この作品「カメラを止めるな!」の存在を知ったのは、町山智浩がラジオで紹介していたのを、たまたま聴いたのが最初だったかもしれません。
それとも、新聞が報じていた記事
「公開当初は、たった2館のみで上映されたこの作品の観客動員数がものすごくて、上映館を一挙に100館超えで全国拡大した」
を読んだのが、あるいは最初だったのか、いまとなっては思い出すことができませんが、いずれにしても、従来なら、金に飽かした映画会社の誇大広告の猛烈な攻勢によって、作品そのものとは別の次元で空疎なイメージをでっちあげ、とにかく投資資金の回収だけはしなければと、必死になって集客をあおる詐欺まがいの営業戦略にすっかり慣れきってしまっている僕たちにとって(そこでは、提供された粗悪な作品を実際に見たあとでお約束どおり「あの映画、それほどでもなかったよ」とガッカリ失望することさえもセットになっていたくらいです)、しかし、この「カメラを止めるな!」は、ここ何年もついぞ経験したことのない、いや、あったとしてもすっかり忘れてしまったほどの時間が経過した、観客の側から盛り上がった鮮烈な「草の根的な現象」だったと思います。
あのとき、町山智浩は、たしか、映画の後半は「ネタばれ」になるから話せないとか言っていて、内容の詳細にわたる言及までは避けていました。
以後のネットの書き込みを注視していても、次第にこの作品の大まかな骨格は分かってきましたが、やはり「ネタばれ」は避けるという姿勢だけは貫かれているようでした。
そのたびに、いったい「ネタばれ」ってなんなんだという苛立ちが、自分のなかに積みあがっていくのを感じました。
以前、映画の惹句のひとつのスタイルとして、「この映画を見た人は、まだ見てない人に、映画の結末を絶対に話さないでください」というのがありました。
自分の記憶では、その惹句を最初に使った作品は、たしかヒッチコックの「サイコ」だったと思いますが、そもそも、映画「サイコ」が、最初から「犯人」を知ってしまったからといって、どうこういうタイプの作品なのかという苛立たしい疑問(まさかミステリー映画じゃあるまいし)がずっと自分の中にあり、収益をあげなければならない映画会社としては、謎解きを楽しむミステリー映画と宣伝したほうが分かりやすく売りやすいと考えたくらいのことは自分にも見当がつきましたが、しかし、ヒッチコックのあの傑出した作品「サイコ」を、なにも「犯人さがし」の映画にしなくたってという苦々しい思いは常にありました。その程度のことなら、なにもわざわざトリュフォーの見解を確かめるまでもありません。
この映画「カメラを止めるな!」にしても、ケチな「ネタばれ」なんかに気をとられるよりは、入れ子細工のように工夫を凝らしたアイデアの重層的な部分をもっと楽しめばいいと思います。
まあ、そんな感じで、すぐにも見てみたいと思ったものの、折あしくその時期がちょうどアカデミー賞選考の前哨戦で盛り上がっていた真っ最中でもあり、誰もがアカデミー賞に再び「メキシコの風」が吹きまくるのではないかという期待と噂でもちきりになっていたときなので、ついつい自分も「オスカー・レース」の追っ掛けに入れ込んでしまいました。
結論的には、アカデミー賞は、やはり「アメリカ・ファースト」でしたが、そうしたゴタゴタのなかでは映画「カメラを止めるな!」を見るまでの余裕がなく、そうこうしているうちに、ついに地上波の放映に先を越されてしまったというわけです。
しかしまあ、何だかんだいっても、どんな形ではあれ、とにかく映画は見さえすればそれでいいのですから、長い間見ることを先延ばしにしていた期待の作品を、こうしてようやく見ることができました。
しかし、いたずらな「先延ばし」が、功罪を伴うということは言えるかもしれません。確かに、その間に、聞かなくて済んだかもしれない(明らかにまともでない)多くの人の感想を「まともに」聞いてしまったということはありました。
例えば、そのなかには、聞き捨てできないような、こんなコメントもありました。
「この作品、キネ旬のベストテンには入らなかったんですよね。その程度の映画なんだなと思いました」と。
おいおいおい、ちょっと待てえや、あのな、ええか、ベストテンとか選ぶために雁首ならべているあの連中・選考委員とかいう奴らをよく見てみろや、な、ろくな奴いてへんやん、自認しているかどうかはともかく、彼らに課されている役割というのは、ただ「平均点」を出すこと、彼らの雑多な意見が均されて「平均」になるのではなくて、メジャー的な発想で最初から均された意見しか持ってない者たちを並び立てているのみと見るべきであって、映画「カメラを止めるな!」がキネ旬の何位にランクされたかなど、ここでは全然異次元の、問題とするにさえ値しない。ここで大事なことは、インディーズがメジャーを一瞬でもおびやかしたということがキモなんだよ。
このメジャーの大資本とインディペンデント映画が、互いを決して容認も理解もしなかったという事例なら、アメリカに恰好な記録があります。
1958年、ニューヨーク派の巨匠ジョン・カサヴェテスは、インディペンデント映画の傑作「アメリカの影」を撮ります。従来のハリウッドの描くニューヨークが、軽妙洒脱な華やかな「都会」を描いたのに対して、カサヴェテスは、当時タブー視されていた有色人種と白人の葛藤を暗く重厚なタッチで鮮烈に描いて、ニューヨーク派に深刻な衝撃と高い評価を得ていました。
シドニー・ルメットの「質屋」が撮られたのが1964年のことですから、その挑発的な先見性と戦闘性には実に驚くべきものがあったと思います。
当初、ジョナス・メカスも絶賛したひとりだったのですが、しかし、その「絶賛」は、すぐに「罵倒」に代わりました。
メカスが絶賛したのは、上映時間60分の16mmオリジナルヴァージョンの方で、罵倒の対象になった作品は、カサヴェテスが作品を分かり易くするために再編集した上映時間87分35mmブローアップ版で、こんなものは単なるハリウッドにおもねった「悪しきコマーシャル映画でしかなく、インディペンデント精神の放棄にすぎない」と腹立たし気に罵っています(メカスの映画日記20~23頁)。しかし、35mmブローアップ版しか知らない僕たちには、この檄文を複雑な思いで読むしかありませんが。
