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悼む人

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月曜日から金曜日にかけて一週間に見た映画の中から、感動した作品ばかりでなく失望した作品も含めて、どうにか書けそうな作品を物色し、細々と感想を書いています。

一週間に一本くらいは「感想」をアップさせたいなと思いながら、結局それはあくまでも理想にすぎないことを証明するかのようなダレた映画鑑賞生活を送っているわけですが、思えば、ネタ探しをしながら映画を見るなんて、映画鑑賞者として、ずいぶんな邪道を走っていると、我ながら呆れかえります。

しかし、見てからすぐに書き始めるなどという器用なマネなど到底できませんので、どうしても更に一週間とか二週間くらい「寝かせる時間」が必要になり、実際のアップはさらに遅れ遅れになってしまうというのが現状です(まさに、アップアップ状態ですね)。

その、書くことの苦行に比べたら、(当たり前ですが)見る方が遥かに楽なので、どうしても鑑賞過剰状態になってしまいます。

それに、あまりにも見る本数が多くなりすぎると、印象の薄い作品など、それでなくとも細かい部分はハシから忘れてしまうくらいですから、ややもするとストーリーまですっかり忘れてしまうという惨状を呈することもあります。

必死に集めたネタのカケラだけが空中分解して取り留めなく飛び散り、収拾のつかない精神混迷錯乱状態に陥ってはじめて、本来の映画鑑賞の楽しみから自分がすっかり逸脱していることに気がついて、そのたびに慌てて反省し軌道修正(感動を素直に書く)をしたり、原点(映画を愉しむ)返りを図ったりして、どうにかココロのバランスをとりながら、土曜日と日曜日のどちらかは、時間をみつけて、できるだけパソコンの前に座るようにしています。

こうした霞みかけた危うい記憶に基づいて「書く」ことのしんどさ・辛さに比べたら、その前段階での、どの作品を書こうかと思いをめぐらす「作品選び」は、まさに至福の時間といえます。

今週の候補作品は、「悼む人」(堤幸彦監督2015))と「海街diary」(是枝裕和監督2015)、そして「奇跡の2000マイル」(ジョン・カラン監督2013)でした。

これらの候補には入れませんでしたが、「恋はハッケヨイ」(イモジェンキンメル監督1999、日本の大相撲を扱っています)というイギリス映画も見ました、これがなかなかの拾い物で、予想に反したそのキュートさには、ちょっとウルウルさせられるものがあって、はからずも感動してしまいました。

そうそう、以前イギリス留学したという女の子から聞いた話ですが、イギリスでも(ロンドンに限ってだと思いますが)かなりの日本ブームらしく、意味の分からない日本語が大受けして(だぶんそのエキゾチックな響きからだろうと思います)クールに捉えられ、例えば、あの「スーパードライ」をロゴとして「売り」にしているファッションブランドが人気を博しているのだそうです。

商標とかの権利関係の方がどうなっているのかまでは聞きませんでしたが。

そういえば、以前、片言の日本語を話す外国人と話していて、こちらが「ちょいちょい」とか「てきぱき」などという何気ない言葉を言うたびに「なにそれ?」と興味深そうに反応し、大受けしたことを思い出しました。

日本人が何気なく使っている言葉も、外国人が聞くと奇妙で不思議な響きに聞こえるのかもしれません。

そういうブームのなかで日本の大相撲もかなり正しく理解され(ひと昔前なら、せいぜい顔に歌舞伎の隈取りを施したスモウ・レスラーだったものですが)受け入れられ、根強い人気があることを、この映画からも雰囲気として感じ取ることができました。

しかし、この「恋はハッケヨイ」、いかにも一昔前のゲテモノ映画でござい、の線を受け継いだ投げやりな題名がイケマセン。

これさえなければ、見る前から変な先入観もなく、少しは緊張して見ることができたのではないかと思うと、なんだかとても損をしたような気分になりました。

それにしても、こうした題名のハンディを乗り越えても、肥満コンプレックスを日本の相撲の精神性(心技体)によって立ち直らせ、みずから幸福を掴み取るという女性の、高潔なチャーミングさ(必ずしも「美しさ」だけが女性の価値ではない、という)は、大いに感じることができました。

