先日、またまた牧子嘉丸さんから、うれしい「宿題」をいただきました。
コロナ禍の緊急事態宣言とかで仕方なく家に引きこもり、日々を持て余し途方に暮れている今日この頃、この思わぬ「宿題」になんだか心にハリができたような感じです、いえいえ、むしろこの「宿題」をいつの間にか心待ちしている部分だって大いにあります。
さて、今回の「宿題」は超難問です、あの誰もが知っている今井正監督の名作中の名作「にごりえ」1953からの出題で、そりゃうもう緊張して、脊髄に1万ボルトの電流を流されたような昇天感を味わったとしても少しも大げさではなく、むしろそれくらいの緊張は当然すぎるほど、この作品は日本映画史上に燦然と輝く不動不朽(不要不急ではありません)の名作であることに変わりはありません。
その設題というのは2問あって、こんな感じです。
第1問 二話「大つごもり」のラスト、下女・おみね(久我美子)は、恩ある叔父が病気で臥せって働けず暮らしが困窮したため、彼女の雇い主に借金を申し出てくれないかと依頼されます、女主人は一度は了承したものの、気難しい気まぐれから機嫌をそこね一転して借金の話など知らぬ存ぜぬと拒絶します、切羽詰まったおみねは、思い余って人目をぬすんで主家の金に手を付けてしまう(石之助の寝ている枕元に金の入った硯箱はありました)。その大晦日の大勘定の夜、主人夫婦は帳面が合わないのに気付き、そうそうまだあの金が残っていたぞと、おみねに例の硯箱を持ってくるように命じます。いよいよ盗みが発覚するかという絶体絶命のとき、その空の硯箱にあったのは道楽息子・石之助の「この金も拝借した」との書き付けで、急転直下、おみねの盗みも放蕩息子の仕業に紛れて、彼女の所業は発覚することなく、結局有耶無耶になってしまう(牧子嘉丸さんはこれを「救われる」と表現されています)というラストですが、牧子嘉丸さんは、これだけでは説明不足なので、こう補足すべきだとご提案をされました。
「これでは石之助が金ほしさで盗んだことになってしまい、おみねへの同情やら侠気やらがうまく描けていない。ここはひとつ、おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンがあったほうがよいのではないか」というのです。
第2問 三話「にごりえ」で、おりき(淡島千景)が銘酒屋の二階座敷で結城朝之助(山村聰)に身の上話を語るシーン、そこで大写しになったおりきの口説が一瞬途切れ、クチパクになる場面があって、それを牧子嘉丸さんは「もちろん、これは禁止用語が語られたからだと思うが、あの場面でその手の言葉(禁止用語)が発せられるというのがどうにも解せない、ニュアンスとしては「恋は盲目」とでもいったことなのだろうが、どう思うか」という問いでした。
まず、第1問、「大つごもり」の石之助の方から考えてみました。
自分的には、まず念頭にあった論点は、「はたして石之助に、おみねを救いたいと考えるほどの『同情』やら『侠気』やらが本当にあったのだろうか」という視点から考えようとハナから思っていました(最初から自分は、映画から受けた印象として、石之助は金ほしさで盗んだものという認識を持っていて、それ以外にはあり得ないという、そもそもこのスタートから、自分の認識違いがあり、そのあたりのズレはのちほど説明しようと思っています)。
というのは、この映画を見る限り、仲谷昇の演技や、今井演出から、自分には、石之助がおねみに対して『同情』やら『侠気』やらを有しているなどとは、到底考えられなかったからでした。
雇人の下女などに目もくれずに着飾って遊びほうけているお嬢様たちと同様、放蕩息子・石之助も同じレベルの人間にすぎず、下女の苦労やその事情、その去就、そして下女の些細な行為など(たとえそれが「盗み」であったとしても)なんの関心もなく、父親から脅しのように仄めかされた「自分の勘当」が現実となることだけが気がかり、その前にできるだけ多くの家の資産の取り分(金)をかすめ取りたいというのが彼のもっぱらの関心事である以上、そもそも下女の困窮やその盗みなど彼には取るに足りない些細事で、たとえ偶然にその盗みの現場に居合わせたとしても、彼にとってはどうでもよかったことに違いないというのが、今井演出の意図であると信じていました。
なので、石之助にとっては、硯箱にある金だけが問題なのであって、たとえそれが幾らであろうと(20円だろうが、あるいは2円足りない18円だろうが)、鷲掴みして持ち去るだけの石之助にとっては、どちらにしても大した問題ではなかったはずという演出に自分には見えたのです。
牧子嘉丸さんから「おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンがあったほうがよいのではないか」という提案を読んだとき、≪たとえそれが20円だろうと、2円足りない18円だろうと、どうでもよかったはず≫と考える自分には、正直奇異にしか感じられませんでした。
なぜなら、石之助にそうした「義侠心」を想定すること自体穿ちすぎで、もしそれが事実なら、自分が受けた今井演出が意図したと思われるこの作品の理解や認識(後述しますが)の全体像を根底から揺るがすものになってしまうからでしょう。
硯箱から金をムンズと鷲掴みして持ち去る石之助と、あるいは、「架空の20円(実際は18円でしたが)」という金額の違いの意味を十分に分かっていて持ち去る石之助とでは人物像に雲泥の差を来し、その「2円の足りない」ことの認識を有しているか否かは、この物語の在り方自体を大きく変えてしまう重要な論点です。
極貧の憐れな下女が思い余って犯した盗みを知っていて、さらに自分の行為をそこに覆いかぶせることで帳消しにしてあげようという(ほどなく勘当される大商店の惣領としての特権の最後の行使です)そうなれば、そこには、まさに牧子嘉丸さんがおっしゃられた高貴な「同情と義侠心」とが存在するわけですが、しかし、この映画において、ほどなく勘当される惣領息子の恨みや反抗や捨鉢さも含めて、はたして今井正は彼をそこまで情け深い甘々な人間として踏み込んで描いているだろうかという疑問から、自分はどうにも自由になれないのです。
この映画を見て、石之助という人物像をそこまで見誤るほどの認識不足が自分にあるなら、そしてこの映画が本当にそう描いているのなら、それは映画を読み解くうえでの自分の致命的な能力不足であり、情緒の絶望的な欠落か、深刻な認知症と指弾されても致し方ないという覚悟のうえでいうしかありませんが、もし、牧子嘉丸さんが述べられたように彼がおみねの盗みを垣間見て、義侠心とか同情心を起こし彼女を庇うため、さらなる罪を犯して彼女の犯行を曖昧にしようとして、家の金を盗む、というふうに描かれているとするなら、ほかの2話が描いているオムニバス映画としてのバランスが大きく崩れてしまうのではないかと思えて仕方ないのです。
このどうしようもない放蕩息子は常に遊興のために家の金をこれまで幾度もネコババし盗み取っています、そして今回の「盗み」だって、繰り返してきた多くの盗みと大差ないほんの一部にすぎず、そこには「義侠心や同情」などおよそ無縁な(おみねを酷使し虐待する)この因業な主家の構成員の一人としての、いかにもしでかしそうな所業以外のなにものでもないと描かれていると見る方が、このオムニバス映画にもっともふさわしい、大切なシチュエーション(持てる者の冷酷な虐待や酷使と弱者の理不尽で屈辱的な隷従の対比)を支える柱として理解しやすい行為であるように感じました。
