あまり見ることのなかったタイプの番組ですが、先週、BSの「ザ・プロファイラー」(司会は岡田准一)で「オードリー・ヘップバーン特集」を放送していたので、さっそく見てみました。「プロファイラー」的な側面からオードリー・ヘップバーンを見ようというのですから、ただ事じゃありません。ヘップバーンは、もっとも好きな女優のひとりなので、「聞き捨てできない」という思いで見ました。彼女のこと、ひどいこと言ったら承知しないぞという感じです。
そりゃあ「美しさ」だけのことなら、現代だって匹敵する美形の女優なら幾らでもいると思いますが、あの気品と天性の愛らしさを兼ね備えた女優というと、そうはいません、というか、正直言って、オードリー・ヘップバーンに匹敵し、ましてや超える女優など、いまだかつて見たことも聞いたこともないと言い切ってもいいくらいだと思っています。
少女期をナチスドイツ侵攻の圧制下のオランダで過ごしたヘップバーンは、飢えと死の恐怖を経験したことで、後年になってもずっと、同時代を同じ悲惨な状況で生き、そして殺されたアンネ・フランクの無残な死を胸に秘め、いつまでも忘れずにいたことや、あるいは、バレリーナ志望だったのに戦時中の栄養不良がたたって体力的にプリマになるのは到底無理と宣告され、それでなくとも男性よりも身長が高かった不運も重なりバレリーナになることを諦めたとか、今回はじめて知ったことが数多くありました。
それに、そもそも映画出演の切っ掛けというのが、「女優志望」でもなんでもなくて、ただ生活費を稼ぐためのほんのアルバイト気分にすぎなかったという部分も思わず失笑してしまいましたが、もっとも興味深かったのは、「ローマの休日」の主役が、当初はエリザベス・テイラーで企画が進められていたという部分でしょうか。
もし、あの主役が大女優エリザベス・テイラーになっていたら、それこそ美しさを鼻にかけた高慢な王女を演じるくらいがせいぜいだったでしょうし、共演した名優グレゴリー・ペックだって、みすみす一歩しりぞいて主役の座を女優に譲るなどという奥ゆかしさを見せることもなかったに違いありません。
ヘップバーンが、ほとんどそのデビュー作で(端役での小品出演というのがそれまでに何本かあったようですが)アカデミー主演女優賞を射止めたのですから、それこそ突如彗星のように出現した驚異的なデビューといっていいと思いますが、しかし、たとえあれほどの美形であって、それに「気品と天性の愛らしさ」を兼ね備えていたとしても、ただそれだけでは「アカデミー主演女優賞」受賞というのはあり得なかったと思っています。
そこにはスタッフやキャスト、そして時代を超えた新たなスターをずっと待ち望んでいた映画関係者やアカデミー会員の強いプッシュがあって意識的・好意的に「栄光への道」を作ってあげなければ、決してあの栄光に到達することはなかったはずです。
そんなことを、ぼんやり考えながら数日過ごしていたとき、迂闊にもビデオの予約を間違えて、考えてもいなかった映画を録画していることに気がつきました。
その作品というのは「マーロン・ブランドの肉声」という2015年のドキュメンタリー作品でした。
しかし、「オードリー・ヘップバーン」ならともかく、「マーロン・ブランド」では、はっきり言って自分としては「意識」して録画するような存在でも、自分好みの俳優でもありません。
ウィリアム・ワイラーやグレゴリー・ペックが、オードリー・ヘップバーンのか細く健気な彼女のために何とかしてあげたいと助力に努めるような妖精のごとき存在ならともかく、マーロン・ブランドの印象というのは、躁鬱の振れが激しく、すべてがやたらに重たくて扱いにくい泥沼のような存在でしかありません、道の向こうから彼がやって来るのが見えたりしたら、喧嘩でも吹っ掛けられて絡まれては大変です、面倒なトラブルに巻き込まれるより先に、あわてて横道にそれて逃げたくなるような厄介な存在です。
とにかく、この映画「マーロン・ブランドの肉声」を一応通して見てみたのですが、案の定、マーロン・ブランドの惨憺たる生涯をこれでもかというくらい徹底的に突き詰めて描いた救いのない悲惨な作品でした。
映画の冒頭、意表を突くようにデジタル画像されたマーロン・ブランドの顔が映し出され、
「マーロン・ブランドは多くの音声録音を残したが、これまで人の耳に触れることがなかった。」というナレーションのあとで、こんなふうに語り出されます。
≪録音を始める。モノラル録音で、マイクは1番を使用する。
それではまず説明をしよう。
私は頭をデジタル化した。レーザーをこう当てられてね。顔もデジタル化した。いろいろな表情をしたよ。しかめつらや笑顔、悲しげな顔も、すべてデジタル化される。生の役者ではなく、パソコンの中の役者だ、そういう時代がやってきたんだ。
これが自分の遺作となるかもしれない。≫
そして、さらに続けて
≪明日、明日、明日とは。
日一日と確かな足取りで忍び寄り、最後の歴史の一節へとたどりつく。
そして、昨日という日は、愚者がチリと化す道筋を照らす。
つかの間のロウソクは消え去るだろう。
人生は歩くつかの間の影でしかない。
下手な役者も、舞台で大げさに振舞ってはいても、すぐに姿を消す。
人生は愚者が語る物語。響きも感情もすさまじいが、そこにはなにものも存在することのない無意味なものだ。
これは、そんな私の生活に関するプライベートの記録といえるだろう。≫
「彼は過去に生きる男で、孤独の中で苦悩した人物に思える。困惑や悲哀、そして孤独や不満の状態に悩まされているようだ。社会生活が難しいほど傷ついていて機械人形のようになっている。自分への扱いに不満で怒りを抱いていたのかもしれない。映画の情報などをこうして集めて自分を理解しようとしていた。」
マーロン・ブランドの父親は、アメリカ各州を旅するセールスマンで普段は家におらず(旅先で飲んだくれて女遊びをしていたことは、ブランドの述懐のなかにあります)、たまに帰ってくると酔って母親を罵倒し殴りつけるようなアル中の横暴な父親でしたし、母親はオマハの地方劇団の女優をしていて、やはり家には寄りつかず、ときには酔って留置場にいるのをブランドがタクシーで引き取りにいったという話も映画のなかで紹介されています、この母親もまたやはり手の付けられないアル中でした。
しかし、この映画のなかで母のエピソードを語るマーロン・ブランドは、そういう母親との思い出を決して悪しざまには語ることなく、どこまでも深い愛を感じさせる同情的な述懐を展開していますが、しかし、彼が話すエピソードのどれにも母親の愛情を裏付けるような具体的な事実が提示されるわけではありません、まるで「そうあってほしい」というような(たぶん虚偽だから、なおさら)空虚な回想を聞き続けていると、そこには父親に対する絶対的な敵意(のちにそれが「殺意」であったことが仄めかされます)と絶望的な嫌悪のはけ口として、行き場のない感情が仕方なく母親の方に流れたというだけにすぎなくて、この母親もまたマーロン・ブランドにとっては、やはり「嫌悪」の枠内に位置していたことが次第にあかされます。
