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初国知所之天皇

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年に一度あるかないかのタイミングで、気が向いたとき発作的に部屋の大掃除をすることがあります。ですので、そもそも一般的な年末の大掃除など、自分にはハナから無縁の話です。

常日頃、配偶者から「自分の部屋くらい、少しは片づけてよ」と口うるさく言われていて、特に雑芥ゴミ一斉回収日の火曜日になると、嫌みったらしく部屋をのぞきにきて、「あれ、もう捨てられるんじゃないの」などと積読本とか映画のカタログの山を見て無理難題をほざいたあとにお約束の言葉の応酬があり、さいごは当然無視してやり過ごすという感じになります。そこは、「蒋介石は相手にせず」の毅然たる態度をもって一貫した決意でのぞんでいるところであります。

だいたい、いまだにワタシの歪んだ性格というものを一向に理解しようとしない証拠となるそのひとことが、なおさら当方に片づける意欲を失わせ、意地でも片づけてなどやるものかという確固たる決意を呼び覚まし、人間として意地には意地で対抗することになってしまうあたりの道理というものを理解しようとしないかぎりは、この内戦はどこまでも止むことがないという感じでしょうか、彼女があのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の愚かしい戦いから教訓としてなにひとつ学び取っていないということが、とても残念でなりません。

あるいは、韓国をナミの民主主義国家と思い違いしているからカノ国をうまく扱えないだけであって、「北朝鮮」と同じ意味での「南朝鮮」と冷静になって観察すれば、三権分立なきあの想像を絶するような低劣にして不可解な国のすべてがすぐにでも理解できようというものです、椎名町に対する南長崎みたいなものじゃないですか、それにあの奇怪な整形同顔仮面グルーブの慰安婦集団、少女時代、TWICE、BLACK PINKなどにしても、よく見ればまさに形を変えた北朝鮮の喜び組(歌踊組・幸福組・満足組)と同じ発想で、あたかも今どきの楽曲とルックス、衣装と振りに惑わされなければ、そこに見えてくるものはお仕着せの軍服を着込んで粛清の恐怖に怯えながら機械仕掛けのように行進している笑顔仮面の北朝鮮女性兵士となんら違わない同じタイプの個性を欠いた薄気味悪い女兵士だということがおのずから分かろうというものです。

愚民どもの顔色ばかりをうかがい、司法までも崩壊させて権力の走狗にしてしまうような愚かしい虚偽とでっちあげの国に民主主義なんて最初から存在するはずも、定着できるはずもないのです。

「どこまで言う気、もういいからね」「あ、そう」というわけです。

さて、今回、その大掃除に着手した直接の切っ掛けというものがありました。

先日、久しぶりに新宿で重篤な病気から生還した旧友と再会して、おいしいお酒を飲みながら(病後の彼が飲んでもよかったものかどうかは、かなり疑問です。いまごろ具合が悪くなっていなければいいのですが)、昨今の映画の話をしているうちに、彼が「いままでのことを少しずつ整理している」らしいことを知り、自分もなにか実のあることをしなければいけないな、とぼんやり考えたことが切っ掛けといえば切っ掛けだったかもしれません。

部屋を占領している「積読本」の方は読了しない限りは処分するわけにはいかないのでどうにもなりませんが、「カタログの山」の方なら、整理していけば、ある程度の処分はできるかなと考え、早速、その仕分け作業に取り掛かりました。

試写会や劇場で見たあとで手に入れた映画のチラシやカタログをあちこちにほったらかしにしているうちにゴミ化してしまい、それ以後、ただの一度として読み返したことがないという惨憺たる状態です。

だいたい、そのカタログのなかには、キューブリックの「2001年宇宙の旅」があるくらいですから、「おして知るべし」というか、「なにをかいわんや」という感じでしょうか。

そんなふうに整理をすすめていたとき、その「カタログの山」から珍しいものを掘り出しました。

表紙には、「文芸座・文芸地下劇場 第2回フィルムフェスティバル」と書いてあり、さらにその下には「特集・監督自身が執筆した自作映画の解説=邦画篇」という小見出しもある十数頁のごく薄い小冊子でした。

