自分が以前書いた川島雄三監督作品「還って来た男」1944のコメントについて、先日、牧子嘉丸さんから
≪なんでこの映画を見て、後味の悪さを感じるのかちょっと不思議。
戦時下のなかでも懸命に生きる庶民の健気さとユーモアを感じないのか。≫
というコメントをいただきました。
このコメントを書いてから、なにせ相当に時間が経過しているので、当の文章はおろか、映画の内容までもすっかり忘れてしまっている始末だったので、慌てて読み直したり、映画を見直したりと、そりゃあもう大変な騒ぎで失われた時を取り戻した次第です。
さいわい作品の方は、ご奇特な方がいらっしゃってyou tubeでどうにか見ることができました。
しかし、いざ作品を見てみれば、やはり、ご指摘いただいた「後味の悪さ」と「戦時下のなかでも懸命に生きる庶民の健気さとユーモアを感じないのか」という部分について、当時感じたままの「ちぐはぐさ」を抱いたまま、やはり今回も同じような感想を持ったに過ぎなかったとご報告しなければならないみたいです。
でも、この感想をどう表現したら的確に理解していただけるかと、ずっと考えていたのですが、ついに象徴的な例を思いつきました。
以前、集英社で刊行した「コレクション戦争と文学」シリーズの1冊「帝国日本と台湾・南方」に収められていた小説を思い出したのです。
それは、戸石泰一の「待ちつづける兵補」だったか、周金波の「志願兵」の方だったか記憶が定かではありませんが、戦時下、南方の戦場でフィリピン人と朝鮮人(どちらかが「将校」で、片方が「軍属」にしても、どちらも「日本国軍人」です)が大喧嘩をしたというエピソードの部分です。
戦争末期になると、南方の戦地では多くの兵士が戦死し、次第に員数が不足してくると、現地人や植民地の人間を日本の軍人として採用して欠員を補填したという事実があったそうです。
この小説は、そのへんのところを描いた物語でした。
そういう状況下で、喧嘩をおっぱじめたふたり(フィリピン人と朝鮮人)、どちらも既に日本の軍隊で「日本軍人」たるべく厳しく訓練され、日本人と同じように教育も受けています(たどたどしい日本語しか話せないのに、軍人勅諭となると苦も無くスラスラと暗唱できるくらいです)、しかし、この「スラスラ」という言葉の語感には、出来なければ凄惨な体罰や制裁を科せられたであろう膨大な屈辱と恐怖に培われた倒錯的な「自負」も込められていることを見逃してはなりません。
だからこそ本人もまた立派で厳格な日本の軍人であることの自覚を持っていて、目の前の植民地人などになめられてたまるかという、「我こそは栄えある日本の軍人だ」という自負があって、その覚悟を競うように言い争い、果ては、凄惨に殴り合いに至るという場面が描かれているわけです。
当然その気持ちの裏には、「俺に比べれば、お前なんか、たかが植民地の人間じゃないか」という相手を蔑む冷笑の気持ちがあるわけですが、しかし、このふたりの実態もその状況も(ともにフィリピン人と朝鮮人なのですから)、その陰惨さにおいては些かも変わるわけでなく、そこには植民地支配の惨憺たる現実がやはり厳然としてあり、ただ、この喧嘩の仲裁に入るとはいえ、この日本人の将校だけが、優越的な「特殊な位置」にいるのであり、日本人将校がいくら「なにを争うのだ、馬鹿なまねは止めて仲良くせんか、どちらも同じ日本軍人じゃないか」と中立公平を装おうとしても、おのずからその口説には、「フィリピン人と朝鮮人の真摯さ」と同じものがあるなどとはどうしても考えられません。
必死に日本人になりきろうとした植民地人=彼らに比べたら、その「真摯さ」において、えらそうに仲裁に入ったこの日本軍の将校が持ち合わせた「もの」など、たかがしれたものと気がついた次第です。