居場所のない家を早朝に抜け出し、孤独を持て余した少年マーロン・ブランドは誰ひとりいないオマハの町をさまよい歩きます。
≪心を漂流させよう。過去へ、遠いむかしへ。
まだとても若い頃、あの頃は、朝起きると皆が寝ているあいだに服を着て、オマハの町の舗道を歩いては、大きな楡の木の下に坐った。光の中で風が木の葉の影を揺らしていた。優しい夢で、柔らかな風が呼んでいるようだった。あの風だけは信じられるものだと思った。君は私の思い出そのもの≫
≪自由にならねばと一生をとおして強く思った。あの列車に乗ったとき私は自由だった。車両で立ってレールの音に耳を傾けた。こんなふうに変わったリズムだ。
ニューヨークに到着したときは靴下にも心にも穴があいていた。
酔って舗道に横になり、眠ったこともあったが、行き交う人は誰ひとり無関心でそんな男を気にとめる者などいなかった。
人にはとても興味があった。彼らのことを知りたくてしょうがなかった。道行く人の顔を長いあいだ眺めていた、タイムズスクエア近くのタバコ店にもよく行った。そして人の顔を3秒眺めて、その人の人柄を分析したりした。顔には多くのことが隠されている。人は何かを隠しているものだ。本人も気づいてないことを推測するのが面白かった。何を感じ、何を考え、なぜそう感じるのか。それがどのようにして、それぞれの振る舞いに至るのか。答えはなにか、いや、そもそもそこに答えなんかあるのか。
人は本心から望むこと、達成感を得られるようなもの、そういったものを望むものだ。
自分を無知な人間だと感じていた。ろくな教育も受けず、何の知識もない人間、劣等感がまるで糞のように喉元まで詰め込まれた無価値な人間、自分を愚かだと感じていた。≫
1943年の秋、マーロン・ブランドは、グリニッジ・ヴィレッジ12丁目にあるニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの演劇ワークショップに入学し、そこで演技指導者ステラ・アドラーと出会います。そして、ステラから運命のスタニスラフスキー・メソッドを学びました。
ニュースクールで学ぶために父親に学費を送金してくれるようブランドが頼んだとき、父親は「お前なんか、どうせろくなものにならんだろうから、期待などしてないがね」と嫌みを言われ、冷笑されたことに深く傷ついたことを生涯忘れませんでした。
ステラは、ブランドに絶えず「恐れるな、ありのままの自分を出して好きなように演じていいのよ。舞台では自分に正直であること。多くの感情を掘り下げ、愛や怒りをさらけ出して、あなたを苦しめている感情を表現に変えるの」と言いつづけます。
しかし、そのように役者として自分の感情を高揚させ爆発させるメソッドを教授され体得したとしても、しかし、その一方で、常識を備えた普通人として、高揚した感情を飼いならし、収束の方法までは教えてもらえなかったことが、やがてマーロン・ブランドの生涯を惨憺たるものに貶めたことは間違いありません。
人間の奥底にはなにかドロドロしたものがあるに違いない、そうでなければならないはずだと固く信じているマーロン・ブランドにとって、「普通の感情」や「普通の人間」という存在がどうしても理解できず、演じることもできないまま周囲との軋轢を生じさせつづけました。
≪誰もが人に言えないような逸話を持っている。過去を持たない感情では、現在を表現できない。われわれは早い段階で演技の術を得る。子供の頃にオートミールをこぼしたのも母の気を引くための演技だ。演ずることは生き残ることと同じだ。≫
≪ああ、私の母だ、その写真。母が40歳くらいの写真だ。母は、素晴らしい人だった。独創的で、芸術的な人だったよ。母をよく思い出す。酒の匂いがする息も大好きだった。すごく甘い香りだった、いい香りだ。母は、アルコール依存症で、住んでいた町は小さくて、母のことを皆が知っていた。母は、徐々に家に寄りつかなくなり、まったく姿を消してしまうこともあった。どこへ行っていたのか、時には拘置所に迎えに行ったこともあった。思い出すと今でも恥ずかしさで胸が震えて、怒りの感情で自分が抑えられなくなってくる、このまま気が狂ってしまうんじゃないかと思うこともあるよ。≫
≪金を得るためだよ。ずっと貧乏だった。父は巡回販売員だった。私は半年の仕事で、父の10年分の稼ぎを超えた。父の判断基準は金だった。出来損ないの息子の稼ぎを理解できなかったようだ。怒ることが必要なシーンでは、自分の中で怒りを表す仕組がいる、いわば「感情を高揚させるための手続き」というか、怒りに満ちた何かの仕組みだ。
父が母を殴った記憶がある。私は14歳だった。親父は強い男だ。バーでも喧嘩をした。自分への嫌悪も抱えていただろう。家に寄り付かず、中西部で飲んで女遊びをしていた。意味もなく私もよく殴られた、当時は父に怯えていた。とてもつらいことが起きると意識から消そうとする。忘れたいんだ。毎晩どこかへ出かけて行って、癇癪を起して一晩を過ごす。メチャクチャになるほど、泣いたり叫んだりする。これがかなりきつい。演じた役のイメージで見られる。床から物を食べたりしないとか、裸足で道を走ったりしないと信じてもらえない。イメージを忘れてもらうのは難しい。スタンリーとの共通点はないし、嫌いなタイプだ。嫌いだから感情移入ができなかった。ケダモノのように残酷で暗い役柄だったよ。カウンセリングも受けた。演ずることで正気を失うと心配されてね。≫
ステラは言った。「万全だと思えば8割の出来。体験が6割と思えば、4割の出来。体験が4割であれば、そのまま帰りなさい」と。
≪自由の叫びは、鎖で繋がれた証しでもある。
役者になれていなかったら、何をしていただろう。
詐欺師だったかもな。腕の経つ詐欺師だ。巧みに嘘をつき、思いどおりのイメージやそれらしいイメージをとおす。
まだ60年代前で皆が反逆を求めていた。時代のニーズと私の雰囲気が合っていたんだ。私自身が物語といえる。反逆のために反抗する。≫
≪自分を負け犬と感じることは誰もが経験することだ。私はずっと劣等感に悩まされていた。≫
いまをときめく若き人気俳優マーロン・ブランドをゲストに迎えた当時のテレビのインタビュー番組の一場面が映し出されます。ちょうど「徹子の部屋」か「新婚さん、いらっしゃい」みたいな感じでしょうか、まあ、いずれの番組にしてもやがてくる令和の御世をどこまで生き残れるか危ぶまれるところでしょうが。
その手のノリのサプライズという設定で、突如父親が現れてブランドの少年時代の思い出話を聞き出すというシチュエーションのこの一連の場面は、ここまでこのドキュメンタリー映画を見てきた観客にとっては、「痛切」とか「残酷」と言い募っても到底言葉足らずの感が払拭できないほどまでに拗れたこの父子関係の爛れ具合を、さらにもっと相応しく赤裸々に言い表せる言葉があれば、むしろ「そちら」の方を採用したくなるほどの二人の関係を生々しく映し出しています。