あっ、これ、覚えてる、懐かしいじゃないですか。自分にとっては、文字通り、実に懐かしい「掘り出しもの」でした。

表紙の左上には、拳銃を片手に構えている若きジャン=ポール・ベルモンド(たぶんジョゼ・ジョバンニの「ラ・スクムーン」だと思います)が載っていて、中央にはペンをくわえているアンヌ・ヴィアゼムスキー(これは、「中国女」のポスターそのままなのですぐに分かりました)がおり、その下には横転している自動車が燃えている写真(「中国女」の下にあるのですから、これは当然ゴダールの「ウィークエンド」に違いありません。)が掲載されています。なるほど、文芸座の方は「フランス映画特集」というわけですね、

そして、裏表紙を見ると発行日は、なんと昭和51年5月11日とあります、マジか! と驚き、近くの電卓を引き寄せ、あらためて引き算をしてみました。え~っ!! なななんと43年とか経っているじゃないですか。それにしては、ゴダールって、まだ死んでないよなあ、なんてね。これはたちの悪い冗談です。

いやいや、そうですか。その失われた膨大な時間が自分の目の前を轟音を立てて走馬灯のように逆流し(走馬灯が逆流するってか???)、しばし呆然となり、しばらく虚空を見あげてしまいました。位置的にいえば、天井の隅、廻り縁が合わさるあのあたりです。

しかしまあ、経ってしまった年月を、いまさら悔いてみてもどうなるものでもありません。

気を取り直して裏表紙に掲載されている「文芸座」と「文芸地下」で行われたという上映プログラムを眺めてみました。

ちょっと転写してみますね、なんといっても、このくらいの時間が経てば、単なる文字列とはいえども、もはや熟成を遂げた一種の立派な民俗学的な価値のあるものです、そうに違いありません。

もうこうなった以上、のんびり掃除なんかしている場合じゃありませんから。

掃除なんかしなくたって、べつに人間たるもの、死にゃあしませんし。そうだ、そうだ、ばかやろ~。


【文芸座スケジュール】
1976
5.11~5.16 「中国女」「ウィークエンド」(ともにゴダール)
5.17~5.19  J・ドレー「ボルサリーノ」、J・ジョバンニ「ラ・スクムーン」
5.20~5.22  ルネ・クレマン「禁じられた遊び」、アラン・レネ「二十四時間の情事」
5.23~5.25  トリュフォー「映画に愛をこめて アメリカの夜」、アンリコ「ラムの大通り」
5.26~5.28  P・コラルニック「ガラスの墓標」、J・ロートネル「狼どもの報酬」
5.29~5.31  J・ドミー「シェルブールの雨傘」、C・ルルーシュ「男と女」


【文芸地下スケジュール】
1976
5.26~5.31 「無人列島」「GOOD-BYE」「王国」(ともに金井勝)
6.1~6.3  原将人「初国知所之天皇」
6.4~6.6  大和屋竺「裏切りの季節」、足立正生「略称 連続射殺魔」
6.7~6.9  藤沢勇夫「バイバイラブ」、大森一樹「暗くなるまで待てない!」
6.10~6.12  内川清一郎「一寸法師」、中川信夫「地獄」
6.13~6.15  土本典明「不知火海」、小川紳介「どっこい! 人間節」


これって、一向に古びていない、すごいライン・アップですよね。

実際にこれらの作品を見た1976年という年を考えるなら、「不知火海」や「どっこい! 人間節」などは、まさに最新作だったでしょうし、このリストのなかで、一番古い作品というとルネ・クレマンの1952年の「禁じられた遊び」だと思うのですが(見た当時でさえも、ずいぶん古い作品だという認識はあったと思います)、それでも1976年という時点からすれば、たった24年前の映画だったわけですし。

なんだか、そういうふうに考えると感無量(時間の経過と作品の普遍性)という感じがします。

ここにライン・アップされている作品は「現代」という時点から見ても、その存在感は確固たるものがあって、自分の中ではいまだ古びた感じは一向にしないのですが、2019年といういま、僕たちが現在見ている映画たちが、どれだけ時の流れに抗して風化することなく、1976年に見たこれらの作品と同じように、確固たる存在感を保ち続けて未来の時間を生き残ることができるだろうかと考えたとき、たぶんそのほとんどは「無理」だろうなという残念な確信に捉われました。

そこではじめて気がついたことがあります。

このプログラムには、上映された邦画の監督たちが、それぞれコメントを寄せていて、自分はそれを漫然と読んでしまっていたのですが、そこでハタと気が付いたことがありました。

自分が書籍の編集者だった現役のころ、友人から頼まれてある作家の全集を作る下準備として諸々の雑誌に書き散らしたコラムを丹念にひとつひとつ拾い集めるという作業を手伝わされたことがありました。