いってみれば、川島雄三作品「還って来た男」を見て感じた自分の居心地の悪さ、そして「ちぐはぐさ」も、その日本軍の将校が持ち合わせた「もの」と同質なものを、この映画の能天気な主人公中瀬古庄平(佐野周二)に感じ取ったのだと思います。
映画のラストシーンで中瀬古庄平(佐野周二)は、すでに好感を抱きはじめている見合いの相手国民学校の教師・小谷初枝(田中絹代)に、自分の夢(子供たちが健康に育つことができる施設を私財を投じて建設すること)をこんなふうに語りかけています。
「進駐先のマレーの原住民の児童を見て、日本の子供はこれではいけない。学童が健康なら次の時代の日本は安心です」
この佐野周二演じる軍医の将校は、日本軍の領土的野心=侵略によって戦場と化した荒廃した地で、過酷な成長を余儀なくされ、将来を滅茶苦茶にされたマレーの憐れな子供たちの惨状を見て、子供がすこやかに成長するためには好環境が絶対に必要だとはじめて気が付き、私財を投げ出してでも、その「日本における子供たちの施設」が必要だと思いついたのです、「マレーの子供みたいになってはダメだ」と。
それって、おかしくないですか。
中瀬古庄平氏が、「これではいけない」と感じたのは、自分たちが理不尽に痛みつけて過酷な目にあわせている当のマレーの瀕死の子供たちに対してではなく、日本の子どもたちなのです。
なんたる狭視野、なんたる傲慢、なんたる教訓、なんたる自己中、なんたる想像力かと、この映画を貫く「姿勢」には、ほとほとあきれ返ってしまいました。
まるで夢の新天地のように語られる、この映画で繰り返し発せられる空疎な「南方」という言葉のなかに、どれほどの「占領地の悲惨なリアル」が描き込まれているか、このラストシーンを見れば一目瞭然、なにをかいわんやです。
自分としても、この作品の定着している世評というものを聞いてないわけではありません。
多分、その定着した「世評」(代表的なものを末尾に添付しておきますが)に反して、自分の感想が悲観的な意味で突飛だったので、
≪なんでこの映画を見て、後味の悪さを感じるのかちょっと不思議。
戦時下のなかでも懸命に生きる庶民の健気さとユーモアを感じないのか。≫
というご意見を頂戴したものと思います。
しかし、この映画が撮られた1944年6月28日の前後には、連合軍がノルマンディに上陸した直後、北九州にはじめて空襲があって、学童疎開がはじまり、米軍がサイパン島・グアム島に上陸し、日本軍守備隊全滅という局面を迎えていた相当切迫した時期であって、カラ元気を装いつつも、当然国民は危機感を身近にしていたはずです。
戦況が切迫した時期に、このような能天気な映画を撮らなければならなかった川島雄三の苦衷にこそ思いを致したいものと思います。
(1944松竹大船撮影所)企画・海老原靖兄、製作・マキノ正博、監督・川島雄三、脚本原作・織田作之助、撮影・斎藤毅、音楽・大澤寿人、美術・小島基司
出演・笠智衆、佐野周二、吉川満子、小堀誠、文谷千代子、辻照八、田中絹代、三浦光子、草島競子、日守新一、山路義人、坂本武、渡辺均、
1944.07.20 白系 7巻 1,849m 67分 白黒/スタンダード
≪ネットで拾った「イワユル世評」です≫
登場人物の行動は、国策に沿ったものなので、検閲では問題がない。このままだと、時局迎合の国民精神教育映画となる。ところが、完成作品を見ると、全編を漂うユーモア、登場人物の行動原理、さわやかな恋、そしてささやかな楽しみと、人生の喜びに溢れていて、戦時下の映画とは思えないほどリベラルである。
織田作之助原作・脚本らしく、京阪神のおっとりとした文化風俗の匂いも全編に漂う。いつも雨に悩まされている「夜店出し」のおじさんも町場のアクセントとなっている。ラブコメディであり、スクリューボールコメディであり、ユーモア映画でもある時局迎合映画。前年の木下恵介のデビュー作『花咲く港』とともに、戦時下の明るい光のような佳作である。