だからこそ、極貧に苦しむ貧乏人にとって、この皮肉な偶然(極貧からのやむにやまれぬ盗みの罪が、有産階級者の遊興に蕩尽するための遊びのような盗みによって掻き消されてしまうという奇妙な恩寵)が生きてくるのだと思い、納得もできました。
自分もこのラストを見たときに、侮辱され虐げられ、常日頃理不尽に苦しめられ続けている貧乏人なのだから、たまにはこんなふうに偶然の皮肉な、まるで夢のような救われ方こそが、もっとも相応しいとさえ感じたくらいでした。いや、むしろここは、ふたりの絶望的な身分の隔たりを超えるためには、嘘っぽい「同情や義侠心」なんかよりも、この突飛で奇矯な、ほとんどあり得ないような「偶然の恩寵」こそが、有効であるとさえ感じ、今井正のリアリズムの手腕に感服したくらいでした。
それに、もし、石之助が突然善意に目覚めて改心し、おみねに救いの手を差し伸べるという善意の結末が描かれているのだとしたら、このオムニバス映画を構成するほかの救いのない悲惨な物語(十三夜とにごりえ)を裏切ることにも繋がってしまうだろうし、そんな一貫性を欠いた変節の物語をことさらにこの物語だけ孤立させて、わざわざ今井正が演出するだろうか、いやそんなはずはないと考えた次第です。
石之助とおみねの間には、相容れない埋めがたい階級的な溝があり(この考え方は、今井正作品に一貫している「信仰」でさえあります)、その埋めがたさは、かの「十三夜」でも「にごりえ」でも描かれている通り、この「大つごもり」においてもそのとおりに演出されたのだと思って差し支えないと思ったのでした。
ですので、以上の理由から、自分としては、第一問の答えは、
「石之助は金ほしさで盗んだだけで、おみねへの同情やら侠気やらなど最初からなかったのだから、そもそも、おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンを用意する必要もあり得ない」と結論付けようと思った矢先、実はとんでもないものを読んでしまいました。
それは、論創社から刊行された「今井正映画読本」2012.5.30発行の「大つごもり」の「あらすじ」207頁の記述です。
そこにはこんなふうに書かれています。
「商家に奉公しているみねは叔父に育てられた。その叔父の頼みで金の工面をしなければならなくなり、女主人に前借を依頼するが断られ、切羽詰まって主人の引き出しにある金に手を付ける。その様子を主人の先妻の息子・石之助が、眠ったふりをして見ており、引き出しに自分の借用書を残して去った。」
おいおい、マジか。それじゃあ絶対的に融和することができない階級対立の構図とか、自分が信じた今井演出とかも、いとも簡単に崩れちゃうじゃないですか、そりゃあ文芸評論風にいえば、実生活で散々借金で苦しんだ樋口一葉の夢想した部分とかもあったかもしれませんが、映画を見る限りにおいて今井正はそんなふうには描いてないけどなあ・・・と思いつつも、裏付けじゃありませんが、つい原作の方を拾い読みしてしまいました。
ああ、なるほど、なるほど、ありますねえ。
≪罰をお当てなさらば私ひとり、遣ふても叔父や叔母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿体なけれど此金ぬすまして下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。≫
はっきり言ってますね、【見し人なしと思へるは愚かや】って。
しかし、負け惜しみじゃありませんが、改めて繰り返し、勝手口から入って来た酔った石之助が硯箱のある部屋でうたた寝している一連のシーンを繰り返し見直しました。
なるほど、牧子嘉丸さんが、あえて「おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンがあったほうがよいのではないか」と思うのが無理からぬくらい、今井正の演出は、石之助に対してはあまりにも素っ気なく、迫真の演技を求めたおみねのド迫力な盗みの場面のような執拗で追い詰めるような熱心さは一向に窺われません。石之助はまるでマグロの屍体みたいにゴロリと寝転がっているだけで、観客の憶測を誘ったり、忖度させたり、邪推させるような思わせぶりな挙動など今井正は一切許していないようにさえ見えます。
いままさに、おみねが主家の禁断の金に手を付けようとしている緊迫したデリケートな場面、観客は息をのんでスクリーンをじっと見つめている緊張の中、同情も義侠心も有している石之助という設定なら、遠慮がちにでも微かにチラリとまばたきでもすれば、観客は一瞬のうちに「演出家の意図」を感じ取ることができるという、演出家と観客の意思疎通の条件なら十分すぎるくらいに整っている、なんとも好条件の「待たれる」状況下にあるわけですから、もしそれが「そう」なら、微かなサインとして「おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーン」くらいは、当然あるべきだったでしょう。
しかし、たぶん事実は「そう」ではなかった、石之助は、チラ見も、思わせぶりなまばたきも、わざとらしい寝息さえも立てなかったし、(今井演出は)それらの所作を許さないままに、彼を屍体のように寝転がらせ微動だにさせなかったのだろうと思います。
それが「なぜ」だったかは、三話「にごりえ」の、おりき(淡島千景)のクチパクの考察のなかで当然導き出されるものと信じながら、再度、あの銘酒屋の二階座敷の場面を見始めようとしたとき、そうそう「大つごもり」のときの大チョンボの教訓を生かして、遅まきながら原作と対比しながら、該当のシーンを見て見るべきなのではないかと思いつきました。原作の方は、身近に「樋口一葉集」があるので問題ないのですが、その際、できれば、水木洋子・井手俊郎のシナリオも入手できれば「なお可」という感じで、まず、インターネットで検索し、シナリオ「にごりえ」が掲載されている書籍を特定しました。
それは、毎年シナリオ作家協会が編集している「年鑑代表シナリオ集」1953年版(三笠書房、339頁、1954.1.1刊行)に掲載されていると分かりました。同時に掲載されているシナリオは以下のとおりです。
まごころ(木下恵介)、やつさもつさ(斎藤良輔)、煙突の見える場所(小国英雄)、雨月物語(川口松太郎・依田義賢)、縮図(新藤兼人)、雲ながるる果てに(八木保太郎・家城巳代治・直居欽哉)、日本の悲劇(木下恵介)、あにいもうと(水木洋子)、東京物語 (野田高梧・小津安二郎)、にごりえ(水木洋子・井手俊郎)
すごいラインナップです。ぜひ見てみたい、という思いで、近所の図書館のホームページで蔵書を検索してみました。当然、日本映画史に残るこれだけの名作です、シナリオくらい簡単に入手できるものと軽い気持ちでクリックしたのですが、その楽観は見事に裏切られてしまいました。
