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哀愁

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むかし、ある映画を見ていたときのことですが、その映画が相当につまらない作品だったらしく、すっかり集中力を欠いてしまい、傍らに置いてあった文庫本に手を延ばして、いつしか映画そっちのけでその本を夢中で読んでいました。

映画に「END」マークが出てからも、ビデオを停止する気さえ起きず、そのままテープを回転させていたら、突然、画面にジョン・フォード監督作品「怒りの葡萄」の、あの感動のラストシーンが映し出されたので、びっくりしたことがあります。

つまり、一本のテープに何度も映画を重ね録りしていた結果、上映時間の長い作品のラストシーンの部分だけが残った状態になっており、消去されなかったそのわずかな最後の場面が連続して(というのは、「怒りの葡萄」のほかに「道」と「哀愁」のラストシーンが続いて録画されていました)流れてきたというわけです。

それはまるで、感動のラストシーンばかりを集めたダイジェスト版を見ているような、ちょっとしたサプライズ体験でした。

いままで見ていた映画が印象の薄い「いまいち作品」でテンションが下がりまくっていただけに、なおさら印象を強くしたのかもしれません。

ちょうど、「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーン・神父が風紀上よろしくない場面をカットした上映禁止の「キス・シーン」が立て続けに流れたあの感動の場面をじっと見つめている感じとダブルものがあったからでしょうか。

その「怒りの葡萄」、場面はジョード一家が、やっと自由で公平な国営キャンプに落ち着くことができて、さあこれから暮らしも安定すると思っていた矢先、真夜中に巡回している警官たちの密談を聞いてしまったトム(ヘンリー・フォンダ)が、身元を警察に嗅ぎつけられ明日にも逮捕されるかもしれないと知り(彼は前にいたキャンプ地で殺人を犯しています)、夜陰に乗じて逃げようとする直前の僅かな時間に、母親(ジェーン・ダーウェル)と濃密な言葉を交わす緊迫した別れのシーンです。


「トミー、黙って出ていくのかい」

「どうすべきか分からない。外へ出よう。警察が車のナンバーをチェックしていた。誰かにバレたんだ。でも心の準備はできているよ」

「座って」

「一緒にいたかったよ。住むところを見つけて、母さんに喜んで欲しかった。幸せな顔が見たかったけど、もう無理だ」

「お前ひとりくらい、かくまえるよ」

「殺人犯をかくまうと、母さんまで罪に問われる」

「わかったよ、これからどうする気なの」

「ずっと考えていた、ケーシーのことをね。彼が言ったことや、彼がしたこと、そして彼の死にざま、目に焼き付いている」

「いい人だったからね」

「俺たちのことも考えていた。豚のように生きる人間と眠っている豊かな土地、広大な地主の土地。10万の飢えた農民・民衆が団結して声を一つにすることができれば」

「そんなことしたらケーシーの二の舞だ」

「遅かれ早かれ、俺は捕まるよ、そのときまで・・・」

「えっ、トミー、誰かを殺すんじゃないだろうね」

「そんなつもりはないよ、だが俺は、いずれにせよ無法者さ。でも、こんな俺にもできることがあるはずだ。それを探し求めながら不正を正していきたいんだよ、自分でもまだはっきりとは分からないんだ、なにをすればいいのか。まだ力不足だからね」

「この先、どうなるのかしら。もし、お前が殺されても、母さんには分からないじゃないの」

「ケーシーがいつも言ってたよ。人間の魂は大きな魂の一部なんだとね。この大きな魂は皆につながっている。そして・・・」

「だから、何」

「たとえ暗闇の中であろうと、俺はいつでも母さんの見える所にいるよ。飢えている人が暴動を起こせば、俺はそこにいる。警察が仲間に暴行を加えていたら、そこにもいる。怒りで叫ぶ人の間にもいるさ。夕食が用意されて喜びに満ちた幸せな子供たちの所にも俺はいる。人が自分で育てた物を食べて、自分が建てた家で安らぐ時にも俺はそこにいるんだ」

「よく分からないわ」

「俺もだよ。でも、ずっと考えていたことさ。手を出して。元気でね、母さん」

「お前もね。ほとぼりがさめたら、また戻ってきてくれるだろうね」

「もちろんだとも」

「あまりキスなんか、したことないけど」

「じゃあ、母さん、行くね」

「元気でね。トミー、トミー」


何度でも繰り返して見てきた素晴らしい場面です。

これらのセリフを筆写しながら初めて気がついたことですが、このラストが僕たちに与えた高揚感は、決して「言葉の羅列」だけにあるのではなく、ヘンリー・フォンダの抑えた名演があったからだと今更ながら実感しました。


つづいてフェリーニの「道」のラストシーンが映し出されています、いまではすっかり老いたザンバーノ(アンソニー・クイン)が侘しい夜の海岸で泥酔し、悲しみの果てに寂しく死んだという捨てた女・ジェルソミーナの思い出に打ちのめされて、その失ったものの大きさと、神に見捨てられた絶望的な孤独の深さとに慄然として号泣する場面です。

おびただしい凡庸な作品に取り囲まれ、ほとんどが失望と嫌悪しか経験できないような繰り返しの毎日の中で、なぜ自分は相も変わらず映画を見続けようとしているのか、かつて自分を決定的な感動で映画に引き寄せた「感動と動機」の原点に生で触れる思いがして、改めて思いを新たにした素晴らしい体験でした。


そして、続いて映し出されたのが、マーヴィン・ルロイ監督の「哀愁」です。

実は、自分は、今でもこのラストシーンの部分だけはyou tubeで繰り返し見ています。

バレエの踊り子マイラ(ヴィヴィアン・リー)は、ウォータールー橋でロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)と出会って恋に落ち、しかし、大佐はすぐに出征しなければならないために、慌ただしく結婚を約して、ふたりは別れます。

やがて、待ち続けるマイラの目に飛び込んできたのはクローニン大佐の戦死記事。

絶望し、生きる意欲も失い、「もう、どうでもいい」という虚脱と、そして生活苦から、マイラは娼婦となって夜の街頭に立ち始めます。

そんなある夜、駅の雑踏で適当な客を探すマイラの前に突然、戦地から戻ってきたクローニン大佐が現れます。「僕が帰ってくるのが、よく分かったね」と彼は微かに訝りながらも、喜びでたちまち掻き消されてしまうその「真の理由」が、後々に彼女の破滅・自殺の原因として暗示されている、なんとも痛切なラストシーンです。

どんな好色な相手の淫らな要求にも、いかようにも応じることができるしたたかな娼婦の、客を淫らに誘う薄笑いの表情が、クローニン大佐の突然の出現によって、一瞬にして清純だった「あの頃の乙女」に立ち戻るヴィヴィアン・リー生涯の名演技です、何度見ても見飽きることも色あせることもありません。

しかし、あの時、この突然の出会いがよほど嬉しかったにしろ、娼婦として客待ちしている人間が、あんなふうに突然豹変できるものだろうかという疑念に微かに捉われたことがありました。

自分の頭の中にはそのとき、卓越した日本の映画監督の幾つかの作品が交錯していたのかもしれません。

例えば、溝口健二演出なら、喜びのあまり駆け寄って抱擁するなんてことは、まずはあり得ません。

それでは、大佐と別れたあとで彼女が体験しなければならなかった過酷な過去を、すべて無視し・否定することになる、溝口健二のリアリズムにとっては到底考えられない理不尽な演出になってしまいます。

自分が娼婦にまで身を落とさなければならなかった原因のひとつは、荒廃した戦時下の社会にひ弱な女性が、なんの手当もされずに突如無一文でひとり放り出されたことにあります。

裕福らしく見える大佐なのですから、婚約した以上、もう少しどうにか生活に困らないだけの手当をしてあげることもできたのではないか、経済力を持たない踊り子にやがてどのような過酷な未来が待ち受けているか、少しも想像できなかったクローニン大佐の迂闊と無邪気さが、マイラの苦痛と堕落の因となったわけで、その意識をマイラもまた少しでも持っていたとしたら、まずは「憤り」をぶつけて掴みかかるくらいが当然で、溝口健二もそのように演出したに違いありません、少なくとも「喜びのあまり抱き着く」なんて演出は、まずはあり得ない・理不尽な行為と考えたはずです。

それなら、小津演出なら、どうだったか、駆け寄る大佐に冷笑を浴びせ、客として一夜を共にし、金を受け取ってウォータールー橋で別れさせたかもしれません。別れがたく後ろを何度も未練がましく振り返る男と、一度も振り返ることもなく毅然として立ち去る女、架空の小津作品を妄想しながら、これも違うなという思いもまた、意識のどこかにありました。

実は、自分の気持ちは、ずっと、成瀬巳喜男監督作品「驟雨」のラストシーンに占められていました。

妻(原節子)は、夫とデパートの屋上で待ち合わせますが、遠目から、夫が上司の夫婦と話している姿を見つけます。

華やかに着飾っている上司の妻に引き換え、自分のみすぼらしいナリを恥じて、妻は物怖じしながら物陰に身を隠すというシーンです。

それを思うと、娼婦として客を誘っていることの意識がマイラにあれば、その延長線上で考え得る行為は、「憤激」や「冷笑」よりも、むしろ「物陰に身を隠す」方が、なんだか最も相応しいように思えてきました。

あえてドラマを動かさずに、日常の揺れを繊細に撮り続けた成瀬監督が、果たして全編にわたるヴィヴィアン・リーのヒステリックな演技をどう抑え込むことができたかは、ちょっと想像することはできませんでしたが。


哀愁 (1940 MGM)
監督製作・マーヴィン・ルロイ、製作・シドニー・A・フランクリン、原作戯曲・ロバート・E・シャーウッド、脚本・S・N・バーマン、ハンス・ラモー、ジョージ・フローシェル、撮影・ジョセフ・ルッテンバーグ、美術・セドリック・ギボンズ、編集・ジョージ・ベームラー、挿入曲・別れのワルツ
出演・ヴィヴィアン・リー(マイラ・レスター)、ロバート・テイラー(ロイ・クローニン大佐) 、ルシル・ワトソン(マーガレット・クローニン) 、ヴァージニア・フィールド(キティ) 、マリア・オースペンスカヤ(オルガ・キロワ) 、C・オーブリー・スミス(公爵) 、ジャネット・ショー(モーリン)、レオ・G・キャロル、ジャネット・ウォルド(エルサ)、ステフィ・デューナ(リディア)、ヴァージニア・キャロル(シルヴィア)、レダ・ニコヴァ(マリック)、フローレンス・ベイカー(ビータース)、マージェリー・マニング(メアリー)、フランシス・マクナーリー(ヴァイオレット)、エレノア・スチュワート(クレイス)、



ジェシー・ジェームズの暗殺

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この作品を見る前も、そして見た後も、やはり原題の「Assassination(暗殺)」では、作品の全容を伝えるタイトルとしては、なんだか相応しくないのではないかという思いにずっと捉われていました、

この映画が描いているものを「暗殺」と言い切ってしまったら、なんだか元も子もないような気がしたのです、この映画が描いているものは、社会から疎外された孤独な青年がずっと抱いてきた夢としての偶像(義賊ジェシー・ジェームズ)をただ汚すものでしかない現実に存在する卑小な者(びくびくと追手から逃げ回る無様で小心な犯罪者)を否定する行為として、あの殺害があったわけですから、ここは無理な直訳に捉われず、ずばり「否定」でもよかったと思うし、具体的に「殺害」としてもよかったのではないかと思ったのです。

いままでだって映画のタイトルをつけるうえで「直訳」に拘ったり囚われたりしたことなんて、ただの一度もなかったじゃないかという思いも当然ありました。

なにせ、アメリカから遥か遠く隔たっている極東の、肌が真っ黄色な東洋人からすると、「暗殺」ときたら、そりゃどうしてもリンカーンやケネディを思い描いてしまうわけで、地政学的ギャップから逃れられないという悲しい現実もあり、その思考の東洋的限界が、「暗殺」などという大そうな政治的なタイトルになじめず、極端に言えば拒否したい(いまでも、ですが)気持ちになったのだと思います。

追われる犯罪者ジェシー・ジェームズの疑心暗鬼をブラッド・ピットが暗く重厚に演じ、その「偉大な」犯罪者の疑心暗鬼に、まるで炙られ追い立てられるようにして、「義賊・ジェシー・ジェームズ」への失意を殺意にまで変質させる暗殺者ロバート・フォード(ケイシー・アフレックの名演が光ります)の苛立ちと深い孤独を繊細に描いたこの死の影に覆われた物語が、そのまま当時のアメリカの国情・「時代の苛立ち」を反映したものでもあったことがよく分かりました。

この物語の背景には、北軍に敗れた南部の鬱積と憎悪のはけ口として、南北戦争に参加した犯罪者ジェシー・ジェイムズを、まるで鼠小僧のように崇拝し、「義賊」としてイメージすることで、当時の沈滞の中にあった南部の救いとして社会的な必要性から生み出された妄想だったとすれば、たとえそれが仮に「ジェシー・ジェイムズ」でなかったとしても、ほかの誰かでもよかったのだというその「空虚」を、この作品「ジェシー・ジェームズの暗殺」は精密に描きだしているのだと思いました。

深い劣等感のなかで社会から疎外され傷ついた孤独な青年が、唯一の心の支えとして仰ぎ見た「義賊ジェシー・ジェームズ」が、追手から逃げ回る小心な疑心暗鬼に囚われている臆病者にすぎないことの失意と失望が、やがて「射殺」という否定にまで高揚していく孤独な復讐の物語として見れば、やはりこの映画のタイトルは、「ジェシー・ジェームズの暗殺」などではなく、理念をも込めて「落ちた偶像」的なものにすべきだったのではないかと考えた次第です。

こんなふうに自分としては、この作品に深く思い入れ、また、感動もしたのですが、しかし、この作品に対する感想の多くが、まずはどれも「長い割には、とても退屈だった」という前置きから始められていることを知り、とても驚き、そして愕然としました。

しかし、この「愕然」は、なんだか以前にも似た経験をした思いがあったので、ちょっと考えてみて、そしてすぐに思い出しました。

テレンス・マリック監督の衝撃作「ツリー・オブ・ライフ」2011です、きっと同じブラッド・ピットが主演した重厚な演技に通い合うものがあって、すぐに連想することができたのだと思いますが、あのときも、多くの人の意見は「なんだ、こりゃ」みたい感想が多かったと記憶しています。

もちろん、この「なんだ、こりゃ」は、そのままこの作品に「ドン引き」した観客の辛辣な評価と惨憺たる反応に直結したわけですが。

「ツリー・オブ・ライフ」の評判がすこぶる悪かった理由のひとつには、善良な好人物しか演じてこなかったあのブラッド・ピットに、親に逆らう子供に逆ギレして子供を殴りつけ徹底的に痛みつけるという暴力的で横暴な父親を演じさせ、作品を鑑賞する以前に、その異常さが多くのファンをげんなり(嫌悪です)させて最初から拒絶の姿勢を誘発させてしまったからに違いありません。

子供への暴力描写は、自分をも含めて、多くの鑑賞者を居たたまれない思いにさせ、その拒否反応は、作品そのもの・トラウマを抱えた子供たちが煩悶し、自殺の衝動を超えながら成長し、やがて再生をはたすという、映画の内実を鑑賞させることもなく、物語の核心に至る以前に、観客の気持ちを閉ざさせてしまったことにあるからかもしれません。

この「子供への暴力」の場面は、「ジェシー・ジェームズの暗殺」にもありました。

疑心暗鬼になったジェシー・ジェームズが、裏切り雲隠れした男を追って、父親の行方を否定するその息子(少年です)に、感情を失ったような冷ややかさで、仲間が止めるのも聞かずに執拗に何度も殴りつけ痛みつける場面です。

狂気にでも囚われていないかぎり、そんな惨いことは、とてもできるものではないという演出の思いが込められた場面なのは分かりますが、見る側としてはその現象自体に堪えられないものがありますし、ブラッド・ピットが二度までもこの「親からの暴力」に執拗にこだわるのは、もしかしたらここに、ブラッド・ピット自身のトラウマがあって、彼の「なんらかの訴え」が込められているのではないか、などと勘ぐってしまうし、それがどのようなものであれ、それ自体の重さが鬱陶しく感じてしまったくらいでした。

しかし、いわば、ここまでは、この作品に感動した表向きの「公式的な」感想です。

実は、自分の感激した部分は別にありました、この映画の付録のように付け足された暗殺者フォード兄弟の後日談の部分です。

ロバートとチャーリー兄弟は、ジェシー・ジェームズを射殺した顛末を芝居に仕立てて巡業します。

いまから見れば、そのグロテスクさは相当なものがあるのですが、娯楽の乏しかった当時とすれば、巡業芝居のなかでも多くを占めた「きわもの芝居」のひとつだったかもしれませんが、事件の当事者が演じるというその異色さで、客を呼びこむ話題性としては、とびぬけたものがあったのだろうと思います。

しかし、実際は、映画の中でも描かれているとおり、客の反応としては、世評そのままの、どこまでも「義賊」を後ろから射殺した「卑怯者」という非難の込もった関心以上のものではありませんでした。

兄弟は、観客のその冷ややかな視線に常に晒され、非難に徐々に追い詰められ、兄チャーリーは自らの銃で脳髄を撃ち抜き、ロバートも市民のひとりに撃ち殺されます。

せめてもの救いは、かつて自分が背中を撃ち抜いて殺したジェシー・ジェームズと違い、正面から撃たれたことで、少なくとも自分が殺される瞬間をその目で確認することができたくらいの差しかありませんでしたが。

この「事件の当事者が、その事件を芝居仕立てにして巡業した」というクダリに大変興味を持ちました。

いやいや、そもそも芝居の成り立ちとは、多かれ少なかれ、そうしたキワモノから成り立っているのではないかという思いを強く持ちました。

そして、このような芝居なら、日本にもあったのではないかと、ちょっと調べてみたくなりました。

しかし、どのように調べ始めたらいいのか、その取っ掛かりが掴めません。

あれこれ思い悩んだすえに、思いついたのは、中川信夫の「毒婦高橋お伝」でした、あの映画の最後は、どうだっただろうか、

あの阿部定だって、劇団を組織して、自分の関わった「あの事件」を芝居にして地方を巡業したなんてこともちょっと聞いたことがあるような気もしてきました。

そこで手始めにwikiで「高橋お伝」を検索してみました。

そして、すぐに自分の見込みが、甘すぎたことを痛感させられました。

まず、こんなクダリがありました。

「(高橋お伝の)処刑の翌日から「仮名読新聞」「有喜世新聞」などの小新聞が一斉にお伝の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪(「仮名読」)」、「四方の民うるほひまさる徳川(「有喜世新聞」)」といった戯作調の書き出しで掲載した。読売の自演により、口説き歌として流行した。これが後の「毒婦物」の契機となる。明治14年(1881年)4月、お伝三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で、谷中霊園にもお伝の墓が建立された(遺骨は納められていない)。」

そして「十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らがお伝の芝居を打って当たったのでその礼として寄付し建てたという。」くらいですので、こういう話を芝居がほっておくわけがないのは当然だったのです。

それに、映画としても、以下に掲げる作品がつくられているのですから、なにをかいわんやです。

『高橋お伝』(1912年 福宝堂)
『お伝地獄』前中後編(1925年、監督:野村芳亭、高橋お伝:柳さく子 松竹下加茂撮影所) 
『高橋お伝』前後篇(1926年、監督:山上紀夫、高橋お伝:五月信子 中央映画社)
『高橋お伝』(1929年、監督:丘虹二、高橋お伝:鈴木澄子 河合映画製作社)
『お伝地獄』(1935年、監督:石田民三、高橋お伝:鈴木澄子 新興キネマ京都撮影所)
『毒婦高橋お伝』(1958年、監督:中川信夫、高橋お伝:若杉嘉津子 新東宝)
『お伝地獄』(1960年、監督:木村恵吾、高橋お伝:京マチ子 大映東京撮影所)
『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(1969年、監督:石井輝男、高橋お伝:由美てる子 東映京都撮影所)
『毒婦お伝と首斬り浅』(1977年、監督:牧口雄二、高橋お伝:東てる美 東映京都撮影所)
『ザ・ウーマン』(1980年、監督:高林陽一、高橋お伝:佳那晃子 友映)
『紅夜夢』(1983年、監督:西村昭五郎、高橋お伝:親王塚貴子 にっかつ=アマチフィルム)


まあ、最初は、高橋お伝で思わしい結果が得られなければ、すぐさま「夜嵐おきぬ」にあたりをつけて、それでも駄目なら「鳥追お松」に立ち寄ってから、「花井お梅」まで行ってみようかななどと考えていたのですが、こうまでポピュラーな存在なら、あえて検索してみるまでもないかと、なんだか意欲も気力も失せました。

しかし、負け惜しみではありませんが、これって、どれも「本人」が演じたものってわけじゃありませんよね。

自分が当初目指したのは、「事件の当事者が、その事件を芝居仕立てにして巡業した」という事例検索なのですから、やっぱりこれとはちょっと違うわけで、と考えていた矢先、リアルタイムで読んでいた吉村昭の小説「赤い人」(講談社文庫)の末尾で、こんなクダリに遭遇しました。

少し長くなりますが、重要なので転記してみますね。

「樺戸集治監開設と同時に収容された五寸釘寅吉の異名を持つ西川寅吉は、空知監獄署でも7回の脱獄を企て、捕えられて網走監獄署に服役していた。かれは無期が3刑、有期徒刑15年が2刑、懲役7年、重禁錮3年11月それぞれ1刑の罪を課せられていた。
その後、かれは別人のように穏和な人物になり、同囚を親身になって世話し、看守にも礼儀正しく接し、読書を好んだ。その傾向は年を追って強まり、行状査定は良から最良に進み、賞を受けることもしばしばで、署内屈指の模範囚になった。
大正13年9月3日、72歳という高齢と悔悟の念が極めて強いことが認められ、異例ともいうべき仮釈放が彼に伝えられ、出獄した。それは新聞にも報道されたが、たちまち彼の周囲に興行師が群がった。そして、札幌に事務所を持つ新派連続劇を上演していた新声劇団大川一派の誘いを受けて参加した。
かれは、浪曲師のように布を垂らした机を前に、自らの一代記を述べる。その脚本は警察の保安課の許可を得たもので、犯罪予防の社会奉仕と唱われていた。
かれは、興行師から興行師に渡され、「五寸釘寅吉劇団」と称して東京の人形町喜扇亭、三ノ輪三友亭、八丁堀住吉をはじめ九州、台湾にも巡業し、武州鴻の巣で興行師に捨てられ、故郷の村に帰った。昭和10年、網走刑務所からの問い合わせに、村役場から、
「・・・現在ニ於テハ老衰シ労働不能ノ為、本籍自家ニ閑居シ温厚ナリ。而シテ本人ハ元ヨリ無産ニシテ辛ウジテ生活ヲナス」
と、回答が寄せられ、その後、老衰による死が伝えられた。」

ほらね、あったでしょ、自分が言いたかったのは、これなんですよ、これ!


(2007 WB)監督脚本・アンドリュー・ドミニク、原作・ロン・ハンセン、製作・ブラッド・ピット、デデ・ガードナー、リドリー・スコット、ジュールズ・ダリー、デヴィッド・ヴァルデス、トム・コックス、マーレイ・オード、ジョーディ・ランドール、製作総指揮・ブラッド・グレイ、トニー・スコット、リサ・エルジー、ベンジャミン・ワイスブレン、音楽・ニック・ケイヴ、ウォーレン・エリス、撮影・ロジャー・ディーキンス、編集・ディラン・ティチェナー、カーティス・クレイトン、衣装デザイン・パトリシア・ノリス、製作会社・ワーナー・ブラザース、プランBエンターテインメント、ジェシー・フィルムズ、スコット・フリー・プロダクションズ、アルバータ・フィルム・エンターテインメント、バーチャル・フィルムズ、原題: The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford
出演・ブラッド・ピット(ジェシー・ジェームズ)、ケイシー・アフレック(ロバート(ボブ)・フォード)、サム・シェパード(フランク・ジェームズ)、メアリー=ルイーズ・パーカー(ジー・ジェームズ)、ジェレミー・レナー(ウッド・ハイト)、ポール・シュナイダー(ディック・リディル)ズーイ・デシャネル(ドロシー・エバンズ)、サム・ロックウェル(チャーリー・フォード)、ギャレット・ディラハント(エド・ミラー)、アリソン・エリオット(マーサ・ボルトン)、マイケル・パークス(ヘンリー・クレイグ)、テッド・レヴィン(ティンバーレイク保安官)、カイリン・シー(サラー・ハイト)、マイケル・コープマン(エドワード・オケリー)、ヒュー・ロス(ナレーション)、

第64回ヴェネツィア国際映画祭男優賞(ブラッド・ピット)
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (2007年)助演男優賞(ケイシー・アフレック)
全米批評家協会賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)
サンフランシスコ映画批評家協会賞作品賞、助演男優賞(ケイシー・アフレック)
シカゴ映画批評家協会賞撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
セントルイス映画批評家協会賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)、撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
第12回フロリダ映画批評家協会賞:撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
ヒューストン映画批評家協会賞:撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
第80回アカデミー賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)
第80回アカデミー賞撮影賞候補(ロジャー・ディーキンス)

バナナの数え方

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新聞を読んでいて、その時の自分の気持ちにピタリとくる一文に出会ったりすると、破棄できず、そのまま捨てずに保存してしまうのですが(だからといって特別にどうするということもしていません)、結果的に新聞がまたたく間に溜まり続けてしまいます。

そこで、その処理方法(断捨離です)について考えてみました。

つまり、捨てられないというのは、その記事だけのことではなくて、それを読んだ時に感応した自分の気持ちもあって、そのまま「捨てる」ということができないわけですから、就寝前のほんの数分間を利用して、チェックした部分を片っ端からパソコンに打ち込んでみたらどうか・そして、それを読んだときに感じた自分の気持ちというのもそこに付け足すようにすれば自分の気が済むのではないかと考えてみました。

そこでアットランダムに選んだ最初の一枚、これは日経新聞の読書欄(2017.9.23朝刊)に掲載されていた、政治学者・宇野重規の書いた定期記事「半歩遅れの読書術」のなかの「『ふたつの世界』生きた人・失われたものの懐かしさ」と題された記事です、故須賀敦子を回顧したエッセイの冒頭部分ですが、ちょっと転記してみますね。

《本を読む人の話を聞くのが好きだ。もちろん、本は自分で読むものだが、本について語る人の話に耳を傾けるのは、また、別の喜びがある。あの本をこんな風に読むのか、そんな素敵な本があるのか。本はそれ自体に滋味があるだけでなく、本を読むことがまた別の世界を形作る。》

実にいい文章だと思いました、自分など、「読んだ本について語るのが好きだ」という自分の立場ばかりに固執し、いつの間にか人の話に耳を傾ける喜びも謙虚さも失っていたのかと思うと、なんだか耳が痛く、気恥ずかしさで顔が赤らみ、いままで書き散らしてきた雑文を改めて読み返すのも怖くなってきたくらいです。

しかし、考えてみると、身勝手で独善的くらいでないと、何かを書いて人目にさらすなどという大それたことなど、ただ恐ろしく、とてもできるものではないとも思うのですが、この一文は、そこに、「人の話を聞くという喜び」を付け加えていることで、「身勝手で独善的」という部分を和らげることができるだろうし、また、そういう部分を失ってしまったら、たかが「書く」などという行為に、なにほどの意味があるのか、しかも、そんなふうに孤立した「持続」など、ただの空しい「暴走」でしかないし、それで自分の感動を誰かに伝えようなど、チャンチャラおかしな話で、はなから望むべくもないことなのだと思い知らされました。

たぶん、これって、なにについても言えるわけで、それが音楽でもいいだろうし、もちろん映画を見たり芝居を見たりして、その感動を誰かに伝えるということに通ずるのかもしれませんよね。

つづく一枚は、同じく日経新聞の夕刊(2017.9.21)の定期コラム「プロムナード」に掲載されていた森山真生の「素直な感性」という記事です。

筆者は、時折、頼まれて小学生低学年に数学の授業をしているのだそうですが、この年齢の子供たちの素直な感性にいつも驚かされると書き出して、あるエピソードを紹介しています。

引用してみますね。

《小学校から帰ってきた子供が母に、「ねえお母さん、今日学校で足し算を教わったよ! リンゴ2つとリンゴ3つを足すとリンゴ5つ。ミカン1つとミカン3つはミカン4つ」。得意気にそう言う彼に、母は「偉いわねえ。じゃあバナナ2つとバナナ3つを足すといくつ?」と聞いた。すると、子供は困った顔で「バナナはまだ教わってない」と答えたというのだ。
1万年以上前の古代メソポタミアでは、羊を数えるために羊のための、油の量を数えるためには油専用の「トークン」という道具が使われていたという。リンゴも、ミカンも、羊もバナナも、みな同じ記号で数えられるという認識に至るまでには、何千年にもわたる試行錯誤の歴史があった。「バナナはまだ教わってない」とうつむく子供は案外、知識に染まる前の人間の素直な感性を代弁しているのかもしれない。》

まだまだ読まなければならない新聞の山を前に呆然としながらも、なんだかとても不思議な気持ちに捉われました


オーバー・フェンス

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先日、社員食堂でひとりランチをとっていたら、背中合わせに座っていた若い4人の女子社員たちが、にぎやかに映画の話で盛り上がっていたので、思わず耳を傾けてしまいました。

話しているその映画というのは、どうも山下敦弘監督作品「オーバー・フェンス」らしいことが、彼女たちの会話の内容からすぐに分かりました。

最近自分もwowowでこの作品を見たばかりだったので、なおさら興味を惹かれました。

いつもランチなど5分もあれば十分というくらいの早食いが身上の自分ですが、彼女たちのこの面白そうな話を聞くために、当然ここはゆっくりとした咀嚼にギアチェンジした次第です。

彼女たちの会話を盗み聞きながら、その内容のまえに、「へぇ~」と思ったのは、その4人が4人とも、このやたらに地味でシリアスな作品「オーバー・フェンス」を皆が実際に見ているらしいということがだんだん分かってきたので、ちょっと意外な感じを持ちました。

この作品は、どう考えても女性客に魅力を感じさせるような内容の映画とは、到底思えません。

なにしろ、重厚で暗く悲壮感にみちた原作です、どのように味付けしてみたところで、その根にあるのは「生きよう」という意欲を失った悲観と絶望に満ちた、いわば「死」に魅入られた失意の視点から描かれた、あまりにも弱々しすぎる佐藤泰志の作品です。

生きる意欲に満たされた「繊細さ」ならともかく、悲観と絶望に満たされた「繊細さ」など、いささかたりとも理解したいとは思いません。

仮に、なんらかの希望をほのめかしたラストシーン(この実作品もそうかもしれません)を付け足そうとも、そこに描き出される風景は、結局のところ、すでに死を決している者・これから死していこうとしている自殺予定者の見る捨て鉢で投げやりな荒廃した死の風景に変わりなく、正直、自分など見ていて胸苦しくなるばかりで、まともに対峙などしたくない、ギスギスした世界が描かれているばかりで、できれば敬遠・遠慮したいというのが正直な気持ちですが、だからなおさら、こういう作品を若い女性があえて見ようとしたことがなんとも意外でした、きっと、それもこれも主演のオダギリジョーという役者の集客力のタマモノなんだろうなと感じました。

ひとりの女性が、友だちに盛んに疑問を投げかけています、それは、映画の中でたびたび唐突に演じられる聡(蒼井優)の「鳥の求愛」の所作の意味が、さっぱり分からないと話しているのでした、「あれって、なんなん?」。