大作家と言えども食うや食わずの駆け出しの時代には、生活のためなら注文があれば、どんなにつまらない仕事でも、匿名でエロ雑誌のカラー頁に書いたコラムや名もない業界誌、市民広報などに匿名で書き散らしたコラムまで丹念にあたって調べ上げ、拾っていくという気の遠くなるような作業でした。

あたる雑誌というのは、当時、奥さんという人が家計簿に収入として細かくつけていたリストがあったので、そのリストが手掛かりになっていたので無闇矢鱈に調べたというわけではありませんでしたが、当然、そのなかには最初から全集などに収録できるわけもない猥雑な小文とか無内容なものも相当あり、最初から採用されないと分かっているものでも、採用の有無は上の機関がするということで、自分たちの仕事は、あらゆるもの「すべて」を蒐集することだと命ぜられた実に徒労感に満ちた仕事でした。

この文芸座・文芸地下のカタログを読んでいたときに、ふっとそのときの記憶がよみがえってきたので、このようなカタログに載ったような、たとえ小文だったとしても、そこはきちんとデジタルで残しておくべきなのではないかとふと考えた次第です。

この特集上映のために署名入りの作品解説を寄せた監督は3人いて、

原将人「ぼくのスクリーンサイズ ―『初国知所之天皇』文芸地下上映に寄せて―」
内川清一郎「一寸法師雑感」
中川信夫「『地獄』いろいろ」

とあるのですが、自分的には、もっとも鮮烈な記憶の中に生き続けている「初国知所之天皇」の原将人の作品解説(原文)を書きとどめておきたいと思います。




★原将人「ぼくのスクリーンサイズ」 ―『初国知所之天皇』文芸地下上映に寄せて―                  原 将人

ぼくは一番前で映画を見るのが好きだ。一番前に坐ってぼくの視覚を全部スクリーンが占めなければ気がすまない。前に他人の頭があると見た気がしないくらいだ。
だから、ぼくは映画はフィルムと光があればそれですべてで、それ以外のこと、例えば制作条件のこと、上映の形態のことなどは、言い切ってしまえば、個人的な好みの範疇に属するにすぎないとまで言ってきた。
そんなぼくが『初国知所之天皇』を撮ってからというもの、自分で映写技師をやりながら上映してきた。初めの頃はぼくの視覚を全部占めないスクリーンサイズに苛立った。そして、スクリーンの一番前で自分の映画を見たいと何度思ったことだろう。16mmにブローアップしたことのひとつにもそのことがあった。ブローアップは自分で簡単なプリンターを組み立てて、スクリーンを撮影するのではなく、直接8mmのフィルムのコマを撮影していったので、鮮度をまったく損なわずブローアップすることができた。8mmの粒子の荒れをそのまま16mmに置き換えることができた。一番前の座席で粒子の荒れた画面を凝っと見ていると、粒子の荒れやボケが不思議な魅力を醸し出し、キチンとした35mmの画面より、よりリアルなものを感じられたのだった。
でも、一番前の座席でゆっくりと見ることのできたのも試写の時だけで、その後はやはりぼくが映写技師をやらなければならなかった。でも、16mmの映写技師は本当に映写技師だ。8ミリのようにスピードを自由に選んだり、音楽やセリフを流すところもその時の気分だったり、あたかも映画を演奏するようにはいかない。
やはり自分で映写するには8mmでなければおもしろくないし、ぼくが映写する意味もない。いまではもっと映画を演奏したい気分でいっぱいで、ギターも少し弾けるようになったので、音楽も生演奏でやることにした。
自分でギターを弾きながら、8ミリと、16mmが少し混じったオリジナル版を映写していると、テープの音を出す箇所を間違えたり、テープを止め忘れたりする。以前だと、止めたり巻き戻したり、あるいはヘッドホーンでモニターをしながら必死になって合わせたりしていた。音を出す場所とか、フィルムのスピードとかは毎回微妙に異なるのだが、そんなふうにして手動同調によってある範囲よりは大幅に異ならないようにしていた。でもいまは、間違ったり、止め忘れたりしても、あまり慌てたりせず、そのまま次の切れ目まで見送ってしまっている。それはもっと毎回毎回、異なった完成の仕方をする『初国知所之天皇』を楽しむことができるようになったのだろうし、それ以上に、毎回毎回、音がズレたり、演奏が全然異なったりしながらも、スクリーンの上に確実に存在しているふわふわした魂みたいなものがはっきりと見えるようになったからに違いない。
『初国知所之天皇』を撮り終えてから3年になろうとしている。そして漸く新しい大作に取り掛かることができそうだ。
時間は決して直線に流れているのではない。その3年の時間のへだたりによって、また新しく撮り始めようとしていることによって、自分が3年前撮影していたとき、何をやろうとしていたのかが、ふっと後ろに纏い付いている影のような自分の姿がはっきり見えるような気がする。
『初国知所之天皇』は舗道に映ったぼくの影から始まる。そして延々とぼくの撮影した日本の風景と時折ぼくの姿が映し出され、そこに少々たどたどしく少々廻りくどいぼくのナレーションがかぶさり、それが時折は撮影しながらぼくが作った唄だったりする。それがオリジナル版では8時間・16mmリフレイン版では4時間も続くのだけれども、そのなかでぼくはずっと大切なことを、しかもそれだけの時間を必要とする大切なことを言い続けてきたのだろう。ふっと付き纏っている影というような漠然とした言い方しかできないが、ぼくはいまはっきりとそれを見ることができる。
オリジナル版で8時間、16mm版でも4時間もあれば、あまり窮屈でないところでゆっくりと、できれば寝っ転がって見れれば一番いいにきまっている。だから、いままでも上映する場所とか雰囲気に非常に気を使ってきた。でも、一方では、どんな場所であれ大勢の人に見てもらいたいと思う。たとえ同じ場所でも、どこの座席で見るかによって印象は異なるし、見る人のその時のコンディションによっても異なるのだから、上映する場所とか雰囲気に気を使いだしたらきりがない。だから、どんな場所でも見える人には見えることと、映画にそうした条件を超える力があることを信じるしかない。
そして、大勢の人に見てもらうには映画館ほど相応しい場所はない。8mmオリジナル版のライブ演奏による上映を始めたいま、それと並行して16mmリフレイン版がこれを機会に、どんどん映画館とか大きいところで上映されて、出来得る限り多くの人たちに見てもらえればうれしいと思う。



