寝るにはまだ早く、少しだけ起きていたい就寝前の中途半端な時間つぶしに、ネットサーフィン(この言葉、いまではすっかり聞きませんが)をしています。
だいたいは、最近の映画の予告編を見たり書評を読んだりとか、あるいは、思いつくままに適当な「キイワード」(だいたいは、芸能関係の話題が多いのですが)を打ち込んで、ヒットした情報を走り読みしているうちに(運が良ければ)、だんだん眠気がさしてきて穏やかな眠りにつけるという、ちょうどいい睡眠導入剤になるので、いまではすっかり一日の終わりには欠かせない習慣になっています。
しかし、就寝前のほんの数十分間とはいえ、芸能人のゴシップを追いかけて、時間の無駄遣いをしていたら、なんだかとても空しい気持ちになってしまったので、そこでハタと考えました。
普段では、なかなか検索できないような、なにか実になるテーマを考えてチョコチョコ調べてみようかと。
思いついたのが、「映画監督シリーズ」でした。
小津・成瀬・黒澤のお約束の御三家から始まって、お気に入りの清水宏、山中貞雄、そして思いつく限りの映画監督を片っ端から検索してみました。
やはり、すでに知っていることもありましたし、未知の事実もありましたが、総じて、映画監督という人たちの情報は、小説家などに比べると、段違いに乏しいことを実感しました。
なかには、これでは芸能人のゴシップとあまり変わらないではないかという酷いのもあり、わが「映画収集狂」の書き込みが、この空白を少しでも埋めることが出来ればと考えたりもしました。
おもだった映画監督をひと当たり検索したあとで、世界および日本の「古典映画作品」を検索してみました。
ここもやはり、すでに知っていることもありましたし、未知の事実もありましたが(成果は、少しずつブログに反映していくつもりです)、総じて、主演スターの浮名とか「あらすじ」程度のことしか触れていない貧弱な内容のものが多く、例えば、その作品が世界の映画史の中でどういう位置づけになる作品かなどという大局に立ったものがまるでないのが寂しくて、なんだかがっかりしてしまいました。
その次が「日本の小説家」の検索を試みました。かつて、その一人として藤澤清造を調べ、その成果をまとめてブログにアップしたこともあり、その過程で分かったことですが、自分の好みが「私小説作家」やその作品にあるらしいことに気がついたのでした。
露悪的な自然主義文学の影響を受けながら、その申し子のような存在である「私小説作家」たちは、まるでなにかの「業」に憑かれたかのように貧困に耐え、その自傷的・自嘲的なスタイルを保ちながら、不運な宿命と格闘した(あるいは無様に逃げ回った)彼らの悲壮な生き様と、それを痛切に綴った小説には、強く心惹かれるものがありました。
岩野泡鳴、近松秋江、水野千子、素木しづ、田村俊子、葛西善蔵、嘉村礒多、北条民雄、梶井基次郎、小山清など、就寝前のひとときの「検索」としては、かなり刺激の強い作家たちの悲痛な生涯ではありましたが。
そんなある夜、やはりなかなか寝付けないので、布団から抜け出てパソコンの前に座り、一度切った電源を入れ直して、さて、今夜はどういう言葉を打ち込もうかと暫し考えていたら、そうそう、そういえば、まだ「世界文学」というのを試みていないことに気がつきました。
自分の蔵書としては、中央公論社が昭和40年代に出版した朱色の装丁の「世界の文学」(世界文学全集もので最も売れたシリーズと聞いています)が、飛び飛びにですが、書棚に並べられています。
そして、その第1巻が「シェイクスピア」、数々の名作戯曲が福田恒存の名訳で収められています。
「生か、死か、それが疑問だ。どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢玉を堪え忍ぶのと、それとも剣を取って、押し寄せる苦難に立ち向かい、止めを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。」という例のアレです。
かつては、ハムレットのこの台詞を暗記しようと、「シェイクスピア戯曲集」をどこにでも携帯して、まるで英語の辞書かなにかのようにチラ見しつつ、ブツブツ暗唱したものでした。