なるほど、なるほど、たびたび挿入される聡の「鳥の求愛」みたいな奇妙な踊りには、自分も引っかかるものがありましたが、むしろシラけが先に来て、いちいち考えるのもなんか億劫で面倒くさくて、あえて意識的に見過ごしたのですが、それだけに彼女の素朴な疑問に虚を突かれたような感じを受けました、迂闊です。

それにしても、この女性、実にいいところをついていると思いました。

こういう「素朴な疑問」こそ見過ごしにせずに、しっかりと向き合うという姿勢が、とても大事なんですよね。

彼女、たぶん、これがなにかの象徴らしいとは感じているのですが、なんの象徴なのかが分からないので、なおさら、その意味を知りたがっているのだと思います。

真向かいに座っていた女性が、「ああして彼女、いつも誰かを求めていたんじゃない? つまり、求愛のサインとか」と返すと、別の女性が、「でも、どう見ても『求愛』じゃないところでも、彼女、踊っていたわ」「うん、あった、あった、酔った店の客にもね」と、話はどんどんヒートアップしています。

そういえば、白岩(オダギリジョー)が、はじめて聡を見かけた場面、路上で妻帯者らしき男となにやら揉めていて、男をなじり、苛立ちをあらわにしながら鳥の動作で奇声(鳥の鳴き声だと思います)を発して男の周囲を踊り廻っていたという場面は、少なくとも「求愛」ではなかったと思いますが、しかし、別の場面では、知り合ったばかりの白岩に「鳥の求愛はどんなふうにするの?」と問われ、突如スーパーの駐車場で踊り始め、しかし、踊りながらだんだん気分を害した聡が憮然として立ち去ってしまうという場面には、彼女が本心からではない形ばかりの踊りを踊ることでその「空疎感」に堪えきれなくなって(好意を抱き始めた白岩の前だからこそ)苛立ちのあまり立ち去ったのだと考えれば、逆に、その裏には、踊る真の目的を貶められ汚され、そのことを理解できない白岩に彼女が憤ったと考えるのが順当なのかもしれません。

たぶん、この映画でもっとも重要な場面は、聡にキャバクラへの同伴出勤を依頼された夜、白岩がカウンターで飲んでいるところに、同じ職業訓練校に通っている訓練生・代島(松田翔太)が不意にあらわれ、そこに白岩を見止めてちょっと驚き、さらに自分のキープしているボトルを白岩が飲んでいるのにも気が付きます、その不審顔の代島のもとにすぐに聡が駆け寄って弁解するという、3人が揃うこの場面に、この映画のすべてのエッセンスが集約されているのだと感じました。

代島は、白岩に、聡と本気で付き合っているのかと問いつめます、傍らで聡は、水割りを作りながら、代島の話を聞いて終始ヘラヘラとニヤついているという場面です。

その場面をちょっと再録してみますね。

「白岩さん、この女と本気で付き合ってるんすか。本気じゃないですよね。こいつはただのヤリマンっすよ。」

「ちょっと、やめてよ」

「お前が、やめろや。白岩さんは、真面目なんだからよ。お前に、嵌まってっけよ」

「嵌まってるの?」

「白岩さん、この女はマジでそういう女じゃないんすよ。俺がやったときなんか、あれ、クスリかなんかで決まってた? 外でやってんのに声出してたべ。やばかったんですよ。白岩さん純粋だから、そういう女だって分かんねえんだよなあ。こういう商売、向いてないかもしんないですね。ああ、他に誰かいねえかな。学校の奴らにろくなのいねえからな。」

聡は、卑屈とも見えるニヤニヤ笑いを崩すことなく、カウンターの奥に音楽をかけてくれと声を掛けてその場を立ち去り、店の奥で流れる曲に乗って激しく踊り始めます、きっと、いつもそうするように。

その聡の踊る姿を見ながら、さらに代島は白岩に話し続けます。

「頭おかしいんですよ、あいつ。白岩さん、女で失敗するタイプだから、気を付けたほうがいいっすよ」

聡の踊る姿をじっと見つめながら、その話を聞いていた白岩は、代島に答えます。

「心配ないよ。俺、なくすものなんか、なんにもないから」

そう答えて白岩は立ち上がり、聡が引く架空の引き綱に引き寄せられるように彼女に近づいて、そして不意に彼女の細い体を深く抱き締めます、社会からはじき出され、裏切り傷つけられ続け、ついに行き場を失った男と女が、もう二度と傷つけられまいと身構えた疑心暗鬼のすえの、薄汚れた場末の飲み屋で始めて心かよわせることができた痛切な場面なのだなと気が付きました。

あの終始保っていた聡の卑屈ともいえるニヤニヤ笑いは、この社会で二度と傷つくまいとする、負け犬なりの「武装」だったのに違いありません。

そしてそれなら、あのとき、職員食堂で女子社員たちが疑問として語り合っていた「求愛の踊り」にしても、かつて傷つけられた者が、他人とまともには接したくないという必死の「武装」だったのかもしれないと思えてきました。


(2016)監督・山下敦弘、原作・佐藤泰志、脚本・高田亮、撮影・近藤龍人、製作・永田守、製作統括・小玉滋彦、余田光隆、エグゼクティブプロデューサー・麻生英輔、企画・菅原和博、プロデューサー・星野秀樹、アソシエイトプロデューサー・吉岡宏城、佐治幸宏、米窪信弥、キャスティングディレクター・元川益暢、ラインプロデューサー、野村邦彦、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、録音・吉田憲義、美術・井上心平、編集・今井大介、音楽・田中拓人、
出演・オダギリジョー(白岩義男)、蒼井優(田村聡)、松田翔太(代島和久)、北村有起哉(原浩一郎)、満島真之介(森由人)、松澤匠(島田晃)、鈴木常吉(勝間田憲一)、優香(尾形洋子)、塚本晋也(義男の元義父(声))、


ある日の原節子

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ちょっと前の土曜日の昼過ぎに、借りていた本を返しに図書館に行ったときのことでした。

ここは図書館のほかに集会場や300席くらいのホールなど、それなりの施設が入っているものの、なにせ小さな市なので、さほど大きな建物ではありませんが、平日でも多くの市民が利用しているとても賑やかな場所です(他に適当な施設がないということもありますが)、図書館はその建物の1階部分を占めており、建物に入ってすぐの玄関ホールには市の広報紙やセミナーのパンフレットが置いてある場所があります。

毎年、確定申告の時期ともなれば、自分もここに「暮らしの税情報」(国税庁)を貰いに来たり、そのほか県の広報紙や市の広報をはじめ、NPO法人の地域のボランティア活動報告とか、認知症予防講座の参加募集とか、ウォーキングを兼ねた郷土史研究会のご案内だとか、高齢者のインフルエンザワクチンのお知らせのタグイだったりするので(いまのところは、幸いにして、そのどれにもお世話にならずに済んでいます)、それなりの時間つぶしにはなりますが、緊急の必要事でもなければ、わざわざここに立ち寄ることは滅多にありません。

いつもならさっさと通り過ぎてしまうその場所ですが、その日はなんだか、誰かに見られているようなヘンな視線を感じて(胸騒ぎとでもいうのでしょうか)、思わず足を止めてしまいました。

自分は、かなりの近視なので、少しでも距離があったりするとぼやけてよく見えないのですが、ある一枚のパンフレットに写っている女性が、行きかう人の足を思わず止めさせるほどの物凄い美形であることだけは、遠目にもはっきりと分かりました、これがまさに「オーラ」を発しているということなのだなと実感しました。

引き寄せられるように近づくと、その美人が、尋常でない美しさであることが、ますます、はっきりとしました。

ほら、よく言うじやないですか、ぱっと見、美人と思わせるための大きな要素として「柔らかな微笑」というようなものが必須だとか(七難隠す、みたいな)、そのパンフレットに掲載されている女性は、背後やや上方の肩越しの位置から撮られていて、振り向きざまになにかを真剣に凝視しているその横顔には、その「柔らかな微笑」などというタグイの俗世的な固定観念に真っ向から挑むような・否定するような、容易に人を寄せ付けない毅然として固く厳しい、それでいて、それが「美しさ」を少しも損なってないという完璧な表情です。

これが、足を止めさせるほどの「オーラ」の意味だったみたいです。

いわば「いやん、ばかん」ではなく、「何なさるんですか!!」みたいな。

よく分かりませんが。

まあ、このセリフがどのようなシチュエーションのもとで発せられる種類のものであるかは、ご妄想(ご想像だろ)にお任せしますが、いやはや「処女性」ということで、つい連想が暴走してしまいました。

さっそく、そのパンフレットを手に取ると、それは「原節子選集」(特集・逝ける映画人を偲んで 2015-2016)というフィルムセンターの宣伝チラシであることが分かりました、そこに写っていたのが、今まで見たこともないような美しい原節子です。いやいや、この言い方は少しおかしいか。

原節子が美しいのは、いまさら始まったことではないので、ここは「美しい原節子の今まで見たことのない写真」というべきでした。
裏返してみると、最下端右隅に小さな活字で「表紙・わが青春に悔いなし」と記されています。それなら自分が見てないわけがないじゃないか。自慢じゃありませんが、「わが青春に悔いなし」なら両の手の指をすべて折ってもまだ足りないくらいは見ていますし、このブログにもコラムを書いたことがあります。

しかし、こんなシーンあったかなと、パンフレットをひっくり返して、また原節子の写真をじっと見入りました。

艶やかな黒髪に縁どられたその凛とした表情には、「潔癖」という言葉が自然と思い浮かぶくらい微塵の隙も緩みもありません。

眉をきりりと引き締めた鋭い瞳には幾分の潤いがあって、それが緊張と感情の高ぶりを表していることは判然・分かるものの、それが悲しみのためなのか、それとも怒りとか不安のためのものなのかはともかく、迫りくる過酷な「時代」に立ち向かおうと身構えている緊張感の鬼気迫るものであることだけは確かです。

きっと、自分が、すでに本編を繰り返し見ていて「わが青春に悔いなし」という映画のストーリーを隅々まで知悉している(勝手にそう思い込んでいるだけかも)既知の記憶に沿って原節子の表情を当て嵌めようとしているだけなのかもしれませんが、しかし、いずれにしても、そんなあれこれの考えを巡らしたのは、結局のところ、しばらくの時間、じっとその美しい顔に見とれていたかったことの言い訳でしかなかっただけだったような気がします。

これ以上見つめていると、写真にキスでもしそうな勢いなので(ここは公共の場で傍目もあり、すでにほとんど「危ないおじさん」になっていると思います)そのパンフレットを2枚いただいて、あとでゆっくり鑑賞することにしました。

しかし、それにしても、やや横を向いてじっと彼女が見据えている先にあるものが、いったいなんなのか、すぐにでも知りたくなりました、さっそく家に帰って、我がライブラリーから「わが青春に悔いなし」を探し出し、このシーンを確認しようと思いました。

いやいや、実際に映画で確認するというのもいいのですが、その前に、この場面がストーリーのどのあたりのシーンなのか、見当をつけておくことも必要です、少しでも手掛かりを得ようと、道々、画像の隅々まで目を走らせて必死になって考えを巡らせました。

この写真からすると、きれいに撫でつけられている髪型から、生活感のない良家の子女という感じなので、ストーリー後半で描かれている村民の迫害と生活苦に疲れた「農婦」でないことは一目瞭然です。ならば、前半に描かれている自由奔放な「お嬢さん」風かといえば、その落ち着いた雰囲気とか黒地のスーツの隙のない着こなしから見ると、どうも付け回す特高に毅然として対峙する中盤の原節子だろうなという見当をつけました。

それに、彼女が美しい横顔を見せて座っている場所は、どうも池か川のほとりの野原という感じです。

これだけの情報をもとに、帰宅してすぐに「わが青春に悔いなし」を見るはずだったのですが、実は、あっ、結論から申し上げますと、我がライブラリーから、カノ「わが青春に悔いなし」を探し出すことに、結局、失敗しました。

というのは、その映画が「あったのか・なかったのか」よりも先に、手の付けられない未整理の混沌・テープの山のカオスから、目的のものを探し出すことなどとても不可能で、早々に断念せざるを得なかったというのが、最も相応しい説明ということができるかと考えています。

思い返せば、常日頃、自分にしてからが、たまたま山の頂上にあるテープを手に取って順番に見ているだけなので、「何かを見たい」などという大それた我欲に満ちた俗世の欲望というか煩悩などすでにして超越しているというか(せざるを得ない)境地に至っていることを早々に思い出すべきだったかもしれません。

なので、映画「わが青春に悔いなし」の「確かめ」は、ついに果たされなかったことを、遅ればせながらここにご報告する次第です。ならば、うだうだ言わずに最初からそう言えば良かったじゃん、とか言われてしまうやもしれませんが(「かもしれません」を多用したので、少し言い方を変えてみました)、今回見られなかったのは残念ですが、でも、自分のこの推理は間違いないと思うけどな。

もう一度見たい作品もあるので、フィルムセンターで11月9日から開催されている原節子特集の11本の上映作品を以下に記しておきますね、とにかく、ものすごく楽しみです。



【魂を投げろ】
原節子の出演第3作で、現存作品としては最も古い。オリジナルは65分のサウンド版だが、本篇途中部分のみが無声で残存している。甲子園を目指す旧制中学の野球部を描いた青春スポーツ映画で、原はエース投手の妹役。当時15歳ながら、その美貌が深い印象を残す。脚本の玉川映二はサトウハチローのペンネーム。プラネット映画資料図書館所蔵プリントからの複製。
(1935日活多摩川)監督・田口哲、原作・飛田穂洲、脚本・玉川映二、撮影・福田寅次郎、
出演・伊沢一郎、中村英雄、和歌浦小浪、原節子(女学生)、東勇路、大島屯、名取功男、正邦乙彦、松本秀太郎、
(26分・35mm・24fps・無声・白黒・部分) 1935.09.26 富士館 8巻 白黒 サウンド版


【生命の冠】
北海道の漁港を舞台に、米国輸出用の蟹缶詰を製造する会社のオーナー・有村恒太郎(岡譲二)の奮闘を描く。原節子は恒太郎の妹役。オリジナルは94分のトーキーだが、現存プリントは無声の短縮版。皮肉にも当時まだあった無声映画館のためにサイレントにした版だけが残った。ほとんど失われた作品のもっとも悲惨な例として戦前の日活作品がよく例にあげられるが、内田吐夢の日活多摩川時代の諸作品もあげられるほか、村田実、伊藤大輔、溝口健二、山中貞雄、伊丹万作、田坂具隆、稲垣浩、熊谷久虎、倉田文人、阿部豊などの日活時代の名作のほとんどが失われた。この作品について佐藤忠男は「千島は1936年の内田吐夢監督の『生命の冠』で蟹漁場の港や蟹缶詰工場のある漁場基地として描かれた。この戦前の北洋漁場は1953年の山村聰監督の『蟹工船』でも描かれた。日本映画における北辺、さいはての苛烈な労働の場というイメージである。」(日本映画史④81)と記している。マツダ映画社所蔵16mmインターネガからの複製である。
(1936日活多摩川)監督・内田吐夢、原作・山本有三、脚本・八木保太郎、撮影・横田達之、
出演・岡譲二(有村恒太郎)、滝花久子(妻昌子)、伊染四郎(弟欽次郎)、原節子(妹絢子)、見明凡太郎(片柳玄治)、伊沢一郎(北村英雄)、菊池良一(漁夫)、鈴木三右衛門(漁夫)、光一(漁夫)、長尾敏之助
(53分・35mm・24fps・無声・白黒)  1936.06.04 富士館 9巻 2,588m


【冬の宿】
豊田四郎得意の「文芸物」の一本。元松竹蒲田のスター・勝見庸太郎が、落ちぶれてもなお見栄を張る中年男の悲哀を全身で演じている。原節子は勝見演じる嘉門がほのかに想いを寄せる清楚なタイピスト役。他にムーラン・ルージュ新宿座の水町庸子も出演。脚本は、豊田四郎の重要な作品「若い人」「泣虫小僧」「鶯」などを書いた八田尚之で「第二次大戦に突入する直前の時期の不安に満ちた市井の世相風俗をユーモアと哀感と知性的な態度でさらりと描く作品に巧みさを見せ」、「この作品は当時、奇妙な性格異常者を描いた掴みどころのない作品のように受け取られて、野心作ではあるがおおむね失敗作というふうに受け取られていた。しかしいま見れば、このせっぱ詰まっていながら、そういう自分たち自身の状況を認識できず、ますます愚行を重ねていく彼らこそ、まさに日中戦争の翌年というこの映画の製作時の日本の無自覚的な混迷ぶりを象徴する人物のように見える。あとからつけた理屈であるかもしれないが、芸術家の直感が時代の本質をとらえているとは言えないか。・・・情緒に流れることを排した小倉金弥の撮影も素晴らしい。」(佐藤忠男)オリジナルは95分で現存プリントは5巻目が欠けている。
(1938東京発声)製作・重宗和伸、監督・豊田四郎、脚本・八田尚之、原作・阿部知二、撮影・小倉金弥、音楽・中川栄三、津川圭一、美術・進藤誠吾、録音・奥津武、照明・馬場春俊
出演・勝見庸太郎、水町庸子、原節子、北沢彪、林文夫、藤輪欣司、島絵美子、堀川浪之助
(84分・35mm・白黒・不完全) 1938.10.05 日比谷劇場 10巻 2,534m


【美はしき出發】
叔父からの仕送りで何不自由なく暮らしている北條幹子(水町)と3人の子供。だが叔父は破産し、彼らは自分の生き方の見直しを迫られる。原は画家になる夢を捨てきれない長女の役。一家のために奔走する次女を演じる高峰秀子との初共演が話題となった。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・武山政信、監督脚本・山本薩夫、脚本・永見柳二、撮影・宮島義勇、音楽・服部正、美術・戸塚正夫、録音・村山絢二、照明・佐藤快哉、
出演・原節子(北條都美子)、高峰秀子、月田一郎、水町庸子、三木利夫、清川荘司、嵯峨善兵、柳谷寛
(66分・35mm・白黒) 1939.02.21 日本劇場 8巻 1,808m


【東京の女性】
丹羽文雄の同名小説を映画化。生活能力のない父に代わって一家を支えるため、節子(原)は自動車会社のタイピストから“セールスマン”へと転身し、次々と成功を収める。能動的で溌剌とし、男性社会を脅かしさえする女性を演じた原は、当時の映画評で「東宝入社以来おそらく最も生彩のある演技」と高く評価された。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・竹井諒、監督・伏水修、脚本・松崎与志人、原作・丹羽文雄、撮影・唐沢弘光、音楽・服部良一、美術・安倍輝明、録音・下永尚、
出演・原節子(君塚節子)、立松晃、江波和子、水上怜子、藤輪欣司、水町庸子、水上怜子、外松良一、鳥羽陽之助、深見泰三、如月寛多、若原雅夫
(82分・35mm・白黒) 1939.10.31 日本劇場 9巻 2,281m


【青春の氣流】
新鋭旅客機を設計した若き技師・伊丹(大日方)が、その製造実現に向け突き進む姿を、喫茶店で偶然出会った女性(山根)との恋愛を絡めつつ描くメロドラマ。社内で伊丹を支持する進歩派の専務(進藤)の令嬢に原が扮し、伊丹と添い遂げようと積極的にアプローチする姿が目を引く。ニュープリントによる上映。
(1942東宝)製作・松崎啓次、代田謙二、演出・伏水修、脚色・黒澤明、原作・南川潤「愛情建設」「生活の設計」、撮影・伊藤武夫、音楽・服部良一、美術・松山崇、録音・宮崎正信、照明・横井総一
出演・出演・大日方伝(伊丹径吉)、山根寿子(馬淵美保)、英百合子(その母)、中村彰(その弟章)、進藤英太郎(由定専務)、原節子(その娘槙子)、清川玉枝(その叔母)、清川荘司(竹内専務)、真木順(橋本設計部長)、藤田進(村上)、矢口陽子(喫茶店の女の子)、御舟京子[加藤治子](喫茶店の女の子)、永岡志津子(喫茶店の女の子)、
(87分・35mm・白黒) 1942.02.04 東宝系 10巻 2,389m


【緑の大地】
中国・青島に長期ロケを敢行した国策映画。運河建設をめぐり、日本人技師(藤田)やその妻(原)、女教師(入江)、悪徳商人(嵯峨)、反対派の中国青年(池部)たちが衝突するさまを描く。原は、女教師が夫の初恋相手であると知り、友情と嫉妬の間で揺れる妻の役を演じる。
(1942東宝)製作・田村道美、演出原作・島津保次郎、製作主任・関川秀雄、脚色・山形雄策、撮影・三村明、音楽・早坂文雄、演奏・東宝映画管弦楽団、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、後援・青島日華映画製作委員会、
出演・入江たか子(井沢園子)、丸山定夫(伯父井沢尚平)、藤間房子(母みね)、英百合子(尚平の妻すみ)、里見藍子(娘歌子)、江川宇礼雄(園子の弟幸造)、千葉早智子(呉女子)、藤田進(上野洋一)、原節子(妻初枝)、汐見洋(楊鴻源)、林千歳(楊劉子)、池部良(楊克明)、斎藤英雄(克明の友朱)、進藤英太郎(堺)、高堂国典(尹)、草鹿多美子(鄭秀蘭)、清川玉枝(南夫人)、沢村貞子(張嘉雲)、嵯峨善兵(宮川信成)、真木順(建設局長)、小島洋々(劉校長)、恩田清二郎(副校長)、鬼頭善一郎(取引所理事)、坂内永三郎(取引所理事)、大崎時一郎(宮川の友人)、松井良輔(木谷理事)、佐山亮(救済院長)、
(118分・16mm・白黒) 1942.04.01 紅系 12巻 3,217m


【母の地圖】
没落した旧家の母と子供たちが、東京で新たな生活を始める。しかし、長男(三津田)は満洲で一旗あげると飛び出し、次男(大日方)は出征してしまう。三女の桐江(原)ら女性だけが残され、一家の生活は逼迫していく…。植草圭之助の映画脚本第1作で、ヒロインの原節子も植草の指定によるものだった。文学座の俳優陣の手堅い演技が脇を固めた。
(1942東宝)演出・島津保次郎、演出助手・杉江敏男、脚本・植草圭之助、潤色・島津保次郎、撮影・中井朝一、音楽・早坂文雄、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、
出演・杉村春子(岸幾里野)、三津田健(長男平吾)、一の宮敦子(妻直子)、大日方伝(次男沙河雄)、千葉早智子(長女槙江)、花井蘭子(次女椙江)、原節子(三女桐江)、徳川夢声(舘岡一成)、東山千栄子(一成の妻)、丸山定夫(与田専務)、英百合子(与田の妻)、斎藤英雄(与田隆三)、中村伸郎(筧英雄)、森雅之(北野二郎)、若原春江(タイピスト)、立花潤子(タイピスト)、進藤英太郎(紳士)、嵯峨善兵(課長)、龍岡晋(課長)、深見泰三(村長)、横山運平(伊作老人)、
(102分・16mm・白黒) 1942.09.03 紅系 11巻 2,825m


【怒りの海】
ワシントン軍縮会議によって決定された主力艦保有数の制限を、米英による陰謀と強調した時局映画の一本だが、一方では「軍艦の父」と呼ばれ巡洋艦の開発に死力を注いだ平賀譲中将を描いた伝記映画で日本海防思想の発展を説いた。原節子は父である中将(大河内)の健康を気づかう娘の役。本作は、内閣情報局より、「国策遂行上啓発宣伝に資する」として国民映画選定作品に指定された。この年、ほかに選定作品に指定されたものに「勝鬨音頭」「決戦」「不沈艦撃沈」「水兵さん」「三太郎頑張る」「君こそ次の荒鷲だ」「あの旗を撃て」「加藤隼戦闘隊」「一番美しく」「命の港」「敵は幾万ありとても」「雷撃隊出動」「剣風練兵館」「菊池千本槍」「雛鷲の母」「肉弾挺身隊」「かくて神風は吹く」がある。ニュープリントによる上映。
(1944東宝)製作・佐々木能理男、藤本真澄、監督・今井正、脚本・八木沢武孝、山形雄策、撮影・小倉金弥、音楽・山田和男、美術・平川透徹、録音・安恵重遠、照明・平岡岩治、特殊技術・円谷英二
出演・大河内伝次郎、原節子(平賀光子)、月田一郎、河津清三郎、山根寿子、黒川弥太郎、村田知英子、志村喬、
(89分・35mm・白黒) 1944.05.25 白系 9巻 2,435m


【北の三人】
原、山根寿子、高峰秀子らスター女優が、女性通信兵として北方の航空基地で活躍する姿を描いた時局映画。戦争も末期を迎え、「銃後の守り」を主としていた映画の中の女性像も、戦地で積極的に活動するものへと変わっていた。1945年8月5日に封切られた戦中最後の劇映画。残存フィルムは不完全(オリジナルは72分)。
(1945東宝)製作・田中友幸、監督・佐伯清、脚本・山形雄策、撮影・中井朝一、美術・平川透徹、音楽・早坂文雄、特殊技術・円谷英二、
出演・原節子(上野すみ子)、高峰秀子、山根壽子、藤田進、河野秋武、佐分利信、志村喬、田中春男、淺田健三、光一、小森敏、羽鳥敏子
(41分・35mm・白黒・部分) 1945.08.05 白系 8巻 1,972m オリジナル72分


【わが青春に悔なし】
占領軍の民主化政策に沿って、戦前の京大滝川事件とゾルゲ事件を題材にして製作された民主主義啓蒙映画。学生運動弾圧の犠牲となって獄死した愛人・野毛(藤田進)の遺志を継いで社会意識にめざめるブルジョア令嬢(原節子)の革新的な熱情を描く黒澤明の戦後第一作。令嬢が愛人だった貧農学生の母を訪れて、みずから百姓生活に飛び込みスパイの汚名を受けながら陰湿な迫害の下で泥まみれになって働くという強烈な女性像は、戦争直後、民主化の機運の高まりに高揚していた当時の青年たちに多大な感銘を与えた。
(1946東宝)製作責任・竹井諒、製作・松崎啓次、監督・黒澤明、演出補助・堀川弘通、脚本・久板栄二郎、撮影・中井朝一、音楽・服部正、美術・北川恵笥、録音・鈴木勇、音響効果・三縄一郎、照明・石井長四郎、編集・後藤敏男、現像・東宝フィルム・ラボトリー
出演・原節子(八木原幸枝)、藤田進(野毛隆吉)、大河内伝次郎(八木原教授)、杉村春子(野毛の母)、三好栄子(八木原夫人)、河野秋武(糸川)、高堂国典(野毛の父)、志村喬(毒いちご)、深見泰三(文部大臣)、清水将夫(筥崎教授)、田中春男(学生)、光一(刑事)、岬洋二(刑事)、原緋紗子(糸川の母)、武村新(検事)、河崎堅男(小使)、藤間房子(老婆)、谷間小百合(令嬢)、河野糸子(令嬢)、中北千枝子(令嬢)、千葉一郎(学生)、米倉勇(学生)、高木昇(学生)、佐野宏(学生)、
(110分・35mm・白黒) 1946.10.29 12巻 3,024m


ある天文学者の恋文

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まるでなにかの罠に嵌まってしまったみたいに、同じようなタイプ(それも取り分けレアなテーマです)の映画を立て続けに見てしまい、そのまるで計算しつくされたような奇妙な符合に、これってなにかの不吉な予告とか祟りのタグイなのかと、思わず不安になるなんて経験したことってありませんか。

先日、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ある天文学者の恋文」(2016)を見ていたときに、そのオゾマシイ霊感とやらに突然金縛りにあってしまいました。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品なら、それがどのように不評な作品であろうと、とりあえずは見てみたいと思っている自分にとって、この「ある天文学者の恋文」もそのうちの1本でした、それもこれも数多くの幸福な映画の記憶をトルナトーレからいただいているからこその、そしていまもなおその「保証期間」が継続中であることの証しみたいなものなのかもしれません。

しかも主演が、超繊細な演技が売りのジェレミー・アイアンズとくれば、もうそれだけで一見の価値があります、最近では、見るからに弱々しい繊細さで売るこういう男優って稀有な存在になってしまいましたし、思えば、かつてはこのタイプの男優はすぐに思いつくくらいに多くいて、例えばジェラール・フィリップだとか、モンゴメリー・クリフトだとか、ジェームス・ディーンなんかも、そういうタイプの役者の代表格でしたよね、むしろマッチョで猛々しいタイプの俳優よりも、「こっち系」の男優の方が、はるかに主流だったような気がします、あの時代がそういう軟弱な俳優を求めていたからかもしれません。

ほら、例のフィリップ・マーロウの「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(強くなければ、生きられない。優しくなければ、生きている資格がない」なんて言葉が象徴していたあの雰囲気です。

自分としては、それを聞いた当時だって、ずいぶん甘々で、それを平気な顔して言う相手の顔をまじまじと見てしまうくらい、なんだか気恥ずかしくてたまりませんでしたが。

しかし、今の時代、優しいばかりでウジウジなどしていたら、無視されて放っておかれるどころか徹底的に干渉されて生き場を失い叩き潰すまで追い詰められて秒殺されるという過酷な時代なのであって、現代がそれだけハードで容赦ない時代になったからだと思います。

でも、自分としては、むしろこの本音の現代の方が、ずっと生き易くて気に入っています。

さて、この「ある天文学者の恋文」ですが、天文学者の大学教授エド(ジェレミー・アイアンズ)と教え子の女学生エイミー(オルガ・キュリレンコ)は不倫の関係にあって、この映画の冒頭でも、さっそくふたりの「くんずほぐれつ」の情事の描写から始まっている始末です、私見ですが、こういうのって実にけしからんと思いませんか。老いぼれとピチピチの女子大生が、あっちを舐めたり、こっちを吸ったりなんかしたりして、なんなんだこの野郎という感じです。そんなことして、気持ちいいだろ、てめ~。

自慢じゃありませんが、自分はこのようなことにただの一遍だって遭ったことがありません、悔しくて悔しくてたまりませんよ。

まあ、それはさておいて話を続けますね。

ある日、大学の講義を受けていたエイミーは、エド教授が急逝したことを知らされます。

しかし、エド教授から旅行に行くと知らされていたエイミーのもとには、依然として彼からなにごともなかったかのようなメールが継続的に入ってくるし、それに、まるでタイミングを計ったような郵便物も届くので、彼女にはどうしても教授の死を信じることができません、そして、エド教授の死を確かめるための彼女の旅が始まるというちょっとミステリーっぽい物語です。

しかし、このミステリー仕立ての物語の根底にあるものは、たとえ自分が死んでも、愛する者をどうにかして、いつまでも見守り続けたいという痛切な深い思いがあって、たぶんそれが観客を感動させずにはおかないのでしょうが、自分としては、この手を替え品を替えの「仕掛け」の部分がどうにも引っかかって、しっくりと受け入れることができませんでした。

はたして教授が思っているほど、彼女が将来にわたって「永遠の愛」を信じ続けることができて、そして、教授の見守りをいつまで必要とし、彼女の歓迎を保てるか、愛の企みを夢中になって仕掛けていた死期の迫った教授が、「そのこと」に少しの不安も抱かなかったのかという疑問です。まあ、少しでも疑問を持ってしまったら、こんな企みができるわけもありませんが。

自分としては、教授が仕掛けたこれらすべての企みは、教授のエゴから発した未練にすぎないもので、決して生き残る愛する者を思いやってのことではない、つまり、「余計なお世話だ」という感想を持ちました。