さて、感想書きのための「作品選び」の方です、まず「奇跡の2000マイル」(ジョン・カラン監督2013)ですが、自分などには決して出来ないくせに、放浪への憧れ(コンプレックスです)が強いせいか、むかしから、ロードムービーというと、どうしても見ずにはいられません。

実は、学生時代に購入して以来、現在も捨てずに、いまだ持っている最後の一冊というのが、アルチュール・ランボオ「地獄の季節」(岩波文庫、小林秀雄訳)です。

放浪のどこに惹かれるかというと、たぶん、流れ者として眺める寒々しい風景と、その精神性の「荒涼」と「喪失感」、そして「沈黙」だと思います。

しかし、現実生活で当然に求められる「良識」と「定着」に捉われ、べったりと根を下ろしてしまった家族持ちの自分には、いずれも、すっかり失ったものであり、今更どうにかなるようなものではありませんが、だから尚更自分にとってのロードムービーは、特別な意味があるのだと思います。

駱駝4頭を引き連れてオーストラリアの砂漠3200Kmを踏破する24歳の女性を描いたこの作品、ヴェンダース作品のような「ワビサビ」の味わいには欠けるものの、そんな薄っぺらな批評眼などどこかに放っぽって、ただただ憧れと羨望の気持ちで、映し出される荒涼とした風景をひたすら愉しむことができました。

ですので、この作品に対して批評とか感想などは、もとより試みようとは最初から考えていません。
残る候補作品は、「悼む人」と「海街diary」ですが、理解度と書き易さからいえば、それは圧倒的に「海街diary」の方でしょう。

しかし、長女・香田幸が、奔放に生きた親たちの、しかし、あまり幸せそうでもない晩年を見据えて、最後には「家族を選択し、妻子ある恋人と別れる」というストーリーを順に追っていけば、どうしても、そこには「とても感動しました」というしかない隘路に追い込まれる嫌な予感がします。

実は、そういうのが、自分はすごく苦手なのです。

映画を見始めるとき、いつもこんなことを感じます。

ストーリーは最初、どのように発展してもいいような色々な可能性を持っています。

主人公がこれから誰を愛そうが、どこに旅に出ようが、どの大学を受験しようが、はたまた殺人を犯そうが、どうなるかは、まだ分かりません。

しかし、物語が徐々に進行するにつれて、選択肢がどんどん減っていく。

最愛の恋人が難病にかかって死ぬとか、マフィアの縄張り争いで殺し合いをするとか、火星から宇宙人が攻めてきて地球防衛軍が反撃するとか、走り始めたストーリーは、どの方向に走ってもいいかのように見えますが、実はそうじゃない。

走り始めてしまったら、走る瞬間瞬間にも、ストーリーの進行はそのたびに限定され、同時に発展の余地をどんどん失い狭めながら、最終的に決められた唯一の場所に落ち着くしかない。

それは、例えていえば、「詰め将棋」のようなものではないかと考えたりすることがあります。

では、「海街diary」において、妻子ある男から誘われるままに、長女・香田幸が愛する男とアメリカへ同行するという、本編とは真逆の線は絶対に有り得なかったかというと、あってもよかったかもしれませんが、しかし、そうした場合、感動の方はどうなるワケ?ということになります。

姉妹の前に親たちが犯した「あやまち」の結晶のような薄幸の腹違いの妹すずが登場し、姉妹それぞれのすずに対する哀れみや愛おしさが、たぶん「アメリカ行き」を許さない(王手飛車取りみたいな)位置に効いていて、長女・香田幸は、最後には家族を選択する(すずの行く末を見守る)しかないように進行するのが、やはり自然で最良の「納まり方」だったのだと思います。