マーロン・ブランドがその少年時代に父親から受けたものといえば、ただ威圧され虐待されつづけた記憶しかなく、そもそも俳優として大成できたのは、そのいまわしい記憶のトラウマから逃れるため、父親の否定をバネにして自分を解放しようとした痛ましい演技の病的な「成果」にすぎなかったことを考えれば、テレビ放送の手前、ただ息子は優しいステレオタイプの息子の役を演じ、父親はただ愛情深い父親の役を演じたに過ぎない偽善に満ちたものでしかないことを十分知悉している僕たちはこの場面を見ることになるわけですが。
「お父さんが見えているそうですね。隠れているのですか? お呼びしましょう、お父さん~!」
父親(マーロン・ブランド・シニア)登場
「息子さんのことをいろいろ聞いてみましょう。こんばんは、ご自慢の息子さんでしょう?」
「役者としてはそうでもないが、人としては立派だと思う」
僕たちはこのドキュメンタリー映画のどこかで、父親の人間に対する価値観は「そいつがいくら稼ぐか」にかかっており、単にその金額のタカによって人間の価値が測られることをすでにブランドから知らされているので、父親のこの「人としては立派だと思う」が、単なるカネの問題でしかないことがすぐに分かり、つまり、父親の言葉の中には暗に「息子」の全否定が語られていることを察した司会者は、さらに父親に尋ねます。
「教えてください、扱いにくい子供でしたか?」
「いわゆる普通の子供でした」
その場に同席しているブランドの表情は、すでに仮面の微笑が貼り付けられた演技者の顔でしかありませんが、オレのことなど何ひとつ知らないくせに、あんたがオレにしたことは、酒と女の匂いをぷんぷんさせて、たまに帰ってきては母とオレを気ままに殴りつけて楽しんでいたことくらいだろう、という思いで父親の偽善の言葉を苦々しく聞いていたことは間違いありません。
「ただ、一般的な子供よりも親とのモメゴトは多かったでしょうな」
「公平に判断するために、あなたの言い分も聞きましょうか?」と司会者はブランドに話を振ります。
「いや、その必要はありません、オヤジには負けてませんから、大丈夫です」
この言葉を受けてナレーションは、<お互いの役割を演じた>と断じていましたが、むしろ、自分的には<これがふたりの精いっぱいの本音だった>というべきで、このよじれた親子がそれぞれににじり寄って表明することのできたせめてもの誠実さだったのではないかと思えました。
ブランドは言います。
≪あれは偽善そのものだったよ。子供時代に受け入れてもらえないと、受け入れられるアイデンティテイを探す。だから私は、役柄に幅があるんだ≫と。
この言葉の中には、表明していること自体の在り様と同時に、片方で、自分がどのように変われば父親に受け入れてもらえるのかと必死に模索しながら、徐々にみずから人格を歪めてアイデンティティを失うに至るマーロン・ブランドの心の破綻の過程が語られていきます。
≪子供の頃、芝刈りなどで小銭を稼いで映画を見に行き、すべてから逃げたかった。映画を見た高揚感で1週間を乗り切った。魔法の時間だったよ。
役者は、名前が新聞に載ったり、注目を集めることを好むものだが、私は成功の幻想によく悩まされ、色眼鏡で見られていると思い、人に会うのも面倒になった。特別扱いに疲れるんだ。動物園の動物や異国の生きもののように、奇妙な目で見られることをね。現実から切り離されてしまう、そのことが私には耐えられない。普通に暮らせないのが、こんなにもつらいこととは思わなかったよ≫
≪母が雇った家庭教師、美しい髪ときれいな肌をした東洋人で、彼女に寄り添って安らいだ記憶がある。彼女が結婚のために私から去っていった日、7歳の少年は棄てられたと感じた。私は母にも棄てられたと感じていた。アル中だったから。あの日を境に素行が悪くなり問題児となった。
愛された記憶のない人間は、真実の愛を見逃す。真実の愛を知らないから、ありそうな場所を探すだけだ。≫
≪赤ん坊の息づかいは覚えている。そして鼓動も聞いた。自分の手の中でこんな小さな子が生きているのかと思うと涙がでてきた。息子には絶対、父を近づけてはならないと思った、私と同じ目にあわせてはならない≫
ナレーションは問いかけます。「マーロン、過去のことを話してくれないか」
≪父は、酔っぱらいだった。強くて女好きで男臭い男だった。かなりキツかったよ。
母は、とても詩的な人だったよ。だが、やはり酔っぱらいだった。
流し台には汚れたままの皿が山のように残っていて、家は散らかり放題だった。それを見るたびに、自分だけを残して、本当はみんな死んでしまったのではないかと思い、とても怖かったよ。
あるとき、父が母を殴っていて、私は2階の部屋に行った。だが、そのときなにかが自分の中で崩壊し、怒りのアドレナリンが全身を満たし、熱く支配された怒りの衝動のままに父親を睨みつけ、「今度繰り返したら、お前を殺すぞ!」と怒鳴りつけた。≫
父への殺意をみなぎらせ、「お前を殺すぞ!」と威嚇した衝撃的なモノローグを受けたあと、瞬間に転換したシーンは、息子クリスチャン・ブランドが、妹シャイアンの恋人を射殺したという緊急通報を受けて全警官に「銃撃事件発生」という緊急招集が掛かった場面に、このドキュメンタリー映画は冒頭の場面に回帰していきます。
息子クリスチャン・ブランドは、両親の離婚による親権争いに翻弄されて神経の安定を失い、生育し、1990年5月16日、妹シャイアンの恋人ダグ・ドロレッツをマーロン・ブランド邸で射殺し10年の判決を受け5年服役して出所しています。
射殺した動機は、日ごろから妹にダグが暴力をふるっていたからだと主張しましたが、一方では、当時クリスチャンはひどい薬物中毒だったという噂もありました。
しかし、クリスチャン服役中の1995年に妹シャイアンは、タヒチで自殺します、当時25歳。
そして、そのクリスチャンも2008年1月26日にロサンゼルスの病院で肺炎のため死去し、悲痛な人生を閉じました、49歳でした。
生まれたばかりの息子を抱き上げて、「この子を自分と同じ目にあわせてはならない」と強く念じたマーロン・ブランドの祈りが神にどこまで通じたのか、痛ましくも皮肉な思いに捉われないわけにはいきません。
2004年7月1日、マーロン・ブランド死去、80歳。
≪運命からも世の中からも見放され、独りわが身の不遇を嘆く。聞く耳を持たぬ天を無益な叫びで煩わせ、わが身を眺めて不運を呪う。
朝、目覚めてこう思う。「まったくなんという人生だろう。なぜこんなことになってしまったのか。」
今年はキツかった。人には想像できないほどだ。できるだけ強くあろうとしても、誰もがあるとき、糸が切れるものだ。痛みには、対処しなければならない。これまで精神分析には莫大な金をつぎ込んできたが、連中はなにもしてくれなかった。脳にペンチやドライバーを差しただけだ。
人生に、より真実が見え、若き日の名残りと引き換えに手に入った自分自身で分析しなくては、とやっと気づいた。
内面が見えなければ、決して外側が見えるはずがない。
生れながらの悪人はいない。最初の10年で身についた悪い習慣を多くの人は乗り越えていく。
クリスチャンは情緒障害や精神的な混乱に悩まされていた。むかしの私と同じように。父とは違うと思っていたが、人はそれとはなしに、親に似てくるものなのだろう。
父が死んだとき、父が背中を丸くして永遠の世界に向かう姿を思い描いた。振り返って父は言った。