わか図書館では「年鑑代表シナリオ集」の蔵書は1989年から2019年までの分だけで、それ以前のものはすべて廃棄してしまったそうです、マジか(今日何度目の「マジか」でしょうか)。
試みに東京中央図書館も蔵書検索してみました。さすがです、1952年からの分がすべてそろっていました、勢いついでに国会図書館も蔵書検索をかけてみました、なるほど、さすが国立国会図書館です、蔵書はもちろんありますし、1953年版なら、国会図書館内限定という条件でデジタルで見ることができることも分かりました、しかし、小生の住むド田舎からわざわざ永田町とか広尾まで出向くというのは、なかなか難しいものがありまして、まあ、そこは「貧すれば鈍する」とでもご理解いただくとして、むしろ鈍は鈍なりに工夫して窮地を脱するしかありません、「窮鼠、猫を噛む」という感じで。
問題は、映画を原作やシナリオと「対比」して、忠実になぞっているかどうかの検証にあるのではなく、今井正が原作やシナリオに捉われることなく、どれだけオリジナリティを発揮して演出したかにあるのだとしたら、現に映画の中で交わされている会話を、まずは確認することから始めなければなりません。
盆の休みに、羽目を外したお店者の酔い乱れた愚劣な宴席を逃げ出したおりきが、さ迷い歩く夜店で偶然に結城朝之助(山村聰)と出会い、ふたたび菊之井に戻って、その二階座敷で語らう二人の迫真のやり取りのなかで、例のクチパクが出現します(クチパクの部分は●●●●で表記しました)。
とにかく、画面を見ながら逐語的にセリフを追ってタイプしてみたのですが、以下のとおりです。
結城「おい、いいのかい。下の座敷」
おりき「ええ、どうせお店者のしろうりなんか怒るなら怒れです。少し休むならともかく、今はご免こうむらせてもらいます。ああ、いやだ、いやだ。つくづくもう人の声の聞こえない静かな静かな果てに行っちまいたい。いつまでこんなこと、私つづけなけりゃいけないんでしょうかね」
下女「お待ちどうさま」
おりき「あ、すまないね。取りにもいかないで」
下女「いいんだよ。また姐さん、頭痛でもするかね」
おりき「あ、いいよ、つけなくても。あ、そうそう。閻魔様で櫛売ってたから。夕べ落としたって探してたから。さ、あげるよ」
下女「まあ、きれいな。似合う? 姐さん」
おりき「うん、早く下おいで。また息抜きしてたって怒られないうちに」
下女「旦那さん、どうもお邪魔しました」
結城「ああ」
下女「姐さん、どうもありがとう。今夜は眠られないよ」
結城「ふふ、無邪気な子だな」
おりき「ええ、あんな頃もみんなあったんですよねえ。・・・結城さん、今夜はお酒を思い切っていただきますから、止めないでくださいね」
結城「そりゃ、介抱はいつもさせられてるから」
おりき「うそ、あなたの前で取り乱したことなんてただの一度だって」
結城「よし、いつも壁ひとつ隔たったお前の物言いが気に入らなかった。今夜は心底から遠慮なく付き合おう」
おりき「ええ。じゃこれに下さい」
結城「まあ気の晴れるほど飲むのはいいが、なにをそう怒っているんだ。また聞かせられない話か」
おりき「いいえ、これを二、三杯いただいて、酔ったら今夜は何もかもお話しします。驚いちゃいけませんよ」
結城「あはは、前置きは、すさまじいもんだな。・・・なにをうっとりしてるんだ」
おりき「あなたのお顔を見てますの」
結城「こいつ」
おりき「おお、こわい方」
結城「冗談はのけて」
おりき「いいえ、嬉しいの。今夜はあなたは、ことにご立派に見えるんですもの」
結城「なにをいまさら」
おりき「よっぽど私ってうっかり者なんですわねえ。あ、ごめんなさい、自分ばかりに注いで」
結城「どうしたんだ今夜は。下地があるんだろ」
おりき「いいえ、まだまだ荒れませんから。先にお断りしておきますけど、私の自堕落は承知してて下さいまし。嘘偽りは申しません。なにもかも白状しちまいます。泥の中に生きるには転がらなけりゃ繁盛どころか見に来る人もありませんもの。可愛いの、愛しいの、見染めましたの、出鱈目のお世辞」
結城「そんなことは、当の昔に知れてる。」
おりき「ええ、それを本気にする阿呆がいます。私だとて、たとえ九尺二間の裏長屋でもいわれてみれば身を固めてみようかと考えないこともありませんけど、まんざら嫌いと思わない人でも所帯を持てたらどれほど嬉しいか本望か、いまさら私には分からないです」
結城「やはり浮き草が性に合ってるか」
おりき「そもそも私、始めっからあなたが好きで・・・」
結城「おいおい」
おりき「ねえ、●●●●」
結城「それで?」
おりき「それで、一日お目に掛からないと恋しくて、恋しくて」
結城「おい」
おりき「いや。ねえ、もしもあなたが奥様にと、もしもよ、そうおっしゃって下さったら、どうでしょう。私、やっぱり持たれるのいや」
結城「自由がいいのか」
おりき「ですけど、好き、どうしてもあなたが。こんな気持ち、浮気なんでしょうか。・・・もとはといえば、三代続いた出来損ないからです」
結城「おやじさんというのは?」
おりき「父は職人です。三つのとき、縁石から落ちて片足悪かったものですから、人中に出ることを嫌って坐りっきりの飾り職人・・・」
と、引き続きこの映画「にごりえ」の白眉ともいえるシーン、おりきの幼い日々の痛切な回想へとつながっていくのですが、しかし、ここはとりあえず、「クチパク」の解明を優先させなければなりません。
しかし、こうしてセリフだけをピックアップしてたどっていると、こういう作業って映画の魅力を半減させるだけで、当たり前のことですが、映画は、映像が伴って初めて「映画」なんだよなということをつくづく痛感させられます。
そこで気が付いたことがあるのです。菊之井の二階座敷で交わされる情感に満ちた一連のシーンの流れるような映像の美しさに圧倒されたために、このシーンをあたまから艶っぽい「ふたりの愛の交歓」のような先入観で見ていたわけですが、こうして逐語的にセリフを映像に添わせ当て嵌めてみると、その縫合がどうにも疑わしく思えてきたのです。
おりきは、この二階座敷で結城朝之助に、幾度か「あなたのことが好きで好きで」とか、「恋しくて恋しくて」と愛の言葉を告げていますが、自分には、なんだかこのセリフだけが突飛で、長いおりきの口説のなかで、そこだけ白々しく浮いてしまっているように見えて仕方がありません。
確かにおりきは、結城に、できればこの苦界から救ってほしいと願っていたでしょう。そのために囲われ者になっても構わないと思ったかもしれない。
自尊心をどんなに踏みにじられ、金にために身体をおもちゃにされ、その屈辱とやり場のない憤りに身も心もズタボロにされた酌婦が、客の気を引くために美辞麗句を費やす出鱈目を、「そんなことは、当の昔に知れてる」と受け流す粋人・結城朝之助と、そして「ええ、それを本気にする阿呆がいます」とみずからを自堕落と自認して本音を交わし合える間柄で、なにをいまさら、おりきが結城に、あえて、「好きだ」とか「恋しい」などと言うことがあるだろうか。自分はこの部分に、リアリスト・今井正に、在りうべからざる「ちぐはぐさ」を感じました。
それは、クチパク「●●●●」というセリフを挟む前後のこの一連の部分、
結城「やはり浮き草が性に合ってるか」
おりき「そもそも私、始めっからあなたが好きで・・・」
結城「おいおい」