たぶん、最愛の人を失った彼女は、しばらくの間、そりゃあ悲しむでしょうし、相当な「喪失感」に苦しむには違いありません。

しかし、時が経てば、いつまでも悲しんでいることの空しさを悟り、やがて時間が、過去の辛いことを少しずつ忘れさせ、立ち直ることができるものだと思います。

しかし、そこに相変わらず「教授のメール」が届いたりすれば、それは彼女の立ち直りを阻む効果しかないことは明らかです。

彼女が自由に生きることは許されないのか、という思いを持ちました。

そして、この映画を見た少しあとに、「愛を積むひと」(2015、朝原雄三監督)を見ました。

心臓病で余命幾ばくもないことを知った妻(樋口可南子)は、夫に幾通もの手紙を、まるで「仕掛け」のように残していきます。

まだ十分に若い彼女には、この世に思いを残すことは、きっと数多くあったに違いありません。

夫(佐藤浩市)を見舞うはずの困難な事態を予測して、妻は、的確な場所に明快な手紙を残して迷う夫に天国から助言を与え助けます。

この部分を見ながら、ふっと小学生か中学生だった頃に流行った小噺を思い出しました。

ある男がトイレに貼ったら、正面の壁に「左を見ろ」と書いてあるので左を見ると、左の壁には「右を見ろ」と書いてあったので、今度は右を見ると「上を見ろ」と書いてある。天井には、「きょろきょろするな、バカ」と書いてあったという滑稽噺です。

「愛を積むひと」は、きっと良質な作品には違いないとは思いますが、たとえドラマにすぎないとしても、死者の傲慢というか、人の人生に身勝手に立ち入る「お節介」さには、耐え難いものがあります。

以前、「ニライカナイからの手紙」(2005、熊澤尚人)を見たときに感じたことですが(以前、このブログに書きました)、早世する母が、娘を気遣って、自分の死を知らせずに、まるで生きているかのように成人するまで誕生日に手紙を送り続け、娘を励ました行為に疑問を抱いたのは、そんな歪んだかたちで「母の死」を隠されたこと自体を娘はどのように感じたか、という疑問でした。

たとえ遺された娘が、「母の死」を知らされたとしても、一時は悲しみ、苦しんで、しかし、それに耐え、跳ね返す力を持つことが、「生きること」なのではないか、と思ったからでした。こんなことは、社会一般のごく常識なことにすぎません。

家中で自分だけが知らされていないことがある、しかもそれが「母の死」だとすれば、その歪んだ関係は、すこぶる異常だと言わざるを得ません。

(2016イタリア)監督・ジュゼッペ・トルナトーレ、製作・イザベラ・コクッツァ、アルトゥーロ・パーリャ、脚本・ジュゼッペ・トルナトーレ、撮影・ファビオ・ザマリオン、美術マウリッツォ・サバティーニ、衣装デザイン・ジェンマ・マスカーニ、編集・マッシモ・クアリア、音楽・エンニオ・モリコーネ、プロダクション・デザイン・マウリツィオ・サバティーニ
出演・ジェレミー・アイアンズ(エド・フォーラム)、オルガ・キュリレンコ(エイミー・ライアン)、ショーナ・マクドナルド(ヴィクトリア)、パオロ・カラブレージ(オッタヴィオ)、アンナ・サヴァ(アンジェラ)、イリーナ・カラ(エイミーの母親)、


アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男

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原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」と邦題「アイヒマンを追え!」では、見る前の観客に相当見当違いな、あるいは、誤った先入観を与えてしまったのではないかと危惧しています。

その副題の「ナチスがもっとも畏れた男」だって、原題の不正確さを補完するために慌てて付け足したかのような蛇足感をまぬがれません、かえってメイン・タイトルが言葉足らずなことを、逆に証明してしまっているようなもので、それだけでも責任ある命名者(興行者)として作品のイメージをそこない、さらに営業戦略としても、ずいぶんな失策だったのではないかと思いました。

自分の受けた感じからすると、これは単に「フリッツ・バウアー」(どうあろうと、この映画の主人公なのです)という名前を出すよりも、世間的に遥かに浸透している「アイヒマン」とした方が、宣伝効果があるに違いないという短慮から、このような見当違いな邦題の命名に至ったというなら、それは、この作品に対する根本的な認識不足というしかありません。

原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」を「フリッツ・バウアーをめぐる状況」とでも訳すれば、このサブ・タイトル「ナチスがもっとも畏れた男」の方だって、相当あやしいものになってくると思います。

だってそうですよね、この原題が指向しているものは、戦後、いまだに国内の司法にはナチの残党・抵抗勢力が残っているという中で、ナチの戦争犯罪を追及しょうというユダヤ人検事長の苦労話なわけですから、ここで描かれているものは、少なくとも「人=アイヒマン」なんかではなかったというのが本筋です。まあ、言ってみれば、アイヒマンという設定は、ユダヤ人検事長にとっての「困難な状況」を説明する単なる素材にすぎなかったわけで、タイトルに掲げられた「アイヒマン」を注視していた観客には、見当違いの道しるべを与えられたような、なんとも迷惑な話だったかもしれません。

それは、検事長の職務にあるフリッツ・バウアーが、ブエノスアイレス市民からの投書によって、アイヒマンが彼の地に潜伏しているらしいことを知り、それが本人であるという更なる確証を得たあとで、検事長としての権限でドイツ本国に連行し裁きを受けさせたいと上申したときに、強硬に拒否された抵抗勢力(当時のドイツ司法に占める多数の元ナチス党員や関係者たち)のことを「状況」と表現しているのですから、それを「アイヒマン」という見当違いな人名をタイトルの前面にだしてしまったら、タイトルに引きずられた観客が戸惑い幻惑されるのも、そりゃあ当然のことだったと思います、「作品を損なう」と言われても決して言い過ぎなんかではない、むしろ「暴挙」とさえ言い得るタイトルの命名だと思いました。

検事長フリッツ・バウアーがユダヤ人であるために国内で受けなければならなかった困難が、具体的な数字として残されています、つまり、当時の西ドイツ司法部(裁判官と検察官)には戦前からの元ナチス党員・関係者というのが、まだ1,118人いたと、東ドイツのキャンペーンの数字としてwikiには記載されています。(注)


(注)「だが実際には1945年のナチス党の解散時にナチス党員は約850万人、協力者は300万人以上にものぼっており(合計で当時のドイツ総人口の約2割)、また官僚や政治家、企業経営者など社会の中核をなす層にも浸透していたことから、ナチスの追及は敗戦で荒廃したドイツの戦後復旧を優先した結果としておざなりなものとならざるを得なかった。加えて直接の関係者はもとより親族などの反対もあり、ナチス追及は不人気な政策であった。
1950年代末には、西ドイツに対して「血に飢えたナチ裁判官」キャンペーンが東ドイツで行われている。そこでは元ナチス関係者(党員か協力者)の裁判官や検事など司法官僚が1,118人も西ドイツにはいると非難されており、これらの元ナチス司法官僚はナチスの追及に大きな障害となった。最終的に有罪になったナチス関係者は、罰金刑のような軽い罪を含めても6000人あまり、関係者全体の0.06%に過ぎない。」


当時のドイツにおけるこの元ナチの残党1,118人という数字が意味する「逆境」において、「ナチの戦犯を追及」することの困難と、公正な法の支配とその執行など、そもそも最初から望むべくもなかった状況にあったことは明らかでした。

だからこそ、フリッツ・バウアーは窮余の一策として、ドイツ国内法の「国家反逆罪」のリスクを負ってまで、秘密裏にイスラエルの秘密警察モサドに助力を仰がざるを得なかった、そして、この事実(第三国への協力と通報の行為)が明らかにされたのが、彼の死後数十年も経ってからのことだったと、この映画の最後で語られていました。

自分は、このナニ気に付け足された「彼の死後数十年も経ってから」という部分に強く惹かれました。

つまり、「数十年経たなければ」このユダヤ人検事長の犯したドイツにおける「国家反逆罪」の嫌疑は薄まることなく、ずっと有効だったわけで、いまになってやっと語られるこの「美談」風な衝撃の事実は、逆に、彼が生きている限りは容認されなかったし、彼が死に、さらにその影響が薄らぐまで語るのを憚られてきたということのアカシにほかならないと理解してみました。

このシチュエーションを日本に当て嵌めて考えてみれば、その「トンデモナサ」は明らかですが、フリッツ・バウアーのしたことは、「他国」と気脈を通じ、そして利するために「自国」を裏切るという背信行為なのであって、少なくとも、国家から国の秩序の安定をはかるために全面的に権力を託された検事長・公務員にとって(この全面的な権力の委託=なんでもできる強権を受諾する見返りが、国家への限りない忠誠でなければ)、その裏切り行為は、とても深刻な事態だというしかありません、たとえそれが「一民族の正義」のために行われたことだったとしても、みずからの属する国家を一蹴し、あるいは飛び越えるという違和感は、どうしてもぬぐえません。

それは「正義」のために躊躇なく決行した第三国への協力・通報の行為(裏切り)は、この映画にあっては、称賛されこそすれ、いささかも問題にされていないという視点です、そこに自分はこのストーリーにも、このフリッツ・バウアーという人物にも、嫌悪に近い限りない違和感をもちました、この映画には、わが意に反して生きなければならない者の、迷いや葛藤はことごとく無視され、「正義は我にあり」という被害者意識に満ちた踏み絵をかざし、讒言と密告も、そして国家ぐるみの誘拐も拉致も当然視され、そのうえでなされる裁判と処刑も、何でもアリという、目をそむけたくなるような思い上がりに対する、限りない嫌悪です。

それは、最後のこんな場面でも感じました。

フリッツ・バウアーが協力を要請した部下の検事・カールが、同性愛者のクラブ歌手との淫行(「彼女」に嵌められたのですが)の写真を盗撮されて当局に脅迫され、屈服しないカールはやがて自首します。

カール検事を拘束したと上席検事クライトラー(ナチ側です)からの報告を受けた検事長フリッツ・バウアーとの素っ気ない会話が、この映画のラストで描かれています。

カール検事拘束の報告を聞いて、検事長フリッツ・バウアーはこう言います。

「考慮したまえ。彼は猥褻行為に及んだが自首したんだぞ」

「本件に、なにか拘りでも?」

「ない、仕事に戻りたまえ」そして「覚えておけ。私は自分の仕事をする。私が生きている限り、誰にも邪魔をさせん」

たった、それだけ!? あんたねえ、仮にも無理やり協力を強いて働かせた部下なんでしょ、抵抗勢力を抑えてあれだけのことができたわけですから、検事長の権限でオカマの検事ひとりくらい助けるくらいわけなくできそうなものじゃないですか。

彼のこの冷ややかな対応は、「自分にもそのケはあり、国外でやらかすなら罪にならないぞと、だから国内ではアレは決してやるなよってあれほど言ったろう。ドジ・まぬけ・バカヤロー」くらいしか窺われません。

わが身可愛さで、結局彼は、のうのうというか、ぬけぬけと職務を全うしたっていうじゃないですか。

なんか他に言いようがないんですかね、言うに事欠いて「私は自分の仕事をする」だって?
アホか。
役に立たなくなった人間は、そうやってどんどん切り捨てて、戦犯追及の大義名分のもとに、ぬけぬけと自分だけ生き抜いていくというわけですか。なるほどね。あんたという人も、この映画も、よく分かりました。


この小文を書くまえに、手元にあるアイヒマンについて書かれた幾つかの論文に目を通しました。

そのなかのひとつ、広島大の牧野雅彦という人が書いた論文「アレントと『根源悪』―アイヒマン裁判の提起したもの―」(思想2015.10)のなかに興味深い部分があったので、どこかで活かせるかなと思いながら、念のためにタイプしておいたのですが、結局、活用する機会を逸してしまいました。

むげに捨てるのも、もったいないので、「参考」として記載することにしました。

「悪事をなす意図を前提として始めて法的責任と罪を問うことができる―意志を持たず善悪の弁別能力を持たない無能力者は処罰の対象にならない―というのが近代刑法の原則であるとするならば、アイヒマンの犯罪はそれを超えた―いやそれ以前の、というべきか―いわば世界とその法的・道徳的秩序そのものを破壊するような悪なのであった。そうした悪に対しては極刑をもって対する以外にない。アレントは仮想の裁判官に託してアイヒマンに対して次のような裁きを下している。

『君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては、服従と指示とは同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他の幾つかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む・あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように・政治を君が支持したからこそ、何人からも、すなわち人類に属す何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないと我々は思う。これが君が絞首刑にならねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。』」

あらためて読んでみると、論旨は至極まっとうで、やはり、自分のコラムのなかに、この文章を生かせる箇所は、なかっただろうなという思いを新たにした次第です。自分もやはり、当初、タイトルの「アイヒマン」に引きずられた被害者のひとりにすぎなかったことを示している見当違いな残骸を前にして、しばし呆然の感じでいたかもしれません。

(2015ドイツ)監督脚本・ラース・クラウメ、製作・トマス・クフス、脚本オリビエ・グエズ、撮影・イェンス・ハラント、美術・コーラ・プラッツ、衣装・エスター・バルツ、編集・バーバラ・ギス、音楽・ユリアン・マース、クルストフ・M・カイザー、製作・ゼロ・ワン・フィルム、原題・Der Staat gegen Fritz Bauer

出演・ブルクハルト・クラウスナー(フリッツ・バウアー)、ロナルト・ツェアフェルト(カール・アンガーマン)、セバスチャン・ブロムベルグ(ウルリヒ・クライトラー)、イェルク・シュットアウフ(パウル・ゲプハルト)、リリト・シュタンゲンベルク(ヴィクトリア)、ローラ・トンケ(シュット嬢)、ゲッツ・シューベルト(ゲオルク=アウグスト・ツィン)、コルネリア・グレーシェル(シャルロッテ・アンガーマン)、ロベルト・アルツォルン(シャルロッテの父)、マティアス・バイデンヘーファー(ツヴィ・アハロニ)、ルーディガー・クリンク(ハインツ・マーラー)、パウルス・マンカー(フリードリヒ・モルラッハ)、ミヒャエル・シェンク(アドルフ・アイヒマン)、ティロ・ベルナー(イサー・ハレル)、ダニー・レヴィ(チェイム・コーン)、ゼバスティアン・ブロンベルク(ウルリヒ・クライトラー)、

見憶えのある場所

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誰しもそうだと思いますが、出勤前の限られたわずかな時間のなかで、素早く支度ができて、しかも忘れ物をしないようにと、あれこれ工夫してきた経験値が積み重なり、なんとなく定着した自分なりの準備のシステムがあります。

靴下・ワイシャツ・ズボン・コート(上着は、すぐに着られるように、すでにコートの中に納まったままです)は、着る順に並べておいて、さらに通勤定期券と財布と携帯電話のセット、それに通勤途中スタンドでコーヒーを買うための小銭(特別に用意しておかないと、その場になって小銭探しで慌ててしまうので)も、ジョギング用キャップの中にまとめておきます。

これで、服を着る流れ作業のなかで、通勤必須の小物も各ポケットへ滞りなく収められますし、あとはカバンを肩にかけて、いざ出発、「いってきま~す」というわけです。

こうすれば、駅の改札口まできて胸の内ポケットをまさぐり、はじめて通勤定期券を忘れてきたことに気がついて愕然とするなんてこともありません。

なにしろ限られた毎月の小遣いなので、そのたびにキャッシュで電車賃を払っていたら、それこそたまりませんものね(モロ昼食代に影響します)。

これは幾度かの過去の痛い経験がつちかった朝の習慣といえますが、大げさに言えば、経験が生んだ個人的な「文化」みたいなものでしょうか。

あっ、そうそう、もうひとつ忘れていました。なにしろ自分は極度の「活字中毒」なので、なにか読むものを携帯していないと落ち着きません、必ずカバンのなかには本を入れておきます。電車に乗っているときなどのちょっとした空き時間でも、ぼんやりしているのがなんだかもったいない気がして、本を開いて活字を追っていると、その方がとても落ち着くのでそうしているのですが、それならスマホでもいいじゃないかというと、そうはいかないのです。

最初からただの情報収集というのが目的なら、そりゃあ、あのぶつ切りの味気ない記事(針小棒大・白髪三千丈みたいなツギハギ・デッチあげの得意なライターの顔が見えるようです)を次々と読む空しさにはどうしても耐えられません、活字になにを求めるかという問題なので、なにも空しさを感じないというのであれば、なにもわざわざ自分だって「活字中毒」なんぞにならなかったと思います。

さて、そんなある朝、さあ出かけるかというときになって、カバンの中の本が昨日読了したものであることに、そのときになってはじめて気がつきました。しまった、チェックするのを忘れていた! という感じです。

もはや本棚の本をあれこれ選んでいられるような状況でもないので、著者名なんて確かめることもなく、なるべく薄くて軽そうで、表紙のデザインも明るめの本を選びました。

たまたま手にしたその本の表紙は、なんだか、いわさきちひろ風な絵で、見るからにホンワカした印象の本です、薄さも十分、これなら、あとであらためて精選する次に読む本のツナギには十分だろうという感じでカバンに収めました。

電車に乗り、その日は運よく座席に座れたので、さっそく仕込んできた本を取り出しました。

著者は安達千夏、未知の作家です、そして書名は「見憶えのある場所」(集英社、2007.2刊、140頁)となっています。

この本を買った記憶が、まったくないので、たぶん妻が、読んだあと自分の本棚に勝手に並べた本だと思います。

パット見、乱雑に見えるかもしれませんが、自分なりの分類法はあり、それなりの整理をしているつもりの本棚です、勝手にそういうことされると困るんだよな、とかなんとか思いながら読み始めました。

結論からいうと、びっくりしました、物凄い書き手です、母と娘のどろどろの深刻な葛藤を、まさに辣腕で読者を物語の渦中にぐいぐい引き込みます。

退屈な通勤時間を埋めればそれで十分という思いで手に取った軽めの読み物という先入観があったので、衝撃はなおさらだったかもしれません。

心覚えのために、ちょっとあらすじを書いてみますね。

母親・菜穂子は、以前、一流商社に勤めていた元バリバリのキャリアウーマン、結婚し娘ができたことで仕事を辞めなければならなかったことを悔い、そのことをひどく腹立たしく思っています。

こんなに優れた自分が、よりにもよって自分より遥かに劣ったこんなつまらない男=夫・三樹夫やぐうたら娘・ゆり子のために、輝くような自分の将来を犠牲にさせられたことに苛立ち、ことあるごとに家族を罵しります(もうひとり息子がいますが、我関せずの態度の彼には、なぜかホコサキは向かず、彼女からの罵倒の非難を免れています)。

最初、夫に向けられていた執拗な非難は、ついに妻・菜穂子の「出ていけ!」という罵りの最後通牒により、夫が家を出ることで一応終結し、次なる罵りの対象は娘に向けられることになります。

物語は、ここから始まっている感じです。
親の期待にことごとく応えることのできなかった娘は、さらにシングルマザーとなって、娘をひとり抱えながらスーパーのアルバイトで食いつないでいる始末で、このことも母親の苛立ちをさらに募らせています。

スーパーで働いている間、子供を母親のもとに預けているゆり子は、毎夕、母・菜穂子の家に娘を引き取りに行き、そのたびに辛辣な嫌みをいわれますが、彼女はただ薄笑いを浮かべて耐えるしかありません。

劣った娘という負い目があるうえに、彼女には、母親から受けた暴力・虐待の記憶があって、それがトラウマとなっていて、完全無欠の強い母親にどうしても言い返せないでいるのです。

しかし、ある夜、娘・ゆり子は、このままではいけないと自立するために、母・菜穂子への反抗を決意します、その母娘が言い争う迫真の場面を、ながくなりますが、心覚えのために以下に写しておきますね。


《菜穂子が、眉根を寄せた。
「あれだけしてやったのに、どこに不満があるっていうのよ」
「してやったこと」を並べ立てる。正月や七五三の晴れ着、盆の花火大会の浴衣に学芸会の手作りのドレス、欠かさなかったお誕生会、春夏冬のまとまった休みには泊まりがけの旅行、プールに海水浴に遊園地に動物園、ハロウィン、クリスマス、そして、世間では流行っているものなら、頼まれなくても買い与えてやった。
「よその家でやるようなことはすべてしてやったわ」
そうね、してやった。ゆり子は即座に認め、でも、と穏やかに切り返す。
「あなたは私を殴った。蹴った。踏んだ。罵った。嫌みも絶妙よね。楽しそうにしてたり、喜んでたりする時に、挫くの。嫉妬に狂ったら、相手を惨めな気持ちにさせなゃ気が治まらない。ああそうそう、私の笑ってる顔が大嫌い。見てるとむしょうに腹が立つ、って真顔ではっきり言ってたものね? 一生の汚点だ、産むんじゃなかったと後悔してる、って。なにしに来たのとさっき訊いたわよね。この話をしに来たの」
さっきまで私自身もよくわかっていなかったけど、とゆり子は胸の内に呟いた。菜穂子はしきりと瞼をしばたたかせ、白っぽいストッキングの脚を組み替えると、「なによ」とちいさく、震え声で言った。ゆり子は声を荒げもせずに続ける。
「百点の答案を持って帰ると無視して、機嫌がわるくなって、九十点ならバカだブタだイヌだと罵って上機嫌に自慢話してたよね、さっきみたいに。自分は頭がいい、勉強なら誰にも負けない、いつだって一番、って千回も聞いた。こんな試験私なら間違いなく百点しかとらないわ、って小学生相手に敵愾心燃やしてたの憶えてる? どうして、そんなにも劣っている娘がライバルなの? どうして、私を陥れなければ安心できないの? 私なら私なら、って、もう聞き飽きた。昔話はいいから、なにができるかやってみせてよ」
淡々とゆり子は語った。仕事のことだけど、と視線を背けている母親の顔を、ゆっくり覗き込む。
「千草を食べさせるためならなんでもする。私にはこんな家はないし、生活費を振り込んでくれる夫もいない。今の仕事は、待遇に満足とはいえないけど、誰かがやるべきことを誇りを持ってやろうって思ってる。でもあなたは私と違う。TOEICとか国家資格とかご立派な試験を受けて、優秀さを証明して、30年も前に辞めた商社の海外駐在員だの、テレビの気象予報士だのになれる日を夢見てたらいい。私は止めないから。ただし、成田の到着ロビーで、外タレの来日待ちしてニュースに映り込むなんてことは恥ずかしいからやめてください」
ぶん、と勢いよく腕を振り抜いてから菜穂子は驚く。娘を殴った手の、しびれる痛みにまで気がまわらず、殴られた娘の姿を見てなにをしたか悟る。ゆり子は頬をかばうこともせず、体勢を戻して、それから、とひるまずに言葉を継ぐ。
「他人の仕事を馬鹿にするのも結構だけど、どうして私なんかと比較して、勝った勝ったって喜べちゃうの?」
私はあなたのネガとして育てられたのに。斜めにうつむけた頬と唇には、乱れた髪が張りついている。ねえ母さん、と呼ぶ下唇から細く血が伝った。
「完璧な家庭を作れ、なんて誰があなたに頼んだ? 誰もこんな家になんか興味はないのよ」
二発目は、それと意識して手を出した。忌まわしい分身を力いっぱい殴りつけ、打ち砕きたかった。頬を張り、左手で首根っこをつかむと右で喉首を、体重をかけひと息に床へ押し倒し、とにかくつかまえておこうと夢中で両手に力を込める。息が詰まりゆり子はあえいだ。もがく脚がテーブルを蹴り上げ、横倒しになった天板のガラスが派手な音を立てて割れる。苦しさから逃れようと、首をしめつけてくる手指を引きはがし、身体ごと抜け出そうとしたゆり子は勢いあまって、木製の電話台に肩をしたたかに打った。電話機が床へ落ち、切手シートが見開きの状態で膝に載る。
乙女チックなラブシーンのスチールを、ゆり子は咳き込みながら見下ろし薄笑いを浮かべた。菜穂子にはそう見えた。乱れ髪をつかみ、激しく揺さぶり、引きずり倒し、まるで昔のように、肩といわず腰といわず足蹴にした。
憤りが昂じれば昂じるほど、激しく責めたならそれだけ、ゆり子は菜穂子のなすがまま、逃れようと試みはするが、殴られても蹴られても決して刃向かおうとはしなかった。両腕で頭をかばい、壁際へ後退って、背を丸め、そうしていればやがて消えてしまえるとでもいうように、ちいさくちいさく四肢を引きつけ縮こまる。幼い頃にも、今も、娘は無力で、泣き叫びもしないそのさまがますます菜穂子の熱をあおった。突き飛ばすなり、腕や脚をはらいのけるなり、哀願や、逆襲すら可能だろうに手も足も出そうとせず、なにも起きてはいない、痛みはなにも変えないといわんばかりに身を晒し、菜穂子を否定する。
「虫ケラのくせに。馬鹿にしやがって、どいつもこいつも、私を見くびって馬鹿にしてる」
この娘は、私を否定するために生まれてきた。
「思い知ればいい。なにものでもないって、生きていてもしようがないって。こんな女、誰も相手にしない。いても、いなくても、誰も気づきもしない」
ゆり子を罵る言葉は、そのまま、菜穂子がひた隠しにしてきた想いだった。ゆり子にはそれがわかった。涙が溢れた。哀しくて、それも、自分自身のことではなく菜穂子の言動が憐れでならないから、別離の痛みにじっと耐えていた。もう、この人とうまくやっていこうなんて思うまい。だが菜穂子は、謝りなさい、と吼えるように命じている。さあ顔を上げなさい、謝るのよ、言うことを聞かぬのならと菜穂子が腕を伸ばし、ゆり子の髪をつかみ頭を引っ張り上げようとした時、けたたましい電子音が空気を震わせた。》



まあ、とにかく、久々に読書に集中できた充実した通勤時間でした。幸い乗り過ごすこともありませんでした。



忠臣蔵

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いよいよ年の瀬になりました、昨夜は、各課合同の会社の納会も終わり、いよいよ一週間の正月休暇です。

この期間に、まとまった旅行でもすれば有意義に使えるのではないかと、いつも思うのですが、現実問題として考えれば、はずせない定番の家庭のイベントがいくつかありますし、そのための用事がちょびちょびあり、毎年、あとから振り返れば、家庭人としてそれなりに必要とされているので、そのすべてを放り出しての「正月旅行」というのは、今のところ自分的にはちょっと考えられません、しばらくは家庭サービスのためにもこの期間を開けておこうと思っています。

それにほら、よく言うじゃないですか、旅行はあれこれ計画しているときが一番楽しいって。

そして実際、旅行会社にあちこち連れまわされる総花的な定番ツアーのあとの、あの義務を果たしたときに感じるような疲労感というか徒労感(そうした旅の思い出も、あとから考えれば、なんだかカタログ的です)しか残らない虚しさを思えば、やはり正月旅行は、近い将来には果たしたい「夢」として持ち続け、先送りしている状態の方が、なんだか正解のような気もしますし。

しかし、この期間に自分の時間がまったく持てないかというと、そんなことはありません。

なんといってもサラリーマンの武器は、「早起き」の習慣です、すっかり「休暇」に緩みきって、午前中はゆっくり寝ている家人に比べたら、自分は日頃からとんでもない早朝に起きる習慣が身についている筋金入りのサラリーマンです、目覚まし時計などセットしておかなくとも、「その時間」ともなれば1秒たがわずパッチリ眼が開いて、今の時期は日の出までまだまだ1時間は優にあろうかという時刻ですが、体の方はもうすっかり目覚めていて、もはや積年あこがれの「二度寝」など考えられないような覚醒状態にあり、家人が起き出してくるまでの数時間は、読書をしようが、ゲームをやろうが、you tubeに嵌まろうが、なんだってできる、まさに自分だけの解放区なわけですよね。Webで見られるお手軽映画なら、優に2本はいけそうな時間です。

さっそく「クリック・クリック」で検索を始めました。

ハハーン、gyaoで大曾根辰保の「大忠臣蔵」がアップされていますね、こりゃまた面白そうじゃないですか、画像には、討ち入りの衣装を着込んだ大石内蔵助の写真が大きく掲載されています、市川猿之助ですか。へぇ~めずらしいなというわけで、スタッフとキャストの記事をチェックしたら、「出演: 高田浩吉, 有馬稲子, 山田五十鈴, 松本幸四郎(初代・松本白鸚), 市川染五郎(九代目・松本幸四郎)」とだけあって、主役のはずの猿之助の名前がありません、これじゃあまるで「松本幸四郎(初代・松本白鸚)」が主役で大石内蔵助を演じているみたいじゃないですか。

松本幸四郎主演の忠臣蔵といえば、名作の誉れ高い「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」のはずです。おかしいじゃないですか、今日は一日中、暇なことでもありますので、ここはじっくり調べてみることにしました。
この1950年代に撮られた大曾根辰保監督「忠臣蔵」といえば2本あって、1957年製作がこの猿之助主演の「大忠臣蔵」で、松本幸四郎作品は、1954年に製作された「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」みたいですよね、まあ、せっかく調べたことでもありますので、その調査結果を以下に掲げておきますね。


忠臣蔵 花の巻、雪の巻(1954松竹・京都撮影所)総指揮・大谷竹次郎、製作・大谷隆三、高村潔、製作補・高木貢一、市川哲夫、監督・大曾根辰夫、脚本・村上元三、依田義賢、撮影・石本秀雄、音楽・鈴木静一、
配役・松本幸四郎・初代松本白鸚(大石内蔵助)、高田浩吉(浅野内匠頭)、滝沢修(吉良上野介)、鶴田浩二(毛利小平太)、北上弥太郎(岡野金右衛門)、高橋貞二(多門伝八郎)、田浦正巳(大石主税)、山内明(片岡源五右衛門)、近衛十四郎(堀部安兵衛)、水島道太郎(不破数右衛門)、薄田研二(堀部弥兵衛)、河野秋武(原惣右衛門)、大坂志郎(武林唯七)、柳永二郎(柳沢出羽守)、坂東鶴之助(矢頭右衛門七)、山田五十鈴(大石妻りく)、月丘夢路(瑤泉院)、淡島千景(浮橋太夫)、桂木洋子(しの)、瑳峨三智子(つや)、幾野道子(安兵衛妻こう)、
1954.10.17 25巻 6,401m 白黒


大忠臣蔵(1957松竹・京都撮影所)総指揮・城戸四郎、製作・白井和夫、監督・大曾根辰夫、脚本・井手雅人、撮影・石本秀雄、音楽・鈴木静一、美術・大角純一、録音・福安賢洋、照明・寺田重雄
配役・市川猿之助・猿翁(大石内蔵助)、市川団子(大石主税)、水谷八重子(大石妻お石)、高田浩吉(早野勘平)、高千穂ひづる(おかる)、坂東簑助(加古川本蔵)、山田五十鈴(戸無瀬)、嵯峨三智子(小浪)、北上弥太郎(浅野内匠頭)、有馬稲子(あぐり・瑤泉院)、石黒達也(吉良上野介)、大木実(清水一角)、永田光男(千崎弥五郎)、市川小太夫(原惣右衛門)、名和宏(片岡源五右衛門)、森美樹(桃井若狭助)、片岡市女蔵(斧定九郎)、野沢英一(与市兵衛)、毛利菊枝(おかや)、小夜福子(戸田局)、戸上城太郎(不破数右衛門)、近衛十四郎(寺坂平右衛門)、市川染五郎(矢頭右衛門七)、嵐吉三郎(落合与右衛門)、伴淳三郎(幇間)、松本幸四郎(立花左近)、
1957.08.10 松竹中央劇場 17巻 4,248m カラー 松竹グランドスコープ