「私は努力したのだ」
私は父を許した。私は父のせいで罪人であった。父も罪人だった。父は4歳で母親に捨てられ、仕方なかった。
自分の心を振り返ってよく考えてみたことで、いわゆる人間らしい普通の人に近づいたように思う。だれもが人を憎むことができるし、人を愛することもできる。どちら側に進むかによって殺人者にも聖人にもなれる。
よく瞑想している。その結果、心は落ち着き、実に静かな時を過ごしている。
心はどんどん静かになっていく。至福の時が近づいている。
それではまた、次回まで眠ろう。・・・マーロン・ブランド≫
ドキュメンタリー映画「マーロン・ブランドの肉声」の各シーンをたどりながら、自分なりに理解を重ねてきたのですが、最後になって単純なひとつの疑問に捉われました。
生涯にわたって、これだけ父と子の葛藤に苦しみ、その苦悩を「演ずる」ことで理解し、できれば和解しようと努めたマーロン・ブランドが、なぜ、同じエリア・カザンの作品である父の子の葛藤の物語の象徴的な作品「エデンの東」の主演をジェームズ・ディーンに譲ってしまったのか、エリア・カザン作品を成功させた実績もあることを考えれば、あからさまな要望を表明しなくとも、少なくともオファーくらいはあったのではないか、このドキュメンタリー映画でこれまでに知ったブランドの心情から考えると、この父性を求める「キャル」こそは、どうしても演じてみたい役だったのではないかと思えて仕方ありません。それとも、そういうストレートな役柄だったからこそ、あえて「敬遠」したのか、その辺の事情をどうしても知りたくなりました。
そこで、調べるのなら、「エリア・カザン自伝」を見るのが最適と考え、さっそく図書館から大冊「エリア・カザン自伝」上・下巻を借りてきました。合わせると1000頁はゆうに越してしまうのではないかという、とにかくすごい大著です。この本を家まで運ぶだけでも大仕事で、歩いているうちに腕が痺れてきて、そのうち肩から腕が抜けるのではないかと不安になったくらいです。
ざっと見たところ、映画「エデンの東」に言及している箇所は、下巻の157頁4行目から163頁にかけて書かれていることを確認し、該当箇所をさっそくアタマから読んでみました。
なるほど、なるほど、要約すると、「欲望という電車」1951と「波止場」1954の成功によって、エリア・カザンは、撮る環境として最高の状態にあったときで、「エデンの東」1955の企画を会社に提出したときも、なんの条件も課せられることなく、現場のことはすべて一任するという状態でした、もし、カザンが「エデンの東」のキャル役をマーロン・ブランドでいくという意思があったのなら、それを阻むものなどなにひとつなかったわけで、むしろ「エデンの東」のキャル役を蹴ったのはマーロン・ブランドの方だなと思えてきました。
「エリア・カザン自伝」には、キャストもカザンに一任されてはいるものの、ジェームズ・ディーンという駆け出しの役者を一度面接してくれないかという依頼もあったので、カザンは半信半疑でジェームズ・ディーンに会います。
会ってみるとこれが、胸糞が悪くなるほどの生意気な小僧で、礼儀もなにもわきまえない不貞腐れた態度に不快を感じながら、カザンは、原作者のスタインベックの元へも面会にやります。そしてジェームズ・ディーンに面会したスタインベックの印象もエリア・カザンと同意見(不貞腐れた生意気な小僧)で、その場で「エデンの東」のキャル役のイメージにぴったりということで主役はジェームズ・ディーンと決定したのだそうです。
こうして読んでくると、エリア・カザンの側からも、どうしてもマーロン・ブランドでなければダメだというほどの積極的なオファーがあったという印象はどこにも見当たりませんし、それよりも、なにかとても寒々しい感じがしてなりません。
「波止場」でアカデミー主演男優賞をとったことが、なにか関係しているのかとも考えてみましたが、それならむしろ「恩」はブランドの方にあるわけだし、とは言っても、いまさら「どうか主役に使ってください」とは、あまりにも白々しすぎて言えないかもしれない。などなど、お互いに何も言い出せない膠着状態にあったのかもしれないなどと考えていたとき、wikiの「マーロン・ブランド」の項に、こんな記述を発見しました。
「1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。アカデミー賞の受賞により名実共にトップスターになる。
翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。
これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対してマーロン・ブランドが憤慨していたからという。この映画でジェームズ・ディーンがスターになった。」
1952年4月10日、エリア・カザンは、非米活動委員会の証言台に立った。しかし、それは委員会の小委員会による聴聞であって公開はされなかった。
赤狩りの膨大な資料集「裏切りの30年」を編集したエリック・ベントリーはこう書いている。
・・・委員会はエリア・カザンをやさしく取り扱った。カザンは、1952年1月14日の委員会の常任会議で証言したが、その証言内容はこれまで公表されていない。ここに掲載する証言(4月10日のもの)でさえ、カザンを聴衆から保護するため、本来は同様の会議が行われ、1日遅れて1952年4月10日に新聞発表されたものである。
その非公開聴聞会はこのように始まった。
小委員会の議長はフランシス・E・ウォルター議員、委員会の顧問弁護士であるフランク・S・タヴェナーがカザンに質問を始める。
タヴェナー カザンさん、あなたは1952年1月14日常任会議で委員会に証言しましたね?
カザン そのとおりです。
タヴェナー その聴聞のとき、およそ17年前、あなた自身が共産党員であったことと党内でのあなたの活動に関しては、完全に証言しましたね?
カザン そのとおりです。
タヴェナー しかしそのとき、他の人の活動に関するどのような資料も委員会に提出することを断り、党内でのあなたの活動に関係のあったほかの人びとが誰であるかを証言することも断りましたね?
カザン 他の人たちのほとんどについてです。幾人かは名前を挙げました。
タヴェナー しかしそのときは、全部の名前を挙げるのを断りましたね。
カザン そのとおりです。
タヴェナー さて、私の理解しているところでは、あなたは自発的に委員会に対して聴聞会を再開し、あなたが共産党時代に知っていた他の人たちについて、完全に説明する機会を与えてほしい、と要請しました。
カザン そのとおりです。私は十分かつ完全な陳述を行いたいのです。私が知っているすべてをお話ししたい。
タヴェナー それで、ここでの証言の準備のために、あなたは自分の持っている情報資料を思い起こし、整理するために大変な時間と努力を費やしましたか?
カザン そうです。大変時間がかかりました。
タヴェナー あなたの言う十分かつ完全な陳述を文書の形で用意していますか? 委員会に提出できますか?