おりき「ねえ、●●●●」
結城「それで?」
おりき「それで、一日お目に掛からないと恋しくて、恋しくて」
結城「おい」
おりき「いや。ねえ、もしもあなたが奥様にと、もしもよ、そうおっしゃって下さったら、どうでしょう。私、やっぱり持たれるのいや」
結城「自由がいいのか」
まずは、前後のセリフのやり取りから「●●●●」が、どういうことを語ろうとしたのか、大体のニュアンスを考えてみました。
まず、結城は、最初と最後で、「やはり浮き草が性に合ってるか」と語り始め、「自由がいいのか」と締めています。
その間で、おりきは、「あなたが好きで」「恋しくて、恋しくて」「もしもあなたが奥様にと」と愛の言葉を言い募り、しかし、結局、人の持ち物になることを拒むわけですが、その中で、あの「●●●●」というセリフが語られています、それがたとえどういう言葉であろうと、愛の言葉であることには変わりないであろうことは容易に想像できますし、していいと思います。
つまり、「恋は盲目」でも「抱かれたいの」でも「sexしたいの」でも一向に構わない、それらどの言い回しもこの文脈に添った「正解」だからです、「気ちがい」以外はね。
しかし、彼女の心境からその状況下で、果たして、おりきが結城に、そんな悠長な愛の告白なんかする余裕なんかあるだろうか、自分にはどうにも疑わしいのです。
泥酔した下卑た客から面白半分に胸を触られ、股間をまさぐられ、散々おもちゃにされたうえに笑いものにされた屈辱(同僚の酌婦は、戯れに抱え上げられ庭に投げ出されて笑いものにされても、悲憤に歪む表情を隠して卑屈に笑うしかありません)から逆上したおりきは、堪らなくなって外に飛び出します。
身動きのとれない現在の酌婦という境遇の何もかもが嫌になって、悲しみと怒りで張り裂けるような気持ちを抱えて夜店の町を彷徨い、そこで偶然結城朝之助に出会います。結城を伴えば、後先も考えず高ぶる感情に任せて飛び出した手前、帰りづらかった菊乃井にも、帰れる理由となったからでしょう。
そんな気持ちを引きずってのおりきが、やがて菊乃井二階の座敷で結城に果たして本心から、「あなたが好きで」とか「恋しくて、恋しくて」とか「もしもあなたが奥様にと」などと言うとは到底思えないのです、それにこの二人の仲で、いまさら「手練手管」でもないでしょうし。
おりきが、「驚いちゃいけませんよ」と前置きして結城に語り出そうとしたものは、そらぞらしい愛の告白や、むかし極貧の中でなけなしの金をはたいてやっと買ったコメをドブに流してしまった幼い日の痛恨の思い出などではなくて、むしろその根にある出自、こんな惨めな境遇に堕とした自分につながる「三代祟った卑しい血筋」の方だったのではないか、そこでは、「卑しい」とか「気違い」とかと、微妙な言葉を連ねるなかで、この「血筋」のために結城と結ばれることなど到底望めないことを、おりきは彼に話したかったのではないかと考えたのですが、しかし、この映画において「この線」は、深く探求されることなく途切れ、まるでその抑制の裏付けのように浮かび上がってくるのが、この「結城朝之助」という男の薄情ともとれる淡白さ、物語の高揚を逸らせるかのようなあまりの希薄さです。
映画のラスト、深刻な夫婦喧嘩の翌朝、源七が陋屋から姿を消して騒ぎになります。
おりきも身の回りの物を残して、忽然と菊乃井から姿を消し、地回りが探し回っています。
当初は、結城朝之助と駆け落ちでもしたのかと疑われますが、朋輩から「結城さんは駆け落ちするような方じゃない」と即座に否定されています。
やがて、町のはずれの雑木林で付近に入浴道具が散乱した惨たらしい男女の死体が発見され、それが、源七とおりきだと分かります。
脇腹を後ろから刺さされたうえに喉を突かれた刺し傷からみて、源七がおりきを道連れに心中をはかったのだろうと、死体の傷をあらためた巡査が検分します。
「心中だな、相当女は抵抗しているな。後ろから脇腹を刺されている。喉も突かれたのか。男も切腹とは見事なもんだ」
しかし、意外なのは、つづいて野次馬の男が発する「合意のうえなんじゃねえか」というセリフです。
目の前で巡査が検死して「女は、かなり抵抗しているな」と語っているのに、そのうえで野次馬の男は即座に「合意のうえなんじゃねえか」と言うとは、ずいぶん矛盾した奇妙な感想・リアクションだなとずっと思っていました。
しかし、このラストシーンを幾度か繰り返し見ているうちに、その理由がやっと分かりました。
野次馬の男は、じっとおりきの死に顔を見下ろしています、そしておりきの顔の大写し、突然の不運な死に遭遇したにしては、おりきの顔には無残な苦悶の色はなく、穏やかで安らかとさえ見える表情があって、野次馬の男はその顔を見て素直な感想を漏らしたのだな分かりました。どのような惨たらしい理不尽な死に方であろうと、おりきを、その生の絶望から救い、平穏を与えることができたのだと。
しかし、このラストでは、無力な結城朝之助の、姿どころか消息さえも窺い知ることはできないまま、物語は終わりを告げてしまいます、「今日もひねもす蒸して暑い。なにごともなし」と。
多分、結城朝之助は、複雑な事情を抱えるおりきへの好奇心は彼女の死によって満たされ、ふたたび面白そうな酌婦のいる歓楽街をひやかし探し歩いているに違いありません。
(1953新世紀プロ=文学座、配給=松竹)監督・今井正、原作・樋口一葉、脚色・水木洋子、井手俊郎、脚本監修・久保田万太郎、製作・伊藤武郎、製作補・吉田千恵子、宮本静江、製作主任・柏倉昌美、浅野正孝、監督補佐・西岡豊、撮影・中尾駿一郎、編集・宮田味津三、美術・平川透徹、音楽・團 伊玖磨、録音・安恵重遠、照明・田畑正一、企画・文学座、
出演・
第1話 十三夜
丹阿弥谷津子(原田せき)、三津田健(せきの父・齊藤主計)、田村秋子(せきの母・齊藤もよ)、久門祐夫(せきの弟・齊藤亥之助)ノンクレジット、芥川比呂志(人力車夫・高坂録之助)、
第2話 大つごもり
久我美子(みね)、中村伸郎(みねの叔父・安兵衛)、荒木道子(安兵衛の妻・しん)、河原崎次郎(みねの従弟・三之助)ノンクレジット、龍岡晋(石之助の父・山村嘉兵衛)、長岡輝子(石之助の継母・山村あや)、岸田今日子(山村家次女)ノンクレジット、道明福子(山村家三女)、仲谷昇(先妻の息子・山村石之助)ノンクレジット、戊井市郎(三之助)、加藤(のちに北村)和夫(車夫)ノンクレジット、
第3話 にごりえ
淡島千景(小料理屋「菊之井」の酌婦お力)(松竹)、山村聰(結城朝之助)、宮口精二(源七)、杉村春子(源七の妻・お初)、松山省二(源七の息子)、十朱久雄(菊乃井亭主・藤兵衛)、南美江(菊之井女将・お八重)、北城真記紀子(お力の母・お高)、加藤武(やくざ)ノンクレジット、加藤治子(縁日の若妻)、賀原夏子(酌婦お秋)、文野朋子(お高)、小池朝雄(女郎に絡む男)ノンクレジット、神山繁 (ガラの悪い酔客)ノンクレジット、
その他の出演者(ノンクレジット)内田稔、河原崎建三、三崎千恵子、北見治一、有馬昌彦、青野平義、稲垣昭三、小瀬格、
協力出演・前進座、東京俳優協会、文学座
1953.11.23 13巻 3,554m 白黒
第27回キネマ旬報ベスト・テン 第1位
第8回毎日映画コンクール 日本映画大賞、監督賞、女優助演賞(杉村春子)