そのうちにハムレットのその頁の部分だけがいやに目立って変色してしまったのを覚えていますが、そういえばあの本、いつの間にか失くしてしまいました。
さて、打ち込むキイワードは、「シェイクスピア」と決まりました。
とにかく世界の「シェイクスピア」です、その情報量たるや、もの凄いものがあり、目の前に展開する洪水のような情報量を見ると、根が天邪鬼にできていて、どうしても素直になれない自分のことです、「5飛び検索」「10飛び検索」などというトンデモナイことをやらかしたりします(始めの方でヒットした情報の方が、よほど重要なのに、です)。
しかし、こういう天邪鬼の検索が逆にラッキーな事態を呼び寄せるコトだって、ないわけではありません。
そのときが、ちょうど「そう」でした。
こんな記事に遭遇したのです。題して「王は車輪の下に眠る」。シェイクスピアの戯曲にもあるあの有名な「リチャード3世」の遺体が発見されたという事件の顛末と、その埋葬に関するいきさつが記されている小文でした。
以下、要約して紹介しますが、要約できない部分は、極力「原文」を尊重して引用しながら紹介しようと思います。
そうそう、その前に、あの「世界の文学 第1巻・シェイクスピア」の巻末の解説で、リチャード3世の人間像をどのように紹介しているか、その部分を転写しておきますね。
《なるほど、リチャードは徹底した悪党である。同じ王位簒奪者でもマクベスのほうがまだしも人間味を残している。しかし、リチャードの性格は、決して単なる類型ではない。彼にはマクベスにない魅力がある。それは、彼が権謀術数に徹したマキャヴェリアンであり、びっこでせむしという不具者でありながら、なかなかの芝居上手だということだ。しかも、彼は冗談や皮肉を弄ぶ明るい意識家である。偽善の面をかぶりはするが、自分が偽善を演じていることを隠そうとはしない。少なくとも、自分に向かって、それをはっきり意識していることを示さずにいられない皮肉屋なのだ。・・・つまり、この劇には、個人の意思を越えた大きな運命の流れが一貫していて、自分だけはそれから免れると思っていた人々が、次々とその罠にかかる。そして、他人のみならず自分の運命さえ操れると思っていたリチャードが、最後に、最も完璧に、自分の破滅によって運命の存在を証明する。そういう悲劇的アイロニーそのもののために、この作品は書かれたといえよう。》
さて、「リチャード3世」の遺体発見の顛末と、その埋葬に至る概要を紹介する前に、「悪名高き王・リチャード3世」が殺されるまでの歴史的背景をシェイクスピア史劇をとおしてざっとおさらいしておきたいと思います。
リチャード3世(Richard III, 1452.10.2 – 1485.8.22)は、英国中世末期(在位1483−85)、プランタジネット王朝最後のイングランド国王、薔薇戦争の最後を飾る王である。
エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの八男で、即位前はグロスター公に叙されていた。
戦死した最後のイングランド王であるが、他に戦死した王は1066年にヘイスティングズの戦いで敗死したハロルド2世と、1199年に矢傷がもとで死亡したリチャード1世がいるのみである。
1484年1月に王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。旗印は白い猪、銘は”Loyaulte Me Lie (ロワイヨテ・ム・リ)”で意味は、古いラテン語で「忠誠がわれを縛る」。
在位中に年代記が編纂されなかったため、その人物像には多くの謎が残されていますが、一般には、彼の名を冠したシェイクスピア史劇によって知られており、狡猾にして冷酷な肉親殺しのイメージが定着しています。
それは、シェイクスピアが、リチャード3世を、背むしの醜悪な容姿を持ち、その自虐的な反抗心から、邪悪な隠謀を企み、王位を簒奪するために目的のためには手段を選ばぬ、奸智に長けた残忍狡猾な人物として描いたからでもあります。