カザン はい、そういうステートメントを準備しています。
カザンは、1952年4月9日付、非米活動委員会あてのそのステートメントを提出したが、このステートメントには長文の宣誓供述書をつけており、その口述書のなかで、自分が共産党に入り、かつそこから脱党したいきさつ、その間に接触した共産党員の名前をあげ、さらに自分が関係した演劇と映画の作品すべてについて、ひとつひとつ注釈と弁明をくわえている。
そのリストのなかには、マーロン・ブランドが出演した「欲望という名の電車」も「革命児サパタ」も含まれていた。
(2015)監督・スティーブン・ライリー、製作・ジョン・バトセック、R・J・カトラー、ジョージ・チグネル、製作総指揮・アンドリュー・ラーマン、脚本・スティーブン・ライリー、編集・スティーブン・ライリー、原題・Listen to Me Marlon
キャスト・マーロン・ブランド(声の出演)
そりゃあ「美しさ」だけのことなら、現代だって匹敵する美形の女優なら幾らでもいると思いますが、あの気品と天性の愛らしさを兼ね備えた女優というと、そうはいません、というか、正直言って、オードリー・ヘップバーンに匹敵し、ましてや超える女優など、いまだかつて見たことも聞いたこともないと言い切ってもいいくらいだと思っています。
少女期をナチスドイツ侵攻の圧制下のオランダで過ごしたヘップバーンは、飢えと死の恐怖を経験したことで、後年になってもずっと、同時代を同じ悲惨な状況で生き、そして殺されたアンネ・フランクの無残な死を胸に秘め、いつまでも忘れずにいたことや、あるいは、バレリーナ志望だったのに戦時中の栄養不良がたたって体力的にプリマになるのは到底無理と宣告され、それでなくとも男性よりも身長が高かった不運も重なりバレリーナになることを諦めたとか、今回はじめて知ったことが数多くありました。
それに、そもそも映画出演の切っ掛けというのが、「女優志望」でもなんでもなくて、ただ生活費を稼ぐためのほんのアルバイト気分にすぎなかったという部分も思わず失笑してしまいましたが、もっとも興味深かったのは、「ローマの休日」の主役が、当初はエリザベス・テイラーで企画が進められていたという部分でしょうか。
もし、あの主役が大女優エリザベス・テイラーになっていたら、それこそ美しさを鼻にかけた高慢な王女を演じるくらいがせいぜいだったでしょうし、共演した名優グレゴリー・ペックだって、みすみす一歩しりぞいて主役の座を女優に譲るなどという奥ゆかしさを見せることもなかったに違いありません。
ヘップバーンが、ほとんどそのデビュー作で(端役での小品出演というのがそれまでに何本かあったようですが)アカデミー主演女優賞を射止めたのですから、それこそ突如彗星のように出現した驚異的なデビューといっていいと思いますが、しかし、たとえあれほどの美形であって、それに「気品と天性の愛らしさ」を兼ね備えていたとしても、ただそれだけでは「アカデミー主演女優賞」受賞というのはあり得なかったと思っています。
そこにはスタッフやキャスト、そして時代を超えた新たなスターをずっと待ち望んでいた映画関係者やアカデミー会員の強いプッシュがあって意識的・好意的に「栄光への道」を作ってあげなければ、決してあの栄光に到達することはなかったはずです。
そんなことを、ぼんやり考えながら数日過ごしていたとき、迂闊にもビデオの予約を間違えて、考えてもいなかった映画を録画していることに気がつきました。
その作品というのは「マーロン・ブランドの肉声」という2015年のドキュメンタリー作品でした。
しかし、「オードリー・ヘップバーン」ならともかく、「マーロン・ブランド」では、はっきり言って自分としては「意識」して録画するような存在でも、自分好みの俳優でもありません。
ウィリアム・ワイラーやグレゴリー・ペックが、オードリー・ヘップバーンのか細く健気な彼女のために何とかしてあげたいと助力に努めるような妖精のごとき存在ならともかく、マーロン・ブランドの印象というのは、躁鬱の振れが激しく、すべてがやたらに重たくて扱いにくい泥沼のような存在でしかありません、道の向こうから彼がやって来るのが見えたりしたら、喧嘩でも吹っ掛けられて絡まれては大変です、面倒なトラブルに巻き込まれるより先に、あわてて横道にそれて逃げたくなるような厄介な存在です。
とにかく、この映画「マーロン・ブランドの肉声」を一応通して見てみたのですが、案の定、マーロン・ブランドの惨憺たる生涯をこれでもかというくらい徹底的に突き詰めて描いた救いのない悲惨な作品でした。
映画の冒頭、意表を突くようにデジタル画像されたマーロン・ブランドの顔が映し出され、
「マーロン・ブランドは多くの音声録音を残したが、これまで人の耳に触れることがなかった。」というナレーションのあとで、こんなふうに語り出されます。
≪録音を始める。モノラル録音で、マイクは1番を使用する。
それではまず説明をしよう。
私は頭をデジタル化した。レーザーをこう当てられてね。顔もデジタル化した。いろいろな表情をしたよ。しかめつらや笑顔、悲しげな顔も、すべてデジタル化される。生の役者ではなく、パソコンの中の役者だ、そういう時代がやってきたんだ。
これが自分の遺作となるかもしれない。≫
そして、さらに続けて
≪明日、明日、明日とは。
日一日と確かな足取りで忍び寄り、最後の歴史の一節へとたどりつく。
そして、昨日という日は、愚者がチリと化す道筋を照らす。
つかの間のロウソクは消え去るだろう。
人生は歩くつかの間の影でしかない。
下手な役者も、舞台で大げさに振舞ってはいても、すぐに姿を消す。
人生は愚者が語る物語。響きも感情もすさまじいが、そこにはなにものも存在することのない無意味なものだ。
これは、そんな私の生活に関するプライベートの記録といえるだろう。≫
「彼は過去に生きる男で、孤独の中で苦悩した人物に思える。困惑や悲哀、そして孤独や不満の状態に悩まされているようだ。社会生活が難しいほど傷ついていて機械人形のようになっている。自分への扱いに不満で怒りを抱いていたのかもしれない。映画の情報などをこうして集めて自分を理解しようとしていた。」
マーロン・ブランドの父親は、アメリカ各州を旅するセールスマンで普段は家におらず(旅先で飲んだくれて女遊びをしていたことは、ブランドの述懐のなかにあります)、たまに帰ってくると酔って母親を罵倒し殴りつけるようなアル中の横暴な父親でしたし、母親はオマハの地方劇団の女優をしていて、やはり家には寄りつかず、ときには酔って留置場にいるのをブランドがタクシーで引き取りにいったという話も映画のなかで紹介されています、この母親もまたやはり手の付けられないアル中でした。
しかし、この映画のなかで母のエピソードを語るマーロン・ブランドは、そういう母親との思い出を決して悪しざまには語ることなく、どこまでも深い愛を感じさせる同情的な述懐を展開していますが、しかし、彼が話すエピソードのどれにも母親の愛情を裏付けるような具体的な事実が提示されるわけではありません、まるで「そうあってほしい」というような(たぶん虚偽だから、なおさら)空虚な回想を聞き続けていると、そこには父親に対する絶対的な敵意(のちにそれが「殺意」であったことが仄めかされます)と絶望的な嫌悪のはけ口として、行き場のない感情が仕方なく母親の方に流れたというだけにすぎなくて、この母親もまたマーロン・ブランドにとっては、やはり「嫌悪」の枠内に位置していたことが次第にあかされます。