第4回ブルーリボン賞 作品賞、音楽賞、企画賞(伊藤武郎)
コロナ禍の緊急事態宣言とかで仕方なく家に引きこもり、日々を持て余し途方に暮れている今日この頃、この思わぬ「宿題」になんだか心にハリができたような感じです、いえいえ、むしろこの「宿題」をいつの間にか心待ちしている部分だって大いにあります。
さて、今回の「宿題」は超難問です、あの誰もが知っている今井正監督の名作中の名作「にごりえ」1953からの出題で、そりゃうもう緊張して、脊髄に1万ボルトの電流を流されたような昇天感を味わったとしても少しも大げさではなく、むしろそれくらいの緊張は当然すぎるほど、この作品は日本映画史上に燦然と輝く不動不朽(不要不急ではありません)の名作であることに変わりはありません。
その設題というのは2問あって、こんな感じです。
第1問 二話「大つごもり」のラスト、下女・おみね(久我美子)は、恩ある叔父が病気で臥せって働けず暮らしが困窮したため、彼女の雇い主に借金を申し出てくれないかと依頼されます、女主人は一度は了承したものの、気難しい気まぐれから機嫌をそこね一転して借金の話など知らぬ存ぜぬと拒絶します、切羽詰まったおみねは、思い余って人目をぬすんで主家の金に手を付けてしまう(石之助の寝ている枕元に金の入った硯箱はありました)。その大晦日の大勘定の夜、主人夫婦は帳面が合わないのに気付き、そうそうまだあの金が残っていたぞと、おみねに例の硯箱を持ってくるように命じます。いよいよ盗みが発覚するかという絶体絶命のとき、その空の硯箱にあったのは道楽息子・石之助の「この金も拝借した」との書き付けで、急転直下、おみねの盗みも放蕩息子の仕業に紛れて、彼女の所業は発覚することなく、結局有耶無耶になってしまう(牧子嘉丸さんはこれを「救われる」と表現されています)というラストですが、牧子嘉丸さんは、これだけでは説明不足なので、こう補足すべきだとご提案をされました。
「これでは石之助が金ほしさで盗んだことになってしまい、おみねへの同情やら侠気やらがうまく描けていない。ここはひとつ、おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンがあったほうがよいのではないか」というのです。
第2問 三話「にごりえ」で、おりき(淡島千景)が銘酒屋の二階座敷で結城朝之助(山村聰)に身の上話を語るシーン、そこで大写しになったおりきの口説が一瞬途切れ、クチパクになる場面があって、それを牧子嘉丸さんは「もちろん、これは禁止用語が語られたからだと思うが、あの場面でその手の言葉(禁止用語)が発せられるというのがどうにも解せない、ニュアンスとしては「恋は盲目」とでもいったことなのだろうが、どう思うか」という問いでした。
まず、第1問、「大つごもり」の石之助の方から考えてみました。
自分的には、まず念頭にあった論点は、「はたして石之助に、おみねを救いたいと考えるほどの『同情』やら『侠気』やらが本当にあったのだろうか」という視点から考えようとハナから思っていました(最初から自分は、映画から受けた印象として、石之助は金ほしさで盗んだものという認識を持っていて、それ以外にはあり得ないという、そもそもこのスタートから、自分の認識違いがあり、そのあたりのズレはのちほど説明しようと思っています)。
というのは、この映画を見る限り、仲谷昇の演技や、今井演出から、自分には、石之助がおねみに対して『同情』やら『侠気』やらを有しているなどとは、到底考えられなかったからでした。
雇人の下女などに目もくれずに着飾って遊びほうけているお嬢様たちと同様、放蕩息子・石之助も同じレベルの人間にすぎず、下女の苦労やその事情、その去就、そして下女の些細な行為など(たとえそれが「盗み」であったとしても)なんの関心もなく、父親から脅しのように仄めかされた「自分の勘当」が現実となることだけが気がかり、その前にできるだけ多くの家の資産の取り分(金)をかすめ取りたいというのが彼のもっぱらの関心事である以上、そもそも下女の困窮やその盗みなど彼には取るに足りない些細事で、たとえ偶然にその盗みの現場に居合わせたとしても、彼にとってはどうでもよかったことに違いないというのが、今井演出の意図であると信じていました。
なので、石之助にとっては、硯箱にある金だけが問題なのであって、たとえそれが幾らであろうと(20円だろうが、あるいは2円足りない18円だろうが)、鷲掴みして持ち去るだけの石之助にとっては、どちらにしても大した問題ではなかったはずという演出に自分には見えたのです。
牧子嘉丸さんから「おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンがあったほうがよいのではないか」という提案を読んだとき、≪たとえそれが20円だろうと、2円足りない18円だろうと、どうでもよかったはず≫と考える自分には、正直奇異にしか感じられませんでした。
なぜなら、石之助にそうした「義侠心」を想定すること自体穿ちすぎで、もしそれが事実なら、自分が受けた今井演出が意図したと思われるこの作品の理解や認識(後述しますが)の全体像を根底から揺るがすものになってしまうからでしょう。
硯箱から金をムンズと鷲掴みして持ち去る石之助と、あるいは、「架空の20円(実際は18円でしたが)」という金額の違いの意味を十分に分かっていて持ち去る石之助とでは人物像に雲泥の差を来し、その「2円の足りない」ことの認識を有しているか否かは、この物語の在り方自体を大きく変えてしまう重要な論点です。
極貧の憐れな下女が思い余って犯した盗みを知っていて、さらに自分の行為をそこに覆いかぶせることで帳消しにしてあげようという(ほどなく勘当される大商店の惣領としての特権の最後の行使です)そうなれば、そこには、まさに牧子嘉丸さんがおっしゃられた高貴な「同情と義侠心」とが存在するわけですが、しかし、この映画において、ほどなく勘当される惣領息子の恨みや反抗や捨鉢さも含めて、はたして今井正は彼をそこまで情け深い甘々な人間として踏み込んで描いているだろうかという疑問から、自分はどうにも自由になれないのです。
この映画を見て、石之助という人物像をそこまで見誤るほどの認識不足が自分にあるなら、そしてこの映画が本当にそう描いているのなら、それは映画を読み解くうえでの自分の致命的な能力不足であり、情緒の絶望的な欠落か、深刻な認知症と指弾されても致し方ないという覚悟のうえでいうしかありませんが、もし、牧子嘉丸さんが述べられたように彼がおみねの盗みを垣間見て、義侠心とか同情心を起こし彼女を庇うため、さらなる罪を犯して彼女の犯行を曖昧にしようとして、家の金を盗む、というふうに描かれているとするなら、ほかの2話が描いているオムニバス映画としてのバランスが大きく崩れてしまうのではないかと思えて仕方ないのです。
このどうしようもない放蕩息子は常に遊興のために家の金をこれまで幾度もネコババし盗み取っています、そして今回の「盗み」だって、繰り返してきた多くの盗みと大差ないほんの一部にすぎず、そこには「義侠心や同情」などおよそ無縁な(おみねを酷使し虐待する)この因業な主家の構成員の一人としての、いかにもしでかしそうな所業以外のなにものでもないと描かれていると見る方が、このオムニバス映画にもっともふさわしい、大切なシチュエーション(持てる者の冷酷な虐待や酷使と弱者の理不尽で屈辱的な隷従の対比)を支える柱として理解しやすい行為であるように感じました。