史劇の舞台は、ヨーク王家が骨肉の王統争い(いわゆる薔薇戦争)を制して王権に返り咲き、ようやく平穏が訪れた中世イングランド、おのれの醜悪な容姿を嘆くグロスター公リチャードは、美丈夫の長兄・国王エドワード4世を妬み、密かに王位簒奪を狙っています。
リチャードは、謀略を巡らし、王位継承権を持つ次兄・クラランス公ジョージを冤罪に陥れて刑死させ、手練手管を弄して、薔薇戦争の仇敵ランカスター王家の未亡人アンと結婚して、彼女が相続する広大な所領を手に入れます。
リチャードは,国王エドワード4世が亡くなると、その息子であり、当時12歳で王位を継いだ王子エドワード5世の後見人となり、叔父として摂政(護国卿)に就任しますが、その後、突如、態度を豹変させて、王子の側近を次々と処刑したうえ、前王の結婚は重婚ゆえに無効であると宣言し、エドワード5世を廃位に追い込みます。
そして、幼いエドワード5世とその弟王子をロンドン塔に幽閉したのちに、密かに殺してしまいます。
こうして、彼は、ついにリチャード3世として王冠をわがものとします。
しかし、そのわずか2年後、フランス亡命中のヘンリー7世(テューダー王朝の祖)の旗の下に反乱軍が蜂起し、ボスワースにて軍勢が相まみえると、リチャード3世は,味方の思わぬ裏切りにあって敵に追い詰められ、落馬してしまいます。
「馬を持て、馬を! 馬を! 代わりにこの国をやるぞ、馬を持て、馬を!」リチャード3世はこう叫び、戦場で壮絶な最期を遂げます。
このようなシェイクスピア史劇のイメージにより、おのれの野望のためなら幼い肉親をも躊躇なく殺してしまう悪人像が作り上げられ、世界中に広く知れ渡りました。
しかし、一方で、こうしたリチャード3世の悪評は、新王制のテューダー王朝によるプロパガンダの産物にすぎないという見方もあります。
シェイクスピアの史劇は、テューダー王朝時代に編纂された年代記に基づいており、また、シェイクスピア自身も同時代の王室の庇護を受けたお抱え劇作家だったため、旧王朝の君主リチャード3世を殊更におとしめ、一方で、テューダー王朝の正統性を過度に強調しているというのが定説です。
リチャード3世の評価について、18世紀には、歴史学者による見直し論が展開され、1924年には、歴史的な名誉の回復を目指して、愛好家らが「リチャード3世協会」を設立しました。
リチャード三世による次兄および甥らの謀殺が史実であったかどうかについての議論は、いまだ決着を見ていません。
しかし、リチャード3世が、短い在位中に多くの治績を残したことは、広く知られています。
例えば、リチャード3世は、王が議会の承認なく徴収していた徳税(強制献金)を廃止する法律を作りましたし、公正な取引を担保するため、新しい計量基準を導入したり、財産権の登録も義務付けたりしました。
さらに、彼は、刑事司法制度改革にも取り組み、有罪判決前の私有財産の没収を禁じ、重罪の被告人に対する保釈制度を新設したほか、当時陪審員への賄賂、買収が横行していたことから、陪審員に対して最小限の資力要件を課すことも決めました。
また、リチャード3世は、請願裁判所(Court of Requests)も創設しようと試みたのですが、議会の承認を得られずに、実現には至りませんでした。
こうした功績を虚心に見れば、リチャード3世が、かなり進歩的なリベラル思想を持ち、優れた行政手腕を発揮した名君であったことが考えられます。
リチャード3世の亡骸の行方については諸説あり、ボスワースからレスターに運ばれたところまでは判明しているものの、その後ソアー川に投げ捨てられたとする説や、簡略な葬儀を経て修道院に埋葬されたとする説などの言い伝えがあるのですが、その修道院も宗教改革の際に取り壊されてしまっており、長いあいだ人々の記憶から失われていました。
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500年の時を経て甦るリチャード3世 ①
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