≪なんでこの映画を見て、後味の悪さを感じるのかちょっと不思議。
戦時下のなかでも懸命に生きる庶民の健気さとユーモアを感じないのか。≫
というコメントをいただきました。
このコメントを書いてから、なにせ相当に時間が経過しているので、当の文章はおろか、映画の内容までもすっかり忘れてしまっている始末だったので、慌てて読み直したり、映画を見直したりと、そりゃあもう大変な騒ぎで失われた時を取り戻した次第です。
さいわい作品の方は、ご奇特な方がいらっしゃってyou tubeでどうにか見ることができました。
しかし、いざ作品を見てみれば、やはり、ご指摘いただいた「後味の悪さ」と「戦時下のなかでも懸命に生きる庶民の健気さとユーモアを感じないのか」という部分について、当時感じたままの「ちぐはぐさ」を抱いたまま、やはり今回も同じような感想を持ったに過ぎなかったとご報告しなければならないみたいです。
でも、この感想をどう表現したら的確に理解していただけるかと、ずっと考えていたのですが、ついに象徴的な例を思いつきました。
以前、集英社で刊行した「コレクション戦争と文学」シリーズの1冊「帝国日本と台湾・南方」に収められていた小説を思い出したのです。
それは、戸石泰一の「待ちつづける兵補」だったか、周金波の「志願兵」の方だったか記憶が定かではありませんが、戦時下、南方の戦場でフィリピン人と朝鮮人(どちらかが「将校」で、片方が「軍属」にしても、どちらも「日本国軍人」です)が大喧嘩をしたというエピソードの部分です。
戦争末期になると、南方の戦地では多くの兵士が戦死し、次第に員数が不足してくると、現地人や植民地の人間を日本の軍人として採用して欠員を補填したという事実があったそうです。
この小説は、そのへんのところを描いた物語でした。
そういう状況下で、喧嘩をおっぱじめたふたり(フィリピン人と朝鮮人)、どちらも既に日本の軍隊で「日本軍人」たるべく厳しく訓練され、日本人と同じように教育も受けています(たどたどしい日本語しか話せないのに、軍人勅諭となると苦も無くスラスラと暗唱できるくらいです)、しかし、この「スラスラ」という言葉の語感には、出来なければ凄惨な体罰や制裁を科せられたであろう膨大な屈辱と恐怖に培われた倒錯的な「自負」も込められていることを見逃してはなりません。
だからこそ本人もまた立派で厳格な日本の軍人であることの自覚を持っていて、目の前の植民地人などになめられてたまるかという、「我こそは栄えある日本の軍人だ」という自負があって、その覚悟を競うように言い争い、果ては、凄惨に殴り合いに至るという場面が描かれているわけです。
当然その気持ちの裏には、「俺に比べれば、お前なんか、たかが植民地の人間じゃないか」という相手を蔑む冷笑の気持ちがあるわけですが、しかし、このふたりの実態もその状況も(ともにフィリピン人と朝鮮人なのですから)、その陰惨さにおいては些かも変わるわけでなく、そこには植民地支配の惨憺たる現実がやはり厳然としてあり、ただ、この喧嘩の仲裁に入るとはいえ、この日本人の将校だけが、優越的な「特殊な位置」にいるのであり、日本人将校がいくら「なにを争うのだ、馬鹿なまねは止めて仲良くせんか、どちらも同じ日本軍人じゃないか」と中立公平を装おうとしても、おのずからその口説には、「フィリピン人と朝鮮人の真摯さ」と同じものがあるなどとはどうしても考えられません。
必死に日本人になりきろうとした植民地人=彼らに比べたら、その「真摯さ」において、えらそうに仲裁に入ったこの日本軍の将校が持ち合わせた「もの」など、たかがしれたものと気がついた次第です。