だからこそ、極貧に苦しむ貧乏人にとって、この皮肉な偶然(極貧からのやむにやまれぬ盗みの罪が、有産階級者の遊興に蕩尽するための遊びのような盗みによって掻き消されてしまうという奇妙な恩寵)が生きてくるのだと思い、納得もできました。
自分もこのラストを見たときに、侮辱され虐げられ、常日頃理不尽に苦しめられ続けている貧乏人なのだから、たまにはこんなふうに偶然の皮肉な、まるで夢のような救われ方こそが、もっとも相応しいとさえ感じたくらいでした。いや、むしろここは、ふたりの絶望的な身分の隔たりを超えるためには、嘘っぽい「同情や義侠心」なんかよりも、この突飛で奇矯な、ほとんどあり得ないような「偶然の恩寵」こそが、有効であるとさえ感じ、今井正のリアリズムの手腕に感服したくらいでした。
それに、もし、石之助が突然善意に目覚めて改心し、おみねに救いの手を差し伸べるという善意の結末が描かれているのだとしたら、このオムニバス映画を構成するほかの救いのない悲惨な物語(十三夜とにごりえ)を裏切ることにも繋がってしまうだろうし、そんな一貫性を欠いた変節の物語をことさらにこの物語だけ孤立させて、わざわざ今井正が演出するだろうか、いやそんなはずはないと考えた次第です。
石之助とおみねの間には、相容れない埋めがたい階級的な溝があり(この考え方は、今井正作品に一貫している「信仰」でさえあります)、その埋めがたさは、かの「十三夜」でも「にごりえ」でも描かれている通り、この「大つごもり」においてもそのとおりに演出されたのだと思って差し支えないと思ったのでした。
ですので、以上の理由から、自分としては、第一問の答えは、
「石之助は金ほしさで盗んだだけで、おみねへの同情やら侠気やらなど最初からなかったのだから、そもそも、おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンを用意する必要もあり得ない」と結論付けようと思った矢先、実はとんでもないものを読んでしまいました。
それは、論創社から刊行された「今井正映画読本」2012.5.30発行の「大つごもり」の「あらすじ」207頁の記述です。
そこにはこんなふうに書かれています。
「商家に奉公しているみねは叔父に育てられた。その叔父の頼みで金の工面をしなければならなくなり、女主人に前借を依頼するが断られ、切羽詰まって主人の引き出しにある金に手を付ける。その様子を主人の先妻の息子・石之助が、眠ったふりをして見ており、引き出しに自分の借用書を残して去った。」
おいおい、マジか。それじゃあ絶対的に融和することができない階級対立の構図とか、自分が信じた今井演出とかも、いとも簡単に崩れちゃうじゃないですか、そりゃあ文芸評論風にいえば、実生活で散々借金で苦しんだ樋口一葉の夢想した部分とかもあったかもしれませんが、映画を見る限りにおいて今井正はそんなふうには描いてないけどなあ・・・と思いつつも、裏付けじゃありませんが、つい原作の方を拾い読みしてしまいました。
ああ、なるほど、なるほど、ありますねえ。
≪罰をお当てなさらば私ひとり、遣ふても叔父や叔母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿体なけれど此金ぬすまして下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。≫
はっきり言ってますね、【見し人なしと思へるは愚かや】って。
しかし、負け惜しみじゃありませんが、改めて繰り返し、勝手口から入って来た酔った石之助が硯箱のある部屋でうたた寝している一連のシーンを繰り返し見直しました。
なるほど、牧子嘉丸さんが、あえて「おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーンがあったほうがよいのではないか」と思うのが無理からぬくらい、今井正の演出は、石之助に対してはあまりにも素っ気なく、迫真の演技を求めたおみねのド迫力な盗みの場面のような執拗で追い詰めるような熱心さは一向に窺われません。石之助はまるでマグロの屍体みたいにゴロリと寝転がっているだけで、観客の憶測を誘ったり、忖度させたり、邪推させるような思わせぶりな挙動など今井正は一切許していないようにさえ見えます。
いままさに、おみねが主家の禁断の金に手を付けようとしている緊迫したデリケートな場面、観客は息をのんでスクリーンをじっと見つめている緊張の中、同情も義侠心も有している石之助という設定なら、遠慮がちにでも微かにチラリとまばたきでもすれば、観客は一瞬のうちに「演出家の意図」を感じ取ることができるという、演出家と観客の意思疎通の条件なら十分すぎるくらいに整っている、なんとも好条件の「待たれる」状況下にあるわけですから、もしそれが「そう」なら、微かなサインとして「おみねの盗みを石之助がちらりと盗み見るシーン」くらいは、当然あるべきだったでしょう。
しかし、たぶん事実は「そう」ではなかった、石之助は、チラ見も、思わせぶりなまばたきも、わざとらしい寝息さえも立てなかったし、(今井演出は)それらの所作を許さないままに、彼を屍体のように寝転がらせ微動だにさせなかったのだろうと思います。
それが「なぜ」だったかは、三話「にごりえ」の、おりき(淡島千景)のクチパクの考察のなかで当然導き出されるものと信じながら、再度、あの銘酒屋の二階座敷の場面を見始めようとしたとき、そうそう「大つごもり」のときの大チョンボの教訓を生かして、遅まきながら原作と対比しながら、該当のシーンを見て見るべきなのではないかと思いつきました。原作の方は、身近に「樋口一葉集」があるので問題ないのですが、その際、できれば、水木洋子・井手俊郎のシナリオも入手できれば「なお可」という感じで、まず、インターネットで検索し、シナリオ「にごりえ」が掲載されている書籍を特定しました。
それは、毎年シナリオ作家協会が編集している「年鑑代表シナリオ集」1953年版(三笠書房、339頁、1954.1.1刊行)に掲載されていると分かりました。同時に掲載されているシナリオは以下のとおりです。
まごころ(木下恵介)、やつさもつさ(斎藤良輔)、煙突の見える場所(小国英雄)、雨月物語(川口松太郎・依田義賢)、縮図(新藤兼人)、雲ながるる果てに(八木保太郎・家城巳代治・直居欽哉)、日本の悲劇(木下恵介)、あにいもうと(水木洋子)、東京物語 (野田高梧・小津安二郎)、にごりえ(水木洋子・井手俊郎)
すごいラインナップです。ぜひ見てみたい、という思いで、近所の図書館のホームページで蔵書を検索してみました。当然、日本映画史に残るこれだけの名作です、シナリオくらい簡単に入手できるものと軽い気持ちでクリックしたのですが、その楽観は見事に裏切られてしまいました。
わか図書館では「年鑑代表シナリオ集」の蔵書は1989年から2019年までの分だけで、それ以前のものはすべて廃棄してしまったそうです、マジか(今日何度目の「マジか」でしょうか)。