こんな感じです、しかし、「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」に比べて、こちらは「シネマスコープ・総天然色」が売りなだけで、出来としては、やや精彩を欠いた作品とはいわれているものの、渋みのある市川猿之助主演ですから、これもまた大いに楽しみです。

当時、映画批評家・北川冬彦は、「大忠臣蔵」について、こんなふうにコメントしています。
「この『大忠臣蔵』には新たな解釈などいささかもない。これははっきり仮名手本で、歌舞伎的な場面が充満している。映画と歌舞伎との、あまり見事ではないがまあカクテルの味があった。シナリオにはごたごた無駄があったが映画を見て大曾根辰保のシネスコ的コンテの作り方に感心した。それに映画と歌舞伎のカクテルになり損ねていたり、名優猿之助や幸四郎に精彩がなかったのは考えさせられた。映画の演技として右太衛門、千恵蔵に及びもつかないのである。八重子もセリフははっきりしているが表情がいただけない。歌舞伎と映画とが割合ミックスした場面、例えば、一力茶屋の場は画面が充実していてシネスコ的演出を感じた。」(キネマ旬報186号)

まあ、べた褒めというわけにはいきませんが、しかし、こういう批判もまた映画を楽しむためのひとつの材料にはなりますよね、いや、それどころか、一層楽しみが増すってものじゃないですか。

しかし、このとき、ちょっとショッキングな記事も見つけてしまいました。自分が、「名作の誉れ高い」と思っていた「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」が、「それほどのものか」という疑問が投げかけられている記事です。

「この忠臣蔵はあくまでも仇討ではなく、お家の再興という点を強調して描かれた。大石が討入りを決心するのは、決行の5日前くらいとなっている。
4時間に及ぶ長尺だが、いたるところに疑問を感じながら観た記憶がある。とくに大きな矛盾は、大石が討入りすることをすべての人々が知っていて、討入りを決意するのは5日前くらいとなっているが、その間どうして討入り道具が揃ったのか、新解釈もところどころボロを出している。幸四郎の大石もこのときは重厚な演技とはいえなかった。」(御園京平「映画の忠臣蔵」)


右太衛門の忠臣蔵

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先日、テレビのニュースを見ていたら、ある外食産業が例年開店していた正月の営業を取り止めると発表していました。

ああそうか、いままで当たり前に思っていましたが、これってバブル期の名残りだったんですね、改めて感じました。

「働き方改革」っていうと、なんだかつい最近の新政策みたいに思っていましたが、実はすでに現実の方が大きく変わってしまっていて、「政策」が慌てて綻びた現実の手当に動いたということなのかもしれません。

元日でも家にじっとしていられず、とにかくどこかに出かけたい人間にはちょっとさびしいことになるのかもしれませんが、この「イケイケの正月開店」という強引な考え方自体が、「少子高齢化による売り上げ減」とか「超過勤務」とか「シャッター通り」とか、最早いまの現実には合わない働き方になってしまっていたんでしょうね、

考えてみれば、自分の子供時代だって、正月三が日は、どこの店(個人商店です)も閉まっていて、寒風に晒されながら広っぱで凧揚げやコマ回しをした記憶がありますが、しかし、いま思えば、あれってそうするしかほかにできることがなかったから仕方なかったという面もあったのかもしれません。

だって、大型スーパーだとか、24時間開店しているコンビニができるまでの夜道は、それこそ真っ暗でした。

つまりこれなんかは、「昔なくて、今あるもの」ですが、「昔あって、今ないもの」の象徴みたいなものといえば、年末に必ずと言っていいくらい上映していた「忠臣蔵」ではないかと思います。

最近ではすっかりすたれてしまいましたが、むかしは年末ともなると、年中行事のように、決まってどこかの映画会社が必ず「忠臣蔵」を作って上映していたものでしたよね。

子供のころ、年の瀬には親に連れられて実に様々な「忠臣蔵」を見た記憶があります。

何かの拍子にふっと蘇ることがあって、そんなときは、なんだか切なくなったりしますが、まさに年中行事という感じだったと思います、そういう印象があります。

しかし、そんな感じで毎年のように見てきた「忠臣蔵」ですが、その数があまりにも多くて、どれがどれやら作品の区別などさっぱりつかない混濁した状態なのですが、しかし、その特定できないというモヤモヤ感が、ある意味、ある種の「郷愁」を形成して、少年期の懐かしい記憶のひとつになっている気もします。

たぶん、この誰もが持っている「懐かしさ」が、いまではすっかり新作の製作の途絶えた現在でも、CS放送などで旧作の「忠臣蔵」上映をうながす隠れたパワー(というか「圧」)になっているのかもしれません。

まあ、いずれにしても、懐かしい「忠臣蔵」を見られるということは実に嬉しいかぎりで、自分もその貴重な機会を逃さないように、ここのところ、日常的に「忠臣蔵」の放送情報なんかをこまめにチェックしてネット検索に励んでいます。

そんなふうに検索の毎日をおくっていたとき、ネットの「Q&A」でこんな質問に遭遇しました。

「よろずある『忠臣蔵』や『赤穂浪士』を題材にした映画のうち、どれがお勧めでしょうか」とか、あるいは、「忠臣蔵の傑作を教えてほしい」という質問です、見ていくとこの手の質問が結構あることに気が付き、ついつい読みふけってしまいました。

たとえば、「傑作ってどれ?」という「Q」に答えた「A」というのにこんなのがありました。

《なんといっても、12月10日に時代劇専門チャンネルで放送される、市川右太衛門が大石内蔵助を演じた昭和31年公開の東映オールスター映画『赤穂浪士 天の巻・地の巻』が注目作です。
これは、数ある忠臣蔵映画の中の最高傑作という評価がある大佛次郎の同名小説を映像化したもので、脚本の出来の良さもさることながら、実際の内蔵助もこんな人だったんじゃないかと思わせる、茫洋とした雰囲気を前面に押し出す右太衛門の抑えた芝居が何より見どころです。
やはり右太衛門は、十八番である『旗本退屈男』シリーズ以外(なぜ? 原文ママ)がいいんですよ。
可能であれば、ぜひとも視聴してください。
なお12月3日には、東映チャンネルで創立10周年記念を謳い昭和36年に公開された片岡千恵蔵主演の『赤穂浪士』が放送されますが、これは同じ大佛の小説を原作にしていながら、31年版の足元にも及ばない駄作です。》

なるほど、なるほど、右太衛門の忠臣蔵ですか、こりゃあ面白いじゃないですか、とにかくこちらも嫌いな方じゃなし、今日のところはやたら暇でもあるしで、勝手ながらさっそく混ぜてもらうことにしました。それにしても、片岡千恵蔵じゃなくて、なぜ右太衛門なんだという思いはありますよ、トーゼン。

実は、千恵蔵の方の「忠臣蔵」を今年の夏だかに見たばかりなので、ちょっとこの「駄作」発言には引っかかるものがありました。

もし、そう考える要素のひとつとして、千恵蔵のあの独特のセリフ回し(聞き取りにくい?)というのが入っているのだとしたら、「だって、あれがいいんじゃないですか」くらいの突っ込みを入れたくなる誘惑に駆られたりします。

しかしまあ、それはともかく、右太衛門が出演した「忠臣蔵」作品をjmdbで調べてみました、なんせこちらは、すこぶる暇ですし。暇ついでに右太衛門には★マークなども入れてみました。

こう調べてみて、右太衛門が溝口健二の「元禄忠臣蔵」に出ていることを知り、ちょっと意外でした。



赤穂浪士快挙一番槍(1931市川右太衛門プロダクション・松竹キネマ)
監督・白井戦太郎、脚本・行友李風、原作・行友李風、撮影・松井鴻
出演・★市川右太衛門、大江美智子、高堂国典、武井龍三、伊田兼美、正宗新九郎
1931.01.31 帝国館 8巻 白黒 無声


忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻(1932松竹キネマ・下加茂撮影所)
忠臣蔵 後篇 江戸の巻(1932松竹キネマ・下加茂撮影所)
企画・白井松次郎、大谷竹次郎、企画補助・白井信太郎、城戸四郎、井上重正、監督・衣笠貞之助、監督補助・渡辺哲二、大曽根辰雄、森一、脚本・衣笠貞之助、原作・衣笠貞之助、撮影・杉山公平、撮影補助・真々田潔、加藤武士、作曲指揮・塩尻清八、演奏・日本新交響楽員、作曲選曲・杵屋正一郎、長唄・杵屋六、杵屋六徳、杵屋六栄、三味線・杵屋六祥、杵屋六佐喜、杵屋六加津、杵屋六美代、杵屋六祥次、杵屋六喜栄、杵屋六弥太、鼓曲・望月太明蔵、笛・住田又三久、小鼓・望月太明蔵、大鼓・望月太意四郎、太鼓・六郷新之助、囃子・望月太明七郎、望月太計夫、望月幸一郎、洋舞・江川幸一、邦舞・尾上菊蔵、舞台意匠・吉川観方、設計・香野雄吉、舞台装置・尾崎千葉、高橋康泰、装飾・光谷義淳、八田務、橋本博、録音・土橋武夫、録音補助・中西進、松本辰吉、河野貞樹、西村滋、杉山政樹、中岡義一、照明・今島正人、高倉政史、山根秀一、衣裳・松竹衣裳部、殺陣・林徳三郎、字幕・望月淳、顧問・大森痴雪、
配役・阪東寿三郎(大石内蔵之助)、林長二郎(浅野内匠頭長矩、吉田沢右衛門)、★市川右太衛門(脇坂淡路守、垣見五郎兵衛)、岩田祐吉(大野九郎兵衛)、藤野秀夫(千阪兵部)、上山草人(吉良上野介)、高田浩吉(大石瀬左衛門)、堀正夫(原惣右衛門、草間格之助)、尾上栄五郎(小林平八郎)、坂東好太郎(勝田新左衛門)、野寺正一(堀部弥兵衛)、武田春郎(大久保権右衛門)、新井淳(家老斎藤宮内)、押本映治(笠原長太郎)、島田嘉七(上杉綱憲)、結城一郎(加藤遠江守)、阪東寿之助(矢頭右衛門七)、実川正三郎(大野九十郎)、小笠原章二郎(間十次郎)、関操(小山源五左衛門)、志賀靖郎(大竹重兵衛)、坪井哲(片岡源五右衛門)、風間宗六(伊達伊織)、高堂国典(上杉家家老)、斎藤達雄(不破数右衛門)、小林十九二(外村源左衛門)、日守新一(幇間狸六)、大山健二(大高源吾)、宮島健一(梶川与惣兵衛)、岡譲二(柳沢出羽守)、小倉繁(碇床主人)、滝口新太郎(大石主税)、喜曽十三郎(奥田孫太夫)、高松錦之助(進藤源四郎)、小泉嘉輔(大野家用人)、中村吉松(清水一角)、山本馨(内蔵助下男八助)、中村政太郎(朝倉喜平)、小林重四郎(堀部安兵衛)、沢井三郎(多門伝八郎)、広田昴(韋駄天の猪公)、井上晴夫(間瀬孫九郎)、宇野健之助(家老左右田孫兵衛)、永井柳太郎(千阪家用人)、静山繁男(大石家用人)、森敏治(上杉の刺客)、百崎志摩夫(講釈師)、小川時次(中村勘助)、長嶋武夫(武林唯七)、山路義人(江戸ッ児熊公)、柾木欣之助(臆病武士)、日下部龍馬(早水藤左衛門)、竹内容一(萱野三平)、青木弘光(赤埴源蔵)、高山雄作(吉良家附人)、和田宗右衛門(矢頭長助)、三井一郎(小野寺幸右衛門)、千葉三郎(吉良の用心棒)、冬木京三(神崎与五郎)、芝一美(吉良の附人)、中村福松(貝賀助右衛門)、土佐龍児(垣美の附人)、大崎時一郎(幇間仙八)、市川国蔵(お坊主)、木村猛(下男斗助)、・来留島新九郎(お坊主)、・石川玲(江戸ッ児留公)、・石原須磨男(大野派の梶村)、矢吹睨児(上杉の刺客)、南部正太郎(上杉の刺客)、津田徹也(瓦版売り)、頼吉三郎(お坊主)、三井秀男(碇床小僧)、阿部正三郎(碇床小僧)、突貫小僧(餓鬼大将)、菅原秀雄(大三郎)、市川右田三郎(芝居の師宣)、嵐若橘(塩冶判官)、嵐巖常(大名)、片岡孝夫(大名)、嵐橘利之助(大名)、嵐巖太郎(大名)、阪東助蔵(大名)、竹本菊勢太夫(浄瑠璃)、重沢延之助(三味線)、川田芳子(大石妻理玖)、飯田蝶子(不破の妻縫)、鈴木歌子(おるいの母親)、八雲恵美子(浮橋太夫)、田中絹代(八重)、川崎弘子(瑤泉院)、岡田嘉子(おるい)、柳さく子(戸田局)、千早晶子(勝田妻光)、飯塚敏子(芸者小妻)、井上久栄(大野九十郎の妻)、河上君栄(芸者信香)、千曲里子(芸者小桜)、北原露子(芸者力弥)、中川芳江(七兵衛七の母親くに)、
前編1932.12.01 東京劇場 10巻 2,995m 109分 白黒
後編1932.12.01 東京劇場 10巻 2,818m 103分 白黒


元禄忠臣蔵 前篇(1941興亜映画・松竹・京都撮影所)
総監督・白井信太郎、演出者・溝口健二、演出助手・渡辺尚治、酒井辰雄、花岡多一郎、小川家平、脚色者・原健一郎、依田義賢、原作者・真山青果、撮影・杉山公平、撮影助手・松野保三、中村忠夫、吉田百人、作曲・音楽監督・深井史郎、演奏・新交響楽団、指揮者・山田和男、美術監督・水谷浩、建築監督・新藤兼人、建築助手・渡辺竹三郎、装置者・六郷俊 大野松治、装置助手・小倉信太郎、襖絵装飾・沼井春信、伊藤栄伍、装飾者・松岡淳夫、荒川大、大沢比佐吉、装飾助手・西田孝次郎、録音者・佐々木秀孝、録音助手・杉本文造、田代幸一、木村一、照明者・中島末治郎、三輪正雄、中島宗佐、編集者・久慈孝子、速記者・山下謙次郎、普通写真撮影者・吉田不二雄、服飾者・川田龍三、奥村喜三郎、服飾助手・加藤信太郎、技髪者・高木石太郎、技髪助手・尾崎吉太郎、福永シマ、現像者・富田重太郎、
字幕製作者・望月淳、
〔考証者〕武家建築・大熊喜邦(文部省嘱託・工学博士)、言語風俗・頴原退蔵(京都帝国大学講師・文学博士)、民家建築・藤田元春(第三高等学校教授)、時代一般・江馬務(風俗研究所長)、能・金剛厳(金剛流宗家)、史実・内海定治郎(義士研究家)、風俗・甲斐荘楠音(旧国画創作協会同人)、造園・小川治兵衛(「植治」)、素槍・久保澄雄(立命館大学範士・貫流)
配役・河原崎長十郎(大石内蔵助)、中村翫右衛門(富森助右衛門)、河原崎国太郎(磯貝十郎左衛門)、嵐芳三郎(浅野内匠頭)、坂東調右衛門(原惣左衛門)、助高屋助蔵(吉田忠左衛門)、瀬川菊之丞(大高源吾)、市川笑太郎(堀部弥兵衛)、市川莚司(武林唯七)、市川菊之助(片岡源五右門)、山崎進蔵(大石瀬左衛門)、市川扇升(大石松之丞・主税)、市川章次(瀬尾孫左衛門)、市川岩五郎(早水藤左衛門)、市川進三郎(潮田又之亟)、坂東春之助(井関紋左衛門)、中村公三郎(生瀬十左衛門)、坂東みのる(大塚藤兵衛)、坂東銀次郎(岸佐左衛門)、 嵐徳三郎(奥野将監)、筒井徳二郎(大野九郎兵衛)、加藤精一(小野寺十内)、川浪良太郎(岡嶋八十右衛門)、海江田譲二(堀部安兵衛)、大内弘(萱野三平)、大川六郎(近松勘六)、大河内龍(奥田孫兵衛)、羅門光三郎(井関徳兵衛)、小杉勇(多門伝八郎)、三桝万豊(吉良上野介)、清水将夫(加藤越中守)、坪井哲(進藤築後守)、山路義人(梶川与惣兵衛)、玉島愛造(深見宗近左衛門)、南光明(近藤平八郎)、井上晴天(久留十左衛門)、大友富右衛門(大久保権右衛門)、賀川清(田村右京太夫)、粂譲(稲垣対馬守)、沢村千代太郎(関久和)、中村進五郎(津久井九太夫)、嵐敏夫(登川得也)、市川勝一郎(石井良伯)、★市川右太衛門(徳川綱豊)、三浦光子(瑶泉院)、滝見すが子(浮橋)、岡田和子(うめ)、山路ふみ子(お喜世)、京町みち代(お遊)、中村梅之助(吉千代)、三井康子(おくら)、山岸しづ江(大石妻おりく)、
1941.12.01 国際劇場 11巻 3,066m 112分 白黒


赤穂浪士 天の巻 地の巻(東映・京都撮影所)
製作・大川博、企画・マキノ光雄、山崎真市郎、坪井与、大森康正、玉木潤一郎、辻野力弥、岡田茂、監督・松田定次、助監督・松村昌治、脚色・新藤兼人、原作・大仏次郎、撮影・川崎新太郎、音楽・深井史郎、美術・角井平吉、森幹男、録音・佐々木稔郎、照明・山根秀一、編集・宮本信太郎、時代考証・甲斐荘楠音、色彩担当・岩田専太郎、進行・栄井賢、スチール・熊田陽光、 
配役・
★市川右太衛門(大石内蔵助)、片岡千恵蔵(立花左近)、月形龍之介(吉良上野介)、薄田研二(堀部弥兵衛)、堀雄二(堀部安兵衛)、原健策(片岡源五右衛門)、片岡栄二郎(毛利小平太)、植木基晴(吉千代)、清川荘司(渋江伝蔵)、百々木直(梶川与惣兵衛)、神田隆(小平太の兄)、月形哲之介(武林唯七)、時田一男(三国屋番頭清吉)、団徳麿(八助)、大文字秀介(深井伝四郎)、植木義晴(大三郎)、尾上華丈(原惣右衛門)、小金井修(三村次郎左衛門)、遠山恭二(菅野三平)、森田肇(吉田吉左衛門)、葉山富之輔 (間瀬久太夫)、近江雄二郎(潮田又之丞)、河村満和(近松勘六)、熊谷武(菅谷半之丞)、原京市(富森助右衛門)、小金井勝(奥田孫太夫)、源八郎(村松喜兵衛)、人見寛(室井左六)、舟井弘(泉岳寺の僧)、小田部通麿(岡林埜之助)、山村英三朗(戸村源右衛門)、近松龍太郎(玉虫七郎右衛門)、津村礼司(赤垣源蔵)、有馬宏治(早水藤左衛門)、大丸厳(寺坂吉右衛門)、上代悠司(前原伊助)、河部五郎(権太夫)、中野市女蔵(伊達左京亮)、中村時十郎(真野金吾)、加藤嘉(小野寺十内)、河野秋武(目玉の金助)、龍崎一郎(脇坂淡路守)、進藤英太郎(蜘蛛の陣十郎)、中村錦之助(小山田庄左衛門)、大友柳太朗(堀田隼人)、東千代之介(浅野内匠頭)、小杉勇(千坂兵部)、宇佐美淳(柳沢出羽守)、三島雅夫(丸岡朴庵)、三条雅也(大高源吾)、高木二朗(片田勇之進)、高松錦之助(穂積惣右衛門)、明石潮(安井彦右衛門)、楠本健二(神崎与五郎)、青柳龍太郎(近藤源八)、水野浩(藤井又左衛門)、堀正夫(中村清九郎)、加藤正男(江戸の商人E)、山内八郎(町人B 多吉)、中野文男(平谷新兵衛)、富久井一朗(町人A 三次)、小田昌作(江戸の町人A)、舟津進(江戸の町人B)、矢奈木邦二郎(江戸の町人C)、浅野光男(江戸の町人D)、若井緑郎(江戸の町人E)、東日出夫(駆けて来る男源太)、藤木錦之助(伝奏屋敷の番士)、石丸勝也(巡礼A)、村田宏二(巡礼B)、丘郁夫(関久和)、葛木香一(牟岐平右衛門)、伊藤亮英(三国屋五平)、中野雅晴(磯貝十郎左衛門)、岸田一夫(朴庵の弟子)、香川良介(大野九郎兵衛)、沢田清(将軍綱吉)、吉田義夫(石屋の源六)、藤川弘(清水一学)、杉狂児(松原多仲)、加賀邦男(小林平七)、東宮秀樹(上杉綱憲)、三浦光子(大右妻りく)、高千穂ひづる(お仙)、田代百合子(さち)、浦里はるみ(お柳)、植木千恵(おくう)、吉井待子(しのぶの女中)、毛利菊枝(宗偏の妻)、赤木春恵(長屋のお内儀)、吉田江利子(京の料亭仲居 おさん)、六条奈美子(弥兵衛の妻 若)、鳳衣子(京の料亭仲居 お米)、松浦築枝(十内の妻 丹)、八汐路恵子(京の料亭仲居 お菊)、星美智子(安兵衛の妻 幸)、千原しのぶ(夕露太夫)、喜多川千鶴(お千賀)、伏見扇太郎(大石主税)、
1956.01.15 15巻 4,136m 151分 イーストマン・カラー


★赤穂浪士(1961東映・京都撮影所)
製作・大川博、企画・坪井与、辻野公晴、玉木潤一郎、坂巻辰男、監督・松田定次、脚本・小国英雄、原作・大仏次郎、撮影・川崎新太郎、音楽・富永三郎、美術・川島泰三、録音・東城絹児郎、照明・山根秀一、
配役・片岡千恵蔵(大石内蔵助)、中村錦之助(脇坂淡路守)、東千代之介(堀部安兵衛)、大川橋蔵(浅野内匠頭)、丘さとみ(お仙)、桜町弘子(お咲)、花園ひろみ(桜)、大川恵子(北の方・瑤泉院)、中村賀津雄(伝吉)、里見浩太郎(上杉綱憲)、松方弘樹(大石主税)、柳永二郎(柳沢出羽守)、多々良純(佐吉・蜘蛛の陣十郎)、尾上鯉之助(武林唯七)、明石潮(原惣右衛門)、戸上城太郎(小林平八郎)、阿部九州男(片田勇之進)、加賀邦男(赤垣源蔵)、原健策(猿橋右門)、長谷川裕見子(千代)、花柳小菊(おりく)、青山京子(楓)、千原しのぶ(浮橋太夫)、木暮実千代(おすね)、大河内伝次郎(立花左近)、近衛十四郎(清水一角)、山形勲(片岡源五右衛門)、薄田研二(堀部弥兵衛)、進藤英太郎(多門伝八郎)、月形龍之介(吉良上野介)、大友柳太朗(堀田隼人)、★市川右太衛門(千坂兵部)、
1961.03.28 12巻 4,122m 150分 カラー 東映スコープ


Strange Fruit meets Citizen Kane

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昨年、近親者を亡くしたので、今年の正月三が日は、「賀」ではなく「喪」としてすごしました、華やいだことは一切せず、また、誰にも会うこともなく、静かに家に閉じこもっていた三が日でした。

その間、もちろん小説も映画も見ていません。

でも「喪」に服すというのは随分退屈なもので、貧乏性の自分には、その「無為」に耐えられず、結局、年末に会社から持ち帰ってきた仕事を取り出して、気が向けば退屈まぎれに少しずつやりました。

近親者を亡くしたのは、これが初めてではありませんし、その時のショックが過ぎれば、時間の経過とともに、その人の思い出や、共有にした生々しい記憶なども少しずつ薄まって、やがてすべてが心地よい清浄な思い出に着実に薄らぐということを、経験のうえから十分に承知しているので、日々を静かにやり過ごし、なにもかも自然な時間の流れに委ねて「待っている」という感じです。

そんななかで、ときおり思うことは、生前の彼と、なんでもっと突っ込んだ話をしておかなかったのかという悔いが、ふっとよぎることがありました。

しかし、同時に、その思いが無意味なものにすぎないという気もしています。

共に過ごしたあの日々に、話そうと思えばその機会も、そしてその時間も、それこそ十分にあったわけで、事実多くのことを話し合いました。

自分ではそれが「突っ込んだ話」だと思ってきたものが、亡き人には、そうではなかったという意味合いのことを、残された言葉の中にみつけて以来、前述した「悔い」に捉われるようになり、相手の思いと自分の思いとの隔たりに愕然とし、その落差について考えるようになりました。

お互いにもっと打ち解けたかったという「孤独な言葉」を残していった彼と、十分に語りつくしたと感じていた自分とのあいだにある「落差」です。

この過去の今は亡き彼から突き付けられた突然の「弱々しい抗議」に戸惑いながらも、時が経つにつれて、だんだん分かってきたことがあります。

もし、あのとき、自分としてはそうは思っていなかったにしても、彼の方が絶えず「突っ込んだ話」ができないという悔いを抱いていたとしたなら、それは「できなかった」のではなくて「しなかった」からではないかと。

いつの場合でも、自分としては心を開いて「突っ込んだ話」をしてきたつもりです、だから彼だってそうしているに違いないと思っていて当然だった自分に対して、「突っ込んだ話」ができなかったと彼が思っていたなら、そこまでが話すことのできた彼自身の限界点だったからではなかったかと。

あのとき、そしてたぶんいつの時でも、少なくともお互いが話しあえる十分な状態にはあったのですから。

そして、あえてお互いの「限界」のさらにその先まで強引に踏み込めなかったことを自分が「悔いている」のだとしたら、それこそ見当違いな「悔い」なのではないかと思えてきたのです。

君がどうしても話せなかったことは、たぶん、そこまで他人に話すべきことではないことを、まさに君自身が知っていたからだと思います。自分の中にとどめておいて静かに耐えるべきもの、またそれ以外には、どうにもできなかったもののひとつだったからではないかと。

それは当時だって、いつの場合でも、自分には「彼の孤独」を理解はできても、到底背負いきれるものではありませんし、誰もがそうであるように、「自分の孤独」は自分で引き受けて背負うしかない、そしてそれは今だってなにひとつ変わってはいない。そう思い至りました。

こんな訳の分からない考えを堂々巡りさせながら、暮れに会社から持ち帰った単純作業を終日パソコンでせっせと処理していました。
仕事というのは、3年毎に刊行されている名簿が今年の年末にまた予定されているので、その準備としてデータ収集と整理をする単純作業です。

国家試験に合格した人たちが、研修所を卒業して各役所に任官していく人、あるいは事務所に就職していく人を一覧にした名簿で、わが社の予算の目標達成には欠かせない、売り上げもそれなりに約束されているという、とても重要な刊行物です。

しかし、まあ、やることといえば、あちこちのwebから切り取ってきた事項を、こちらに貼り付けて50音順に整えるという、およそ生産的とはいえない作業ですが、しかし、この作業がすべてのデータ基盤作成には欠かせないパーツとなるので、あだや疎かにはできません、時間のある時に少しでも着実に進めておかなければなりません。

新卒業生が千数百人、それに過去の卒業者を加えると数万人という規模の名簿ですので、一週間もかかれば、することがなくなるなどという懸念は少しもありません、その気の遠くなるような量の記事を、端から「区間指定して切り取ってきて、こっちに貼り付ける」というとんでもない単純作業を限りなく繰り返していくので頭がどうにかなってしまいそうで、静謐・無音の状況下ではとても耐えられるものではなく、せめて耳だけでも「単調さ」から神経を逸らして麻痺させるために、手持ちのCDやyou tubeなど、あらゆる分野の音楽を総動員してバックに流し続け、単純作業に耐え、乗り越えていくということになるのですが、当初、しばらくは、去年wowowで録音した「安室奈美恵25周年沖縄コンサート」に嵌まっていました。

テンポはいいし活気もある、そしてなによりも、自分の知っている「安室奈美恵」からは想像もできないくらい、このコンサートの安室奈美恵は完璧に成熟していて、実に驚きました、心の底からこの稀有な才能の引退が惜しまれますよね、ここでかつて歌われた多くの歌も、このコンサートの方がよほど円熟しており進化のあとがありありとうかがわれ実に感心しました。

しかし、安室奈美恵ばかり聴いているわけにもいきませんので、you tubeも物色します、たまたまそこには少し前に聞いていたノラ・ジョーンズがアップされています。

それほど好きというわけではないのですが、ジャズっぽいスローなテンポの曲の方が単純作業のバックにはぴたりと合うというだけの理由で、しばらく流してみたのですが、どうも調子がでません、ジャズ・ヴォーカルをチョイスするつもりでノラ・ジョーンズを選んだのが、そもそもの誤りでした。

濁りのない線の細いノラ・ジョーンズの澄んだ声や歌い方の「普通さ」に物足りなさを感じてしまうのは、そもそもの当初、ジャズっぽいものを聞きたいという思いから大きく外れていたからだと気が付きました。

もっとジャズっぽいものを聴きたいという思いで聞き始めたのがシナトラ、それからトニー・ベネットにエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ヘレン・メリル、そしてジュリー・ロンドンの「Cry Me a River」を聞くに及んで、耳の中に沈殿していたものが突如共振するかのように動き出し、むかしの思い出が一気に呼び覚まされました。

学生時代、ジュリー・ロンドンの「Cry Me a River」に感動し、必死になってマスターしようとした最初のジャズ・ナンバーです、結局、貧弱な声帯しか持ち合わせていない自分などには到底およばない情感豊かな声量で間を保つことができず、どうやってもうまく歌えませんでした。

しかし、この総毛立つような感じこそ、自分にとっての「ジャズ」だったんだなと、はじめて気が付きました。

そうそう、だんだん思い出してきました。

当時、ヘレン・メリルの歌い方に惹かれ、彼女の歌を夢中になってしばらく聞き込んでいたのですが、あるとき、それがビリー・ホリディの歌い方のコピーだと知らされて、それからというものビリー・ホリディだけを聞き始める切っ掛けになり、すっかり虜になってしまいました。

発売されている限りのレコードを買い集め、自伝「LADY SINGS THE BLUES」も読みました。

そんなとき、ダイアナ・ロス主演の映画「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」が封切られ、たまらない違和感を覚えたことを思い出しました。

いまから思えば、それは破天荒に生きた歌手ビリー・ホリディのブームかなにかだったのか、それとも、ビリー・ホリディの壮絶な生きざまが、その「破天荒さ」のゆえに、ニューシネマの題材にぴったりと合っていて、思いつきみたいに映画化されただけだったのか、当時の事情がどうだったか、どうしても思い出せませんが、この映画が、「俺たちに明日はない」と同じ発想から企画されたものなら随分だなと憤ったことだけは記憶にあります。

あれが「ブーム」として長く続いたという印象がないのも、そのあたりにあるのかもしれません。
それは、映画「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」に対する印象にも通じるものがあって、ビリー・ホリディとはまったく異質のタイプ、都会的に洗練されたダイアナ・ロスをレディ・デイとして、どうすれば感情移入できるのか、白ける気持ちが先に来て、どうしても馴染めませんでした。

ダイアナ・ロスの演技が、アカデミー賞にノミネートされたということも聞きましたが、自分としては最後まで、「いじめられっぱなしの被害者・ビリー・ホリディ」の描き方には、どうしても賛同することができませんでした。

生涯にわたって彼女をさんざんに弄び食い物にした詐欺師たち(そう描かれています)は、ただの与太者や犯罪者というよりも、彼らもまたビリー・ホリディと同じように社会から拒まれ弾き出された社会的不適用者・弱い人間にすぎず、しかも彼女もまた、彼らの「そういう弱いところ」(彼らこそ自分と同じ地獄を生きてきた同類として)を心の底から深く理解して愛していた側面を描き込まない限り、何度も裏切られ、薬物の泥沼に限りなく溺れ込んでいくビリー・ホリディの修羅を到底理解することはできません。

「Cry Me a River」を聞きいていたそのとき、はっと気がつきました、もしかしたら自分は、ビリー・ホリディの「Strange Fruit」に出会うために、まるでなにかを探すようにして、いままでこうして多くの楽曲を片っ端から聞いていたのではないのか、と。

You tubeで繰り返し「Strange Fruit」を聞きながら、「奇妙な果実」の歌詞をネット検索してみました。


Strange Fruit

Southern trees bear strange fruit,
Blood on the leaves and blood at the root,
Black bodies swinging in the southern breeze,
Strange fruit hanging from the poplar trees.