つまり、自分の言いたいことは、メジャーの大資本とインディペンデントがつくる映画には、理解し合えない溝があるのが当然で、インディペンデントでなければ表現しえないものがあることを自覚・自認すべきと考えた次第で、映画「カメラを止めるな!」がベスト・テンに入らなかったのは、むしろ当然だと思うくらいでいいのだと思います。
そこで、ちょっと前に出た「キネマ旬報」2月下旬号(ベスト・テン発表特別号)を引っ張り出しました。
実は、この号、自分的には「永久保存版」という位置づけで毎年買っているのですが、文字通り、ただ保存しておくだけで、買って以後開いたことがありません。そしていつの間に書棚から姿を消してしまいます。
以前ならデータ満載の資料として貴重な雑誌だったのでしょうが、ここに掲載されているくらいのことは、いまではインターネットで容易に検索できてしまいます、あえて見る箇所があるとすれば、11位以降のランキングを知りたいと思うときくらいかもしれません。
さっそく、映画「カメラを止めるな!」が、はたして何位にランクされているのか、確かめてみました。
ふむふむ、17位ですか、これだってすごいことですよ、まさに快挙といっていいくらいです。
そこで、選者たちが「カメラを止めるな!」を何位にランクし、またどう言及しているか、ピックアップしながら最初から読んでみました。
「素朴な映画愛のためらいのなさがいい」8位(内海陽子・映画評論家)
「映画館で感じた熱量もふくめて」10位(大久保清朗・映画評論家)
「2018年の映画界最大の話題は『カメラを止めるな!』現象でいいとして、それは実質的側面を代表する作品ということにはならない」10位(大高宏雄・映画ジャーナリスト)
「『カメラを止めるな!』も外れましたが、すでに十分すぎる評価ではないでしょうか。」ラン外(尾形敏朗・映画評論家)
「エンタテインメントとして楽しんだ」10位(川本三郎・批評家)
「上田慎一郎の『カメラを止めるな!』・・・など新人の挑戦に刺激を受けた」と名をあげながらも無視(金原由佳・映画ジャーナリスト)
7位にランクするもコメントなし(黒田邦雄・映画批評家)
「特記すべき長編初監督作として上田慎一郎の『カメラを止めるな!』・・・をあげておく」9位(轟夕起夫・映画評論家)
「『カメ止め』ブームが象徴しているように、衝動に駆られて製作した作品、撮ることの喜びと苦悩が溢れ出ていた作品が力を発揮していた。」といいながらランク外(中山治美・映画ジャーナリスト)
「どう考えても『カメラを止めるな!』以外のベスト・ワンは思いつかず、評判になってから『大したことはない』という声も聴きましたが、『大したこと、大あり』でしょ」1位(野村正昭・映画評論家)
「『カメラを止めるな!』・・・はすべて新人監督。」4位(平辻哲也・ジャーナリスト)
「平成最後のキネ旬ベスト・テンを象徴するかのようにジャパニーズドリームを見事に成し遂げた『カメラを止めるな!』に軍配を上げようと思っていたが・・・」2位(増當竜也・映画文筆)
「2018年の日本映画界を語るうえで欠かせない『カメラを止めるな!』は、自主映画に近い製作体制で作られたインディーズ映画。論壇だけでなく興行面においても圧倒的な熱を帯び、100年先に映画史を振り返る際にも時代の指標となるだろう。同時に、瀬々敬久や白石和彌などメジャー映画会社で実績ある監督も、自主映画に近い製作体制で作品を発表したことを忘れてはならない。いま日本映画界が考えるべき問題は此処に存在しているからだ。」といいながらランク外(松崎健夫・映画評論家)
10位にランクすれどもコメントなし、こういう二枚舌使う卑劣なヤカラがヤバイのだ(三留まゆみ・イラストレイター)
「興行的には『カメラを止めるな!』が話題を呼んだが、作品的には弱い印象がした。」興行的ってさあ、メジャーは「興行的に」狙っているのに当てられなかったわけだろ! そこを言ってんの、アホ。ランク外(村山匡一郎・映画評論家)
7位にランクすれどもコメントなし、7位(吉田伊知郎・映画評論家)
「前半は少し退屈な『カメラを止めるな!』だが、映画作りにはまだ一獲千金の夢があることを教えてくれたことへの感謝をこめて」10位(渡辺祥子・映画評論家)
5位にランクすれどもコメントなし、5位(渡辺武信・映画評論家)
こう読んできて、一応まともなのは、野村正昭、松崎健夫、渡辺祥子くらいで、あとの連中は、お仕事ほしさに大手資本の顔色をうかがってヨイショすることに窮々としているだけで、こんな愚劣な連中がもっともらしく採点しているわけですから、何位になろうと別に気にすることはありません。
ちなみに、この号の「日本映画採点表」のいちばん最後に載っている映画は、107位の「真っ赤な星」、そして、この作品を映画評論家・秋本鉄次という人が10位にランクし1ポイントを計上したことによって107位にランク・インさせて、ランキングの末端で攪乱を狙ったわけですが、これがそもそもどういう映画かというと、
≪国内外で注目を集める新鋭・井樫彩監督が、孤独を抱える14歳の少女と27歳の女性の愛の日々をつづったラブストーリー。田舎町の病院に入院した14歳の陽は、優しく接してくれる看護師の弥生に特別な感情を抱くが、退院の日、弥生が突然看護師を辞めたことを知る。1年後、陽は街中で偶然にも弥生と再会する。しかし彼女は現在、男たちに身体を売って生計を立てており、過去の優しい面影はすっかり消えていた。学校にも家にも居場所のない陽は、引き寄せられるように弥生に近づくが、弥生には誰にも言えない悲しい過去があった。孤独を抱える2人は、弥生のアパートで心の空白を埋める生活を送りはじめるが……。陽役を「みつこと宇宙こぶ」の小松未来、弥生役を「THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY リミット・オブ・スリーピング ビューティ」「娼年」の桜井ユキがそれぞれ演じた。≫
なのだそうです。