【おまけ】
2011-02-01
★『初国知所之天皇』が甦る              原 將人

1990年代の初頭の頃、私は来日したジョナス・メカスさんに初めてお目に掛かり新宿のナジャで指圧をして差し上げた。指圧が終わってからメカスさんが言った。「原クン、お礼にいいことを教へてあげやう。映画はアルタミラとラスコーの洞窟壁画から始まったんだよ」
燃え盛る焚き火の炎に、けふの感謝と明日の狩猟の願ひと祈りを受けて、うたとともに、揺れ動いてゐた、牛や手の洞窟壁画こそ映画の始まりだったのだ。20代で8ミリに出会ひ『初国知所之天皇』のライブ上映により、映画の始源を追ひ求めてきた私にとって、その言葉はまさに啓示だった。
現在は無い。有るのは過去と未来ばかりで、現在はその接点に過ぎないと言った哲学者がゐたが、ライブとは未来を過去にしていくその接点の軌跡だ。映画の撮影は未来を過去にしてゆく作業で、いはば記憶づくりだ。そして、上映は過去を未来に差し戻し、映画館といふ場所での集合的な記憶にしてゆく過程だ。20世紀に産業として成立した映画にはそれができなかったが、映画にはライブといふ形式こそ理想なのだ。願ひと祈りの場所の記憶の集積。映画は想起すべき過去を伴ってこそ、語り継がれる記憶となる。私がライブ上映にこだはる理由はそこにある。
しかし、1973年にライブ映画として一世を風靡した『初国知所之天皇』は、30数年の長きにわたってそれができなかった。今回それが復活するいきさつは次ぎのやうなものである。
30数年前私は火事に遭った。分厚いプラスチックの大きなリールに巻かれた『初国知所之天皇』のオリジナルの8ミリフィルムは、変型したリールとケースの殻に包まれて一塊の異物と化してゐた。幸いラボに置かれた、ブローアップした16ミリは無事だったので、その後の上映はすべて16ミリ版でまかなってきたが、私は異物と化していた8ミリの塊を自分の分身の遺骨のやうにして、引っ越す度にも捨てずに持ち歩いてきた。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」と、無常感に浸るには、私は余りにも若過ぎたのだった。だが、皮肉なことに、2006年の富士フィルムの8ミリ製造中止のニュースによって、やうやく、この世の無常を思ひ知らされた。
私は意を決して一塊の異物となった『初国知所之天皇』のオリジナルフィルムをハンマーで割ってみた。なんと異物と化してゐたのはリールとケースばかりで、フィルムそのものは無事だった。巻頭部分の変形こそ痛々しかったが、それを過ぎるとほぼ30数年前と変はらぬ状態でプラスチックの殻に守られてゐたのだった。私はそのハイライト部分を『初国の旅』と名付け、それを中心にして3面マルチを組み『マテリアル&メモリーズ』といふライブ作品を編んだが、3年間のライブ上映を繰り返すうちに『マテリアル&メモリーズ』は増殖し、『初国の旅』が無くても成立するやうになった。
そして、キッドアイラックホールといふ1970年代の記憶を共有するのに最適な場所も見つかった。そんな折も折、宇波拓、テニスコーツを中心にした音楽サポートの申し出を受け、40年振りに『初国知所之天皇』のライブ上映が復活することになった。
アルタミラロとラスコーから始まった映画の記憶を甦らせたいと心から願ひ祈るばかりである