Pastoral scene of the gallant south,
The bulging eyes and the twisted mouth,
Scent of magnolias, sweet and fresh,
Then the sudden smell of burning flesh.

Here is fruit for the crows to pluck,
For the rain to gather, for the wind to suck,
For the sun to rot, for the trees to drop,
Here is a strange and bitter crop.


奇妙な果実

南部の木は、奇妙な実を付ける
葉は血を流れ、根には血が滴る
黒い体は南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木々に垂れている

勇敢な南部(the gallant south)ののどかな風景、
膨らんだ眼と歪んだ口、
マグノリア(モクレン)の香りは甘くて新鮮
すると、突然に肉の焼ける臭い

カラスに啄ばまれる果実がここにある
雨に曝され、風に煽られ
日差しに腐り、木々に落ちる
奇妙で惨めな作物がここにある。


そうなのか、歌詞に目を通していくうちに、なんだか無性に「ビリー・ホリディ自伝」が読みたくなりました、思い立って本棚から「LADY SINGS THE BLUES ビリー・ホリディ自伝」が収載されている「世界ノンフィクション全集40」を取り出して読み始めました。

実に何十年ぶりかでこの自伝を読んでいて、自分の記憶には全然なかった部分を発見し愕然としました。

なんと、ビリー・ホリディがオーソン・ウェルズと出会う場面があり、文脈からするとお互いに好意をもっていたらしいのです、全然記憶にありません、意外でした。

ちょっと長くなりますが、その部分を少し引用してみますね。

《そのクラブの、もう一つの素敵な夜は、オーソン・ウェルズと会った晩だった。オーソンは、私と同じようにハリウッドに来たばかりだった。私は彼が好きになったし、彼も私とジャズが好きになった。二人は一緒にいろいろな所に出かけることにした。

その晩仕事を終えると、二人はロスアンゼルスのニグロ地区、セントラルアヴェニューに向かった。私はすべてのクラブや淫売宿を案内した。私はそういう所で育ったのだが、カリフォルニアでも目新しいことはなかった。みな私が楽屋裏から知っていることばかりで、私には面白くもなかったが、彼はそれを好んだ。

彼にとっては、すべてのもの、すべての人が興味の対象なのだ。彼は、何についても、だれが、どのようにして動かしているかを知りたがった。彼が偉大な芸術家であるのは、こういう点にあると思う。

当時オーソンは、脚色・監督・主演の、処女作映画「市民ケイン」に没頭していた。踊っている最中でも、頭では翌朝六時のスタジオのことを考えているようだった。「市民ケイン」は傑作だった。私は試写で9回も見た。彼は傑出した演技を見せた。私はシーンとコスチュームの一つ一つを頭の中に焼き付けている。

何回か彼に付き合っているうちに、私がオーソンの出世の妨げになっているという怪電話を何回か受けた。噂では、スタジオが私をマークし、もし彼から離れない以上、私は永久に映画の仕事はできないだろうとのことだった。ホテルの帳場にも、事を起こそうとしている奴らからの怪電話がしばしばかかってきた。以来、多くの脅迫がオーソンに付きまとったが、彼は平気だった。彼は素敵な男だ。おそらく私が会ったなかの最高だろう。非常に才能のある男だが、それ以上に素晴らしい人間である。

今でも決して良くなってはいないが、当時の人々は、白人の男が黒人の女と一緒にいるのをひどく嫌がった。あるいは、マリアン・アンダーソンと彼女のマネージャーかもしれないし、ストリップ・ダンサーとそのヒモかもしれない。二人の組み合わせが、まったく不似合いなものであっても、小児病患者は、いつも卑しい一つのことに結び付けるのだった。もしかすると二人はそんな関係かもしれないし、そうでないかもしれない。ところがそれは、どっちでも同じことだった。二人が寝床から出てきたところか、これから寝に行くのでなければ、なにも二人でいる理由も必要もないと信じているのだから。

私たち黒人は、いつもこのような絶えざる圧力をかけられている。それに対して戦うことはできても、勝つことはできないのだ。
私がこのような圧力をかけられていなかったときが一度だけある。それはまだ少女のころ、娼婦として白人の客をとっていた時だ。
誰も何とも言わなかった。金ですることなら、何でも許されているのだ。》

結局この恋は実らず破綻したのかもしれないし、そもそも、「恋」そのものが存在していたのかどうかも、いまとなっては調べる手立てもありませんが、しかし少なくとも、Strange Fruit meets Citizen Kaneはあったのだと思うと、それだけでもなんだか嬉しい気持ちになってきました。



「七人の侍たち」の苦笑と自嘲

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年末のBSで、朝から黒澤明の主要作品を一挙放送していました。

まず最初に放映された作品が、「七人の侍」。

どっこいしょとばかりテレビの前に陣取った当初は、すべての作品を見るつもりの意気込みだったのですが、実際に「七人の侍」を見はじめたとき、こんなふうにこれからさき何作も立て続けに重厚な黒澤作品を見ることができるのかと、なんだか自信がなくなってきました、というか、むしろ疑問が湧いてきたというべきかもしれません。

それは、まず、実際問題として、黒澤明の重厚な作品群を、集中力を途切らさずに何時間も見る気力が自分にあろうとは思えないことと、そんなふうにしてまで見ることにどのような意味も価値もあるのかと疑問に思えてきたからだと思います。

結局は、「七人の侍」だけを見て、案の定集中力を使い果たし、相当に疲れ、そのあと終日、この超弩級の名作の余韻に浸りながら過ごしました、他の作品を見逃したことの後悔などいささかもなく、むしろやり過ごした方が良かったくらいだと、心地よい疲労感に満たされながら、その残念な見逃しを自分自身納得さえしたのでした。

もっとも、黒澤作品は放映されるたびに几帳面に録画しているので、同じ作品のストックなら何本もあります、とくに記録とかはしてはいませんが。

黒澤作品に限らず、未見の作品となれば、(すぐに見るかどうかはともかく)極力録画する方針なので、空きスペースを無駄に遊ばせておかず、即有効活用することを心がけていますので、厳格な空きスペース管理は欠かせません(まるでこれじゃあアパートの空き部屋を必死で埋めるために管理に苦慮する不動産屋状態です)、緻密なタイムテーブルを作成し、それを俯瞰・駆使しながら秒数きざみまでカウントして的確にかぶせ録画しているのですが、黒澤作品だけは例外として消去せずに(また、できるわがありませんが)永久欠番状態にしています。

つまり、最初から消去するつもりなど全然ないのですから、当然管理とかも必要なく、黒澤作品は録りっぱなしの野放し状態の溜まる一方、ですので、これといった「記録」もしていないというわけです。

この治外法権的な監督作品といえば、ほかに小津作品、溝口作品、成瀬作品があり、こんな感じなので、将来のいつの日にか、自分の録画ストックはすべて、黒澤作品と小津作品と溝口作品と成瀬作品とに(他の作品を凌駕して)入れ替わってしまうかもしれません。

「七人の侍」を見た後に「晩春」を見て、さて、次は「東京物語」でも見るかと探したとき、たまたま手にしたのが「浮雲」で、高峰秀子いいよなゼッテエ~、などと呟きながら、両の手には次に見る「宗方姉妹」と「雨月物語」を握りしめ、足先で手繰り寄せたのは別に録画した「七人の侍」で、おっと、確かこれはさっき見たぞなどと呟いては退け、さらに「めし」と「生きる」を足先でモゾモゾと探し当てては確保し、さらに「用心棒」も小脇に抱え、そのとき一緒に手繰り寄せた1本の作品名を確認しなかったことを思いだして、いったいこれはなんじゃらほいと見直せば、なんと「にごりえ」じゃないですかと驚き、思わず「お~い、今井正もストックしとかなきゃダメじゃないか」と誰もいない部屋で架空の相手を叱りつけ、すぐに「はいはい」などと自分で答えてあやまり、すごすごと「永久欠番棚」(あんのか、そんなもの)にあわてて今井作品コーナーをこさえたりなんかするという、これってなんとも幸せな映画オタクの白昼夢の極地であって、自分の周囲にはすべてこれ「七人の侍」で埋め尽くされ、ひとりその恍惚郷にどっぷりと浸り込み、思わずクックックと湧き上がる哄笑を必死に抑えながら肩を震わせたりしています、あぶねぇ~。

冗談はさておき(冗談にするな、この野郎)、今回「七人の侍」を見て、感じたことを書いておこうと思います。

野武士に刈り入れ時期をねらわれ、そのたびに収穫したコメと村の女を強奪されて、これでは、もはや生きていくことなどとてもできないと悲嘆して困窮したとき、村の長老が、自衛のために食い詰めた侍を雇うこと、つまり、野武士と戦うことを提案します。

いままで野武士にされるがままになって耐え忍ぶだけだった無力な百姓にとって、野武士に刃向かうというのは、それだけでも価値観を根底からひっくり返すほどのとんでもないアイデアだったはずで、さらに、その手立てとして「侍を雇う」というのですから、それはもう驚天動地の(そんなことができるのかという)秘策中の秘策だったと思います。

しかし、この「食うだけは保証する」という最低限の条件は、もしかすると百姓たちを苦しめている野武士たちと同じような低劣悪逆な武士をさらに呼び寄せかねない恐れとリスクを伴うと同時に(妙齢の娘を持つ万造の不安は、まさにこの点にありました)、逆に、出世や功名とも無縁なこの死闘に命を懸ける条件が、とんでもなく素朴で無欲だからこそ、それに呼応するような清浄で無垢な侍たちをも引き寄せることができたことにつながり、この卓越したシチュエーションにはいつもながら感心させられます。考え抜かれた実に見事なシナリオです。

百姓が侍を雇って野武士を撃退するなど、本当にできるのかと疑心暗鬼の思いを抱く百姓たちは、それでも恐る恐る街にでて侍探しをはじめますが、もとより、戦いの報償が、ただの「食うだけは保証する」というだけなので、それだけでは当然、思うように侍を集めることができず、落胆した利吉・万造・茂助たちは、そろそろ村へ帰ろうと悲観にくれます。

そして、それから七人の侍がひとりひとり選ばれていくという前半のサムライ・リクルートの場面に続いていくのですが、中盤の戦いに備えて武士や百姓が村の防備に奔走する緻密な描写や、後半の野武士たちとの激烈な死闘場面(最初、タカをくくっていた野武士たちが、堅牢な防備と意表を突く逆襲に驚愕して次第に必死なっていく捨て身の死闘のダイナミズムも含めて)に比べても、なんら引けを取らない、ダイナミックで丹念な描写で、実に堂々としていて、観る者を惹きつけずにはおきません。

勘兵衛と勝四郎が出会い、保留的な伏線として菊千代が絡んで、やがて五郎兵衛、七郎次、平八、久蔵と侍はそろいます。

この7人のうち勘兵衛をのぞいて(すでに観客は、五郎兵衛が勘兵衛に表明した敬意の言葉「わしは、どちらかというと、おぬしの人柄に惹かれてついて参るのでな」を共有しているので、当然「勘兵衛をのぞいて」となります)、そのもっとも印象的な出会いは、以前にも書いたことがあるのですが、自分的には、七郎次との出会いということになります。

そのシーンをちょっと再現してみますね。

勘兵衛のはずんだ大きな声。
勘兵衛「ハハハ、いいところで会った。いや、有難い」
勘兵衛と物売り姿の男(七郎次)が入ってくる。
勘兵衛「フム、貴様、生きとったのか。わしはもう、てっきりこの世には居らんと思っとったが」
七郎次、静かに笑っている。
勘兵衛「ところで、貴様、あれからどうした?」
七郎次「はア、堀の中で水草をかぶっておりました。それから夜になって・・・」
勘兵衛「フムフム」
七郎次「二の丸が焼け落ちて、頭の上に崩れてきたときには、もうこれまでだと思いましたが・・・」
勘兵衛「フム、そのとき、どんな気持ちだった?」
七郎次「別に・・・」
勘兵衛「もう合戦はいやか?」
七郎次、静かに笑っている。
勘兵衛「実はな、金にも出世にもならぬ難しい戦があるのだが、ついて来るか?」
七郎次「はア」
勘兵衛「今度こそ死ぬかもしれんぞ」
七郎次、静かに笑っている。

この会話のなかで、勘兵衛は七郎次に、「死ぬことは恐ろしくないか」と問いかけたうえで、この百姓の苦衷を救う無償の戦いに誘っています。

そして、「今度こそ死ぬかもしれんぞ」とダメを押す勘兵衛の言葉にも、七郎次は「静かな笑い」で返しています。

むかしから自分は、このときの七郎次の笑みが、どういう種類の「笑み」なのか気になって仕方ありませんでした。

聞きようによっては、随分と意地悪い勘兵衛の遠回しの誘導尋問にあがらいながらの(身分制度の位置付けられた制約の中からの)精一杯の七郎次の自己主張と見ていた時期もありました、いまから思えば随分と穿ちすぎな考えですが。

例えば、夜陰に乗じて種子島を奪ってきた久蔵に対して、勝四郎が「あなたは、素晴らしい人です。わたしは、前から、それを言いたかったんです」という言葉に、久蔵が顔をやや歪めてみせるあの笑みと二分するような傑出したシーンです。

そのときの久蔵の笑みが、「苦笑→自嘲」の範囲の中にあるものだったとしたら、「今度こそ死ぬかもしれんぞ」と問われて返した七郎次の笑みは、あきらかに「死ぬこと」など、なにものでもないと一笑に付すサムライの豪胆さだったのだと納得しました。

まさに、これが「命も要らず名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」だったのだなあと、大河ドラマ「西郷どん」が始まろうかというこの年頭、七郎次の「笑み」というのが「あれだったんだな」と、つくづく感じ入った次第です。

しかし、その私欲を絶った高潔な豪胆さこそが、最後には、久蔵に死をもたらし、西郷隆盛をも死へと追いつめた元凶だったのだとしたら、七郎次をあの激烈な死闘から生還させたものが、ただの偶然だったのか、もう少し考えてみる必要があるのかもしれません。


《スタッフ》
製作・本木壮二郎、脚本・黒澤明・橋本忍・小国英雄、撮影・中井朝一、同助手・斎藤孝雄、照明・森茂、同助手・金子光男、美術・松山崇、同助手・村木与四郎、音楽・早坂文雄、同協力・佐藤勝、録音・矢野口文雄、同助手・上原正直、助監督・堀川弘道(チーフ)・清水勝弥、田実泰良、金子敏、廣澤栄、音響効果・三縄一郎、記録・野上照代、編集・岩下広一、スチール・副田正男、製作担当・根津博、製作係・島田武治、経理・浜田祐示、美術監督・前田青邨・江崎孝坪、小道具・浜村幸一、衣装・山口美江子(京都衣装)、粧髪・山田順次郎、結髪・中条みどり、演技事務・中根敏雄、剣術指導・杉野嘉男、流鏑馬指導・金子家教・遠藤茂、

《キャスト》
三船敏郎(菊千代)、志村喬(勘兵衛)、稲葉義男(五郎兵衛)、千秋実(平八)、加東大介(七郎次)、宮口精二(久蔵)、木村功(勝四郎)、津島恵子(志乃)、高堂国典(儀作)、藤原釜足(万造)、土屋嘉男(利吉)、左ト全(与平)、小杉義男(茂平)、島崎雪子(利吉の女房)、榊田敬二(伍作)、東野英治郎(盗人)、多々良純(人足A)、堺左千夫(人足B)、渡辺篤(饅頭売り)、上山草人(琵琶法師)、清水元(町を歩く浪人)、山形勲(町を歩く浪人)、仲代達矢(町を歩く浪人)、千葉一郎(僧侶)、牧壮吉(果し合いの浪人)、杉寛(茶店の親爺)、本間文子(百姓女)、小川虎之助(豪農家の祖父)、千石規子(豪農家の嫁)、熊谷二良(儀作の息子)、登山晴子(儀作の息子の嫁)、高木新平(野武士の頭目)、大友伸(野武士の小頭・副頭目)、上田吉二郎(野武士の斥侯)、谷晃(野武士の斥侯)、高原駿雄(野武士・鉄砲を奪われる)、大村千吉(逃亡する野武士)、成田孝(逃亡する野武士)、大久保正信(野武士)、伊藤実(野武士)、坂本晴哉(野武士)、桜井巨郎(野武士)、渋谷英男(野武士)、鴨田清(野武士)、西條 悦郎(野武士)、川越一平(百姓)、鈴川二郎(百姓)、夏木順平(百姓)、神山恭一(百姓)、鈴木治夫(百姓)、天野五郎(百姓)、吉頂寺晃(百姓)、岩本弘司(百姓)、小野松枝(百姓女)、一万慈多鶴恵(百姓女)、大城政子(百姓女)、小沢経子(百姓女)、須山操(百姓女)、高原とり子(百姓女)、上岡野路子(百姓の娘)、中野俊子(百姓の娘)、東静子(百姓の娘)、森啓子(百姓の娘)、河辺美智子(百姓の娘)、戸川夕子(百姓の娘)、北野八代子(百姓の娘)、その他、劇団若草、劇団こけし座、日本綜合芸術社、


伊豆の娘たち

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数年前、「神保町シアター」で、特別企画として終戦直後に封切りされた作品ばかりを集めて上映するという企画がありました。

実に素晴らしい企画で、その貴重な機会を逃さないように無理やり仕事を算段して出来るだけ見に行こうと焦りまくっていたことを最近しばしば思い出すことがあります、残念ながら「日参」とまではいきませんでしたが。

あれから少し時間がたってしまい、だいぶ記憶も薄れてきたのですが、おりに触れて、そのときの苦労や、そこで見た幾つかの作品のことを懐かしく思い出しています。

しかし、いまとなっては、その作品を「神保町シアター」で見たのだったか、「フィルムセンター」で見たのか、いや、それとも、もっとべつの映画館で見たのだったか、記憶が錯綜してだんだんあやしくなってきました。

しかし、なんだってそんなことが気になるのかといえば、自分にとって「むかし見た映画」(記憶の中にあっては、昨日も10年前もみんな「むかし」です)というのが、ただ単に「作品」それ自体の記憶というのではなくて、その作品を見た場所というのが、記憶の重要な属性になっているからだと思います。

作品自体を覚えてさえいれば、それだけで十分じゃないかと言われてしまいそうですが、自分にとって「映画の記憶」とは、それを見た映画館と一体のものとして格納されています。

小津監督や溝口監督の諸作品は、すべて銀座の並木座で見ましたし、大島渚作品「少年」や吉田喜重作品「戒厳令」など、当時の時代の先端を行く尖鋭で重厚な作品は、ことごとく池袋の文芸地下で出会いました。ロベール・アンリコの「冒険者たち」の底抜けの悲しい明るさや、ゼフレッリの「ロミオとジュリエット」の宿命的な死の輝きと美しさに圧倒されたのは、神楽坂の「佳作座」でした。「keiko」や「不良少年」「絞首刑」を寒々しい場末の映画館で見ていなければ、こんなにも映像に打ちのめさ、その衝撃を衝撃として感受できなかったかもしれません。

映画を求めて東京の薄汚い繁華街の闇をさまよった先の映画館の思い出がなければ(さらには、「誰と見たか」とか、その時の「気分=失恋とかね」が再現できなければ)、きっと「映画の記憶」をこんなにも燦然と輝かせることも、自分のものにすることも叶わなかったに違いありません。

思い出していくうちに、たまらなくなって「神保町シアター」のホームページからその企画を検索して確認したくなりました。
ありました、ありました。

「◆戦後70年特別企画 1945-1946年の映画」、これですね。具体的には、1945年8月15日から1946年末までの間に封切られた映画、とあります。

なるほど、なるほど。

上映作品は、以下の通りです。

1.『歌へ!太陽』 昭和20年 白黒 監督:阿部豊 出演:榎本健一、轟夕起子、灰田勝彦、川田義雄、竹久千惠子
2.『グランドショウ1946年』 昭和21年 白黒 監督:マキノ正博 出演:高峰三枝子、森川信、水ノ江瀧子、杉狂児、三浦光子
3.『そよかぜ』 昭和20年 白黒 監督:佐々木康 出演:並木路子、上原謙、佐野周二、齋藤達雄、若水絹子
4.『はたちの青春』 昭和21年 白黒 監督:佐々木康 出演:河村黎吉、幾野道子、大坂志郎、高橋豊子、坂本武
5.『わが恋せし乙女』 昭和21年 白黒 監督:木下惠介 出演:原保美、井川邦子、増田順二、東山千栄子、勝見庸太郎 *16mm上映
6.『伊豆の娘たち』 昭和20年 白黒 監督:五所平之助 出演:三浦光子、佐分利信、河村黎吉、桑野通子、四元百々生、飯田蝶子、笠智衆
7.『お光の縁談』 昭和21年 白黒 監督:池田忠雄、中村登 出演:水戸光子、佐野周二、河村黎吉、坂本武、久慈行子
8.『大曾根家の朝』 昭和21年 白黒 監督:木下惠介 出演:杉村春子、三浦光子、小沢栄太郎、賀原夏子、長尾敏之助 *16mm上映
9.『国定忠治』 昭和21年 白黒 監督:松田定次 出演:阪東妻三郎、羅門光三郎、尾上菊太郎、飯塚敏子、香川良介
10.『狐の呉れた赤ん坊』 昭和20年 白黒 監督:丸根賛太郎 出演:阪東妻三郎、阿部九州男、橘公子、羅門光三郎、寺島貢、谷譲二
11.『東京五人男』 昭和20年 白黒 監督:齊藤寅次郎 出演:古川緑波、横山エンタツ、花菱アチャコ、石田一松、柳家權太樓
12.『へうたんから出た駒』 昭和21年 白黒 監督:千葉泰樹 出演:見明凡太郎、潮万太郎、岩田芳枝、浦辺粂子、逢初夢子
13.『或る夜の殿様』 昭和21年 白黒 監督:衣笠貞之助 出演:長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子、飯田蝶子、吉川満子、志村喬、大河内傳次郎
14.『歌麿をめぐる五人の女』 昭和21年 白黒 監督:溝口健二 出演:坂東簑助、坂東好太郎、髙松錦之助、田中絹代、川崎弘子
15.『浦島太郎の後裔』 昭和21年 白黒 監督:成瀨巳喜男 出演:藤田進、高峰秀子、中村伸郎、山根壽子、管井一郎
16.『人生とんぼ返り』 昭和21年 白黒 監督:今井正 出演:榎本健一、入江たか子、清水将夫、河野糸子、江見渉

◆巨匠たちが描いた戦争の傷跡
終戦間もない時期に公開された巨匠たちの戦争の傷跡を色濃く映し出した作品
17.『長屋紳士録』 昭和22年 白黒 監督:小津安二郎 出演:飯田蝶子、青木放屁、河村黎吉、吉川満子、坂本武、笠智衆、殿山泰司
18.『風の中の牝鶏』 昭和23年 白黒 監督:小津安二郎 出演:田中絹代、佐野周二、村田知英子、笠智衆、坂本武
19.『夜の女たち』 昭和23年 白黒 監督:溝口健二 出演:田中絹代、高杉早苗、角田富江、浦辺粂子、毛利菊江
20.『蜂の巣の子供たち』 昭和23年 白黒 監督:清水宏 出演:島村俊作、夏木雅子、久保田晋一郎、岩本豊、三原弘之

そして、解説には、こうあります。
《戦争で焼失した映画館は全国で500館を数え、一方、空襲を免れ残った映画館は、終戦の日から一週間だけ休館し、営業を再開したといいます。その後、焼け跡にはバラックの映画館まで出現し、マッカーサーが日本に降り立ったまさに1945年8月30日同日、終戦後初の封切作品『伊豆の娘たち』(1945.08.30 松竹大船 五所平之助)『花婿太閤記』(1945.08.30 大映京都 丸根賛太郎)の二本が公開されたのです。
終戦直後、映画会社や映画館の人々の情熱によって届けられた映画は、戦災の中で生き抜こうとする人々の希望の光になったと、信じてやみません。今回は、日本が復興に向けて歩み出した1945年8月15日から翌年末までにGHQの厳しい検閲を通過し公開された、知られざる映画たちを回顧します。》

解説を読んでいくうちに、「伊豆の娘たち」の長女・静子(映画の中では「静江」ですが)の揺れる娘心を健気で繊細に演じた三浦光子の演技(清潔感と妖艶さが矛盾なくひとつのものであること)に衝撃を受けたことを鮮明に思い出しました。

脇を固める役者もこれまた実に素晴らしく、河村黎吉や桑野通子や東野英治郎や飯田蝶子らが、畳みかけるように生き生きと掛け合いを演じていくシーンは、まるで心地よい映画の波動にいつまでも身を委ねていられるような快感さえ感じられました。

いろいろな解説書のいたるところで、かならずといっていいほど「戦時中にもかかわらず」という文言を見かけますが、そんな思い込みが無意味に思われるほど、この映画には独自の映画的な固有のリズムがあって、「戦時色」などという末梢的な粗さがしなど排除してしまう力強さと気高ささえ感じることができました。

(1945松竹大船撮影所)演出・五所平之助、脚本・池田忠雄、武井韶平、撮影・生方敏夫、西川享
配役・河村黎吉(杉山文吉)、三浦光子(長女・静子)、四元百々生(次女・たみ子)、桑野通子(叔母・きん)、佐分利信(宮内清)、東野英治郎(村上徳次郎)、飯田蝶子(しげ)、笠智衆(織田部長)、忍節子(夫人)、柴田トシ子(娘雪子)、坂本武(宗徳寺の和尚)、出雲八重子(おたけ婆さん)、
1945.08.30 紅系 8巻 2,018m 74分 白黒


間宮兄弟の臨界

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週末、会社の廊下で顔なじみの同僚とすれ違うときなど、軽い挨拶代わりに交わす言葉は、きまって「今年は、もう2回も雪が降ったのに、この4日もまた、ものすごい寒波がくるんだってさ」でした、「また大雪か」というウンザリした思いをみんなが持っていて、その危惧(やれやれ)を何度も確認しあったような気がします。

僅かの降雪でも電車のダイヤは大幅に乱れ、遅れ遅れの通勤電車の混雑が半端じゃなくなるので(まさに「殺人的」です)、早朝通勤を余儀なくされるサラリーマンには、ものすごい痛手です。「革靴で雪道」というのも結構苦痛で、それにまた、相当に危険ですよね。

実際に、知人の課長も雪道で転倒し、その際、前頭部を歩道の角でしたたかに強打して虎の門病院に救急搬送され、脳内出血を起こしてないかと大仰な精密検査をいくつも受けさせられたそうで(結果的に無事でしたが)、後日、本人からそのときのリアルな話を聞きました。

それによると、前を歩く若い女性がスマホの操作に夢中になりながら歩道の真ん中をノロノロと歩いているのに業を煮やした彼は、(いつも早めに出勤しているので、その朝も別段、急ぐ必要など少しもなくて、ただ単に彼女の「スマホでノロノロ」に苛立っただけだったそうで)傍らを追い抜こうとして、その際に歩道の端を踏み外して転倒したということですが、本人は「通勤労災で、結局治療費はタダ、そのうえ会社も1日堂々と休めたし、なんだかトクした気分だよ」なんて呑気に話しながら、冗談まじりに、彼が苛立って追い抜こうとした彼女は、目の前で転倒した自分を一瞬チラ見しただけで、またスマホに夢中になって、なにごともなく倒れ込んでいる自分を無表情のまま跨いで歩み去ったというのです、考えてみれば、それってゾッとする薄気味悪いシチュエーションですが(彼女にとっては、リアルに転倒している自分も結局はスマホ画面に写っている一風景にすぎなかった、みたいな)、そのへんを彼は面白可笑しく、尾ひれを付けて語っていました。

まあ、冗談はともかく、「頭部強打は洒落にならないよ、もしあれがオオゴトになっていたら、極端な話、オタクも家庭崩壊だぞ」と脅かしてやりました。

自分などは、踵に滑り止めの金具がついている雪道専用の靴をアイスバーンに突き立てながら小幅で恐る恐る歩くようにしているので、転倒リスクは、それなりに防いでいるつもりですが、それでも気を付けるに越したことはないと、さらに用心をしているくらいです。

こんなふうに語られる「三度目の大雪」の恐怖に相槌を打ちながら、そうか、誰もが、まだまだ今の寒さがこれから先もずっと続いて、温かくなるなんて考えられないくらい相当に先の話だと思っているらしいことを実感しますが、しかし、実は自分的には、ちょっと違う感覚もあります。

早朝は依然として寒いし、寝床の温もりを断って思い切って起き出すには、少しばかりの時間と決意が必要なことはまだまだ変わりませんが、それでも起きたとき、以前は真っ暗だった外が、最近は薄っすらと明るんできました。明るくなってくると、それなりになんだか温かくなってきたような気もしてきますし。

いつまでも温かい寝床に潜り込んでいたいといつも平日に思っているので、その快楽を十分に実現できるはずの土曜日なのに、いざ目が覚めて寝床の温もりの中にいるのに、そのまま横になっていられません、そうしていられるのはせいぜい10分がいいところで、どうしても起き出してしまうのです、ヒラのサラリーマンの悲しいサガだとお笑いください。

仕方なく、まるでイモ虫のようにもぞもぞと起き出して、パソコンのスイッチをonにするのが土曜日のいつもの日課です。

実は、この映画ブログ、こんなふうに土曜日の早朝に週イチペースで書き継いできたので(もちろん、書くことに失敗する土曜日というのも当然あります)、早朝の気温とか明るさ・暗さには人一倍敏感で関心もあって、そういう意味では微妙な季節の移り変わりにはそれなりに反応できていると自負しています。

さて、今日はどんな作品を書こうかと、今週見た作品のメモを眺めました。

いちばん重厚な作品といえば、マーチン・サントフリート監督の「ヒトラーの忘れもの」です、ドイツが敗戦した直後、デンマークでは捕虜になったドイツの少年兵たちが、現地デンマーク人のナチに対する憎悪に晒されながら、少年たちを傷みつけることだけが目的のような生還不可能な地雷除去作業(彼ら少年たちは地雷除去作業などしたことのない素人です)に従事・強制するという、この作品は、実に胸の痛くなるような憎悪の物語です、除去に失敗した少年たちは次々に地雷を暴発させて無残に命を落としていきます。

実は、少年兵たちの監視人ラスムスン軍曹とのあいだで、海岸の地雷をすべて撤去したらドイツへ帰国させるとの約束があって、それを唯一の希望として死の恐怖に身を晒しながら、必死になって地雷除去作業に従事し、ついに約束の作業をやり遂げます。

軍曹は約束通り少年たちをドイツへの帰国の途につかせますが、軍上層部から、別の場所の、それこそ生還など絶対不可能な過酷な地雷除去命令が、さらに少年たちのうえにくだります。