そして、この解説中にある同じ桜井ユキが出演した「娼年」も4位にランクして7ポイントを計上したことによって、「娼年」はみごと、54位にランクされました。54位になるためには、12ポイントというポイントが必要だったわけですから、この秋本氏の4ポイントがいかに効いたか、いかに寄与したかが、これだけで分かります。
桜井ユキの親戚か、あるいは単なるストーカーかもしれず、いずれにしても「万引き家族」「菊とギロチン」「きみの鳥はうたえる」「寝ても覚めても」をさしおいて、「真っ赤な星」と「娼年」などに投票してしまおうという不自然さには、いかにもイカガワシイ人には違いないという印象をぬぐえません、親戚かストーカーかと勘繰りたくもなるというのも当然です。
そういうひねくれた人たち(わたしは違います)が集まって選ぶベスト・テンです、なにもランク・インしなかったからといって少しも気にすることなんかありませんヨ。
でも「キネマ旬報 ベスト・テン特集号」をはじめて有効に活用できて嬉しいです。
この映画「カメラを止めるな!」は、ワンカットで映画を撮るという命題を与えられ、映画人が夢とプライドを呼び覚まされ、「映画」のために結束し、あらゆる困難を克服して映画を取り上げたという作品ですが、しかし、スポコンものとは違います。ワンカットで映画を撮りあげるということが、映画人のむかしからの夢だったからだと思います。
思いつくままに長回しで著名な監督名をあげると、
アスガル・ファルハーディー
アルフォンソ・キュアロン
アルフレッド・ヒッチコック
アレクサンドル・ソクーロフ
アンドレイ・タルコフスキー
ヴィム・ヴェンダース
オーソン・ウェルズ
カール・テオドア・ドライヤー
ギャスパー・ノエ
クエンティン・タランティーノ
ジム・ジャームッシュ
ジャ・ジャンクー
ジャック・リヴェット
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
ジャン=リュック・ゴダール
ジャン・ルノワール
ジョセフ・W・サルノ
スタンリー・キューブリック
相米慎二
タル・ベーラ
ツァイ・ミンリャン
デヴィッド・リンチ
テオ・アンゲロプロス
ブライアン・デ・パルマ
ポール・トーマス・アンダーソン
ホウ・シャオシェン
マーティン・スコセッシ
マックス・オフュルス
ミクローシュ・ヤンチョー
ミケランジェロ・アントニオーニ
溝口健二
三谷幸喜
ミヒャエル・ハネケ
ルキノ・ヴィスコンティ
ロバート・アルトマン
ということになり、あげてみればきりがなく、枚挙にいとまがないという感じです、例えば、演技の高揚を止切らせることを嫌った溝口健二は、細かいカット割りをせずに、カメラを据えっぱなしにして俳優の演技をじっくりと追いました。何十回もダメ出しされた俳優たちは、どのように演じればいいか分からなくなり、心理的にも体力的にも追い詰められて、ついにパニックになって冷静さを失い、無我夢中で逆上気味に愁嘆場を演じたとき(演ずることを超えたとき)、はじめて溝口健二からOKがでたといわれています。
反対に、小津監督は細かくカットを割ることによって、俳優には極力「演技」をさせませんでした。そもそも小津監督が俳優の演技というものを信用してなかったということはあったかもしれませんが、むしろ、無駄な動きを封じることでかもし出されるゆったりとした一連の動作と閉ざされた時間のなかに、日常生活を生きる人間の思いの深み(諦念とか失意とか)を表そうとしたのではないかと思います。
この映画「カメラを止めるな!」は、ワンカットで映画を撮るという映画人にとっての至上命題が、それまでダレていた現場に、「活動写真」の歴史的モラルを思い出させ、映画を撮るために一致結束することの歓びを描き得たのだと思いますし、そうでなければ、僕たちにこれほどの感銘を与えることはできなかっただろうと思います。
そうそう、この小文の最初に「この作品は、工夫をこらしたアイデアの重層的な部分をもっと楽しめばいい」と書きました。
アップされた多くのコメントのなかに、この「カメラを止めるな!」をトリュフォーの「アメリカの夜」のパクリだと断じた意見を読みましたが、それにはちょっと首をひねらざるを得ませんでした。
そのご仁が、映画製作の現場の舞台裏を見せるという意味において単なるメイキング・フィルムと印象したのだったとしたら、それは勘違いもはなはだしいと思います。
かつての「メイキング・フィルム」というのは、巨匠とよばれる大監督が、かっこよく撮影現場をテキパキと仕切ったり、主役級の俳優たちが、あれこれと演技に工夫を凝らす様子を写したもので、しかもトリュフォーの「アメリカの夜」にいたっては、それぞれに「映画の記憶」を呼び覚ますという幸福な思い出に耽溺できる品格をそなえてさえいたことを思うと(その「映画の記憶」の具体例については、wikiから拝借して、末尾に貼りつけておきました。)、映画「カメラを止めるな!」とは、似ても似つかないものというしかありません。
映画「カメラを止めるな!」は、監督不在(あるいは、ダレた監督なら、いなくとも十分やっていけるという皮肉)という現場で、スタッフのひとりひとりが自主的に動き、駆けずり回ることができたアナーキーなドキュメントであることで僕たちに感銘を与えることができたのだと思います。
つまり、この監督不在のメイキング・フィルム(「メイキング・フィルム」だったとしたら、ですが)は、「アメリカの夜」というよりも、むしろ、これまでの映画においてはフレームからはずれ、決して目にすることのなかった裏方の名もないスタッフたちが、ストーリーの導き手として跳梁する黒子のような姿をはじめて白日の下にさらして描き切ったという、かつてならあり得なかった画期的な場面を僕たちは初めて目にすることができ、そしてそのことに感銘を受けたのだとしたら、それはやはり「アメリカの夜」などではなくて、篠田正浩の「心中天網島」こそが相応しいかもしれないなと思いはじめた次第です。
【トリュフォーの「アメリカの夜」は、いかにして「映画の記憶」の夢を見たか?】