居場所のない家を早朝に抜け出し、孤独を持て余した少年マーロン・ブランドは誰ひとりいないオマハの町をさまよい歩きます。
≪心を漂流させよう。過去へ、遠いむかしへ。
まだとても若い頃、あの頃は、朝起きると皆が寝ているあいだに服を着て、オマハの町の舗道を歩いては、大きな楡の木の下に坐った。光の中で風が木の葉の影を揺らしていた。優しい夢で、柔らかな風が呼んでいるようだった。あの風だけは信じられるものだと思った。君は私の思い出そのもの≫
≪自由にならねばと一生をとおして強く思った。あの列車に乗ったとき私は自由だった。車両で立ってレールの音に耳を傾けた。こんなふうに変わったリズムだ。
ニューヨークに到着したときは靴下にも心にも穴があいていた。
酔って舗道に横になり、眠ったこともあったが、行き交う人は誰ひとり無関心でそんな男を気にとめる者などいなかった。
人にはとても興味があった。彼らのことを知りたくてしょうがなかった。道行く人の顔を長いあいだ眺めていた、タイムズスクエア近くのタバコ店にもよく行った。そして人の顔を3秒眺めて、その人の人柄を分析したりした。顔には多くのことが隠されている。人は何かを隠しているものだ。本人も気づいてないことを推測するのが面白かった。何を感じ、何を考え、なぜそう感じるのか。それがどのようにして、それぞれの振る舞いに至るのか。答えはなにか、いや、そもそもそこに答えなんかあるのか。
人は本心から望むこと、達成感を得られるようなもの、そういったものを望むものだ。
自分を無知な人間だと感じていた。ろくな教育も受けず、何の知識もない人間、劣等感がまるで糞のように喉元まで詰め込まれた無価値な人間、自分を愚かだと感じていた。≫
1943年の秋、マーロン・ブランドは、グリニッジ・ヴィレッジ12丁目にあるニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの演劇ワークショップに入学し、そこで演技指導者ステラ・アドラーと出会います。そして、ステラから運命のスタニスラフスキー・メソッドを学びました。
ニュースクールで学ぶために父親に学費を送金してくれるようブランドが頼んだとき、父親は「お前なんか、どうせろくなものにならんだろうから、期待などしてないがね」と嫌みを言われ、冷笑されたことに深く傷ついたことを生涯忘れませんでした。
ステラは、ブランドに絶えず「恐れるな、ありのままの自分を出して好きなように演じていいのよ。舞台では自分に正直であること。多くの感情を掘り下げ、愛や怒りをさらけ出して、あなたを苦しめている感情を表現に変えるの」と言いつづけます。
しかし、そのように役者として自分の感情を高揚させ爆発させるメソッドを教授され体得したとしても、しかし、その一方で、常識を備えた普通人として、高揚した感情を飼いならし、収束の方法までは教えてもらえなかったことが、やがてマーロン・ブランドの生涯を惨憺たるものに貶めたことは間違いありません。
人間の奥底にはなにかドロドロしたものがあるに違いない、そうでなければならないはずだと固く信じているマーロン・ブランドにとって、「普通の感情」や「普通の人間」という存在がどうしても理解できず、演じることもできないまま周囲との軋轢を生じさせつづけました。
≪誰もが人に言えないような逸話を持っている。過去を持たない感情では、現在を表現できない。われわれは早い段階で演技の術を得る。子供の頃にオートミールをこぼしたのも母の気を引くための演技だ。演ずることは生き残ることと同じだ。≫
≪ああ、私の母だ、その写真。母が40歳くらいの写真だ。母は、素晴らしい人だった。独創的で、芸術的な人だったよ。母をよく思い出す。酒の匂いがする息も大好きだった。すごく甘い香りだった、いい香りだ。母は、アルコール依存症で、住んでいた町は小さくて、母のことを皆が知っていた。母は、徐々に家に寄りつかなくなり、まったく姿を消してしまうこともあった。どこへ行っていたのか、時には拘置所に迎えに行ったこともあった。思い出すと今でも恥ずかしさで胸が震えて、怒りの感情で自分が抑えられなくなってくる、このまま気が狂ってしまうんじゃないかと思うこともあるよ。≫
≪金を得るためだよ。ずっと貧乏だった。父は巡回販売員だった。私は半年の仕事で、父の10年分の稼ぎを超えた。父の判断基準は金だった。出来損ないの息子の稼ぎを理解できなかったようだ。怒ることが必要なシーンでは、自分の中で怒りを表す仕組がいる、いわば「感情を高揚させるための手続き」というか、怒りに満ちた何かの仕組みだ。
父が母を殴った記憶がある。私は14歳だった。親父は強い男だ。バーでも喧嘩をした。自分への嫌悪も抱えていただろう。家に寄り付かず、中西部で飲んで女遊びをしていた。意味もなく私もよく殴られた、当時は父に怯えていた。とてもつらいことが起きると意識から消そうとする。忘れたいんだ。毎晩どこかへ出かけて行って、癇癪を起して一晩を過ごす。メチャクチャになるほど、泣いたり叫んだりする。これがかなりきつい。演じた役のイメージで見られる。床から物を食べたりしないとか、裸足で道を走ったりしないと信じてもらえない。イメージを忘れてもらうのは難しい。スタンリーとの共通点はないし、嫌いなタイプだ。嫌いだから感情移入ができなかった。ケダモノのように残酷で暗い役柄だったよ。カウンセリングも受けた。演ずることで正気を失うと心配されてね。≫
ステラは言った。「万全だと思えば8割の出来。体験が6割と思えば、4割の出来。体験が4割であれば、そのまま帰りなさい」と。
≪自由の叫びは、鎖で繋がれた証しでもある。
役者になれていなかったら、何をしていただろう。
詐欺師だったかもな。腕の経つ詐欺師だ。巧みに嘘をつき、思いどおりのイメージやそれらしいイメージをとおす。
まだ60年代前で皆が反逆を求めていた。時代のニーズと私の雰囲気が合っていたんだ。私自身が物語といえる。反逆のために反抗する。≫
≪自分を負け犬と感じることは誰もが経験することだ。私はずっと劣等感に悩まされていた。≫
いまをときめく若き人気俳優マーロン・ブランドをゲストに迎えた当時のテレビのインタビュー番組の一場面が映し出されます。ちょうど「徹子の部屋」か「新婚さん、いらっしゃい」みたいな感じでしょうか、まあ、いずれの番組にしてもやがてくる令和の御世をどこまで生き残れるか危ぶまれるところでしょうが。
その手のノリのサプライズという設定で、突如父親が現れてブランドの少年時代の思い出話を聞き出すというシチュエーションのこの一連の場面は、ここまでこのドキュメンタリー映画を見てきた観客にとっては、「痛切」とか「残酷」と言い募っても到底言葉足らずの感が払拭できないほどまでに拗れたこの父子関係の爛れ具合を、さらにもっと相応しく赤裸々に言い表せる言葉があれば、むしろ「そちら」の方を採用したくなるほどの二人の関係を生々しく映し出しています。
マーロン・ブランドがその少年時代に父親から受けたものといえば、ただ威圧され虐待されつづけた記憶しかなく、そもそも俳優として大成できたのは、そのいまわしい記憶のトラウマから逃れるため、父親の否定をバネにして自分を解放しようとした痛ましい演技の病的な「成果」にすぎなかったことを考えれば、テレビ放送の手前、ただ息子は優しいステレオタイプの息子の役を演じ、父親はただ愛情深い父親の役を演じたに過ぎない偽善に満ちたものでしかないことを十分知悉している僕たちはこの場面を見ることになるわけですが。