そのあとのストーリーは、軍曹が軍上層部の命令に逆らって少年たちを国境まで逃がして彼らとの約束を果たすという結末で、一応ホッとさせる結末にはなっていますが、しかし、全編を通して描かれている徹底したナチに対する憎悪と報復のリアル感にくらべたら、少年兵たちを約束通りに逃すという(取ってつけたような)ほのぼのとしたラストがいかにも無力で、実際には実に多くのドイツの少年兵捕虜たちは、こんなふうに虐待され、まるでナチが犯した侵略と虐殺の罪を贖うようにして憎悪の下で殺され、報復のような死を死んでいかねばならなかった過酷で無残な事実は覆い隠しようもなく(そこには依然として、ナチの虐殺した側と、蹂躙された被侵略国の側の事実とが厳然として存在しているわけですから)、この映画のラストで唐突に孤立した空々しい絵空事を見せられても、苦苦しい思いは払拭できず、言葉をつなげていくという困難と過酷に耐えられずに、結局はこの「ヒトラーの忘れもの」の感想を書くことは諦めました。

普段なら「憎悪」であろうと、「侮蔑」であろうと、そういう負の感情に対しても、それなりに距離を取って客観的に強引に書き伏せてしまうことができると思っていたのに、今日のところは駄目でした、このような憎悪の物語に耐えられないくらい、自分の気持ちも少し弱っていたのかもしれません。

ほかに気にかかった作品が2本ありました。

御法川修監督作品「世界はときどき美しい」(2006)と 森田芳光監督の「間宮兄弟」(2006)です、ともに2006年作品ですか、なんだか偶然ですが。

御法川修監督作品「世界はときどき美しい」は、5本のストーリーからなっているオムニバス映画です。

この5作品に共通して描かれているものは、おそらく、この社会や、そして他人にどうしても馴染めず、折り合いがつかず、打ち解けることもできない孤絶とか孤独感です。

なかでも、柄本明がアル中の中年男・蝿男を演じた第二作「バーフライ」にものすごく心惹かれました。

別にこれといったストーリーがあるわけではなく、日夜酒浸りの中年男の日常(これでもか、これでもかと酒を飲み続ける日々をコミカルに追っています)を終始男自身の愚痴とも悔恨ともつかないつぶやきをモノローグ風に綴るという、とてつもなくシンプルで、世間の嘲笑に煽られ追い立てられながら破滅の極限に踏み込もうとするやけっぱちの自傷行為が、ひた向きなだけに妙にピュアで、見るものを打つ映像の力強さがありました。それを痛ましいといってしまえば、それまでなのですが。

しかし、このもがき続けるシンプルな生き方(生きることの原初的な姿)について、なにをいまさら語り得るものあるだろうかという思いは確かにあります。

自分が、多くのアル中を扱った独特の映画群のどれにも、ある種の神聖さを感じてしまうのは、それが下降的に生き方にすぎなくとも、そのピュアな「ひたむきな姿」に惹かれるからに違いありません。

しかし、こうして「なにをいまさら語り得るものあるだろう」などという壁に突き当たってしまったら、もうそこから先には進めません。

そして、次に見たのが森田芳光監督の「間宮兄弟」(たぶん初見です)でした、この作品の全編にわたる優しさと、そして、ひとつのシーンに堪らなく感応するものがありました。この感応は、「ヒトラーの忘れもの」を見た後で、すっかりすさんでしまった自分の気持ちの落ち込みを抱えて見たことと無縁のものではありません。

そのことについて書きますね。


兄・明信の同僚大垣賢太夫妻の離婚騒動で、妻のさおりに惹かれた弟・徹信が、同情と関心半々から、自分の気持ちを伝えようと離婚後の彼女に会いにいくシーンで、弟・徹信は自分の気持ちをあれこれの品物(贈り物)で伝えようとして(その幼さが、かえって、痛手を負った女性の勘には堪らない無神経さとして苛立ちと怒りをかい)、手ひどく撥ねつけられる場面です。

撥ねつけるさおりの言葉の辛辣さに弟・徹信は傷つきます。

その場面をちょっと再現してみますね。

さおりの関心をかおうとして、いくつもの贈り物を差し出す弟・徹信にさおりは言います。

「そんなもの、いただくわけにはいきませんわ。なぜ私があなたから音楽をいただかなければいけないんですか。これも全部お返しします。一曲も聞いていませんから。こういうことされるのが、いちばん傷つくんです。迷惑なんです。あなたには、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ないと思っています。もうなにもかもやめてください。あなたもいい大人なんだから、私の言っていること、もうお分かりでしょう。もう結構ですから、帰らせてください。」

こうまで詰られても、弟・徹信はこんなふう言います。「人生はまだまだ続くし、憎しみからはなにも生まれてきませんよ」と。そんなことを言うこと自体が、彼女の言う幼さであることにも気が付かずに。

そして、弟・徹信の失恋を知った兄・明信(彼もこの直前に、直美への芽生えかけた恋心を砕かれています)は、新幹線の操車場が見下ろせる場所で「これからもふたりで一緒に暮らしていこう」と弟を励まします。

そして、次の場面、昼の小学校の校庭で作業をしている弟・徹信のもとに直美の妹・夕美が現れます。そして、いつも一緒にいた恋人が勉強のためパリに旅立ってしまったことを徹信に告げます。

とつぜん恋人に去られたことを別段寂しそうにするでもなく、いつものように能天気にはしゃぐ夕美は、弟・徹信の失恋を聞き出し、一瞬息をのむような間があって、突然、背後からじゃれつくように抱きつきます。そして夕美は「これは違うよ、愛じゃないよ、友情の抱擁だからね」と囁きかけます。

不意に恋人に去られた女が空虚な気持ちを持て余しているとき、子供っぽいと相手に撥ねつけられた男の孤独に感応して思わず抱き締めずにいられなかった切なく実に優しさに満ちた場面でした。

そしてまた、ふたりのあいだに漂う孤独と遣り切れなさを静かなスローモーションでとらえたこの場面自体が、観客に深い思い入れを許す優しさと美しさ深く打たれました。

北川景子、その率直であけっぴろげな優しさが役柄とシチュエーションにぴったり嵌まり、優しさがじかに伝わってきたいい感じの演技でした。


世界はときどき美しい(2006)
監督脚本・御法川修、製作・棚橋淳一、中島仁、長田安正、プロデューサー・西健二郎、撮影・芦澤明子、録音・森英司、音響・高木創、衣装・宮本まさ江、ヘアメイク・小沼みどり、音楽監修・大木雄高、サウンドトラック盤・オーマガトキ (新星堂)、製作=「世界はときどき美しい」製作委員会、主題歌・鈴木慶江 「月に寄せる歌」〜歌劇「ルサルカ」より(EMIクラシックス)、Life can be so wonderful
第1話・世界はときどき美しい、松田美由紀(野枝)
第2話・バーフライ、柄本明(蝿男)、遠山景織子(スナックのべっぴんママ)、尾美としのり(スナックの酔客)、安田蓮(ハナタレ小僧)、川名正博(バーのマスター)、戸辺俊介(バーテンダー)、時任歩(仕事帰りのホステス)、
第3話・彼女の好きな孤独、片山瞳(まゆみ)、瀬川亮(邦郎)、
第4話・スナフキン リバティ、松田龍平(柊一)、浅見れいな(朋子)、あがた森魚(野辺山教授)、桑代貴明(幼い頃の柊一)、
第5話・生きるためのいくつかの理由、市川実日子(花乃子)、木野花(静江・花乃子の母)、草野康太(大輔・花乃子の兄)、南加絵(カフェの店員)、鈴木美妃(花乃子の友人)、


間宮兄弟(2006)監督・森田芳光、プロデュース・豊島雅郎、エグゼクティブプロデューサー・椎名保、プロデューサー・柘植靖司、三沢和子、原作・江國香織『間宮兄弟』(小学館刊)、脚本・森田芳光、撮影・高瀬比呂志、美術・山崎秀満、衣裳・宮本まさ江、編集・田中愼二、音響効果・伊藤進一、音楽・大島ミチル、主題歌・RIP SLYME『Hey,Brother』、照明・渡邊孝一、装飾・湯澤幸夫、録音・高野泰雄、助監督、杉山泰一
出演・佐々木蔵之介(兄・間宮明信)、塚地武雅(ドランクドラゴン)(弟・間宮徹信)、常盤貴子(葛原依子)、沢尻エリカ(姉・本間直美)、北川景子(妹・本間夕美)、戸田菜穂(大垣さおり)、岩崎ひろみ(安西美代子)、佐藤隆太(浩太)、横田鉄平(玉木)、佐藤恒治(中華料理店のおじちゃん)、桂憲一(犬上先生)、広田レオナ(薬屋のおばちゃん)、加藤治子(お婆ちゃん)、鈴木拓(ドランクドラゴン)(ビデオショップの男)、高嶋政宏(大垣賢太)、中島みゆき(間宮順子)、



リリーのすべて

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いままで、男優が女装する映画というのを何本か見ています。

タイトルの方が、すぐにはちょっと出てこないのですが、ジョン・ローンが女装した作品とか、そうそう、ウィリアム・ハートが演じた「蜘蛛女のキス」などという名作もありましたよね。

いずれの作品も、まさに「女装」というグロテスクさそのものを強調する作品だったのでしょうから、たとえそれが「いかにも男」というのがミエミエで薄気味悪さだけを感じさせたものだったとしても、そこがまた作品の狙いでもあったわけで、まあ、あれはあれで良かったのかなともいえますが、しかし、今回、トム・フーパー監督作品「リリーのすべて」を見ていて、その部分についてちょっとした違和感というか衝撃を受けたので、その辺のところを少し書いてみたいと思いました。

元ネタというのが「実話」ということらしいので、この違和感というのが、あるいはそのあたりにあるのかもしれないなと思いながら書き進めていこうと思います。

というのは、いままでの自分の狭い経験からして、計算し尽くされたストーリー展開を自由にいじくり回すことのできるフィクションに比べて、実話に基づく物語というのによくあるパターンの、結末の「肩透かし」感や脱力系の終わり方の「尻切れトンボ感」みたいな起伏に欠いたストーリーが、なんだかやたら多いように感じるのは、きっとそこには現実の人間の行動というものが、それほど素直で潔くもなく、また、ドラマチックでもなく、(観客の期待に反して)ウジウジと逡巡する「臆病さ」や「恐怖感」、「狡猾さ」や「躊躇」、そして「捨て鉢」などの負の感情によって期待するようなストーリー展開は歪められ、予測に反した低劣なものに流れていく(それこそが生の人間の「現実」というものでしょうから)という印象が自分にはあるので、この作品にもそういう違和を感じてしまった部分で、この作品についての感想を書いてみようと思い立った次第です。

画家アイナー(エディ・レッドメイン)が、妻ゲルダ(アリシア・ヴィキャンデル)からモデルの代役(女性です)を頼まれるところから、この映画は始まっています。

妻ゲルダも同じ画家ですが、この時点では夫の名声に比べれば、まだまだという感じで、むしろ、「画家志望」の段階といった方が相応しいのかもしれません。

女性モデルの代役とはいえ妻ゲルダにとっては「足の部分」のデッサンだけなので、彼女は「女性らしさ」を演出するために、夫にドレスを胸に当てさせ、ストッキングを履くことを要求します。

夫アイナーも戯れ気分でストッキングを履いたその瞬間、そのストッキングの滑らかな感触に思わずぞくっとするような官能を刺激されて、柔らかいドレスを胸に抱き締めながら一瞬恍惚となる密かな性的動揺(妻に気取られないような)に囚われたことが描かれています。

彼がそのストッキングの滑らかさに陶酔し、ストッキングに包まれた自らの足を撫でまわして密かな快感を楽しんでいるうちに、その手の感触から自分の肉体の奥底に「女性」性が潜んでいることを探り当ててしまう、つまり、自分の中の「男性」が揺らぎ、不意に「女性」に覚醒するというナルシックな場面が精密に描かれているこの場面は、いわばこの作品全体を象徴する重要なシーンとなっています。

アイナーは懊悩のすえに、自分の肉体から「偽りの性」を抹殺することを決意し、心身を一致させるための自己否定を具体的な除去手術という形で肉体を破損し、やがて術後の感染症によって生命までも失うという痛切で悲惨な彼の生涯の結末に至るその発端を描いている重要な場面でした。

夫アイナーの痛切な願いとその挫折に振り回されながら、妻ゲルダは終始「夫」への愛を貫こうとしているからこそ、夫アイナーのなかの女性「リリー」の人格だけはどうしても認めることも受け入れることができないでいたそのラストで、死の床にある瀕死の夫アイナーを、はじめて「リリー」と呼びかけ、生涯の最後で彼を女性と認めます。

夫アイナーは、心身ともにひたすら「女性」になることを求め、その彼を支える妻ゲルダは、彼の願いが叶った瞬間に最愛の「夫」を失うという夫婦の悲痛で皮肉な愛の物語というふうに自分的には一応は解釈し、当初はこれで自分なりに納得できるような気がしたのですが、しかし、考えてみれば、妻を気遣い、妻への思慕を強く表明しながらも、夫アイナーは、それとは裏腹に「女性」になるためのいかなる手続きや「性転換手術」へとのめり込んでいくという頑なさの前では、妻への気遣いや愛情でさえも異常なほどに無力であることの違和感が、自分にはどうしても払拭できませんでした。

もし、それほどまでに妻を愛し気遣うというのなら、彼には手術を放棄することだって選択肢のひとつでもあり得たはずなのに、「妻への思慕」を理由に手術を躊躇し思い悩む場面などこの作品にはいささかも用意されてはいませんでした。

以上のことをまとめるとすれば、こんな感じになるでしょうか。

つまり、妻ゲルダが「夫の浮気」に対して異常な嫉妬と苛立ちを示したようにして、果たして、夫が強く望んでいる男性器の除去手術に対しても同じように示しただろうか、「夫の愛を失う」という意味においては、後者の方がよほど深刻であるはずなのに、施術に対する妻のこの異常な無関心は、不自然で理解できないものがあります。

そして、このことと前述した夫アイナーが「妻への思慕を理由に手術を躊躇し思い悩む場面などこの作品にはいささかも用意されてはいませんでした」との一文が奇妙な対を成していることにはじめて気が付きました。

この夫婦の互いに対する気持ちのカクノゴトキ微妙な行き違いやズレがあるのは、いったい何を意味しているのかと思い始めたとき、実際にはこのときアイナーとゲルダは「夫婦」でなかったからではないかという思いが募り、しばし「実話」を手掛かりにあれこれと検索してみたところ「LUCKY NOW」というタイトルのブログでこんな一文に遭遇しましたので、一部を引用させていただきますね。


「1930年、アイナーは世界初の性別適合手術を受ける。性別適合手術への理解が乏しいこの時代に手術にアイナーが手術を決断するのは容易なことではなかった。

性に寛容なパリでは、リリーとして自由に生きられたアイナーだったが、やはりその時間は夫婦に危機感を与え始めた。

二人はパリの医者のもとに相談に行くが、医者からは服装倒錯(異性の服装を身に着けることで、性的満足を得ること)と診断され、具体的な処方はされなかった。「女の格好をするのを我慢しろ」ということだ。

その後しばらくして、リリーの体から奇妙な出血が見られるようになる。それは月に1回、まるで女性の生理の様に起こった。

それは、リリーにとって戸惑い以上に女性の人格をより強く意識するきっかけとなり、さらに苛烈に“女性”を求めるようになっていく。そして二人は、当時ジェンダー研究の最先端だったドイツに向かい、そこで驚くべき診断を下されることになる。

リリーの体内に未発達の卵巣があり、それが女性の人格を生み出しているというのだ。

そうして初めて、アイナーには服装だけでなく身体もリリーに作り変えるという選択肢が与えられたのだ。性別適合手術を目の前に戸惑うアイナーの背中を押したのは、他ならぬゲルダだった。

そうしてアイナーは睾丸摘出、陰茎除去、卵巣移植、子宮移植と、1年間かけて計5回の手術を受けた。中でも卵巣移植には拒絶反応を起こし、数度の手術を経て再摘出された。

しかし理解を示していたゲルダも、夫の身を案じて引っ切りなしに繰り返される手術には反対していたようだ。

こうしてアイナーは法的にもリリーとして生きることを認められ、リリー・エルベの名前でパスポートも手に入れている。しかし、手術のことを知った当時のデンマーク国王に婚姻を無効にされ、その後二人は別々の人生を歩むことになった。

別れてすぐにリリーはフランス人画家のクロード・ルジュンと恋に落ちた。女性に目覚めて初めて恋をしたリリーは、次第に母性を求めるようになる。そして5回目となる子宮移植の手術を受け、リリーはその数ヵ月後に心臓発作でこの世を去った。

当時は移植免疫拒絶反応について解明されておらず、そもそも臓器移植という考え方そのものが議論されていない時代だった。そんな時代に、リリーは命をかけてでも母親になることを求めた。

それは内から湧き出る性への渇望だったのか、あるいは恋人に対しての引け目だったのかは知る由も無い……」

(2015英米独)監督・トム・フーパー、脚本・ルシンダ・コクソン、原作・デヴィッド・エバーショフ『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』、製作・ゲイル・マトラックス、アン・ハリソン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、トム・フーパー、製作総指揮・リンダ・レイズマン、ウルフ・イスラエル、キャシー・モーガン、ライザ・チェイシン、音楽・アレクサンドル・デスプラ、撮影・ダニー・コーエン、編集・メラニー・アン・オリヴァー、製作会社・ワーキング・タイトル・フィルムズ、プリティー・ピクチャーズ、アルテミス・プロダクションズ、リヴィジョン・ピクチャーズ、セネター・グローバル・プロダクションズ
出演・エディ・レッドメイン(アイナー・ヴェイナー、リリー・エルベ)、アリシア・ヴィキャンデル(ゲルダ・ヴェイナー)、マティアス・スーナールツ(ハンス・アクスギル)、ベン・ウィショー(ヘンリク・サンダール)、セバスチャン・コッホ(ヴァルネクロス)、アンバー・ハード(ウラ)、エメラルド・フェネル(エルサ)、エイドリアン・シラー(ラスムッセン)



ラジオ体操第一・花柳流

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昨日が、ちょうど4月異動の1か月前ということで、多くの会社で「ひそかな内示」があったみたいですね。

自分の所でも、昼休みには、社員食堂やトイレの入り口などで悲喜こもごもの表情の社員たちが、怒気や渋面をあらわにして盛んに立ち話をしている姿(ひそひそ声です)をよく見かけました。

まあ、いつものことで、困難な営業の現場の状況を無視した一方的な人事部の幼稚で身勝手なタライ廻し異動をいくら毒づいてみても、結局は従うしかないのですが、長い時間をかけて汗水たらしてやっと築き上げてきた他社との人間関係やネットワークを一挙に失ってしまううえに、その異動によって生ずる厄介な家族や子供の学校の問題も控えているので、たとえ目先で「地位や給料」がアップしたとしても、そのすべてが暗雲に包まれたような憂鬱な気分になるのは、自分にも覚えがあります。

まるで、神の啓示みたいに下されるこの人事異動が、ただの机上で考えられただけの機械的な人間循環にすぎないという実態を知ったら、きっと誰もがびっくりしてヤル気を失うと思います。

それは、例えば、転勤先で待っている煮詰まった仕事の厄介な後始末とか、ますます深刻化している取引先とのトラブルの解決策のための捨て駒に使われる役を担わされるらしいとか、まるで罠のような人格無視のポストに身を置かなければなかない「憂鬱」だったり、その突然の転勤に伴う家族の難問題も控えた「憂鬱」(「幼児」や「老親」を抱えている人など大変です)でもあるので、そうした事情を知っている者にとっては、内示後、社内に一瞬動揺が走り、周囲には「渋面」ばかりが目につくばかりで、まるで「満面の笑み」などひとつとしてないというのも、そりゃあ、当然といえば当然の話だと納得できます。

以前、人事の人間と飲んだ時にその辺のところを聞いてみたのですが、彼が言うには、たとえ各社員の現場で長年培ってきたネットワークを犠牲にしても、そんなことは会社にとっては取るに足りない小さな損失で、むしろ、その期間に積み上げられた関係他社との負の滓(彼は、そのままの言葉でそう言ってました)、つまり個人的な利益と副作用としての業者との馴れ合い・癒着を断ち切り(これは目先では不利益と見えても、長い目で見れば、結局会社にとって大きな利益となって「健全なセキュリティ」が会社に返ってくるのだから)、その異動によって生じるであろう社員の不満や不利益・犠牲などは、会社のためなら無視すべき低次元のリスクにすぎない、それらすべてを織り込んだうえでの異動なのだといっていました。それが人事の仕事というものだと。

そりゃそうでしょう、彼ら人事部の人間から、有無も言わせぬ「生贄異動」や「見せしめ異動」や「人身御供異動」や「恫喝異動」の辞令を突き付けられたことのある者なら、そんなことは十分すぎるくらいに承知しています。

人事部が、幸運を届けてくれる愛のキューピッドとか幸福なプレゼンターなどと能天気に信じているわけではありませんが、まさかそこまで「えげつなかったのか」とあきれ返り、白け、それ以後の彼との会話の問い掛けに対する返すべき相槌も、なんだかぎこちないものになってしまいました。

内示の際に、「いやなら拒否していただいて一向に構いませんよ」という柔和な人事部長の甘言に乗せられてつい拒否した同僚が、しかし、4月以降、彼に用意されたポストというのが、西日がやたらに強烈にさす壁際の隙間風の通り道のような寒々しい席で、別にこれといった仕事も与えられるでもなく、かかればすぐにでも終わってしまうようなささやかな仕事を小出しに与えられ、それが途切れるたびに、かつての部下だった年下の若い女性社員に敬語を使って次の仕事の支持を受けなければならないような(その「仕事」だって、苦心惨憺ようやく考え付いたようなつまらない整理仕事ばかりです)、そういう異動拒否に対する「罰のようなミセシメの仕事」に懸命に取り組むにせよ、あるいは、「給料さえ貰えればなんだっていい」と割り切ってサボって適当に流すにせよ、時が経てばそんな席にしがみ付いている自分がだんだん情けなくなって、それに気が付いた時にはすっかり精神の荒廃が深刻に進んでしまっていて(ストレスから深酒にのめりこんだり、そのために家族や友人との関係がうまくいかなくなったりしてはじめて、そのことに気づかされ)、いったい、自分は何をしているんだ、こんな愚劣な仕事にしがみついている価値など果たしてあるのかと自分を責め、その挙句結局は、半年くらいで辞表を提出するというのが定式だと聞いたことがありました。

つまり、これを、計算され仕組まれた「定式」にすぎないというなら、パワハラの「無茶振り異動命令」は、その当人の諾否に関係なく(いずれにしろ会社の利益につながるようにはなってます)、そのまま公式的な経営理論・経営戦略のひとつ、あるいは、偉い経済学者がすっかり計算した巧妙な労務管理のひとつなのではないかと勘繰りたくなるような、経営を無条件に好転させる伝家の宝刀「人員削減」に直結しているものなのだなと、なんだかへんな納得をしてしまった次第です。


さて、サラリーマンにとって、この過酷な異動の季節を迎え、いまふっと、ある人のことを思い出したので、今回は、そのことについて書いてみますね。

もうあれからどのくらい経ったのか、すぐには思い出せません。

その人の名を仮に「菊池さん」(そのときすでに定年間近でした)としておきます、しかし、これは根拠のないまったくの仮名というわけではなくて、彼の名「菊次郎」という名前から連想しました。そう、タケシの親父さんと同じ名前です。はじめて紹介された時、その名前には本当に驚かされました。なにしろ「菊次郎」ですから。

フツーの親が、そんな歌舞伎役者みたいな名前をつけるのかという驚きがひとつと、驚いて思わずその菊池さんの顔を改めてしげしげと見直してしまったときに感じたその艶めく名前とは裏腹の、激ヤセした菊池さんの顔は異様に青ざめていて、まるで文字通り病的な「うらなり瓢箪」という印象の強烈な覇気のなさ感、というのがもうひとつありました。

自分の狭い経験からいうと、親からすごく突飛で奇妙な名前(妙齢の女性だったら思わず顔を赤らめてしまうような名前もありました)を付けられながらも、馬鹿にされまいと発奮して大成する人と、その名前のためにカラカワレ虐められつづけ、すっかり委縮して被害妄想の化け物みたいな大人になるという2種類のタイプの人がいるとすると、菊池さんは、明らかに後者に属する人でした。

そうそう、友人の知り合いに女性で検察官になった人がいるのですが、その人の名前は、まるで錦糸町か亀有にでもいそうなキャバクラ嬢そのものという、(親なのにどうしてそーゆう名前を付けるかなーという)いかにも下品な、なんだかヤタラ物欲しそうなシモネタ名前なのですが、彼女、そんなプレッシャーなどものともせず、圧し潰されるどころか、司法試験に一発でパスして、いまでは痴漢男や下着泥棒男(常習累犯)相手に厳しく求刑し変態野郎を片っ端から監獄に送り込んでいるというツワモノなのですから、根っから強い人は強いのだなあと感心してしまいます。まあ、長い間、突飛な名前をずっと揶揄われてきたことの報復で、いま検事さんになって、さかんに揶揄ってきた世界に対していまこそ復讐しているという見方もできなくはありませんけれどもね。

さて、その菊池さんと、半年のあいだコンビを組んで、ある商品を売り出すための宣伝プロジェクトの準備に取り組むという仕事に従事することになりました。

商品のデザインは有名なデザイナーに依頼するとして、スーパー向けのキャンペーン計画とそのポスターのデザインだけは自分たちで考えてみようということになりました。

そのとき自分には、まだ「本務」というのがあって、その勤務時間を終えたあとに菊池さんの席に伺って、昼間のあいだ菊池さんが関係業者に手配した詳細をうかがったり、ポスター・デザインのアイデアの進捗状況を聞くという毎日を送りました、これは自分たちが勝手に会社に居残っているという体裁なので、もちろん残業手当などはつきませんし(いまでは居残りなどしていたら、会社と組合から厳しい指弾の挟み撃ちにあってしまいます)、こう書くとなんだかまるで自分が菊池さんのことを管理していたかのような印象を与えてしまうかもしれませんが、決してそうではなくて、当時自分が関わった仕事で契約上のトラブルがいまだ尾を引いている状態だったので、それが単に長引いていて抜けられなかったというだけのことでした。菊池さんとは、あくまでもフィフティ・フィフティの関係でずっと仕事をしました。

そんな感じで、昼間、菊池さんがポスターのアイデアを10種類程度考えてくれたのを二人で話し合って更なるアイデアに発展させるという弁証法的毎日(そうこうするうちに、だんだんこの仕事が楽しみになってきました)を送りました。

菊池さんは毎日、自分の前に、きちっきちっと10種類のアイデアを提出して説明しましたし、自分はその提出されたアイデアを別段気にとめるでもなく聞き役に徹しました。

そんなふうに、惰性みたいに菊池さんの説明をぼんやり聞き流していたある日、「毎日10種類」のアイデアを出すということが、相当しんどいことのはずなのに、それをなんということもなく繰り返すことができている菊池さんの行為にだんだん疑問が湧いてきました。

考えてみれば、実際問題として様々なポスターのアイデアを毎日10種類も次々に考え出すというのは、口で言うほど簡単なことではありませんし、というか、きわめて不自然な話です。いかにプロだってそんな無謀なアイデアの粗製乱造はできるはずもないし、するとも思えません。

そこで菊池さんに率直に問いただしました「なんでそんなに豊富なアイデアがあるんですか」と。さすがに「不自然じゃないですか」とまでは言えませんでしたが。

「あっ!」と菊池さんは一瞬息をのみ、「分かりました?」という感じで、ボクの顔を見上げるようにのぞき見しながら、背広の胸の内ポケットから1冊のノートを取り出して自分の前に置きました。

そのノートを手に取り、開いてみて、今度は自分の方が「あっ!」と言う番でした。

そこには、ミニチュアにされた映画ポスターがびっしりと貼られていました。「こ、これが菊池さんのアイデアの元ネタだったんですか!」

「ね、いいでしょう、今日のアイデアはコレから借りました」とページを繰っていくと、見開きページいっぱいにタルコフスキー作品のポスターがびっしり貼り込まれています、壮観です。目がくらみ、衝撃でちょっとよろけたくらいです。

そして、「今日」の菊池さんのポスターのアイデアを比べてみて、思わず笑ってしまいました。

なるほど、なるほど、菊池さんのにも、この「ノスタルジア」があります、アハハ、よく見れば、国会議事堂の前でうらぶれた田中角栄が横座りしているところ(まさかね)なんか、「廃屋の前で男が横座りしているコレ(ノスタルジアです)とそっくりそのまんまじゃん、なんで分からなかったかな~」悔しそうに思わず大声を出してしまった自分ですが、もうすっかり菊次郎ワールドに乗せられ、それどころか、このシチュエーションをすっかり楽しんでしまっているのを菊池さんに気付かれてしまい、ポスターの図柄検討などそっちのけで、いままで菊池さんが提出したアイデアの元ネタ探しに夜が更けるまで興じてしまいました。久しぶりに愛するタルコフスキーに思わぬ形で邂逅したという懐かしさもありましたが。

「このときは、黒澤明特集だったんですね、全然分からなかった、そうか、なんか悔しいな」とか「ヒッチコックがゴマフアザラシに変わっていたとは、さすがに気が付かなかったなあ」とか。

それ以来、僕たちの夜のお仕事は、本務そっちのけで、菊池さんが奇妙にデフォルメしたアイデアを提出し、自分がその元ネタの映画ポスターを言い当てクックッなどとこみあげてくる笑いを苦しくこらえたりして「ふたりだけの密かな夜の遊び」にふけりました。

しかし、結論から言うと、この「ふたりだけの夜のお仕事」は、開発の途上で他社と商標権問題が持ち上がり、さんざんにこじれ、販売は中止、このポスターの菊池さんとの検討会も1か月とちょっとであえなく廃止・解散となりました。

それ以来、菊池さんとは会っていません、どこかの地方の営業所に異動されたことまでは聞いていたので、てっきりそこで無事定年を迎えられたものと思っていたのですが、最近信じられない情報を耳にしました。

異動のあとすぐに、役所関係の取引で贈賄だとか収賄だとかの事件に巻き込まれたという当時の新聞記事を見せてくれた人がいました、全然知りませんでしたが日付を見ると、あの「ふたりだけの夜のお仕事」から何か月も経っていないことも知りました。

結局起訴まではされませんでしたが、そのこともあって定年を迎えずに退社されたということです、あんなに定年を楽しみにしていたのに、ご本人もさぞ残念だったと思います。

当時、このことを知っていたら、なにか自分なりのお手伝いができたかもしれないのに、いまとなっては、どうすることもできません。

知人を通じて菊池さんの消息を尋ねてもらったのですが、なんの手掛かりもありませんでした。自分に届いた唯一の消息は、「なにせ高齢なので、施設に入られたのではないですか」というなんの根拠もないただの憶測だけでした。

当時の菊池さんの年齢に近づくにつれ、あのとき、ともに楽しいとき過ごした「ふたりだけの夜のお仕事」をときおり思いだしています。

長い会社員生活を通して、ただうんざりするだけの多くの無意味な仕事を次々にこなすことを強いられ、また耐えることができたのは、自分がなにものにも囚われずに動ずることなく、その局面その局面をクールに処理してきたからだと自負する部分もありますが、あの夜の菊池さんとの遭遇は、「そういうことで本当にいいのか」と問うものがありました。