試みに東京中央図書館も蔵書検索してみました。さすがです、1952年からの分がすべてそろっていました、勢いついでに国会図書館も蔵書検索をかけてみました、なるほど、さすが国立国会図書館です、蔵書はもちろんありますし、1953年版なら、国会図書館内限定という条件でデジタルで見ることができることも分かりました、しかし、小生の住むド田舎からわざわざ永田町とか広尾まで出向くというのは、なかなか難しいものがありまして、まあ、そこは「貧すれば鈍する」とでもご理解いただくとして、むしろ鈍は鈍なりに工夫して窮地を脱するしかありません、「窮鼠、猫を噛む」という感じで。
問題は、映画を原作やシナリオと「対比」して、忠実になぞっているかどうかの検証にあるのではなく、今井正が原作やシナリオに捉われることなく、どれだけオリジナリティを発揮して演出したかにあるのだとしたら、現に映画の中で交わされている会話を、まずは確認することから始めなければなりません。
盆の休みに、羽目を外したお店者の酔い乱れた愚劣な宴席を逃げ出したおりきが、さ迷い歩く夜店で偶然に結城朝之助(山村聰)と出会い、ふたたび菊之井に戻って、その二階座敷で語らう二人の迫真のやり取りのなかで、例のクチパクが出現します(クチパクの部分は●●●●で表記しました)。
とにかく、画面を見ながら逐語的にセリフを追ってタイプしてみたのですが、以下のとおりです。
結城「おい、いいのかい。下の座敷」
おりき「ええ、どうせお店者のしろうりなんか怒るなら怒れです。少し休むならともかく、今はご免こうむらせてもらいます。ああ、いやだ、いやだ。つくづくもう人の声の聞こえない静かな静かな果てに行っちまいたい。いつまでこんなこと、私つづけなけりゃいけないんでしょうかね」
下女「お待ちどうさま」
おりき「あ、すまないね。取りにもいかないで」
下女「いいんだよ。また姐さん、頭痛でもするかね」
おりき「あ、いいよ、つけなくても。あ、そうそう。閻魔様で櫛売ってたから。夕べ落としたって探してたから。さ、あげるよ」
下女「まあ、きれいな。似合う? 姐さん」
おりき「うん、早く下おいで。また息抜きしてたって怒られないうちに」
下女「旦那さん、どうもお邪魔しました」
結城「ああ」
下女「姐さん、どうもありがとう。今夜は眠られないよ」
結城「ふふ、無邪気な子だな」
おりき「ええ、あんな頃もみんなあったんですよねえ。・・・結城さん、今夜はお酒を思い切っていただきますから、止めないでくださいね」
結城「そりゃ、介抱はいつもさせられてるから」
おりき「うそ、あなたの前で取り乱したことなんてただの一度だって」
結城「よし、いつも壁ひとつ隔たったお前の物言いが気に入らなかった。今夜は心底から遠慮なく付き合おう」
おりき「ええ。じゃこれに下さい」
結城「まあ気の晴れるほど飲むのはいいが、なにをそう怒っているんだ。また聞かせられない話か」
おりき「いいえ、これを二、三杯いただいて、酔ったら今夜は何もかもお話しします。驚いちゃいけませんよ」
結城「あはは、前置きは、すさまじいもんだな。・・・なにをうっとりしてるんだ」
おりき「あなたのお顔を見てますの」
結城「こいつ」
おりき「おお、こわい方」
結城「冗談はのけて」
おりき「いいえ、嬉しいの。今夜はあなたは、ことにご立派に見えるんですもの」
結城「なにをいまさら」
おりき「よっぽど私ってうっかり者なんですわねえ。あ、ごめんなさい、自分ばかりに注いで」
結城「どうしたんだ今夜は。下地があるんだろ」
おりき「いいえ、まだまだ荒れませんから。先にお断りしておきますけど、私の自堕落は承知してて下さいまし。嘘偽りは申しません。なにもかも白状しちまいます。泥の中に生きるには転がらなけりゃ繁盛どころか見に来る人もありませんもの。可愛いの、愛しいの、見染めましたの、出鱈目のお世辞」
結城「そんなことは、当の昔に知れてる。」
おりき「ええ、それを本気にする阿呆がいます。私だとて、たとえ九尺二間の裏長屋でもいわれてみれば身を固めてみようかと考えないこともありませんけど、まんざら嫌いと思わない人でも所帯を持てたらどれほど嬉しいか本望か、いまさら私には分からないです」
結城「やはり浮き草が性に合ってるか」
おりき「そもそも私、始めっからあなたが好きで・・・」
結城「おいおい」
おりき「ねえ、●●●●」
結城「それで?」
おりき「それで、一日お目に掛からないと恋しくて、恋しくて」
結城「おい」
おりき「いや。ねえ、もしもあなたが奥様にと、もしもよ、そうおっしゃって下さったら、どうでしょう。私、やっぱり持たれるのいや」
結城「自由がいいのか」
おりき「ですけど、好き、どうしてもあなたが。こんな気持ち、浮気なんでしょうか。・・・もとはといえば、三代続いた出来損ないからです」
結城「おやじさんというのは?」
おりき「父は職人です。三つのとき、縁石から落ちて片足悪かったものですから、人中に出ることを嫌って坐りっきりの飾り職人・・・」
と、引き続きこの映画「にごりえ」の白眉ともいえるシーン、おりきの幼い日々の痛切な回想へとつながっていくのですが、しかし、ここはとりあえず、「クチパク」の解明を優先させなければなりません。
しかし、こうしてセリフだけをピックアップしてたどっていると、こういう作業って映画の魅力を半減させるだけで、当たり前のことですが、映画は、映像が伴って初めて「映画」なんだよなということをつくづく痛感させられます。
そこで気が付いたことがあるのです。菊之井の二階座敷で交わされる情感に満ちた一連のシーンの流れるような映像の美しさに圧倒されたために、このシーンをあたまから艶っぽい「ふたりの愛の交歓」のような先入観で見ていたわけですが、こうして逐語的にセリフを映像に添わせ当て嵌めてみると、その縫合がどうにも疑わしく思えてきたのです。
おりきは、この二階座敷で結城朝之助に、幾度か「あなたのことが好きで好きで」とか、「恋しくて恋しくて」と愛の言葉を告げていますが、自分には、なんだかこのセリフだけが突飛で、長いおりきの口説のなかで、そこだけ白々しく浮いてしまっているように見えて仕方がありません。
確かにおりきは、結城に、できればこの苦界から救ってほしいと願っていたでしょう。そのために囲われ者になっても構わないと思ったかもしれない。
自尊心をどんなに踏みにじられ、金にために身体をおもちゃにされ、その屈辱とやり場のない憤りに身も心もズタボロにされた酌婦が、客の気を引くために美辞麗句を費やす出鱈目を、「そんなことは、当の昔に知れてる」と受け流す粋人・結城朝之助と、そして「ええ、それを本気にする阿呆がいます」とみずからを自堕落と自認して本音を交わし合える間柄で、なにをいまさら、おりきが結城に、あえて、「好きだ」とか「恋しい」などと言うことがあるだろうか。自分はこの部分に、リアリスト・今井正に、在りうべからざる「ちぐはぐさ」を感じました。
それは、クチパク「●●●●」というセリフを挟む前後のこの一連の部分、
結城「やはり浮き草が性に合ってるか」
おりき「そもそも私、始めっからあなたが好きで・・・」
結城「おいおい」
おりき「ねえ、●●●●」
結城「それで?」
おりき「それで、一日お目に掛からないと恋しくて、恋しくて」
