著名な寺田寅彦(1878~1935)は、あの極端に人見知りで気難しい夏目漱石にこよなく愛され、漱石宅にも自由に出入りを許されていた(「木曜会」だったと記憶しています)くらいの愛弟子で、なにしろ「吾輩は猫である」や「三四郎」などにモデルとして描かれているくらいですから、それは相当なものだったろうし、漱石を尊敬していた多くの人たちからも特別な存在として一目おかれていたというのも当然と頷かれます。

なにしろ、漱石にしてからが、日本文学の地平を切り開いた先駆者なので、印象的には「むしろ江戸時代に近い方の明治の人」という感じをもつ自分にとって、そういう時代的な部分と、比較的新しい芸術という先入観のある「映画」との取り合わせに意外な感じを受けてしまったとしても、たぶんそれは、無理からぬことだったと思います。

さっそく近所の図書館から岩波書店刊「寺田寅彦全集 第八巻」(1997.7.7.1刷、425頁)を借り受けてきました。

受付窓口でこの本を受け取ったとき、思わず、自分がこの本を手にした最初の人間なのではないかと疑ってしまうくらい、それは清潔で汚れのない「新刊」そのままのような状態でした。

果たしていままで、この本に借り手というものがあったのかと、余計な心配をしてしまうくらい、それは皮肉なほどの新しさです。

目を凝らせば、あるいはその冷ややかな表紙から、「敬遠」の二文字がいまにも浮かび上がってきそうなくらい、ヨソヨソしいほど人の気配を感じさせない清潔さでした。

自分が蔵書している「寺田寅彦」本は、筑摩書房の「現代日本文學全集22」(昭和30.7.25.1刷、438頁)で、「森田草平・鈴木三重吉」との三人集ですが、この原稿不足の現代からはちょっと考えられない、いまどき有り得ない本文三段組という野放図な贅沢さで組まれている、まさに時代に逆行したような「日本文學全集」です(昭和30年刊行の本なので当然ですが)。

このクラシックな本は、いまはもう廃業して取り壊されてしまった駅前の古本屋で購入しました。

たしか「100円均一」の棚に数十冊もならべられていたものを一挙に購入した(20冊買っても2000円ですから財政的にはビクともしませんが、重量を考えるとやはり「一挙」には無理だったかもしれません)そのなかの一冊だったと記憶しています。

実はこれまで寺田寅彦の随筆は、そのひとつひとつが、ほどよい「短さ」(もちろん「いい意味での」短さです)ということもあって、折りにふれて親しんでいました。

その随筆の全体的な印象をざっくりと挙げれば、まず、過ぎ去った少年の日の甘美な思い出とか、まあ、同じような感じの哀切な望郷とか、あるいは、いまは亡き人々への尽きせぬ回顧などという感じの随筆です。

しかし、こうしてテーマだけを言葉として挙げていくと、なんだか思い入れたっぷりの情緒過多の随想になってしまいそうな感じがしますが(日本の多くの作家たちが、往々にして「そういう傾向」があるので、ついそんなふうに考えてしまいます)、しかし、そのような「ベタベタ感」は一切なく、日本の歌謡曲的情緒からは距離をとって客観的写生的に書かれていて、むしろ、西欧的な知性や理性を感じさせる乾いた筆致という印象でした。

自分がもっとも印象深く読んだのは、「團栗(どんぐり)」という小品です。

明治38年4月の「ホトトギス」に掲載されたものだそうですが、筑摩本でいえば、わずかに2頁半という短さです。

不治の病で早世した最初の妻・夏子のことを書いたもので、夫との気持ちのわずかな行き違いに苛立ったり、ちょっとした親切に喜んではしゃいだりと、細々とした妻の仕草や会話を冷静に描写していきながら、しかし、一進一退を繰り返す病状は、徐々に、そして確実に彼女を蝕み悪化していくという妻との日常を、まるで生態観察のような緻密な冷静さで描写しています。末尾の部分をちょっと要約すると・・・

体調がいいときの妻を誘って「植物園」に行った帰り道、妻はたまたまどんぐりをみつけ、どんぐり拾いに熱中します。あまりのその熱中振りに夫はあきれ、少し苛々して、「もう大概にしないか、馬鹿だな」「一体そんなに拾って、どうしようというのだ」ときくと、妻は「だって拾うのが面白いじゃありませんか」といい、なおも拾うのをやめようとしない、それどころか、さらに「あなたのハンケチも貸して頂戴」といって、夫のハンケチもどんぐりでいっぱいに満たして、やっと帰る気になるという部分です。

その圧巻の部分をちょっと書き写してみますね。

ハンケチ一杯に拾って包んで大事そうに縛って居るから、もう止すかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸して頂戴」と云う。とうとう余のハンケチにも何合かの團栗を充たして「もう止してよ、帰りましょう」と何処迄もいい気なことをいう。
團栗を拾って喜んだ妻も今はない。御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。山には團栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。

「もう止してよ、帰りましょう」という妻の言葉にまるで覆い被さるように
不意に、「團栗を拾って喜んだ妻も今はない。」と語られ、そして無常な風景として
「御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。」と苔むした墓がひっそりとたたずむ山
「山には團栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。」と山の自然は人の生き死にや愛憎など、すべて呑み込み、何もなかったかのような静けさだけがいつまでもつづいていく。

妻が残した最後のひとことが、死の床でのものでなく、そして、妻の最後の細々しい描写や、妻を失う夫の苦悩などのことごとくを省略したうえでのこの「團栗を拾って喜んだ妻も今はない。」の一文は、いまでも僕が出会った圧巻の一文だったと思っています。

少し、寄り道しすぎて時間がなくなってしまいました。

岩波書店刊「寺田寅彦全集 第八巻」所収の映画論のタイトルだけでも書いておきますね。

映画時代、ラジオ・モンタージュ、青磁のモンタージュ、映画の世界像、映画雑感(1)、生ける人形、教育映画について、映画芸術、音楽映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」、ニュース映画と新聞記事、Image of Physical World in Cinematography、映画雑感(2)制服の処女、ひとで、巴里―伯林、巴里祭、人生謳歌、映画「マルガ」に現れた動物の闘争、耳と目、踊る線条、山中常盤双紙、映画雑感(3)にんじん、居酒屋、世界の屋根、忠臣蔵、イワン、バンジャ、漫画の犬、一本刀土俵入、カルネラ対ベーア、只野凡児第二編、荒馬スモーキー、忠犬と猛獣、血煙天明陣、喰うか喰われるか、吼えろヴォルガ、或る夜の出来事、映画雑感(4)商船テナシティ、実写映画に関する希望、誤解されたトーキー、映画批評について、人間で描いた花模様、麦秋、ロスチャイルド、ベンガルの槍騎兵、アラン、ナナ、電話新選組、映画錯覚の二例、「世界の終り」と「模倣の人生」、黒鯨亭、乙女心三人姉妹、外人部隊、男の世界、映画雑感(5)永遠の緑、家なき児、管弦楽映画、その夜の真心、すみれ娘、映画と生理、映画雑感(6)パーロの嫁取り、ロス対マクラーニンの拳闘、別れの曲、紅雀、泉、映画雑感(7)影なき男、ロバータ、


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