最初、まったくの自由であるはずのストーリーが、まるで決められた線路(が存在するかのように)の上を脇目も振らずひたすら疾走する、その隙のない見事な疾走振りを持つ映画こそを、僕たちは「名作」と読んでいる作品なのではないか。

それに反して、ストーリーが脇道に逸れたり、脱線したりする映画、例えば、不倫をして周囲も自分も散々不幸に陥れた親のダラシナサを憤る娘の十分な意思説明がないまま、彼女もまた不倫という同じあやまちを犯すとしたら、それはやはり「名作」と呼ぶには相応しくない作品と言うことになるだろうと思います。

「海街diary」という作品が名作であるのか、そうでないのかは自分には分かりませんが、すくなくとも決められた「線路」の上を生前と走るような「名作」風な作品が、かえって自分にはとても苦手としている部分でもあることを、この作品を見ながら感じました。

それに比べたら「悼む人」はどうでしょうか。

はっきり言って、自分の中では、この映画が押し付けようとしている「悼む」という行為に対して、いくら説明されても、いまだに「大きなお世話じゃないか」という思いが強く、納得できていません。

さらに、生前の悪行もよく知らないくせに、「極悪人」に対しても、「善人」と同じように悼んだりしていいのか、という疑問からも自由になれていません、要するにこの作品の存在そのもの・在り方自体が甚だ疑問なのです、押し付けがましい安手のエセ新興宗教じゃあるまいし。

この「悼む人」という作品は、小説では通用するかもしれない言葉の波状攻撃によって成立する「言いくるめ」の詐術というものが、すべてを見せてしまうリアリズムを旨とする映画においては、「その手」が通用しないことを如実に証明した映画だったと思います。

この作品には、自分には納得も解決もできないこの「甚だ疑問」が、至るところに存在していて、最初、いざ感想を書くとしても、どこから「否定」を書き始めていいのか、取っ掛かりが掴めずに躊躇していました。

しかし、大切なことは、もっともらしさの仮面を被った納得できない部分を捉えて、この物語の「偽善」や「破綻」を白日の下に引きずり出すことだと思ながら映画を見続けました。

そして、その「破綻」は、ラストにありました。

その部分の「あらすじ」を以下に引用してみますね。

《家庭内暴力を受けた女性をかくまって「仏様の生まれ変わり」とまでいわれた夫・甲水朔也(井浦新)を殺害した奈義倖世(石田ゆり子)は、裁判で嘱託殺人であることを認定され4年の刑期を終えて出所します。
しかし、身寄りがなく行くあてもない倖世には夫の亡霊が取り付いていて「死んでしまえ」と、常に肩口から語りかけてきます。
衰弱し、生きる気力も失せて途方に暮れた倖世は、(たぶん、死ぬつもりで)二度と足を踏み入れないと決めていた東北の町(かつての殺害現場)を訪ね、そこで亡き朔也を悼む静人と出会います。
動揺する倖世に、静人は「この方は生前、誰を愛し、誰に愛されたでしょうか。誰かに感謝されたことはあったでしょうか」と問いかけます。
静人の真意を測りかねた倖世は、訝りながらも、この奇妙な「悼む人」に惹かれて、夫殺しの事実は隠したまま、静人のあとを付いていきます。
そして、夫の亡霊から逃れられないと知った倖世は絶望し、橋から身を投げて自殺を試みますが、静人に制止され、思いを吐露した2人はお互いを求め合います。
静人とのsexのあと、夫の亡霊から解放されたことを始めて知った倖世は、静人と別れて旅立ちます。》

倖世から不意に別れを告げられた静人の戸惑いの表情が、とても印象的でした。

そりゃあ誰だって、あのsexによって倖世と静人は固く結ばれ、これから行動を共にすると考えるのが当然で、映画もそういう描き方をしていたはずと考えたのは、倖世の別れの言葉を誰もが「唐突」と感じたことにでも明らかです。