「お父さんが見えているそうですね。隠れているのですか? お呼びしましょう、お父さん~!」
父親(マーロン・ブランド・シニア)登場
「息子さんのことをいろいろ聞いてみましょう。こんばんは、ご自慢の息子さんでしょう?」
「役者としてはそうでもないが、人としては立派だと思う」
僕たちはこのドキュメンタリー映画のどこかで、父親の人間に対する価値観は「そいつがいくら稼ぐか」にかかっており、単にその金額のタカによって人間の価値が測られることをすでにブランドから知らされているので、父親のこの「人としては立派だと思う」が、単なるカネの問題でしかないことがすぐに分かり、つまり、父親の言葉の中には暗に「息子」の全否定が語られていることを察した司会者は、さらに父親に尋ねます。
「教えてください、扱いにくい子供でしたか?」
「いわゆる普通の子供でした」
その場に同席しているブランドの表情は、すでに仮面の微笑が貼り付けられた演技者の顔でしかありませんが、オレのことなど何ひとつ知らないくせに、あんたがオレにしたことは、酒と女の匂いをぷんぷんさせて、たまに帰ってきては母とオレを気ままに殴りつけて楽しんでいたことくらいだろう、という思いで父親の偽善の言葉を苦々しく聞いていたことは間違いありません。
「ただ、一般的な子供よりも親とのモメゴトは多かったでしょうな」
「公平に判断するために、あなたの言い分も聞きましょうか?」と司会者はブランドに話を振ります。
「いや、その必要はありません、オヤジには負けてませんから、大丈夫です」
この言葉を受けてナレーションは、<お互いの役割を演じた>と断じていましたが、むしろ、自分的には<これがふたりの精いっぱいの本音だった>というべきで、このよじれた親子がそれぞれににじり寄って表明することのできたせめてもの誠実さだったのではないかと思えました。
ブランドは言います。
≪あれは偽善そのものだったよ。子供時代に受け入れてもらえないと、受け入れられるアイデンティテイを探す。だから私は、役柄に幅があるんだ≫と。
この言葉の中には、表明していること自体の在り様と同時に、片方で、自分がどのように変われば父親に受け入れてもらえるのかと必死に模索しながら、徐々にみずから人格を歪めてアイデンティティを失うに至るマーロン・ブランドの心の破綻の過程が語られていきます。
≪子供の頃、芝刈りなどで小銭を稼いで映画を見に行き、すべてから逃げたかった。映画を見た高揚感で1週間を乗り切った。魔法の時間だったよ。
役者は、名前が新聞に載ったり、注目を集めることを好むものだが、私は成功の幻想によく悩まされ、色眼鏡で見られていると思い、人に会うのも面倒になった。特別扱いに疲れるんだ。動物園の動物や異国の生きもののように、奇妙な目で見られることをね。現実から切り離されてしまう、そのことが私には耐えられない。普通に暮らせないのが、こんなにもつらいこととは思わなかったよ≫
≪母が雇った家庭教師、美しい髪ときれいな肌をした東洋人で、彼女に寄り添って安らいだ記憶がある。彼女が結婚のために私から去っていった日、7歳の少年は棄てられたと感じた。私は母にも棄てられたと感じていた。アル中だったから。あの日を境に素行が悪くなり問題児となった。
愛された記憶のない人間は、真実の愛を見逃す。真実の愛を知らないから、ありそうな場所を探すだけだ。≫
≪赤ん坊の息づかいは覚えている。そして鼓動も聞いた。自分の手の中でこんな小さな子が生きているのかと思うと涙がでてきた。息子には絶対、父を近づけてはならないと思った、私と同じ目にあわせてはならない≫
ナレーションは問いかけます。「マーロン、過去のことを話してくれないか」
≪父は、酔っぱらいだった。強くて女好きで男臭い男だった。かなりキツかったよ。
母は、とても詩的な人だったよ。だが、やはり酔っぱらいだった。
流し台には汚れたままの皿が山のように残っていて、家は散らかり放題だった。それを見るたびに、自分だけを残して、本当はみんな死んでしまったのではないかと思い、とても怖かったよ。
あるとき、父が母を殴っていて、私は2階の部屋に行った。だが、そのときなにかが自分の中で崩壊し、怒りのアドレナリンが全身を満たし、熱く支配された怒りの衝動のままに父親を睨みつけ、「今度繰り返したら、お前を殺すぞ!」と怒鳴りつけた。≫
父への殺意をみなぎらせ、「お前を殺すぞ!」と威嚇した衝撃的なモノローグを受けたあと、瞬間に転換したシーンは、息子クリスチャン・ブランドが、妹シャイアンの恋人を射殺したという緊急通報を受けて全警官に「銃撃事件発生」という緊急招集が掛かった場面に、このドキュメンタリー映画は冒頭の場面に回帰していきます。
息子クリスチャン・ブランドは、両親の離婚による親権争いに翻弄されて神経の安定を失い、生育し、1990年5月16日、妹シャイアンの恋人ダグ・ドロレッツをマーロン・ブランド邸で射殺し10年の判決を受け5年服役して出所しています。
射殺した動機は、日ごろから妹にダグが暴力をふるっていたからだと主張しましたが、一方では、当時クリスチャンはひどい薬物中毒だったという噂もありました。
しかし、クリスチャン服役中の1995年に妹シャイアンは、タヒチで自殺します、当時25歳。
そして、そのクリスチャンも2008年1月26日にロサンゼルスの病院で肺炎のため死去し、悲痛な人生を閉じました、49歳でした。
生まれたばかりの息子を抱き上げて、「この子を自分と同じ目にあわせてはならない」と強く念じたマーロン・ブランドの祈りが神にどこまで通じたのか、痛ましくも皮肉な思いに捉われないわけにはいきません。
2004年7月1日、マーロン・ブランド死去、80歳。
≪運命からも世の中からも見放され、独りわが身の不遇を嘆く。聞く耳を持たぬ天を無益な叫びで煩わせ、わが身を眺めて不運を呪う。
朝、目覚めてこう思う。「まったくなんという人生だろう。なぜこんなことになってしまったのか。」
今年はキツかった。人には想像できないほどだ。できるだけ強くあろうとしても、誰もがあるとき、糸が切れるものだ。痛みには、対処しなければならない。これまで精神分析には莫大な金をつぎ込んできたが、連中はなにもしてくれなかった。脳にペンチやドライバーを差しただけだ。
人生に、より真実が見え、若き日の名残りと引き換えに手に入った自分自身で分析しなくては、とやっと気づいた。
内面が見えなければ、決して外側が見えるはずがない。
生れながらの悪人はいない。最初の10年で身についた悪い習慣を多くの人は乗り越えていく。
クリスチャンは情緒障害や精神的な混乱に悩まされていた。むかしの私と同じように。父とは違うと思っていたが、人はそれとはなしに、親に似てくるものなのだろう。
父が死んだとき、父が背中を丸くして永遠の世界に向かう姿を思い描いた。振り返って父は言った。
「私は努力したのだ」
私は父を許した。私は父のせいで罪人であった。父も罪人だった。父は4歳で母親に捨てられ、仕方なかった。
自分の心を振り返ってよく考えてみたことで、いわゆる人間らしい普通の人に近づいたように思う。だれもが人を憎むことができるし、人を愛することもできる。どちら側に進むかによって殺人者にも聖人にもなれる。
よく瞑想している。その結果、心は落ち着き、実に静かな時を過ごしている。
心はどんどん静かになっていく。至福の時が近づいている。
それではまた、次回まで眠ろう。・・・マーロン・ブランド≫