タルコフスキーやアンゲロプロスを見ることで、会社人間をつづけるために、誰にも知られたくない、社会との折り合いをつけるための素の部分の領域に属するものだったそこに、突如「菊池さんのタルコフスキー」が立ち現れ、「ああ、こういう人もいるのか」と心動かされたのだと思います。きっと、うまく言い表すことができないと思いますが、「タイプは全然違うけれども、同じような場所で必死に格闘しているもうひとりの自分」みたいな。うまく言えませんが。

菊池さんのことを考えていたら、あることを鮮明に思い出しました。

あの菊池さんと過ごした日々のどこかの夜で、なにかの話のついでに、自分が早朝のテレビ体操を習慣にしていることを話したら、菊池さんが特別な「ラジオ体操」を自分で考案したと話してくれました。

「見ます?」「ぜひともお願いします」というわけで、菊池さんが実演して見せてくれたのがこの「ラジオ体操第一・花柳流」というもの、自分が知っている「ラジオ体操」といえば、腕や足をこん棒のように無様に振り回すだけの野暮の真骨頂のようなものですが、菊池さんの演じる体操は、まさに「舞う」という表現がぴったりの日舞風な芸術体操です。

無骨な無様な「体操」が、こんなふうな振りで様変わりできるのかという、いわば官能的な感銘を受けてしまいました。

指先がまるで風にあおられる蝶のように舞い狂い、両の腕は蛇のようにしなやかに体にまとわりつき、流し目であやしく迫ってきたり、誘うようなしなやかさで焦らすように逃げたりと。

しばし幻想に囚われながら、自分の指先があのときの菊池さんの指の所作を真似るように微かに動きはじめようとしているのを感じました。


本橋 麻里・吉田知那美・藤澤 五月・吉田 夕梨花・鈴木 夕湖 【5人同時年譜】

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【1986年】本橋 麻里
北海道北見市(旧常呂郡常呂町)で生れる。


【1991年】藤澤 五月
5月、北海道北見市美山町で生れる。
【1991年】吉田知那美
7月、北海道常呂郡常呂町(現:北見市)で生れる。
【1991年】鈴木 夕湖
北海道常呂郡常呂町(現・北見市)で生まれる。チームメイトの藤澤五月とは父親が従兄弟同士のはとこ。
「夕湖」という名前は母が妊娠中によく見に行っていたサロマ湖の夕陽に由来し、夕陽のようにきれいに育って欲しいという想いから名付けられた。身長145㎝と非常に小柄であり、「カーリングちび部部長」を自ら名乗っている。


【1993年】吉田 夕梨花
7月、北海道常呂郡常呂町(現在の北見市常呂町)で生まれる。
母と姉の影響で、5歳でカーリングを始める。


【1996年】藤澤 五月
藤澤五月がカーリングを始めたのは5歳のとき。北見市立常呂中学校の教員で、元カーリング選手にして長野オリンピックの最終候補選手に選ばれていた父にカーリングリンクに連れていってもらったのがきっかけだった(3人きょうだいの末っ子で、兄姉も父の影響でカーリングを始めていた)。同年代の子どもと比べ体が大きく、重さ約20kgの大人用ストーンを操れる天性の技術を既に持っていた。姉曰く、子ども時代から既に「負けん気がすごかった」という。姉と同じ、地元・北見のチーム「ステイゴールドII」でプレーするようになる。
中学1年生のとき、父は「感覚よりも理論を重視する」藤沢の素質を見出し、姉と交代する形でチームの作戦を立てるスキップを任せるようになった。後にチームメイトになる吉田知那美は、練習試合で藤澤のチームと対戦したときに「同い年と聞いたけど、私たちとは比べものにならないくらいうまかった」と思ったという。


【1998年】本橋 麻里
12歳の時に、常呂カーリング協会初代会長・小栗祐治に誘われてカーリングを始める。
【1998年】吉田知那美
常呂町が日本カーリングの本場でもある環境もあり、小学校2年からカーリングを始め、4年次から大会に出るようになる。
【1999年】鈴木 夕湖
小学校2年生からカーリングを始め、このころから同級生の吉田知那美と、その2歳年下の妹である夕梨花姉妹とは一緒にプレーしていた。


【2000年】本橋 麻里
3月、第13回常呂町ジュニアカーリング選手権大会優勝。

【2001年】本橋 麻里
第9回北海道ジュニアカーリング選手権:3位(マリリンズ)

【2002年】本橋 麻里
1月、第10回日本ジュニアカーリング選手権大会優勝。(「マリリンズ」所属・スキップ)。
第19回日本カーリング選手権:2位
3月、第15回世界ジュニアカーリング選手権に出場(スキップ)。最終順位は10位(最下位)。しかし本橋個人はリンク上、またリンクを離れた場所におけるスポーツマンシップの奨励を目的とした「スポーツマンシップアワード」を受賞(出場選手から構成される委員会における投票により、男女各1名が選出される)。

【2003年】本橋 麻里
「河西建設女子」にリザーブとして加入。
第11回日本ジュニアカーリング選手権:2位(マリリンズ)
第22回北海道カーリング選手権大会:優勝(河西建設女子)
11月、第13回パシフィックカーリング選手権大会:優勝。
【2003】吉田知那美
北見市立常呂中学校入学後、2歳年下の実妹である吉田夕梨花、同級生の小野寺佳歩・鈴木夕湖らと共に『常呂中学校ROBINS』を結成しスキップを務める。
常呂中学での担任は、のちにチームメイトとなる藤澤五月の父で、藤澤五月は同じチームの鈴木夕湖とは父親が従兄弟同士ではとこにあたる。

【2004年】本橋 麻里
2月、第21回日本カーリング選手権(女子の部):3位(河西建設女子)
4月、第26回世界カーリング女子選手権大会:最終順位7位。
第14回パシフィックカーリング選手権:優勝

【2005年】本橋 麻里
2月、「青森県協会(「チーム青森」)」から負傷によりチームを一時離脱した目黒萌絵に代わり、第22回日本カーリング選手権(女子の部):2位(青森県協会)
3月、引き続きチーム青森に帯同して第27回世界女子カーリング選手権出場。最終順位は9位。この結果、2006年トリノ五輪カーリング競技における日本女子チームの出場権(同選手権における過去3年間の国別ポイントの累積によって決定される。この場合は03~05年の累積。)を獲得。
4月、青森明の星短期大学に入学。それに伴い「チーム青森」に正式加入。
社団法人日本カーリング協会(JCA)の強化指定選手に選出される。
11月23日、オリンピック冬季競技大会日本代表(女子)選考会に出場。第1戦目で「チーム長野」に勝利し、同五輪カーリング競技日本代表権を獲得。

【2006年】本橋 麻里
2月、トリノ冬季オリンピックカーリング競技女子の部に出場(セカンド)7位入賞。
3月、第23回日本カーリング選手権・優勝。同選手権終了後、「チーム青森」から小野寺歩(スキップ)、林弓枝(サード)の両名が離脱(公式声明発表、同年5月17日)。
5月19日、主力メンバー(小野寺、林)の離脱に伴う「チーム青森」の戦力低下を考慮した日本カーリング協会が、協議により「チーム青森」、「チーム長野」の両者による2007年世界女子カーリング選手権大会日本代表チーム選考会の開催を決定。
5月31日、「GALLOP」(長野県カーリング協会)の山浦麻葉が「チーム青森」に加入。ポジション編成の刷新が行われた同チームにおいてサードに就任。
11月、第16回パシフィックカーリング選手権出場・最終順位3位。
12月17日、2007年世界女子カーリング選手権大会日本代表チーム選考会出場。「全5戦中3勝したチームが代表権を得る」という条件の下、3勝2敗で代表権を獲得。
【2006年】吉田知那美
3月、日本カーリング選手権に常呂中学校ROBINSとして出場し、トリノオリンピック日本代表だった『チーム青森』に予選リーグで勝ち星を挙げ中学生旋風を起こした。
中学卒業後は北海道網走南ヶ丘高等学校へ進学。常呂中学校時代の仲間と共に『常呂中学校ROBINS』からチーム名を『常呂JJ』に改め、引き続き同じチームでプレー。しかしメンバーの進学先が異なっていたこともあり、チーム練習の時間が思うように取れず、中学校時代のような成績を挙げることは出来なかった。
【2006年】吉田 夕梨花
北見市立常呂中学校入学、2歳上の姉(吉田知那美)、姉の同級生だった小野寺佳歩・鈴木夕湖らと共に『常呂中学校ROBINS』を結成。
カーリング映画『シムソンズ』に選手としてエキストラ出演する。
【2006年】鈴木 夕湖
北見市立常呂中学校で吉田姉妹、小野寺佳歩らと共に常呂中学校ROBINSを結成する。中学時代の2006年(第23回大会)と2007年(第24回大会)には北海道代表として日本カーリング選手権大会に出場し2年連続で3位入賞を果たした。カーリングのほか、中学の部活動ではバスケットボール部に所属していた。


【2007年】本橋 麻里
1月、2007年冬季ユニバーシアードトリノ大会カーリング競技出場・最終順位3位。
1~2月、軽井沢国際カーリング選手権大会2007出場。最終順位3位。
2月、第24回日本カーリング選手権優勝(女子の部):優勝(チーム青森)
3月、青森明の星短期大学卒業。
3月、第29回世界女子カーリング選手権大会・最終順位8位(タイ)。
4月、八甲田ホテル(青森市)入社
6月、同社を退社。
7月、NTTラーニングシステムズ株式会社と所属契約を締結(2010年6月までの3年契約)。
「チーム青森」リーダーに就任。但し、第29回世界女子カーリング選手権終了までは寺田桜子が主将、目黒萌絵がスキップをそれぞれ務めている。また、チームにおけるリーダーの定義・役割は明らかにされていない。
11月、第17回パシフィックカーリング選手権出場・最終順位2位。 なお予選リーグ終了時の成績が中国チームと同一であったため、両チーム各4人がストーンを投げ、ハウスの中心までの距離を合計した結果を競う「チームドロー」が行われた。その結果、予選リーグ2位となった日本チーム(「チーム青森」)は、大会ルールにより同3位の韓国チームと世界選手権出場チーム決定戦を行い、これに勝利し、日本女子チームの第30回世界女子カーリング選手権(2008年開催)への出場権を獲得した。
【2007年】藤澤 五月
北海道北見北斗高等学校に進学。スキップを務めて、高校1年生(2008年)、2年生(2009年)の2年連続で、(「チーム北見(ステイゴールドII)」)日本ジュニアカーリング選手権優勝、世界ジュニアカーリング選手権出場を果たす(また、パシフィックジュニアカーリング選手権でも日本ジュニア代表として2大会連続優勝を果たしている)。このときには既に、「天才」の称号を欲しいままにする存在になっていた。
【2007年】吉田 夕梨花
第24回日本カーリング選手権では常呂中学校旋風を起こして3位に入賞。吉田はこの時13歳で当時の日本選手権最年少出場者だった。


【2008年】本橋 麻里
2月、第25回日本カーリング選手権・優勝(チーム青森)。同年3月に開催される第30回世界女子カーリング選手権の日本代表権を獲得した。
2月、軽井沢国際カーリング選手権大会2008・準優勝。
3月、第30回世界女子カーリング選手権出場・最終順位4位。
4月、アドミッションズ・オフィス入試により日本体育大学体育学部に入学。
第18回パシフィックカーリング選手権: 3位
【2008年】藤澤 五月
パシフィックジュニアカーリング選手権・優勝
世界ジュニアカーリング選手権・7位


【2009年】本橋 麻里
軽井沢国際カーリング選手権大会2009: 3位
第26回日本カーリング選手権: 優勝 (チーム青森)
【2009年】藤澤 五月
パシフィックジュニアカーリング選手権・優勝
世界ジュニアカーリング選手権・10位
【2009年】吉田知那美
高等学校卒業後にバンクーバー(カナダ)へ留学。当初の留学目的は語学研修だったが、現地での下宿先が日系人カーリングコーチであるミキ・フジ・ロイ邸であったこともあり、改めてカーリングを学び直す。
【2009年】吉田 夕梨花
北海道常呂高等学校進学後、姉の知那美らと共にチーム常呂のメンバーとして第19回日本ジュニアカーリング選手権に出場して2位となる。
【2009年】鈴木 夕湖
化学エンジニアを目指し旭川工業高等専門学校物質化学工学科へ進学。旭川高専ではバレーボール部に所属し、週末は北見へ戻りカーリングを続けた。同校の富樫巌教授に指導を受け、卒業研究のテーマは「クロカビと黒色酵母に対するラベンダー精油の防カビ効果」。



【2010年】本橋 麻里
第27回日本カーリング選手権: 優勝 (チーム青森)
2月、バンクーバー冬季オリンピックカーリング競技女子の部に出場(セカンド)・8位入賞。
3月、第32回世界女子カーリング選手権出場。サードスキップを目黒、フォースを本橋が務めることもあった。最終順位11位。
5月1日、札幌市で行われたイベントで、2014年ソチ冬季オリンピックに向け現役継続を示唆した。
6月10日、自身の24歳の誕生日に所属のNTTラーニングシステムズと2年間の契約更新を発表し、2014年のソチオリンピックを目指す意思があることを明らかにした。
8月16日、記者会見にてチーム青森からの脱退を発表した。同時に新チーム『ロコ・ソラーレ(太陽の常呂っ子を意味する造語)』を結成すること明らかにした。チームは常呂町を拠点とし、メンバーにはいずれも常呂町のカーリングチームである「ECOE」の馬渕恵と江田茜、「ROBINS」の吉田夕梨花と鈴木夕湖の4人が参加する。
【2010年】藤澤 五月
高校卒業と同時に故郷を離れ、長野県を拠点とする中部電力に入社。職員として勤務しながら、同社に結成されたカーリング部の創設メンバーとなる。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・3位
【2010年】吉田 夕梨花
高等学校2年次にはオリンピック選手の本橋麻里が北見で結成した『ロコ・ソラーレ(LS北見)』に参加した。
【2010年】鈴木 夕湖
7月、高専在学中、本橋麻里が地元・北見市を拠点に結成したロコ・ソラーレに創立メンバーとして参加。のちに「この時マリちゃん(本橋)に誘われてなければ、カーリングを辞めていた」と述懐している。結成初年度には道内の大会で優勝した。



【2011年】本橋 麻里
第28回日本カーリング選手権: 3位 (LS北見)
【2011年】藤澤 五月
入社直後からスキップを務めて、主将の市川美余らと共に、日本カーリング選手権大会を4連覇、また2011年のパシフィックカーリング選手権に日本代表として出場した。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
パシフィックカーリング選手権・4位



【2012年】本橋 麻里
第29回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
【2012】藤澤 五月
中部カーリング選手権・優勝)
日本カーリング選手権・優勝
【2012年】吉田知那美
日本へ帰国後、故郷の先輩であり、日本代表として二大会連続五輪出場の実績を持つ小笠原歩からの誘いを受け、北海道銀行フォルティウスに加入。北海道銀行嘱託行員として銀行業務の仕事もこなしながらのプレーであった。フォルティウスでは主にリード(先鋒)を務めていた。この間、中高生時代の仲間で愛知県の中京大学に進学していた小野寺もフォルティウスに加入、再びチームメイトとなる。
【2012年】吉田 夕梨花
東海大学国際文化学部国際コミュニケーション学科へ進学し、学業と競技を両立させながらの活動を続ける。
【2012年】鈴木 夕湖
第29回日本カーリング選手権では準優勝を果たしたが、結成から3年ほどは全国レベルの大会では好成績を残せなかった。
3月に旭川高専を卒業し、4月に北見工業大学工学部バイオ環境化学科へ3年次編入学。北見工大ではキノコの研究を行い、食品研究室に所属。佐藤利次博士に指導を受け、「組換えシイタケによるラッカーゼの発現とウルシ(Toxicodendron vernicifluum)からのラッカーゼ遺伝子の単離」を共同執筆している。



【2013年】本橋 麻里
第30回日本カーリング選手権: 4位 (LS北見)
9月、どうぎんカーリングスタジアムで行われた全農カーリングソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで3勝3敗、タイブレークとなった中部電力との試合で2-10と敗れて、4チーム中3位となり、3大会連続のオリンピック出場を逃した。
【2013年】吉田知那美
12月のソチオリンピック世界最終予選に臨みオリンピック出場決定戦でノルウェーに逆転勝ちし、オリンピック出場を決めた。このときフィフス(リザーブ)であった吉田は、「(出番がくるのは日本のピンチなので)最後まで出番がなくてよかったです」と笑顔で話した。
【2013年】藤澤 五月
ソチオリンピック出場をかけた9月の世界最終予選日本代表決定戦で、「追われる立場。負けられないプレッシャー」に屈する形で、小笠原歩率いる北海道銀行フォルティウスに敗れて出場を逃した。藤澤にとって、「どうしたらいいかわからなくなった」と思うほどの大きな挫折だった。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
世界女子カーリング選手権・7位


【2014年】本橋 麻里
第31回日本カーリング選手権: 3位 (LS北見)
【2014年】吉田知那美
2月のソチオリンピックでは競技開幕直前に小野寺がインフルエンザにかかったため、代わってセカンドを務めた。
憧れていたカーリング選手スイスのミリアム・オットに高校時代手紙を送り、返信を貰ったことがあり、ソチオリンピック出場時にはその手紙を持参し、オットのスイスと対戦して勝利した。
予選リーグでは9試合中8試合(リード2試合、セカンド6試合)に出場し5位入賞に貢献した。
ところが、ソチオリンピックの日程終了後、まだソチの選手村にいる段階で北海道銀行フォルティウスからの戦力外通告を受けた(最終戦終了後、五輪公園の会議室で通告されたという。)。通告を受けた時には「リンクに上がることさえ嫌(になる状態になった)」「思い出すと涙が出る悔しさ」と語り、ひとり金沢・富山・軽井沢・東京と一人旅を続ける中でさまざまな出会いを得て、「自分の人生はまだまだこれからだ」と自信を取り戻すことができたという。
3月、北海道銀行を退職。吉田自身が「何もない状態で帰って来ました」という失意のもと郷里の常呂へと戻った。無所属となり、大きなショックを受け一度カーリングから離れる決断もしていたが、地元の先輩である本橋麻里から「一緒に日本代表を目指してもう一回やろう」と誘いを受ける。
6月、当初は断ったが、熟慮の末に本橋が率いるチーム、ロコ・ソラーレに加入した。チーム参加を決断した際には「人生を賭けて、このチームで終わってもいいと思うくらいの覚悟でもう一度戦おうと思いました」という。勤務先はネッツトヨタ北見で、オフシーズンには系列の携帯電話販売店での接客業務などを担当する。
【2014】藤澤 五月
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
【2014年】鈴木 夕湖
3月、同大学を卒業。学位は学士(工学)。
大学卒業後は網走信用金庫へ就職したが、業務と競技の両立に悩み、入社から半年での退職を余儀なくされた。郷里の図書館でのアルバイトを経て、ロコ・ソラーレを支援していた北見市体育協会へ就職した。こうした競技続行への不安や失業を経ていることから、その3年後の2018平昌五輪にて銅メダル獲得直後のインタビューでは「(五輪でのメダル獲得を)当初は全く、全く想像してなかったですね こんなこともあるんですねえ、フフフ」と回答している。
同じこの年に、吉田知那美がロコ・ソラーレに加入した。



【2015年】本橋 麻里
第32回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
【2015年】藤澤 五月
3月末、中部電力を退社した。「地元の北海道北見市での活動を検討している」と報道された。
失意を抱きながら故郷の北見に帰った藤澤は、本橋麻里(ロコ・ソラーレの創設者)と会食の機会を持った。その席で、「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という本橋の言葉に心を動かされて、ロコ・ソラーレへの移籍(入団)を決心した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行うようになる。
しかし、移籍後しばらくは練習に思うようについていけず、試合に勝てない日々が続いた。そんなあるとき、「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」という本橋の言葉がきっかけで、前向きな気持ちを持てるようになっていった。そして、ロコ・ソラーレのチームメイトと共に練習や試合を積む過程で、自分が先頭に立ってチームを引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい、頼れる仲間に出会えているから「ひとりじゃないんだ」と考えることができるようになり、自信を取り戻せたという。
パシフィックアジアカーリング選手権・優勝
【2015年】吉田 夕梨花
LS北見のメンバーとして第25回パシフィックアジアカーリング選手権の日本代表決定戦で勝利し、カザフスタンのアルマトイで開催されたパシフィックアジアカーリング選手権本大会に日本代表として出場して中華人民共和国の10連覇を阻止して日本に2005年以来の優勝をもたらした。
【2015年】鈴木 夕湖
藤澤五月がチームに加入してからはセカンドのポジションで出場し、2015年パシフィックアジアカーリング選手権では、優勝をはたす。



【2016年】本橋 麻里
第33回日本カーリング選手権: 優勝 (LS北見)
2016年世界女子カーリング選手権大会: 準優勝 (日本代表)
【2016年】吉田知那美
ロコ・ソラーレでは主にサードを務め、世界女子カーリング選手権大会で準優勝。
【2016年】藤澤 五月
藤澤が自信を取り戻したことで、ロコ・ソラーレは快進撃の道を歩むようになっていく。日本カーリング選手権大会で優勝し、2016年世界女子カーリング選手権大会で準優勝(銀メダル)に輝いた。この世界選手権決勝のスイス戦では、第9エンド終了時点で6-7と相手に1点リードを許した日本代表(LS北見)が後攻で迎えた最終第10エンド、スキップの最終投擲がNo.1に入れば7-7の同点となりエキストラエンド(延長戦)突入という場面で、藤澤が投じたラストストーンがハウスを通過する痛恨のミスショットとなってスイスの前に敗戦を喫して優勝を攫われた。その試合後に藤澤は「最後のショットを決められなかったのは私の責任」と悔恨のコメントを残した。
日本カーリング選手権・優勝
パシフィックアジアカーリング選手権・3位
世界女子カーリング選手権・準優勝
【2016年】吉田 夕梨花
LS北見のメンバーとして2月の第33回日本カーリング選手権で優勝し、世界女子カーリング選手権の日本代表に自動的に選出されると、3月の2016年世界女子カーリング選手権大会では優勝決定戦まで勝ち上がり、スイスとの大会三度目の対決となった優勝決定戦では最終第10エンドまで死闘を演じながらわずかの差でスイスの前に敗れて準優勝となった。
【2016年】鈴木 夕湖
第33回日本カーリング選手権大会で優勝を果たす。2016年世界女子カーリング選手権大会(カナダ・スウィフトカレント)では決勝戦まで勝ち上がり、スイスとの決勝戦では最終第10エンドまで激しい攻防を繰り広げ惜しくも敗戦を喫したが準優勝に輝いた。



【2017年】本橋 麻里
第34回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
9月、アドヴィックス常呂カーリングホールで行われた第23回オリンピック冬季競技大会(2018平昌)平昌オリンピック日本代表決定戦で中部電力を3勝1敗で降し、3度目のオリンピック代表権を獲得。
【2017年】藤澤 五月
2月の札幌冬季アジア大会カーリングでは銅メダルにとどまるが、2017年9月の平昌オリンピック代表決定戦では自身の古巣である中部電力に勝利して、自身初めてのオリンピック出場を叶えた。このとき藤澤は、「4年前に負けてカーリングをやってていいんだろうかと思いました。このメンバーで戦えて幸せ者だなと思います。私以上に周りの人が信頼してくれ、チームメートに支えられたし、五輪に出ていない悔しさがありました。ここからまた五輪まで成長できれば」と涙を流しながら述べた。また、「中部電力がいたからこそ、私たちの成長があった」と古巣に感謝の言葉を述べている。
【2017年】鈴木 夕湖
9月、平昌オリンピック日本代表を賭けた中部電力カーリング部との最終5番勝負の決戦を3勝1敗で制し、ロコ・ソラーレをオリンピック出場に導いた。



【2018年】本橋 麻里
2月、平昌オリンピックではチームキャプテン・リザーブとしてチームを支え、予選を4位で突破した。準決勝では大韓民国に敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初、また冬季五輪史上初のママさんメダリストとなる銅メダルを獲得した。
【2018年】吉田知那美
2月の平昌オリンピックにサードで全試合出場し、日本勢で初めて予選を4位で突破した。準決勝では韓国に敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。
【2018年】藤澤 五月
平昌オリンピックに臨むにあたり、「勝てなくても憧れられる、尊敬されるカーラー」を目指すと心に誓い、「折れない心」を身に付けるためのメンタルトレーニングに取り組み続けてきた。迎えた本番で、藤澤がスキップを務める日本は、開幕3連勝を飾ったが終盤2連戦で藤澤のミスが続き連敗を喫し自力突破が無くなった一方、4位争いをしていたアメリカが破れた為に、結果的にかろうじて予選を4位(5勝4敗)で突破、予選最終戦の対スイスでミスから大敗した為「正直、複雑」と答える。準決勝で韓国に敗れ3連敗となるも3位決定戦でイギリスに勝利し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得。「考えるカーリング」が結実しての銅メダル獲得であることと共に、藤澤は自身が目指した、メダルの似合う「グッドカーラー」になることを叶えた。
平昌オリンピック・3位
【2018年】吉田 夕梨花
2月の平昌オリンピックに出場し、予選を4位で突破した。準決勝では開催国の韓国と対戦して敗れたがイギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。
平昌オリンピックでは試合中に明るく発する北海道方言の「そだねー」が大きな話題になり、「そだねージャパン」の愛称で呼ばれた。
2018年時点では北見市内の医療法人「美久会」に勤務している。同法人の理事長はLS北見のスポンサーのほか馬主としても著名な人物であり、平昌五輪後に自身の馬に「ソダネー」と命名した。
3月、日本ミックスダブルスカーリング選手権に協会推薦枠で男子五輪代表の両角友佑とペアを組んで出場。初戦で敗れるなど、苦戦の連続の中白星を重ねたが、最終戦で妹背牛協会に大逆転負けを喫し、予選リーグ敗退となった。
【2018年】鈴木 夕湖
2月の平昌オリンピックでは、予選リーグを4位で突破した。鈴木は当大会参加のカーリング選手の中で最も身長が低かったが、予選リーグ韓国戦の第8エンドで「4秒間に19往復」させたスイープ力は高い評価を得た。準決勝は韓国との再戦となり延長戦の末敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制しオリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。なお、同大会中では試合中に戦術検討する際に発する「どれくらいだい?」や「そだねー」などの北海道方言での会話が話題となり、「そだねージャパン」の愛称で呼ばれた。特に「~だい?」や「~かい?」という言い回しは鈴木が多用する。



夢は常呂で結実した ロコ・ソラーレ(どれくらいだい)物語

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このところ「映画について書く」というモチベーションが著しく低下しているのが自分でもはっきりと分かります。

「このところ」というのを、期間で限定すれば、「韓国・平昌で開かれたオリンピックの一連の競技をテレビで観戦していた期間」ということになるでしょうか。

そして、その期間で見た映画というのを具体的にあげれば、例えば「猫なんか呼んでもこない」とか「ラ・ラ・ランド」、「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」「プリズン・エクスペリメント」(これなんか無理して見続けたことさえ後悔しています)、「コードネーム:ホレッツ」(前作で既にキレていたので、こちらは途中で見るのをやめました。なにも無理して見ることもありませんし)で、そうそう、見たということを記憶・記録として書き留めておくことさえ嫌悪を感じる「珍遊記」というのもありました。

まあ、「珍遊記」に関して言えば、その少し前に中国映画「人魚姫」という破天荒な作品を見てそのハチャメチャ振りに抱腹絶倒、あそこまで徹底していればもはや「芸術の域」に達したも同然と関心した余韻もあり、このジャンルの映画に対してとても無防備になり過度な期待をもってしまいました、これはそもそも柳の下に2匹目の泥鰌を期待した自分の方が悪いので、文句を言う筋合いではないのかもしれませんが、よりにもよってあんな愚劣な映画「珍遊記」など作らなくたっていいだろうという腹立たしさというか、いずれにしても結局は「嫌悪感」に行きついてしまうという惨憺たる映画でした。

でも、ここにあげた鑑賞リストのなかには、オスカー受賞作やメディアで大きく取り上げられた話題作「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」(いつもの自分ならトレンディな「宮沢りえ」ネタでなにかちょっとしたものを書けたかもしれませんが、映画自体は、宮沢りえに肝っ玉かあさんは似合わないだろうという印象にとどまりました)もあるわけですから、すべての作品に対して「嫌悪感」とか「愚劣」とかがあてはまるわけではないのですが、いずれにしても、どの作品も自分のモチベーションをあげるのには正直もうひとつなにかが足りなかったという感じでした。

あっ、そうそう、1本だけリストに入れるのを忘れていた作品がありました、たまたまインターネットで佐藤祐市監督の「シムソンズ」2006を流していたので、加藤ローサが懐かしくて見てみました(しかし彼女、決して過去の人なんかじゃなくて、タントCMに出ていることをあとで知りました)、その見た理由というのは、「懐かしさ」というのもひとつありますが、むしろ平昌オリンピックで銅メダルを獲得したカーリング女子の吉田夕梨花選手がエキストラとして出演していると聞き、ぜひその場面を見てみたいというのが主たる動機です。

結果は、残念ながら彼女を発見することはできませんでしたが、しかし諦められず、ネットで「ヒント」となるものを探しまわったのですが、やはり的確な情報を見つけることはできませんでした、その代わりに2006年というと彼女が13歳くらいだと知り、いまの成人したイメージに捉われていたために見つけ出せなかったのかと遅ればせながら納得しました。

自分をその映画「シムソンズ」に引き寄せたものは、今回の平昌オリンピックのカーリング女子、日本対イギリスの3位決定戦でイギリスの最後の一投が微妙にズレ日本の石がナンバーワンになるというあの奇跡の絶叫「ナンバーワンは、日本だ!」から影響されたものなのですが、この銅メダルに至るまでの彼女たちの選手としての軌跡がすこぶる陰影に富んでいて、あまりにもドラマチックなのと(もちろんブームに乗った部分もありますが)、you tubeなどで彼女たちのことを部分的に知るにつれて、この期間に見た映画という映画(「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」)がことごとく色あせて見えてしまったことと、あるいは関係があるかもしれません。

吉田知那美と吉田夕梨花が姉妹であることと、彼女たちの母親がカーリング選手だったので、この姉妹が小学生から自然にカーリングに親しんだことはTV中継のなかで幾度も紹介されていました。

そして、彼女たちが中学生のときに結成した「常呂中学校ROBINS」(吉田姉妹のほかに同級生の小野寺佳歩と鈴木夕湖)が、日本カーリング選手権に出場し、トリノオリンピック日本代表だった「チーム青森」に予選リーグで勝ち星を挙げて大々的に報じられ中学生旋風を起こしたことは薄っすら記憶しています。ちなみに、ロコ・ソラーレ現コーチの小野寺亮二は、小野寺佳歩の父親です。

敗れた「チーム青森」の小笠原歩選手も常呂町出身で、自分が育成した「常呂中学校ROBINS」の少女たちを「末恐ろしい中学生」とコメントしています。その「チーム青森」には本橋麻里も在籍していて、「常呂中学校ROBINS」に負けた瞬間の場面をいまでもyou tubeで見ることができますが、そこには勝利を喜ぶ吉田知那美や鈴木夕湖の背後で、呆然とたたずむ小笠原と本橋の姿が映し出されていました。

その本橋の呆然とした表情なら、もう一つ見た記憶があります、LS北見がオリンピック代表選考戦で中部電力に敗れた場面、敗れた本橋麻里が表情を硬くして、勝利し満面笑みをたたえた中部電力のスキップ・藤澤五月と顔を背け合って氷上ですれ違う場面です、勝負に生きる者なら当然のことですが、やはり、時を経てやがてオリンピックで共に銅メダルを獲得し、抱き合って喜びを分かち合っていた姿を知っている現在から見ると、いずれもとても違和感のある場面です。