★タイトルの『アメリカの夜』(フランス語の原題「La Nuit américaine」の和訳)とは、カメラのレンズに暖色系の光を遮断するフィルターをかけて、夜のシーンを昼間に撮る「擬似夜景」のこと。モノクロ時代に開発されハリウッドから広まった撮影スタイルであるため、こう呼ばれた。英語では "day for night" と呼び、この映画の英語タイトルも「Day for Night」となっている。映画のカラー化により使えるシーンが減少し、機材やフィルムの感度が上がって夜間撮影が難しいものではなくなった現在では、この撮影方法はほとんど使われないことになっているが、丁寧に見ていればときどき見られる。
★映画のセットはワーナー・ブラザースの映画『シャイヨの伯爵夫人』(TheMadwomanofChaillot)に作られたものをそのまま使った。そのため9週間の撮影のために80万ドルという少なさで、しかもドル・ショックで実質的に72万ドルの価値しかなくなってしまった。
★日本初公開時のタイトルは『映画に愛をこめて アメリカの夜』だった。1988年のリバイバル公開から『フランソワ・トリュフォーのアメリカの夜』に変更されたが、近年発刊されているデータベース本などでも『映画に愛をこめて アメリカの夜』で記載されてある場合が多いようである。
★献辞で使われた映像は、D・W・グリフィス監督の『見えざる敵』。
★フェラン監督が見る、少年がステッキで『市民ケーン』のスチル写真を盗む夢は、トリュフォーの少年時代の体験。『大人は判ってくれない』でも少年がポスターを盗むシーンがある。
★フェラン監督は左耳に補聴器をつけているが、トリュフォーは補聴器をつけていない。だが、難聴であり、その理由もフェラン監督と同じである。
★フェラン監督が注文した本は、ブニュエル、ルビッチ、ドライヤー、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ホークス、ロッセリーニ、ブレッソン。
★冒頭でクレーン撮影を行うシーンがあるが、トリュフォー自身は大掛かりなクレーンは一度も使っていない。
★『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローが男たちがドミノに夢中で気を引くために「誰か、あたしの背中をかいてくれない?」というセリフを言った時、口調があまりにも自然だったせいか、小道具係が本当に背中をかいてやったというハプニングがあった。そのとき映画作りの現場を映画にするというアイデアを思いついたのだという。
★猫が思い通りに動いてくれず、何度も撮影をやり直すシーンは『柔らかい肌』での体験。
★ノイローゼ気味の女優が「ブール・アン・モット」という特製のバターを要求してスタッフが慌てるシーンは、ジャンヌ・モローが『エヴァの匂い』で同じ要求をしたという実話から。女優のわがままを象徴するシーンとなった。
★「40本ほどの出演作品のなかで、12-13回は電気椅子にかけられ、刑務所生活は合計すると800年以上も送ったことになる」と語るアレクサンドルのモデルは悪役時代のハンフリー・ボガート。また、彼のモデルとしてジャン・コクトーもイメージされている。
★劇中劇のストーリーはニコラス・レイ監督とグロリア・グレアムの『孤独な場所で』撮影などの間に実際に起こった事件がモデル(劇中劇では男女を逆にしている)。
★フランス女優がセリフの代わりに数字を読み上げるというエピソードは、フェデリコ・フェリーニが『8 1/2』で使った手法。
★彼女のセリフ「昔は女優は女優、ヘアメイクはヘアメイクだったのに」は、ロベルト・ロッセリーニ時代のイングリッド・バーグマンがよくこぼしたという文句。
★ジャクリーン・ビセットをスタンリー・ドーネン監督の『いつも2人で』を初めて観て、使いたいと思って、彼女を念頭においてシナリオを書いていたので返事が遅かった時は本当に悲しかったという。彼女の人物は主に『華氏451』のジュリー・クリスティの思い出と、『恋のエチュード』の二人の姉妹のイメージが加わっている。
★セリフを覚えられない女優のモデルは晩年のマルティーヌ・キャロル。
★ヒロインの女優の告白をそのまま映画のセリフに転用してしまうエピソードは、『夜霧の恋人たち』で当時恋人だったカトリーヌ・ドヌーヴがトリュフォーに告白した言葉を『隣の女』でファニー・アルダン(彼女もトリュフォーとは恋人関係だった)のセリフにしてしまうことで現実のものとなった。これを見たドヌーヴもやはり「あきれたわ、みんな私のセリフじゃない!」と言ったという。トリュフォーには印象に残った言葉や体験をメモに書き留めて残しておく習慣がある。
★アントワーヌ・ドワネルものではないが、ジャン=ピエール・レオがアルフォンスという役名で出てきて「女は魔物か?」ほかの台詞も他の作品から意識的に引用されている。トリュフォーは引用することによって明確に終止符を打ったのだという。
★劇中劇のラストシーンで雪にしようというアイデアが出るところで、保険会社の代表で背の高いイギリス人が出てくるが、スクリーン・テストの時に「ヘンリー・グレアム」と名乗っていたが、途中から作家グレアム・グリーンだと分かる。ニースの別荘に招待してくれたが、ヒッチコックの評価をめぐって大論争になったという。名前を出さないこととスチル写真は撮らないことを条件に出てくれた。
(2017)監督・上田慎一郎、脚本・上田慎一郎、プロデューサー・市橋浩治、撮影・曽根剛、録音・古茂田耕吉、特殊造形・下畑和秀、メイク・下畑和秀、ヘアメイク・平林純子、衣装・ふくだみゆき、編集・上田慎一郎、音楽・永井カイル、主題歌・鈴木伸宏、伊藤翔磨、メインテーマ・鈴木伸宏、伊藤翔磨、助監督・中泉裕矢、吉田幸之助、制作・吉田幸之助、スチール・浅沼直也、アソシエイトプロデューサー・児玉健太郎、牟田浩二、
出演・濱津隆之(日暮隆之)、真魚(日暮真央)、しゅはまはるみ(日暮晴美)、長屋和彰(神谷和明)、細井学(細田学)、市原洋(山ノ内洋)、山崎俊太郎(山越俊助)、大澤真一郎(古沢真一郎)、竹原芳子(笹原芳子)、吉田美紀(吉野美紀)、合田純奈(栗原綾奈)、浅森咲希奈(松浦早希)、秋山ゆずき(松本逢花)、山口友和(谷口智和)、藤村拓矢(藤丸拓哉)、イワゴウサトシ(黒岡大吾)、高橋恭子(相田舞)、生見司織(温水栞)、