結城「おい」
おりき「いや。ねえ、もしもあなたが奥様にと、もしもよ、そうおっしゃって下さったら、どうでしょう。私、やっぱり持たれるのいや」
結城「自由がいいのか」
まずは、前後のセリフのやり取りから「●●●●」が、どういうことを語ろうとしたのか、大体のニュアンスを考えてみました。
まず、結城は、最初と最後で、「やはり浮き草が性に合ってるか」と語り始め、「自由がいいのか」と締めています。
その間で、おりきは、「あなたが好きで」「恋しくて、恋しくて」「もしもあなたが奥様にと」と愛の言葉を言い募り、しかし、結局、人の持ち物になることを拒むわけですが、その中で、あの「●●●●」というセリフが語られています、それがたとえどういう言葉であろうと、愛の言葉であることには変わりないであろうことは容易に想像できますし、していいと思います。
つまり、「恋は盲目」でも「抱かれたいの」でも「sexしたいの」でも一向に構わない、それらどの言い回しもこの文脈に添った「正解」だからです、「気ちがい」以外はね。
しかし、彼女の心境からその状況下で、果たして、おりきが結城に、そんな悠長な愛の告白なんかする余裕なんかあるだろうか、自分にはどうにも疑わしいのです。
泥酔した下卑た客から面白半分に胸を触られ、股間をまさぐられ、散々おもちゃにされたうえに笑いものにされた屈辱(同僚の酌婦は、戯れに抱え上げられ庭に投げ出されて笑いものにされても、悲憤に歪む表情を隠して卑屈に笑うしかありません)から逆上したおりきは、堪らなくなって外に飛び出します。
身動きのとれない現在の酌婦という境遇の何もかもが嫌になって、悲しみと怒りで張り裂けるような気持ちを抱えて夜店の町を彷徨い、そこで偶然結城朝之助に出会います。結城を伴えば、後先も考えず高ぶる感情に任せて飛び出した手前、帰りづらかった菊乃井にも、帰れる理由となったからでしょう。
そんな気持ちを引きずってのおりきが、やがて菊乃井二階の座敷で結城に果たして本心から、「あなたが好きで」とか「恋しくて、恋しくて」とか「もしもあなたが奥様にと」などと言うとは到底思えないのです、それにこの二人の仲で、いまさら「手練手管」でもないでしょうし。
おりきが、「驚いちゃいけませんよ」と前置きして結城に語り出そうとしたものは、そらぞらしい愛の告白や、むかし極貧の中でなけなしの金をはたいてやっと買ったコメをドブに流してしまった幼い日の痛恨の思い出などではなくて、むしろその根にある出自、こんな惨めな境遇に堕とした自分につながる「三代祟った卑しい血筋」の方だったのではないか、そこでは、「卑しい」とか「気違い」とかと、微妙な言葉を連ねるなかで、この「血筋」のために結城と結ばれることなど到底望めないことを、おりきは彼に話したかったのではないかと考えたのですが、しかし、この映画において「この線」は、深く探求されることなく途切れ、まるでその抑制の裏付けのように浮かび上がってくるのが、この「結城朝之助」という男の薄情ともとれる淡白さ、物語の高揚を逸らせるかのようなあまりの希薄さです。
映画のラスト、深刻な夫婦喧嘩の翌朝、源七が陋屋から姿を消して騒ぎになります。
おりきも身の回りの物を残して、忽然と菊乃井から姿を消し、地回りが探し回っています。
当初は、結城朝之助と駆け落ちでもしたのかと疑われますが、朋輩から「結城さんは駆け落ちするような方じゃない」と即座に否定されています。
やがて、町のはずれの雑木林で付近に入浴道具が散乱した惨たらしい男女の死体が発見され、それが、源七とおりきだと分かります。
脇腹を後ろから刺さされたうえに喉を突かれた刺し傷からみて、源七がおりきを道連れに心中をはかったのだろうと、死体の傷をあらためた巡査が検分します。
「心中だな、相当女は抵抗しているな。後ろから脇腹を刺されている。喉も突かれたのか。男も切腹とは見事なもんだ」
しかし、意外なのは、つづいて野次馬の男が発する「合意のうえなんじゃねえか」というセリフです。
目の前で巡査が検死して「女は、かなり抵抗しているな」と語っているのに、そのうえで野次馬の男は即座に「合意のうえなんじゃねえか」と言うとは、ずいぶん矛盾した奇妙な感想・リアクションだなとずっと思っていました。
しかし、このラストシーンを幾度か繰り返し見ているうちに、その理由がやっと分かりました。
野次馬の男は、じっとおりきの死に顔を見下ろしています、そしておりきの顔の大写し、突然の不運な死に遭遇したにしては、おりきの顔には無残な苦悶の色はなく、穏やかで安らかとさえ見える表情があって、野次馬の男はその顔を見て素直な感想を漏らしたのだな分かりました。どのような惨たらしい理不尽な死に方であろうと、おりきを、その生の絶望から救い、平穏を与えることができたのだと。
しかし、このラストでは、無力な結城朝之助の、姿どころか消息さえも窺い知ることはできないまま、物語は終わりを告げてしまいます、「今日もひねもす蒸して暑い。なにごともなし」と。
多分、結城朝之助は、複雑な事情を抱えるおりきへの好奇心は彼女の死によって満たされ、ふたたび面白そうな酌婦のいる歓楽街をひやかし探し歩いているに違いありません。
(1953新世紀プロ=文学座、配給=松竹)監督・今井正、原作・樋口一葉、脚色・水木洋子、井手俊郎、脚本監修・久保田万太郎、製作・伊藤武郎、製作補・吉田千恵子、宮本静江、製作主任・柏倉昌美、浅野正孝、監督補佐・西岡豊、撮影・中尾駿一郎、編集・宮田味津三、美術・平川透徹、音楽・團 伊玖磨、録音・安恵重遠、照明・田畑正一、企画・文学座、
出演・
第1話 十三夜
丹阿弥谷津子(原田せき)、三津田健(せきの父・齊藤主計)、田村秋子(せきの母・齊藤もよ)、久門祐夫(せきの弟・齊藤亥之助)ノンクレジット、芥川比呂志(人力車夫・高坂録之助)、
第2話 大つごもり
久我美子(みね)、中村伸郎(みねの叔父・安兵衛)、荒木道子(安兵衛の妻・しん)、河原崎次郎(みねの従弟・三之助)ノンクレジット、龍岡晋(石之助の父・山村嘉兵衛)、長岡輝子(石之助の継母・山村あや)、岸田今日子(山村家次女)ノンクレジット、道明福子(山村家三女)、仲谷昇(先妻の息子・山村石之助)ノンクレジット、戊井市郎(三之助)、加藤(のちに北村)和夫(車夫)ノンクレジット、
第3話 にごりえ
淡島千景(小料理屋「菊之井」の酌婦お力)(松竹)、山村聰(結城朝之助)、宮口精二(源七)、杉村春子(源七の妻・お初)、松山省二(源七の息子)、十朱久雄(菊乃井亭主・藤兵衛)、南美江(菊之井女将・お八重)、北城真記紀子(お力の母・お高)、加藤武(やくざ)ノンクレジット、加藤治子(縁日の若妻)、賀原夏子(酌婦お秋)、文野朋子(お高)、小池朝雄(女郎に絡む男)ノンクレジット、神山繁 (ガラの悪い酔客)ノンクレジット、
その他の出演者(ノンクレジット)内田稔、河原崎建三、三崎千恵子、北見治一、有馬昌彦、青野平義、稲垣昭三、小瀬格、
協力出演・前進座、東京俳優協会、文学座
1953.11.23 13巻 3,554m 白黒
第27回キネマ旬報ベスト・テン 第1位
第8回毎日映画コンクール 日本映画大賞、監督賞、女優助演賞(杉村春子)
第4回ブルーリボン賞 作品賞、音楽賞、企画賞(伊藤武郎)