いってみれば、川島雄三作品「還って来た男」を見て感じた自分の居心地の悪さ、そして「ちぐはぐさ」も、その日本軍の将校が持ち合わせた「もの」と同質なものを、この映画の能天気な主人公中瀬古庄平(佐野周二)に感じ取ったのだと思います。
映画のラストシーンで中瀬古庄平(佐野周二)は、すでに好感を抱きはじめている見合いの相手国民学校の教師・小谷初枝(田中絹代)に、自分の夢(子供たちが健康に育つことができる施設を私財を投じて建設すること)をこんなふうに語りかけています。
「進駐先のマレーの原住民の児童を見て、日本の子供はこれではいけない。学童が健康なら次の時代の日本は安心です」
この佐野周二演じる軍医の将校は、日本軍の領土的野心=侵略によって戦場と化した荒廃した地で、過酷な成長を余儀なくされ、将来を滅茶苦茶にされたマレーの憐れな子供たちの惨状を見て、子供がすこやかに成長するためには好環境が絶対に必要だとはじめて気が付き、私財を投げ出してでも、その「日本における子供たちの施設」が必要だと思いついたのです、「マレーの子供みたいになってはダメだ」と。
それって、おかしくないですか。
中瀬古庄平氏が、「これではいけない」と感じたのは、自分たちが理不尽に痛みつけて過酷な目にあわせている当のマレーの瀕死の子供たちに対してではなく、日本の子どもたちなのです。
なんたる狭視野、なんたる傲慢、なんたる教訓、なんたる自己中、なんたる想像力かと、この映画を貫く「姿勢」には、ほとほとあきれ返ってしまいました。
まるで夢の新天地のように語られる、この映画で繰り返し発せられる空疎な「南方」という言葉のなかに、どれほどの「占領地の悲惨なリアル」が描き込まれているか、このラストシーンを見れば一目瞭然、なにをかいわんやです。
自分としても、この作品の定着している世評というものを聞いてないわけではありません。
多分、その定着した「世評」(代表的なものを末尾に添付しておきますが)に反して、自分の感想が悲観的な意味で突飛だったので、
≪なんでこの映画を見て、後味の悪さを感じるのかちょっと不思議。
戦時下のなかでも懸命に生きる庶民の健気さとユーモアを感じないのか。≫
というご意見を頂戴したものと思います。
しかし、この映画が撮られた1944年6月28日の前後には、連合軍がノルマンディに上陸した直後、北九州にはじめて空襲があって、学童疎開がはじまり、米軍がサイパン島・グアム島に上陸し、日本軍守備隊全滅という局面を迎えていた相当切迫した時期であって、カラ元気を装いつつも、当然国民は危機感を身近にしていたはずです。
戦況が切迫した時期に、このような能天気な映画を撮らなければならなかった川島雄三の苦衷にこそ思いを致したいものと思います。
(1944松竹大船撮影所)企画・海老原靖兄、製作・マキノ正博、監督・川島雄三、脚本原作・織田作之助、撮影・斎藤毅、音楽・大澤寿人、美術・小島基司
出演・笠智衆、佐野周二、吉川満子、小堀誠、文谷千代子、辻照八、田中絹代、三浦光子、草島競子、日守新一、山路義人、坂本武、渡辺均、
1944.07.20 白系 7巻 1,849m 67分 白黒/スタンダード
≪ネットで拾った「イワユル世評」です≫
登場人物の行動は、国策に沿ったものなので、検閲では問題がない。このままだと、時局迎合の国民精神教育映画となる。ところが、完成作品を見ると、全編を漂うユーモア、登場人物の行動原理、さわやかな恋、そしてささやかな楽しみと、人生の喜びに溢れていて、戦時下の映画とは思えないほどリベラルである。
織田作之助原作・脚本らしく、京阪神のおっとりとした文化風俗の匂いも全編に漂う。いつも雨に悩まされている「夜店出し」のおじさんも町場のアクセントとなっている。ラブコメディであり、スクリューボールコメディであり、ユーモア映画でもある時局迎合映画。前年の木下恵介のデビュー作『花咲く港』とともに、戦時下の明るい光のような佳作である。