それとも、新聞が報じていた記事
「公開当初は、たった2館のみで上映されたこの作品の観客動員数がものすごくて、上映館を一挙に100館超えで全国拡大した」
を読んだのが、あるいは最初だったのか、いまとなっては思い出すことができませんが、いずれにしても、従来なら、金に飽かした映画会社の誇大広告の猛烈な攻勢によって、作品そのものとは別の次元で空疎なイメージをでっちあげ、とにかく投資資金の回収だけはしなければと、必死になって集客をあおる詐欺まがいの営業戦略にすっかり慣れきってしまっている僕たちにとって(そこでは、提供された粗悪な作品を実際に見たあとでお約束どおり「あの映画、それほどでもなかったよ」とガッカリ失望することさえもセットになっていたくらいです)、しかし、この「カメラを止めるな!」は、ここ何年もついぞ経験したことのない、いや、あったとしてもすっかり忘れてしまったほどの時間が経過した、観客の側から盛り上がった鮮烈な「草の根的な現象」だったと思います。
あのとき、町山智浩は、たしか、映画の後半は「ネタばれ」になるから話せないとか言っていて、内容の詳細にわたる言及までは避けていました。
以後のネットの書き込みを注視していても、次第にこの作品の大まかな骨格は分かってきましたが、やはり「ネタばれ」は避けるという姿勢だけは貫かれているようでした。
そのたびに、いったい「ネタばれ」ってなんなんだという苛立ちが、自分のなかに積みあがっていくのを感じました。
以前、映画の惹句のひとつのスタイルとして、「この映画を見た人は、まだ見てない人に、映画の結末を絶対に話さないでください」というのがありました。
自分の記憶では、その惹句を最初に使った作品は、たしかヒッチコックの「サイコ」だったと思いますが、そもそも、映画「サイコ」が、最初から「犯人」を知ってしまったからといって、どうこういうタイプの作品なのかという苛立たしい疑問(まさかミステリー映画じゃあるまいし)がずっと自分の中にあり、収益をあげなければならない映画会社としては、謎解きを楽しむミステリー映画と宣伝したほうが分かりやすく売りやすいと考えたくらいのことは自分にも見当がつきましたが、しかし、ヒッチコックのあの傑出した作品「サイコ」を、なにも「犯人さがし」の映画にしなくたってという苦々しい思いは常にありました。その程度のことなら、なにもわざわざトリュフォーの見解を確かめるまでもありません。
この映画「カメラを止めるな!」にしても、ケチな「ネタばれ」なんかに気をとられるよりは、入れ子細工のように工夫を凝らしたアイデアの重層的な部分をもっと楽しめばいいと思います。
まあ、そんな感じで、すぐにも見てみたいと思ったものの、折あしくその時期がちょうどアカデミー賞選考の前哨戦で盛り上がっていた真っ最中でもあり、誰もがアカデミー賞に再び「メキシコの風」が吹きまくるのではないかという期待と噂でもちきりになっていたときなので、ついつい自分も「オスカー・レース」の追っ掛けに入れ込んでしまいました。
結論的には、アカデミー賞は、やはり「アメリカ・ファースト」でしたが、そうしたゴタゴタのなかでは映画「カメラを止めるな!」を見るまでの余裕がなく、そうこうしているうちに、ついに地上波の放映に先を越されてしまったというわけです。
しかしまあ、何だかんだいっても、どんな形ではあれ、とにかく映画は見さえすればそれでいいのですから、長い間見ることを先延ばしにしていた期待の作品を、こうしてようやく見ることができました。
しかし、いたずらな「先延ばし」が、功罪を伴うということは言えるかもしれません。確かに、その間に、聞かなくて済んだかもしれない(明らかにまともでない)多くの人の感想を「まともに」聞いてしまったということはありました。
例えば、そのなかには、聞き捨てできないような、こんなコメントもありました。
「この作品、キネ旬のベストテンには入らなかったんですよね。その程度の映画なんだなと思いました」と。
おいおいおい、ちょっと待てえや、あのな、ええか、ベストテンとか選ぶために雁首ならべているあの連中・選考委員とかいう奴らをよく見てみろや、な、ろくな奴いてへんやん、自認しているかどうかはともかく、彼らに課されている役割というのは、ただ「平均点」を出すこと、彼らの雑多な意見が均されて「平均」になるのではなくて、メジャー的な発想で最初から均された意見しか持ってない者たちを並び立てているのみと見るべきであって、映画「カメラを止めるな!」がキネ旬の何位にランクされたかなど、ここでは全然異次元の、問題とするにさえ値しない。ここで大事なことは、インディーズがメジャーを一瞬でもおびやかしたということがキモなんだよ。
このメジャーの大資本とインディペンデント映画が、互いを決して容認も理解もしなかったという事例なら、アメリカに恰好な記録があります。
1958年、ニューヨーク派の巨匠ジョン・カサヴェテスは、インディペンデント映画の傑作「アメリカの影」を撮ります。従来のハリウッドの描くニューヨークが、軽妙洒脱な華やかな「都会」を描いたのに対して、カサヴェテスは、当時タブー視されていた有色人種と白人の葛藤を暗く重厚なタッチで鮮烈に描いて、ニューヨーク派に深刻な衝撃と高い評価を得ていました。
シドニー・ルメットの「質屋」が撮られたのが1964年のことですから、その挑発的な先見性と戦闘性には実に驚くべきものがあったと思います。
当初、ジョナス・メカスも絶賛したひとりだったのですが、しかし、その「絶賛」は、すぐに「罵倒」に代わりました。
メカスが絶賛したのは、上映時間60分の16mmオリジナルヴァージョンの方で、罵倒の対象になった作品は、カサヴェテスが作品を分かり易くするために再編集した上映時間87分35mmブローアップ版で、こんなものは単なるハリウッドにおもねった「悪しきコマーシャル映画でしかなく、インディペンデント精神の放棄にすぎない」と腹立たし気に罵っています(メカスの映画日記20~23頁)。しかし、35mmブローアップ版しか知らない僕たちには、この檄文を複雑な思いで読むしかありませんが。