ドキュメンタリー映画「マーロン・ブランドの肉声」の各シーンをたどりながら、自分なりに理解を重ねてきたのですが、最後になって単純なひとつの疑問に捉われました。
生涯にわたって、これだけ父と子の葛藤に苦しみ、その苦悩を「演ずる」ことで理解し、できれば和解しようと努めたマーロン・ブランドが、なぜ、同じエリア・カザンの作品である父の子の葛藤の物語の象徴的な作品「エデンの東」の主演をジェームズ・ディーンに譲ってしまったのか、エリア・カザン作品を成功させた実績もあることを考えれば、あからさまな要望を表明しなくとも、少なくともオファーくらいはあったのではないか、このドキュメンタリー映画でこれまでに知ったブランドの心情から考えると、この父性を求める「キャル」こそは、どうしても演じてみたい役だったのではないかと思えて仕方ありません。それとも、そういうストレートな役柄だったからこそ、あえて「敬遠」したのか、その辺の事情をどうしても知りたくなりました。
そこで、調べるのなら、「エリア・カザン自伝」を見るのが最適と考え、さっそく図書館から大冊「エリア・カザン自伝」上・下巻を借りてきました。合わせると1000頁はゆうに越してしまうのではないかという、とにかくすごい大著です。この本を家まで運ぶだけでも大仕事で、歩いているうちに腕が痺れてきて、そのうち肩から腕が抜けるのではないかと不安になったくらいです。
ざっと見たところ、映画「エデンの東」に言及している箇所は、下巻の157頁4行目から163頁にかけて書かれていることを確認し、該当箇所をさっそくアタマから読んでみました。
なるほど、なるほど、要約すると、「欲望という電車」1951と「波止場」1954の成功によって、エリア・カザンは、撮る環境として最高の状態にあったときで、「エデンの東」1955の企画を会社に提出したときも、なんの条件も課せられることなく、現場のことはすべて一任するという状態でした、もし、カザンが「エデンの東」のキャル役をマーロン・ブランドでいくという意思があったのなら、それを阻むものなどなにひとつなかったわけで、むしろ「エデンの東」のキャル役を蹴ったのはマーロン・ブランドの方だなと思えてきました。
「エリア・カザン自伝」には、キャストもカザンに一任されてはいるものの、ジェームズ・ディーンという駆け出しの役者を一度面接してくれないかという依頼もあったので、カザンは半信半疑でジェームズ・ディーンに会います。
会ってみるとこれが、胸糞が悪くなるほどの生意気な小僧で、礼儀もなにもわきまえない不貞腐れた態度に不快を感じながら、カザンは、原作者のスタインベックの元へも面会にやります。そしてジェームズ・ディーンに面会したスタインベックの印象もエリア・カザンと同意見(不貞腐れた生意気な小僧)で、その場で「エデンの東」のキャル役のイメージにぴったりということで主役はジェームズ・ディーンと決定したのだそうです。
こうして読んでくると、エリア・カザンの側からも、どうしてもマーロン・ブランドでなければダメだというほどの積極的なオファーがあったという印象はどこにも見当たりませんし、それよりも、なにかとても寒々しい感じがしてなりません。
「波止場」でアカデミー主演男優賞をとったことが、なにか関係しているのかとも考えてみましたが、それならむしろ「恩」はブランドの方にあるわけだし、とは言っても、いまさら「どうか主役に使ってください」とは、あまりにも白々しすぎて言えないかもしれない。などなど、お互いに何も言い出せない膠着状態にあったのかもしれないなどと考えていたとき、wikiの「マーロン・ブランド」の項に、こんな記述を発見しました。
「1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。アカデミー賞の受賞により名実共にトップスターになる。
翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。
これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対してマーロン・ブランドが憤慨していたからという。この映画でジェームズ・ディーンがスターになった。」
1952年4月10日、エリア・カザンは、非米活動委員会の証言台に立った。しかし、それは委員会の小委員会による聴聞であって公開はされなかった。
赤狩りの膨大な資料集「裏切りの30年」を編集したエリック・ベントリーはこう書いている。
・・・委員会はエリア・カザンをやさしく取り扱った。カザンは、1952年1月14日の委員会の常任会議で証言したが、その証言内容はこれまで公表されていない。ここに掲載する証言(4月10日のもの)でさえ、カザンを聴衆から保護するため、本来は同様の会議が行われ、1日遅れて1952年4月10日に新聞発表されたものである。
その非公開聴聞会はこのように始まった。
小委員会の議長はフランシス・E・ウォルター議員、委員会の顧問弁護士であるフランク・S・タヴェナーがカザンに質問を始める。
タヴェナー カザンさん、あなたは1952年1月14日常任会議で委員会に証言しましたね?
カザン そのとおりです。
タヴェナー その聴聞のとき、およそ17年前、あなた自身が共産党員であったことと党内でのあなたの活動に関しては、完全に証言しましたね?
カザン そのとおりです。
タヴェナー しかしそのとき、他の人の活動に関するどのような資料も委員会に提出することを断り、党内でのあなたの活動に関係のあったほかの人びとが誰であるかを証言することも断りましたね?
カザン 他の人たちのほとんどについてです。幾人かは名前を挙げました。
タヴェナー しかしそのときは、全部の名前を挙げるのを断りましたね。
カザン そのとおりです。
タヴェナー さて、私の理解しているところでは、あなたは自発的に委員会に対して聴聞会を再開し、あなたが共産党時代に知っていた他の人たちについて、完全に説明する機会を与えてほしい、と要請しました。
カザン そのとおりです。私は十分かつ完全な陳述を行いたいのです。私が知っているすべてをお話ししたい。
タヴェナー それで、ここでの証言の準備のために、あなたは自分の持っている情報資料を思い起こし、整理するために大変な時間と努力を費やしましたか?
カザン そうです。大変時間がかかりました。
タヴェナー あなたの言う十分かつ完全な陳述を文書の形で用意していますか? 委員会に提出できますか?
カザン はい、そういうステートメントを準備しています。
カザンは、1952年4月9日付、非米活動委員会あてのそのステートメントを提出したが、このステートメントには長文の宣誓供述書をつけており、その口述書のなかで、自分が共産党に入り、かつそこから脱党したいきさつ、その間に接触した共産党員の名前をあげ、さらに自分が関係した演劇と映画の作品すべてについて、ひとつひとつ注釈と弁明をくわえている。
そのリストのなかには、マーロン・ブランドが出演した「欲望という名の電車」も「革命児サパタ」も含まれていた。
(2015)監督・スティーブン・ライリー、製作・ジョン・バトセック、R・J・カトラー、ジョージ・チグネル、製作総指揮・アンドリュー・ラーマン、脚本・スティーブン・ライリー、編集・スティーブン・ライリー、原題・Listen to Me Marlon
キャスト・マーロン・ブランド(声の出演)