それに、このラストで、自分が抱いていた数々の疑問が、すべて解決されたといえるのだろうかと、しばらく考え込んでしまいました。

当初、倖世が抱いた静人の「悼む」行為への疑問(それは「いまだ」観客すべての疑問でもあったはずです)は、彼とのsexや、その結果、夫の亡霊が消失したことによって、静人の「悼む」行為自体は不問、疑問とするほどのことではなかったのだと、この物語は語りかけているのでしょうか。

もしかしたら、倖世の突然の立ち去りは、静人の「悼む」行為への静かな拒絶の意思表示ではなかったのか、その愚劣なエセ宗教活動を続ける静人への嘲笑と侮蔑であったのなら、少しは理解ができるのですが、とさえ考えてしまいました。

それならば、この映画が始末の悪い駄作中の駄作かというと、そんなことはありません。

奈義倖世の、どうような環境・状況に置かれても、あらゆる形の「いじめ」を呼び込んでしまうような歪な人間像として描かれていることに惹かれました。

いじめられてしまうような人間は、彼女自身マゾヒスティックな特殊なオーラを発していて、虐待される宿命であり、彼女もそれを望んでいて、あたかも虐待者を蝟集させる能力があるかのような描かれ方をしています。

歪んだ映画には、歪んだ人間像が描かれて当然なのかどうか、誰も問題視しようとしないことが、どうしても不思議でした。

この映画を見ながら、むかし見た映画を思い出しました。

「風流温泉 番頭日記」(青柳信雄監督1962)です。

旅館の番頭さんの話で、確か井伏鱒二の原作だったと思いますが、無能よばわりされていた番頭が失踪し、その後田舎のある旅館で再会したときは、とても有能な支配人になっていたというそれだけのストーリーでした。

しかし、環境を少し変えただけで、人間は大きく生まれ変われるのだと教えてくれた忘れられない素晴らしい映画でした。

(2015東映)監督・堤幸彦、原作・天童荒太『悼む人』(文春文庫刊)、脚本・大森寿美男、製作代表・木下直哉、エグゼクティブプロデューサー・武部由実子、長坂信人、プロデューサー・神康幸、音楽プロデューサー・茂木英興、協力プロデューサー・菅野和佳奈、ラインプロデューサー・利光佐和子、撮影・相馬大輔、照明・佐藤浩太、録音・渡辺真司、美術・稲垣尚夫、装飾・相田敏春、編集・洲崎千恵子、音楽・中島ノブユキ、記録・奥平綾子、Bカメラ・川島周、現場編集・似内千晶、VFX・浅野秀二、音響効果・壁谷貴弘、助監督・日高貴士、制作担当・篠宮隆浩、監督補・高橋洋人、主題歌・熊谷育美「旅路」(テイチクエンタテインメント)、企画協力・文藝春秋、特別協力・朝日新聞社、製作・キノフィルムズ、製作プロダクション・オフィスクレッシェンド、製作委員会・「悼む人」製作委員会(木下グループ、オフィスクレッシェンド)
出演・高良健吾(坂築静人)、石田ゆり子(奈義倖世)、井浦新(甲水朔也)、貫地谷しほり(坂築美汐)、山本裕典(福埜怜司)、麻生祐未()、山崎一(沼田雄吉)、戸田恵子(比田雅恵)、秋山菜津子(尾国理々子)、平田満(坂築鷹彦)、椎名桔平(蒔野抗太郎)、大竹しのぶ(坂築巡子)、眞島秀和、大後寿々花、佐戸井けん太、甲本雅裕(水口)、堂珍嘉邦(弁護士)、大島蓉子、麻生祐未(沼田響子)、山崎一(沼田雄吉)、上條恒彦、
138分 公開: 2015年2月14日
受賞・第28回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞(2015年)、主演男優賞(高良健吾)『きみはいい子』と合わせて受賞。



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