つまり、自分の言いたいことは、メジャーの大資本とインディペンデントがつくる映画には、理解し合えない溝があるのが当然で、インディペンデントでなければ表現しえないものがあることを自覚・自認すべきと考えた次第で、映画「カメラを止めるな!」がベスト・テンに入らなかったのは、むしろ当然だと思うくらいでいいのだと思います。
そこで、ちょっと前に出た「キネマ旬報」2月下旬号(ベスト・テン発表特別号)を引っ張り出しました。
実は、この号、自分的には「永久保存版」という位置づけで毎年買っているのですが、文字通り、ただ保存しておくだけで、買って以後開いたことがありません。そしていつの間に書棚から姿を消してしまいます。
以前ならデータ満載の資料として貴重な雑誌だったのでしょうが、ここに掲載されているくらいのことは、いまではインターネットで容易に検索できてしまいます、あえて見る箇所があるとすれば、11位以降のランキングを知りたいと思うときくらいかもしれません。
さっそく、映画「カメラを止めるな!」が、はたして何位にランクされているのか、確かめてみました。
ふむふむ、17位ですか、これだってすごいことですよ、まさに快挙といっていいくらいです。
そこで、選者たちが「カメラを止めるな!」を何位にランクし、またどう言及しているか、ピックアップしながら最初から読んでみました。
「素朴な映画愛のためらいのなさがいい」8位(内海陽子・映画評論家)
「映画館で感じた熱量もふくめて」10位(大久保清朗・映画評論家)
「2018年の映画界最大の話題は『カメラを止めるな!』現象でいいとして、それは実質的側面を代表する作品ということにはならない」10位(大高宏雄・映画ジャーナリスト)
「『カメラを止めるな!』も外れましたが、すでに十分すぎる評価ではないでしょうか。」ラン外(尾形敏朗・映画評論家)
「エンタテインメントとして楽しんだ」10位(川本三郎・批評家)
「上田慎一郎の『カメラを止めるな!』・・・など新人の挑戦に刺激を受けた」と名をあげながらも無視(金原由佳・映画ジャーナリスト)
7位にランクするもコメントなし(黒田邦雄・映画批評家)
「特記すべき長編初監督作として上田慎一郎の『カメラを止めるな!』・・・をあげておく」9位(轟夕起夫・映画評論家)
「『カメ止め』ブームが象徴しているように、衝動に駆られて製作した作品、撮ることの喜びと苦悩が溢れ出ていた作品が力を発揮していた。」といいながらランク外(中山治美・映画ジャーナリスト)
「どう考えても『カメラを止めるな!』以外のベスト・ワンは思いつかず、評判になってから『大したことはない』という声も聴きましたが、『大したこと、大あり』でしょ」1位(野村正昭・映画評論家)
「『カメラを止めるな!』・・・はすべて新人監督。」4位(平辻哲也・ジャーナリスト)
「平成最後のキネ旬ベスト・テンを象徴するかのようにジャパニーズドリームを見事に成し遂げた『カメラを止めるな!』に軍配を上げようと思っていたが・・・」2位(増當竜也・映画文筆)
「2018年の日本映画界を語るうえで欠かせない『カメラを止めるな!』は、自主映画に近い製作体制で作られたインディーズ映画。論壇だけでなく興行面においても圧倒的な熱を帯び、100年先に映画史を振り返る際にも時代の指標となるだろう。同時に、瀬々敬久や白石和彌などメジャー映画会社で実績ある監督も、自主映画に近い製作体制で作品を発表したことを忘れてはならない。いま日本映画界が考えるべき問題は此処に存在しているからだ。」といいながらランク外(松崎健夫・映画評論家)
10位にランクすれどもコメントなし、こういう二枚舌使う卑劣なヤカラがヤバイのだ(三留まゆみ・イラストレイター)
「興行的には『カメラを止めるな!』が話題を呼んだが、作品的には弱い印象がした。」興行的ってさあ、メジャーは「興行的に」狙っているのに当てられなかったわけだろ! そこを言ってんの、アホ。ランク外(村山匡一郎・映画評論家)
7位にランクすれどもコメントなし、7位(吉田伊知郎・映画評論家)
「前半は少し退屈な『カメラを止めるな!』だが、映画作りにはまだ一獲千金の夢があることを教えてくれたことへの感謝をこめて」10位(渡辺祥子・映画評論家)
5位にランクすれどもコメントなし、5位(渡辺武信・映画評論家)
こう読んできて、一応まともなのは、野村正昭、松崎健夫、渡辺祥子くらいで、あとの連中は、お仕事ほしさに大手資本の顔色をうかがってヨイショすることに窮々としているだけで、こんな愚劣な連中がもっともらしく採点しているわけですから、何位になろうと別に気にすることはありません。
ちなみに、この号の「日本映画採点表」のいちばん最後に載っている映画は、107位の「真っ赤な星」、そして、この作品を映画評論家・秋本鉄次という人が10位にランクし1ポイントを計上したことによって107位にランク・インさせて、ランキングの末端で攪乱を狙ったわけですが、これがそもそもどういう映画かというと、
≪国内外で注目を集める新鋭・井樫彩監督が、孤独を抱える14歳の少女と27歳の女性の愛の日々をつづったラブストーリー。田舎町の病院に入院した14歳の陽は、優しく接してくれる看護師の弥生に特別な感情を抱くが、退院の日、弥生が突然看護師を辞めたことを知る。1年後、陽は街中で偶然にも弥生と再会する。しかし彼女は現在、男たちに身体を売って生計を立てており、過去の優しい面影はすっかり消えていた。学校にも家にも居場所のない陽は、引き寄せられるように弥生に近づくが、弥生には誰にも言えない悲しい過去があった。孤独を抱える2人は、弥生のアパートで心の空白を埋める生活を送りはじめるが……。陽役を「みつこと宇宙こぶ」の小松未来、弥生役を「THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY リミット・オブ・スリーピング ビューティ」「娼年」の桜井ユキがそれぞれ演じた。≫
なのだそうです。