* * *

☆原 将人(正孝改め)
1950年(昭和25年)7月15年生まれ。東京都目黒区出身、
1968年(昭和43年)、高校在学中に映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』により第1回東京フィルム・アート・フェスティバルグランプリ、8mmATG賞を同時受賞した。
17歳の映画作家誕生ということで話題を投げた。昭和44年麻布高校卒業。
その後の作品には、「早川義男自己表現史」1970、「東京戦争戦後秘話・予告編」1970(脚本のみ。監督は大島渚)がある。
1973年(昭和48年)『初国知所之天皇』(はつくにしらすめらみこと)で8mm映画の新しい地平を開き、後進たちに勇気と希望を与え、数えきれないほどの作家、監督を輩出した。
1975年(昭和50年) 初国知所之天皇 リフレイン
1979年(昭和50年) ユリシーズの不思議な旅(ビデオ作品)
1980年(昭和54年) 初国知所之天皇 アゲイン
1982年(昭和57年) 人間・0歳の周辺
1983年(昭和58年) らいちょうのうた
1985年(昭和60年) C・W・ニコルの世界(テレビ番組)
1993年(平成5年) 百代の過客
1994年(平成6年) 初国知所之天皇 1994年版
1996年(平成8年) 101年目の映画へ(テレビ番組)
1997年(平成9年) 20世紀ノスタルジア(初の商業映画『20世紀ノスタルジア』で、第38回日本映画監督協会新人賞を受賞)
1997年(平成9年) ロードムービー家の夏(金子ともかず、小沼亮子との共同監督)
1999年(平成11年) 原発通信(はらはつうしん、ビデオ作品)
1999年(平成11年) 豊饒のバッハ
2002年(平成14年) MI・TA・RI!(第1回フランクフルト国際映画祭観客賞受賞)
2015年(平成27年) あなたにゐてほしい Soar

参加作品
薔薇の葬列(1969年)
東京战争戦後秘話(1970年)
オレンジロード急行(1978年)
急にたどりついてしまう(1995年)

著書
見たい映画のことだけを(有文社)
父と子の長い旅(フィルムアート社)
20世紀ノスタルジア(扶桑社)



【初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)】
『初国知所之天皇』は、1973 年、当時23歳だった原將人(正孝)によって発表された。8ミリ+16ミリの作品で、『古事記』と『日本書紀』をベースにした北海道から鹿児島まで旅する 壮大なストーリであるとともに、神話的世界の国づくりが映画づくりに重なり、国家と個人が統合される。
1973年に同一スクリーンに8mmと16mmの2種類の映写機によって交互に映写していく上映方式によって公開され、大きな反響を呼んだインディーズ映画の傑作「初国知所之天皇」の1994年ニューバージョン。1971年、日本の神話〈古事記〉に材を取って撮影を始めた16mm劇映画「初国知所之天皇」は半ばにして挫折するが、翌年、原監督はひとりで8mmカメラを手にして撮影できなかった撮影予定地をまわる旅に出る。その映画を撮るという行為そのものを記録した、作家による作家自身の映画日記、映画についての映画が「初国知所之天皇」である。1973年上映時は6~7時間の上映時間であり、その後1975年には16mm作品として4時間5分バージョンが、また1980年には2面マルチ映像による2時間の再編集版が作られた。ニューバージョンは1975年版を2面マルチヴァージョンとして1時間48分に再編集したもので、1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に特別上映された。



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