そして、この解説中にある同じ桜井ユキが出演した「娼年」も4位にランクして7ポイントを計上したことによって、「娼年」はみごと、54位にランクされました。54位になるためには、12ポイントというポイントが必要だったわけですから、この秋本氏の4ポイントがいかに効いたか、いかに寄与したかが、これだけで分かります。
桜井ユキの親戚か、あるいは単なるストーカーかもしれず、いずれにしても「万引き家族」「菊とギロチン」「きみの鳥はうたえる」「寝ても覚めても」をさしおいて、「真っ赤な星」と「娼年」などに投票してしまおうという不自然さには、いかにもイカガワシイ人には違いないという印象をぬぐえません、親戚かストーカーかと勘繰りたくもなるというのも当然です。
そういうひねくれた人たち(わたしは違います)が集まって選ぶベスト・テンです、なにもランク・インしなかったからといって少しも気にすることなんかありませんヨ。
でも「キネマ旬報 ベスト・テン特集号」をはじめて有効に活用できて嬉しいです。
この映画「カメラを止めるな!」は、ワンカットで映画を撮るという命題を与えられ、映画人が夢とプライドを呼び覚まされ、「映画」のために結束し、あらゆる困難を克服して映画を取り上げたという作品ですが、しかし、スポコンものとは違います。ワンカットで映画を撮りあげるということが、映画人のむかしからの夢だったからだと思います。
思いつくままに長回しで著名な監督名をあげると、
アスガル・ファルハーディー
アルフォンソ・キュアロン
アルフレッド・ヒッチコック
アレクサンドル・ソクーロフ
アンドレイ・タルコフスキー
ヴィム・ヴェンダース
オーソン・ウェルズ
カール・テオドア・ドライヤー
ギャスパー・ノエ
クエンティン・タランティーノ
ジム・ジャームッシュ
ジャ・ジャンクー
ジャック・リヴェット
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
ジャン=リュック・ゴダール
ジャン・ルノワール
ジョセフ・W・サルノ
スタンリー・キューブリック
相米慎二
タル・ベーラ
ツァイ・ミンリャン
デヴィッド・リンチ
テオ・アンゲロプロス
ブライアン・デ・パルマ
ポール・トーマス・アンダーソン
ホウ・シャオシェン
マーティン・スコセッシ
マックス・オフュルス
ミクローシュ・ヤンチョー
ミケランジェロ・アントニオーニ
溝口健二
三谷幸喜
ミヒャエル・ハネケ
ルキノ・ヴィスコンティ
ロバート・アルトマン
ということになり、あげてみればきりがなく、枚挙にいとまがないという感じです、例えば、演技の高揚を止切らせることを嫌った溝口健二は、細かいカット割りをせずに、カメラを据えっぱなしにして俳優の演技をじっくりと追いました。何十回もダメ出しされた俳優たちは、どのように演じればいいか分からなくなり、心理的にも体力的にも追い詰められて、ついにパニックになって冷静さを失い、無我夢中で逆上気味に愁嘆場を演じたとき(演ずることを超えたとき)、はじめて溝口健二からOKがでたといわれています。
反対に、小津監督は細かくカットを割ることによって、俳優には極力「演技」をさせませんでした。そもそも小津監督が俳優の演技というものを信用してなかったということはあったかもしれませんが、むしろ、無駄な動きを封じることでかもし出されるゆったりとした一連の動作と閉ざされた時間のなかに、日常生活を生きる人間の思いの深み(諦念とか失意とか)を表そうとしたのではないかと思います。
この映画「カメラを止めるな!」は、ワンカットで映画を撮るという映画人にとっての至上命題が、それまでダレていた現場に、「活動写真」の歴史的モラルを思い出させ、映画を撮るために一致結束することの歓びを描き得たのだと思いますし、そうでなければ、僕たちにこれほどの感銘を与えることはできなかっただろうと思います。
そうそう、この小文の最初に「この作品は、工夫をこらしたアイデアの重層的な部分をもっと楽しめばいい」と書きました。
アップされた多くのコメントのなかに、この「カメラを止めるな!」をトリュフォーの「アメリカの夜」のパクリだと断じた意見を読みましたが、それにはちょっと首をひねらざるを得ませんでした。
そのご仁が、映画製作の現場の舞台裏を見せるという意味において単なるメイキング・フィルムと印象したのだったとしたら、それは勘違いもはなはだしいと思います。
かつての「メイキング・フィルム」というのは、巨匠とよばれる大監督が、かっこよく撮影現場をテキパキと仕切ったり、主役級の俳優たちが、あれこれと演技に工夫を凝らす様子を写したもので、しかもトリュフォーの「アメリカの夜」にいたっては、それぞれに「映画の記憶」を呼び覚ますという幸福な思い出に耽溺できる品格をそなえてさえいたことを思うと(その「映画の記憶」の具体例については、wikiから拝借して、末尾に貼りつけておきました。)、映画「カメラを止めるな!」とは、似ても似つかないものというしかありません。
映画「カメラを止めるな!」は、監督不在(あるいは、ダレた監督なら、いなくとも十分やっていけるという皮肉)という現場で、スタッフのひとりひとりが自主的に動き、駆けずり回ることができたアナーキーなドキュメントであることで僕たちに感銘を与えることができたのだと思います。
つまり、この監督不在のメイキング・フィルム(「メイキング・フィルム」だったとしたら、ですが)は、「アメリカの夜」というよりも、むしろ、これまでの映画においてはフレームからはずれ、決して目にすることのなかった裏方の名もないスタッフたちが、ストーリーの導き手として跳梁する黒子のような姿をはじめて白日の下にさらして描き切ったという、かつてならあり得なかった画期的な場面を僕たちは初めて目にすることができ、そしてそのことに感銘を受けたのだとしたら、それはやはり「アメリカの夜」などではなくて、篠田正浩の「心中天網島」こそが相応しいかもしれないなと思いはじめた次第です。
【トリュフォーの「アメリカの夜」は、いかにして「映画の記憶」の夢を見たか?】
★タイトルの『アメリカの夜』(フランス語の原題「La Nuit américaine」の和訳)とは、カメラのレンズに暖色系の光を遮断するフィルターをかけて、夜のシーンを昼間に撮る「擬似夜景」のこと。モノクロ時代に開発されハリウッドから広まった撮影スタイルであるため、こう呼ばれた。英語では "day for night" と呼び、この映画の英語タイトルも「Day for Night」となっている。映画のカラー化により使えるシーンが減少し、機材やフィルムの感度が上がって夜間撮影が難しいものではなくなった現在では、この撮影方法はほとんど使われないことになっているが、丁寧に見ていればときどき見られる。
★映画のセットはワーナー・ブラザースの映画『シャイヨの伯爵夫人』(TheMadwomanofChaillot)に作られたものをそのまま使った。そのため9週間の撮影のために80万ドルという少なさで、しかもドル・ショックで実質的に72万ドルの価値しかなくなってしまった。
★日本初公開時のタイトルは『映画に愛をこめて アメリカの夜』だった。1988年のリバイバル公開から『フランソワ・トリュフォーのアメリカの夜』に変更されたが、近年発刊されているデータベース本などでも『映画に愛をこめて アメリカの夜』で記載されてある場合が多いようである。
★献辞で使われた映像は、D・W・グリフィス監督の『見えざる敵』。
★フェラン監督が見る、少年がステッキで『市民ケーン』のスチル写真を盗む夢は、トリュフォーの少年時代の体験。『大人は判ってくれない』でも少年がポスターを盗むシーンがある。
★フェラン監督は左耳に補聴器をつけているが、トリュフォーは補聴器をつけていない。だが、難聴であり、その理由もフェラン監督と同じである。
★フェラン監督が注文した本は、ブニュエル、ルビッチ、ドライヤー、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ホークス、ロッセリーニ、ブレッソン。
★冒頭でクレーン撮影を行うシーンがあるが、トリュフォー自身は大掛かりなクレーンは一度も使っていない。
★『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローが男たちがドミノに夢中で気を引くために「誰か、あたしの背中をかいてくれない?」というセリフを言った時、口調があまりにも自然だったせいか、小道具係が本当に背中をかいてやったというハプニングがあった。そのとき映画作りの現場を映画にするというアイデアを思いついたのだという。
★猫が思い通りに動いてくれず、何度も撮影をやり直すシーンは『柔らかい肌』での体験。
★ノイローゼ気味の女優が「ブール・アン・モット」という特製のバターを要求してスタッフが慌てるシーンは、ジャンヌ・モローが『エヴァの匂い』で同じ要求をしたという実話から。女優のわがままを象徴するシーンとなった。
★「40本ほどの出演作品のなかで、12-13回は電気椅子にかけられ、刑務所生活は合計すると800年以上も送ったことになる」と語るアレクサンドルのモデルは悪役時代のハンフリー・ボガート。また、彼のモデルとしてジャン・コクトーもイメージされている。
★劇中劇のストーリーはニコラス・レイ監督とグロリア・グレアムの『孤独な場所で』撮影などの間に実際に起こった事件がモデル(劇中劇では男女を逆にしている)。
★フランス女優がセリフの代わりに数字を読み上げるというエピソードは、フェデリコ・フェリーニが『8 1/2』で使った手法。
★彼女のセリフ「昔は女優は女優、ヘアメイクはヘアメイクだったのに」は、ロベルト・ロッセリーニ時代のイングリッド・バーグマンがよくこぼしたという文句。
★ジャクリーン・ビセットをスタンリー・ドーネン監督の『いつも2人で』を初めて観て、使いたいと思って、彼女を念頭においてシナリオを書いていたので返事が遅かった時は本当に悲しかったという。彼女の人物は主に『華氏451』のジュリー・クリスティの思い出と、『恋のエチュード』の二人の姉妹のイメージが加わっている。
★セリフを覚えられない女優のモデルは晩年のマルティーヌ・キャロル。
★ヒロインの女優の告白をそのまま映画のセリフに転用してしまうエピソードは、『夜霧の恋人たち』で当時恋人だったカトリーヌ・ドヌーヴがトリュフォーに告白した言葉を『隣の女』でファニー・アルダン(彼女もトリュフォーとは恋人関係だった)のセリフにしてしまうことで現実のものとなった。これを見たドヌーヴもやはり「あきれたわ、みんな私のセリフじゃない!」と言ったという。トリュフォーには印象に残った言葉や体験をメモに書き留めて残しておく習慣がある。
★アントワーヌ・ドワネルものではないが、ジャン=ピエール・レオがアルフォンスという役名で出てきて「女は魔物か?」ほかの台詞も他の作品から意識的に引用されている。トリュフォーは引用することによって明確に終止符を打ったのだという。
★劇中劇のラストシーンで雪にしようというアイデアが出るところで、保険会社の代表で背の高いイギリス人が出てくるが、スクリーン・テストの時に「ヘンリー・グレアム」と名乗っていたが、途中から作家グレアム・グリーンだと分かる。ニースの別荘に招待してくれたが、ヒッチコックの評価をめぐって大論争になったという。名前を出さないこととスチル写真は撮らないことを条件に出てくれた。
(2017)監督・上田慎一郎、脚本・上田慎一郎、プロデューサー・市橋浩治、撮影・曽根剛、録音・古茂田耕吉、特殊造形・下畑和秀、メイク・下畑和秀、ヘアメイク・平林純子、衣装・ふくだみゆき、編集・上田慎一郎、音楽・永井カイル、主題歌・鈴木伸宏、伊藤翔磨、メインテーマ・鈴木伸宏、伊藤翔磨、助監督・中泉裕矢、吉田幸之助、制作・吉田幸之助、スチール・浅沼直也、アソシエイトプロデューサー・児玉健太郎、牟田浩二、
出演・濱津隆之(日暮隆之)、真魚(日暮真央)、しゅはまはるみ(日暮晴美)、長屋和彰(神谷和明)、細井学(細田学)、市原洋(山ノ内洋)、山崎俊太郎(山越俊助)、大澤真一郎(古沢真一郎)、竹原芳子(笹原芳子)、吉田美紀(吉野美紀)、合田純奈(栗原綾奈)、浅森咲希奈(松浦早希)、秋山ゆずき(松本逢花)、山口友和(谷口智和)、藤村拓矢(藤丸拓哉)、イワゴウサトシ(黒岡大吾)、高橋恭子(相田舞)、生見司織(温水栞)、