しかし、その本橋の表情には、「負けたショック」とともに、「常呂町」出身者同士が郷土の誇りとは違う部分でぶつかり合わなければならない状況への割り切れない戸惑いが窺われるような気がします、そこには、やがて本橋麻里が常呂町に戻ってロコ・ソラーレを立ち上げる動機のようなものが潜んでいたのかもと見るのは、都合のいい思い込みかもしれませんが。

その「常呂中学校ROBINS」の生徒たち、吉田知那美・小野寺佳歩・鈴木夕湖らを担任していたのは、のちにチームメイトとなる藤澤五月の父親で、また、ROBINSの選手・鈴木夕湖と藤澤五月とは、父親が従兄弟同士のはとこにあたるなど、知れば知るほど奇縁で結ばれており、まるでご都合主義のフィクションのようで、you tube閲覧にもついつい熱が入り嵌まり込んでしまいました。
 
いえいえ、これだけなら傑作・秀作・名作の「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」を差し置いて「ロコ調査」に熱中なんかしやしません。

「ロコ・ソラーレ」加入に至る選手たちの軌跡が、これまたさらにドラマチックなのです。

まず、いかにもアイドルみたいな容貌の創設者・本橋麻里、かつて、カーリングという競技に対してではない部分で「カーリング・ブーム」が巻き起こった際、メディアの関心のされ方に違和感と危惧と反発を漏らしていた彼女の印象が、もうひとつリアルさに欠けているという印象を持ったのは、彼女の「化粧好き」にあったのかもしれません。

「なんだか言っていることと、していることと矛盾してね」という感じです。

オリンピック期間中、藤澤五月のことを天才スキップと称されていたことが紹介されていましたが、それを言うなら中学生にしてオリンピック代表「チーム青森」を倒した吉田知那美だって十分に天才だと思いますが、しかし、ひとつの信念から無の状態のチームを立ち上げ、わずか10年たらずでオリンピックのメダル獲得にまで到達させた本橋麻里の手腕は、選手としても経営者としても管理者としても、まさに天才といってもいい業績だったと思います、少なくとも実業団チームでは為し得なかった快挙です。実業団チームが為し得たことは、実力ある選手を戦力外として見放し、使い捨てて、その管理者としての無能ぶりを後世に伝え世界の笑いものになることくらいがせいぜいだったわけですからね、北海道銀行さん。

そして、「ロコ・ソラーレ結成」から今回の「凱旋会見」まで、今回you tubeをいやというほど見て、はじめて気が付いたことがありました。

数々のタイトルをとり、華々しい戦歴を重ねて十代でオリンピック出場を果たして、その「オリンピック出場・メダル獲得」という視点は常にぶれることなく、もうひとつのコンセプト・郷土愛(「正解」のような気もしますが、スポーツの世界にあっては、ローカルにこだわることは資金面や人的資源からみて、とてもリスキーな賭けでもあります)を前面にだして「ロコ・ソラーレ」を結成して、マイナーな場所(常呂が「聖地」といわれながら、それを本気にしている人など誰一人いなかったのではないかと思います。)にこだわって出発した彼女にとって、「化粧」は、その「微笑」や「涙」と同じように、他人から不安や本心、素顔や内面を読まれないようにシャッタアウトするための仮面=武装なのだと。彼女にあって、たとえそれが「号泣」や「歓喜」や「驚愕」のように見えても、いや、故郷から遠く離れ、失ったうえ、他国で勝利の栄光をあびることの空虚と苛立ちを、彼女の「化粧」が、しっかりと覆い隠していて、本当の部分までは分からない、どこか冷めている印象を受けるのは、たぶんそのためだったと思いますし、メダル獲得後に「芸能プロダクションと契約してブームにのって荒稼ぎ」という噂を一蹴したのも、彼女のブレのなさと強い意志とを感じました。

吉田知那美がソチ・オリンピック終了直後、コーチからキミは来季の構想にないと戦力外を言い渡され、その直後の会見で、「私が能力以上の場所に身を置けたのは自分の貴重な財産ですし・・・」と話しながら、突然絶句し、言葉を発せられないくらいの嗚咽に身を震わせはじめる映像でもっとも印象的なのは、その明らかにブザマな嗚咽を取り繕うかのように瞬間にみせる彼女の不自然で痛ましい微笑です。そのとき、その無防備な嗚咽は、まるでいじめにあった弱々しい中学生という印象を受けました。実は、その通りだったのですが。

郷里の凱旋会見で「いまは、ここ(常呂)にいなければ、夢は叶わなかったと思います」というコメントは、故郷にいたのでは夢は叶わないと一度は故郷を捨て、しかし、都会で企業から使い捨てという過酷な仕打ちを受けてすべてを失い、追い立てられるように失意の中で帰省した彼女の、しかし、その逆境を跳ね返した以前とは打って変わった力強い本音だったからこそ、多くの人に感銘を与えたのだと思います。

笑顔こそが最強の武装・武器になると本橋麻里から学んだ吉田知那美の「悟り」だったのだと思いました。

中部電力のスキップ時代の藤澤五月の映像を見ていると、今回の平昌オリンピックの氷上でプレイしている見違えるくらい美しい藤澤五月が、同一人物とは到底思えないくらいの違和感を覚えます。

重圧のもとで投げられた最後の一投が軌道をはずれ、目指す石に掠ることもなく、むなしく流れる石の行方を呆然と見つめるあの素顔の悲痛な表情は、平昌オリンピックの氷上ではどの試合においても見つけ出すことはできませんでした。

自信にあふれ、追い詰められた局面でも微かに微笑み、氷の状態をもういちど仲間と確認し、とにかくゆっくり投げ出せば、リードとセカンドがスウィーピングでいい位置に運んでくれるという余裕さえうかがえます。

そこには、かつて中部電力時代に、責任をひとりで抱え込み、仲間の慰めを拒むような切迫した孤立感で氷上に呆然とたたずむ彼女の姿は、平昌オリンピックにおいては、もうありませんでした。

失敗を引きずらない強さと、チームワークと世界を振り向かせた美しさ(の武装)もまた、本橋麻里から学んだものに違いありません。

この小文は、北見市で行われた凱旋パレードをyou tubeで見ながら書きました。北見市でおこなわれた凱旋パレードのあと、市民会館の報告会で、吉田知那美は、パフォーマンスではなく、カーリング選手としての自分たちの姿を見て欲しいと涙ながらに訴えた姿が印象的でした。



本橋麻里が藤澤五月に会った夜

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つい先日、平昌オリンピックで銅メダルを獲得したカーリング女子の吉田知那美選手が、インスタグラムに、5人の選手たちがリラックスしている写真をアップしたことがさっそくmsnのニュースで取り上げられていたので、ついつい見入ってしまいました(https://www.instagram.com/chinami1991/)。

そして、その記事には、日本中から寄せられた多くの反響も掲載されていて、まだまだ、彼女たちの人気が熱く続いているのがこのことからでもよく分かります。

最近では自分なども、パソコンのスイッチを入れて最初にすることといえば「ロコ・ソラーレ」検索なのですが、期待に反してなかなか更新されない情報を繰り返して見たりして、優に小一時間は費やしてしまいます。

とにかく、このフィーバーのなかでも、彼女たちが「大都会・東京・銀座」などに色目を使うことなく、また、パレードで使うクルマも市のトラックを強引に改造したものだし(それでも清掃車なんかじゃなくてホント良かったと思うくらいの勢いです)、パレードのコースも北見市のメイン通りなんかではなくて、たぶん普段は人通りの途絶えた狭い道の商店街(ニュースでは、その「普段」のシャッター通りの寂れ具合も紹介していました)と、手を振る先には知り合いが何人もいるらしい顔見知りの北見市民という、その和やかな徹底した「地元感覚」にはとても好感が持てましたし、また、アスリートとしての潔さにも痛快なものを感じました。

you tubeでアップされていた当地のテレビ番組もローカル色満載で、よくぞ地元の活性化のために尽くしてくれたという手作り感満載のアットホームな感じと、故郷の地にしっかりと足を付けて活動する選手たちへのリスペクト感が顕著で(選手たちを前にして感無量になった市長の号泣もですが)見ていて大変気持ちよく、トレンディな話題を片っ端から使い捨てていく中央メディアの冷ややかな客観視とか歪んだ揶揄とか、意地の悪い批評家の愚にもつかない皮肉にすっかり慣れてしまっている「中央・東京」なんかに関わり合っていたら、なかなかこうはいかなかっただろうなといった思いを強くしました。

自分も前回、このブログで、まだまだ続く最近の熱狂ぶりを追いかけるかたちで、ネットやyou tubeで見聞きした「ロコ・ソラーレ」知識を自分なりにまとめてみたのですが、なにしろ5人の選手(本橋麻里・吉田知那美・藤澤五月・吉田夕梨花・鈴木夕湖)のそれぞれ違う人生が交錯しながら、「平昌オリンピックで銅メダルを獲得」という感動の一点に集約されていくことを整理するための苦肉の策として、5人それぞれの出来事を年度でまとめた「5人同時年譜」というのを作って、当初は、コラム「夢は常呂で結実した ロコ・ソラーレ(どれくらいだい)物語」を書くための単なる手控えだったのですが、我ながらあまりの出来栄えのよさに感心し、恐る恐るアップした次第です。

そして、結局、読み返すことが多いのは、この「5人同時年譜」の方で、そんなふうにこの年譜を何回か読み返していると、あることにふと気が付きました。

2010年に本橋麻里が、チーム青森を脱退して常呂町に戻り、「ロコ・ソラーレ」を立ち上げようとしたときの記者会見の様子(8月16日)をいまでもyou tubeで見ることができます。

そこで彼女は、こう言っています。

「私、本橋麻里は、約15年間活動させていただいたチーム青森を離れる決意をいたしました。同じ故郷の仲間と一緒にチームを組みます。」

カーリングの聖地と言われる常呂町で、なぜ選手が残れないのか、という彼女の素朴な疑問と望郷の思いが、こうして本橋麻里を故郷に帰らせたのですが、そのことに関して別の場所ではこうも言っています。

「いざ北見という大きな町から見ると、常呂町はそんなに賑わっていなかった。(選手を地元にとどまらせるだけの支援してくれるスポンサーがなかった)」と。

そして、チーム名・ロコ・ソラーレが、「常呂の子+solare」という言葉の組み合わせから命名されたということを聞くにおよび、当初、ロコ・ソラーレを立ち上げようとした本橋麻里の念頭に「常呂町」という意識はあっても、はたして「北見市」というところまであったのかどうかという疑問をもちました。

つまり、「LS北見」という呼称(または通称)は、常呂でのスポンサー探しに苦慮し、徐々に「北見市」まで交渉の幅を広げていかなければならなかった必要的・現実的な問題として「LS北見」という呼称が便宜的に生み出されたのではないか、と考えました。

自分が思うに、本橋麻里が常呂町に戻ってチームを作りたいと考えたとき、当初、彼女の念頭にあったものは、かつて、自分も所属していたオリンピック日本代表の「チーム青森」を倒した地元の(当時)中学生チーム『常呂中学校ROBINS』(小野寺佳歩、鈴木夕湖、吉田知那美、中川ともな、小笠原茉由、そして吉田夕梨花が所属していました)で、「常呂町にこだわったチーム」づくりを地元で結成すると表明したときの具体的なイメージとしてROBINSがあったのではないか、だから、その固有のチーム名としては「ロコ・ソラーレ」でなければならなかったというわけで、少なくとも、そのとき・そこにはまだまだ「北見」は想定されてなかったのではないかと思われて仕方ありません(つまり、「藤澤五月」の存在です)。

やがて、常呂町では有力なスポンサーが思うように見つからず、交渉先を北見市内まで広げていく苦心の過程で「LS」に「北見」を付け足さざるを得なかったという、いわば苦し紛れの「公武合体論」みたいなものだったのではないかと。

いまから見ると、「ECOE」の馬渕恵と江田茜はともかく、当時まだ学生だった小柄な吉田夕梨花と鈴木夕湖はいかにもひ弱な印象をあたえ、それにまだまだ動きもぎこちなく(いかにもマッチョないまから見ると実に隔世の感があります)、当時連覇を続けていた無敵のパワーチーム「中部電力」や「北海道銀行」には明らかに劣る、いかにも頼りないという印象を受けてしまいますが、本橋麻里の構想としてあった『常呂中学校ROBINS』再結成のコダワリを考えれば、とにかく彼女たちの将来性に賭けてみようとした本橋のその我慢の起用には納得できます。しかし、結局、彼女が「未熟さに賭けた」その分だけ、ソチ五輪世界最終予選日本代表戦には間に合わなかったということになるでしょうか。

そして、ソチ五輪を迎えようとしたとき、彼女たちがそれぞれに経験した挫折によって、事態は大きく動き出します。

2013年9月、本橋麻里のLS北見は、どうぎんカーリングスタジアムで行われたソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで3勝3敗としてタイブレークとなった中部電力(スキップ藤澤五月)との試合で2-10と敗れて、4チーム中3位で、3大会連続のオリンピック出場を逃します。

この場面はyou tubeで見ることができて、氷上で顔を背け合って幾度かすれ違う二人(敗れて憮然とした本橋と勝利の笑みを噛み殺すような藤澤のツーショットがとても印象的です)の固い表情が忘れられません。

しかしそのソチ五輪出場の大本命といわれた中部電力の藤澤五月も、世界最終予選日本代表決定戦で「追われる立場、負けられないプレッシャー」に圧し潰され、小笠原歩率いる北海道銀行フォルティウスに惨敗し出場を逃します、藤澤自身「どうしたらいいかわからなくなった」というほどの大きな動揺と挫折を味わいます。

2014年2月、北海道銀行フォルティウスの補欠だった吉田知那美は、ソチ五輪において急病の小野寺に代わってセカンドをつとめ、予選リーグで9試合中8試合(リード2試合、セカンド6試合)に出場し5位入賞と大きく貢献したものの、その直後の選手村のその場所で北海道銀行フォルティウスから戦力外通告を受け、「思い出すと涙が出る」ほどの悔しさを味わいます。

そして3月、北海道銀行を退職した吉田知那美は、「何もない状態で」郷里の常呂町へ戻り、カーリングからの引退も考えていたときに、本橋麻里から「一緒に日本代表を目指してもう一回やろう」と誘いを受け、熟慮の末の6月、ロコ・ソラーレに加入します。

たとえ偶然が重なったとはいえ、吉田知那美の加入は、本橋麻里の「常呂中学校ROBINS再結成」構想に沿ったもので、吉田知那美の躊躇の数か月があったとしても、それを待つくらいはなんでもないほどに本橋の吉田知那美加入を求める強い思いは厳然としてあったと予想できます。たぶん、この関係をひとことで言えば「相思相愛の絆」で結ばれたものとでもいうことができると思います。

しかし、藤澤五月がロコ・ソラーレに加入する経緯を同じように考えると、なにかとても違和感があって、どこかに大変な無理があるような気がして仕方ありません。

ましてや、「相思相愛」などというイメージには程遠い、どこを探しても懐柔などあり得ない修復不能な関係のように思えて仕方ありませんでした(もちろん私見です)。

たぶん自分の頭の中には、あの残像(敗れて憮然とした本橋と、勝利の笑みを押し隠すように俯く藤澤の不自然な表情のふたりが顔を背け合って氷上ですれ違う姿)がいつまでも強く残っているからだと思います。

ロコ・ソラーレを結成した2010年以降、チームが低迷を続けてきたのは、大切な局面で常に藤澤五月のいた強力な中部電力が立ちはだかり、苦汁を飲まされ続けてきたからだといっても決して過言ではないくらい藤澤五月の存在は大きく、大切な場面で何度も彼女に負け続けてきたといってもいいくらいのロコ・ソラーレでした。

自分たち社会の一般常識からすると、そうした過去の経緯や悪関係を考えれば、本橋麻里が抱く藤澤五月に対する感情は、そう簡単には払拭できるような代物では決してなく、価値観が180度ひっくり返るような何か重大な転機とかが起こらなければ二人の間にできた積年の溝は、そう簡単には埋められないように感じていました。

ましてや、本橋麻里が元ROBINSの吉田知那美の加入を強く望んだようにして、はたして藤澤五月の加入を自分から強く望むだろうか、とても疑問です。それに藤澤五月の加入を求めるということは、自分のスキップとしての場所を譲り渡すことも同時に意味していたわけだし、それでも平昌五輪出場とメダル獲得という大義のために本橋麻里は大人の判断を下したのだろうか、という疑問に捉われていたときに、偶然ある記事に出会いました。

藤澤五月をスキップとしてロコ・ソラーレに迎えたいと望んだのは、コーチの小野寺亮二だったという記事です。
そのへんのイキサツをWikiはこう書いています。


2015年3月末、藤澤五月は中部電力を退社した。「地元の北海道北見市での活動を検討している」と報道された。失意を抱きながら故郷の北見に帰った藤澤は、本橋麻里(ロコ・ソラーレの創設者)と会食の機会を持った。その席で、「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という本橋の言葉に心を動かされて、ロコ・ソラーレへの移籍(入団)を決心した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行うようになる。
しかし、移籍後しばらくは練習に思うようについていけず、試合に勝てない日々が続いた。そんなあるとき、「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」という本橋の言葉がきっかけで、前向きな気持ちを持てるようになっていった。そして、ロコ・ソラーレのチームメイトと共に練習や試合を積む過程で、自分が先頭に立ってチームを引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい、頼れる仲間に出会えているから「ひとりじゃないんだ」と考えることができるようになり、自信を取り戻せたという。


なるほど、なるほど、誰が最初に声をかけたかとか、誰が折れて、誰が会食の席を設けたとか、アスリートには、そんなささいなこと、関係ないのかもしれませんね。

でも、これってなんだか坂本龍馬が仲立ちした薩長同盟結成の場みたいな感じもしますよね。


【年表・ロコ・ソラーレが藤澤五月に敗れ続けた日々】
2010年7月、元「チーム青森」で旧常呂町出身の本橋が関係者と共に新しい環境の元、同町の出身者5名(本橋・馬渕恵・江田茜・鈴木夕湖・吉田夕梨花)により結成。
2010年12月、オホーツクブロックカーリング選手権初優勝。
2011年1月、北海道カーリング選手権初優勝。第28回日本選手権への出場権を獲得。
2011年2月、第28回日本カーリング選手権に初出場。予選で全勝し1位でプレイオフに進出したが、プレイオフで敗れ、3位。
2012年2月、第29回日本カーリング選手権で初の決勝進出を果たす。決勝では藤澤五月率いる中部電力カーリング部に敗れ、準優勝。
2013年2月、第30回日本カーリング選手権で4位となり、ソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦への出場権を得る。
2013年9月、ソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦にて、決勝進出を賭けたタイブレークで藤澤率いる中部電力に敗れ、ソチ五輪出場権を得られなかった。
2013年10月、アドヴィックス常呂カーリングホールが落成。チームの活動拠点となる。
2014年6月、北海道銀行フォルティウスから、旧常呂町出身の吉田知那美が移籍加入。
2015年2月、第32回日本カーリング選手権で2度目となる決勝進出を果たしたが、決勝で北海道銀行フォルティウスに敗れ準優勝。
2015年4月、馬渕恵が選手活動を引退。
2015年5月、中部電力カーリング部から北見市出身の藤澤五月が移籍加入。
2015年11月、本橋の産休のため、第25回パシフィックアジアカーリング選手権(PACC)には帯広市出身の石崎琴美が参加。同大会で日本勢10年ぶりの優勝を達成。
2016年2月、第33回日本カーリング選手権大会にて、決勝でチーム富士急に勝利。3度目の決勝進出にして日本選手権初優勝を達成。世界選手権と翌シーズンのパシフィックアジアカーリング選手権の出場権を獲得。
2016年3月、世界選手権にて一次リーグを9勝2敗の2位で突破。決勝でスイスに敗れたが、日本勢初の準優勝。銀メダルを獲得。
2017年9月、平昌オリンピック日本代表決定戦(3勝先勝方式)で中部電力に3勝1敗で勝ち平昌五輪代表権を獲得。
2018年2月、平昌オリンピックに日本代表として出場。予選4位でカーリングの日本チームとして五輪初の準決勝に進出した。準決勝の韓国戦は延長戦の末7-8で敗れたが、3位決定戦でイギリスを5-3で破り銅メダルを獲得した。



上野・東京ラインの秘められた情事

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若い頃、通勤にはずっと私鉄を使っていたので、結婚して郊外に引っ越してJRを使うようになり、はじめて知って意外に思ったことに「整列乗車」というのがありました。

文字通り駅で電車を待つ乗客が整然と3列に並ぶというアレです、それまでこのJR「整列乗車」という慣行をまったく知らなかった自分(私鉄族)には、実に奇妙で堅苦しい(というか、押し付けがましい)決め事に思えました。

そのへんのところは、まったく自由だった「私鉄族」には、この慣行は「強制」以外の何物でもない息苦しさしか感じられませんでした。

私鉄では、あんな習慣はもちろんありませんでした(今でもそうか、現状がどうなっているのかは知りません)、駅で電車を待つ乗客は、三々五々その辺に立っていて、電車が到着すれば、「おっ、来た・来た」なんて感じで、次第に速度を緩める電車の、乗り込もうとアタリをつけたドアに目星をつけて、なんとなく蝟集し、まだ動いているドアと並歩し(「並走」という言葉があるくらいなのですから「並歩」もアリかなと)、徐々に速度を落としていくのと微妙にタイミングを合わせて移動しながら、止まってドアが開けばさっさと乗り込むという感じでした。

その「なんとなく」感が、まさに私鉄の「自由気ままさ」を象徴していた気楽さということだったんだなと、いまにして思います。

でも最近は、少しずつ考え方がJR的に変化しているのもまた、事実です。

私鉄では今でもやはり、朝の通勤ラッシュの混雑時には、我先になんとなく雑然と、つまり先を争って無秩序な乗り込み方をしているのだろうか、もし、そうなら当然乗客同士のトラブルは必至で、小突き合い・蹴り合いくらいは避けられないだろうなと。

それに比べたらJRの規制の効いた乗り方は、だから実に穏やかで、いまではすっかり「JR」の慣行に馴染んでしまっている自分です。

「整列乗車」の長所が、この乗客同士のトラブル回避というところにあるのと、もうひとつは、列の位置取りさえ間違わなければ、必ず座れるというところでしょうか。現状「座れる率」は、ほとんど99%です。

実は、自分が乗り込むターミナル駅では、15分ごとに電車の最後尾に新たに5輌増結される電車があります(合計15両編成の通勤快速電車というのは、日本で最長の通勤快速電車だと聞いています)、まさにそれが優に小一時間はかかろうかという通勤時間のあいだ、座ってのんびり居眠りをしていられる理由です、ずっと立ち続けてモミクチャにされることを考えれば(つい数年前までは、そうでした)、まさに雲泥の差です。

それに、何年か前に「上野・東京ライン」というのが開始されて、以前は上野駅か日暮里駅で乗り換えねばならず、通勤客でごったがえす超混雑の階段をひしめき合って上り下りしなければならなかったものが、いまではストレートに東京駅まで乗り入れるという、自分の通勤環境は、これによって激変しました、「通勤時間短縮と、座われて居眠り」と、それに、隣にウラ若い女性が座るなどという幸運なオマケ付きなんてことも時にはありますし。

まさにこの「通勤時間短縮」が、時間の余剰をうみ、たとえ座れなくとも、さらに15分待てば、次の電車でも座れるというシナジー効果・好循環を生み出したというわけです。

しかし、この「通勤時間短縮」と「座れる」というところまでは、同時に自分の願望でもあったのですが、「居眠り」の方は、単に「座れる」という状況に伴うだけのことで、あえていえば自分の「希望外」のことにすぎません、子供のころから自分は電車に揺すられていると、そのうち猛烈な眠気が差してきて目を開けていられなくなってしまいます、もしかすると、なにかのビョーキかもしれませんが。

しかし、たとえわずかの間でも、通勤時間を読書に当てて有意義に使いたいと思っている自分なので、当然そこには知的な葛藤が生まれというわけです。

すぐに眠気が差してきてうたた寝をしてしまうにしても、せめて僅かな間だけでも何かを読もうと「足掻き」ます。考えてみれば諦めのわるい実にみみっちい話です。

なんか、この状態をむかしの映画のイメージに当てはめるとすると、ブリジット・バルドー初期の作品「わたしは夜を憎む」1956みたいな感じかなと。記憶が定かではありませんが、アレって夫婦間の夜のsexが怖い若い女性の作品だったのだとしたら、眠気で読書ができないこととは、相当な違いがあるのかもしれません。

ちょっと話が飛びますが、淫乱な痴女ものより、病的な潔癖さでsexを嫌悪し拒否する処女ものの方が、よほどエロティックですよね、例えばポランスキーの「反撥」とかあるじゃないですか。(なんの話してるんだよ、飛びすぎだろ)

で、通勤時間には必ず文庫本(でなくともいいのですが、これが一番軽いので)を携帯していきます。行き返りの通勤時間でしか読まないので読むペースは遅々としか進まないのですが、それでも持っていれば安心するお守りみたいになっていて、活字中毒の自分です、たとえそれでもいいじゃないかという気持ちでいます。

ここのところ読んでいる文庫本は、帚木蓬生の「三たびの海峡」という小説です。

予備知識なくたまたま手に取った本でしたが、読んでみてびっくりしました、なんと戦前の朝鮮人強制連行を描いた実に深刻で重苦しい小説です。なにしろこちらは通勤時間に軽く読めるものを念頭においてチョイスしたつもりだったのですが、この拭いがたい民族的憎悪と怨念に満ちた壮絶な小説には、わが「眠気病」も吹っ飛んでしまいました。どうみても、朝の通勤時間の暇つぶしのために読み飛ばせるような軽快な小説ではありません。

それでも毎日少しずつ辛抱強く読み進めていくうちに次第に作者の語り口にも慣れてきて読む調子みたいなものも掴めてきたある朝のことでした、案の定座席にも座れて、おもむろに文庫本を開きました。右隣には妙齢の美しい女性、「今日もラッキー」という気分で朝の読書にかかりました。

この小説「三たびの海峡」は、全編を通して壮絶な民族差別への怒りの告発と、だから一層切ない望郷の念に貫かれながらも、愛する者を失うという(あえていえば、このふたつのうち、どちらかを失わなければ、もう片方は得られないという哀切なジレンマのもとで生きいかなければならなかった過酷な運命に引き裂かれた男の物語です)そういう小説なのですが、朝鮮半島から強制連行されて炭鉱で働かされ、虐待に耐えかねて監禁場所から脱走する際に見張りの労務担当を絞め殺してしまい、それでも逃げ切り、朝鮮同胞からの助けを受けて終戦を迎えて、やがて朝鮮に帰還できたものの、その際に日本で親密になった日本人女性を伴ったことによって逆に祖国でもまた民族的憎悪にさらされて、意に反して日本人女性との引き裂かれる別離を強いられる(そこには言い出せない過去の殺人の事実に立ちふさがれ、もう一歩女性を追えなかったことが、なおさら女性の側に不可解な思いを残すという)終始重厚な物語なのですが、ただの1箇所、実に色っぽい描写の部分があります、朝鮮人男性と日本人女性がお互いに好意を持って惹かれ合い、密会して熱く性交する場面です、繰り返して言いますが、この小説でそういう描写があるのは、ただのその1か所で、たまたまその朝にそのクダリを読む感じになりました。

ちょっとそのクダリを書き写してみますね。


《陽焼けした肌とキラキラ光る目が近づき、柔らかい唇が私の口をおおった。私は彼女を抱きしめ、目を閉じる。彼女のよく動く舌が私の舌をとらえる。私は歓びが全身に広がるのを感じた。
唇を離すと、彼女は私の作業着の胸ボタンをはずした。裸の胸元に頬をくっつけ「あなたを好きだったの」と呟いた。
私は彼女の上着の紐をまさぐった。上体を起こして胸をはだけたのは彼女の方だった。白い豊かな乳房を私はしっかりと視野に入れ、口に乳首を含んだ。大きく柔らかな乳首を口の中でころがす。千鶴が細い声をあげるのを聞き、片方の乳首からもう一方の乳首に唇を移した。工事現場で彼女を見かける時、いつも視線が吸い寄せられた胸だった。その中味を味わっているという歓喜が、身体の内部にひろがっていく。
「下の方も脱いで」
千鶴は冷静に言い、私から上体を離した。私がズボンの紐をはずすのを待って、彼女は私のものに手を添える。顔に時折霧のような雨がかかり、彼女の背後に灰色の空が見えた。
「ちょっと待って」
という彼女の声を、海の音と一緒に聴いた。
「河時根」
彼女はもう一度私の名を呼んだ。大きく目を見開いた彼女の顔がすぐ近くにあり、下半身に彼女の肌を感じた。やがて彼女の右手が私のものを誘導し、身体がその一点で重なった。
「千鶴」
「河時根、好きよ」
熱い吐息がかかり、私は再び目を閉じるしかなかった。彼女の髪が私の顔を覆う。私は両手で彼女の動く尻と背中をしっかりと支えた。
生まれて初めて味わう感触だった。これ以上甘美なものは世の中に存在しないのではないか。
「いい」
彼女が私の首にすがりついて言うのに、私は何度も同意する。波の音が遠ざかり、彼女のあえぎと身体の動きが激しくなり、私は自分が昇りつめていくのを知った。喜びが私の身体を揺らし続け、それから波がひくように、動きをおさめた。
「このまま動かないで」
千鶴は私の胸に顔を押しあてて呟いた。再び海の音が届きはじめる。風の揺らぎとともに霧雨が顔に降りかかった。
「寒くない?」
私は訊く。
「大丈夫。お願いだから、まだこのままにしていて」
千鶴は私の目をみつめて微笑する。私は彼女のむき出しになった下半身を撫でる。私のものに触れている部分の温かみとは裏腹に、背中の窪みから尻の膨らみにかけての皮膚は冷たかった。
頭を起こして彼女の唇を求めた。二人の身体が再び上と下で固く結びつき始めるのを感じた。今度は私が腰を動かす番だった。
千鶴は驚き、私にしがみつく。私は彼女の体を抱きかかえたまま砂の上をころがった。
「待って」
彼女は手を伸ばし、脱ぎ捨てていたモンペを身体の下に押し込む。上体を立てた私から離れまいとして、彼女もまた首を起こして私の胸にしがみついた。くの字に重ね合わせた身体を私は無我夢中で動かし続けた。喉を鳴らして荒い息を吐き、最初に昇りつめたのは千鶴のほうだった。何秒かして私にもその歓びがきた。
私は動きを失った身体をそのまま千鶴の上に落とし、息を継いだ。
「千鶴、好きだ」
私の声に、彼女は目を閉じたままで頷く。》


一気にこの緊張した艶めかしい濡れ場のクダリを読み終わり、張り詰めた気持から解き放たれて、ふぅーっと自分の中で溜め息をついたとき、右からの視線をふいに感じたので、ひそかに目だけを動かして隣をそっとうかがいました。

そのかすかに横に動かした自分の不意の視線に反応し、あわてて逸らしかけた隣の女性の視線とが、虚空でかすかに交錯する瞬間がありました、その驚きと戸惑いの表情から、いまのいままで彼女が自分の開いている頁を黙読していたことは明白です。

自分は一度視線を戻し、改めてチラ見したその彼女の横顔には、明らかに自分に対する「いやらしい」という嫌悪の色がありました。

いままで傍らから自分の本をじっとのぞき見して、黙読していたのは明らかです。

これは、実にショックでした。これじゃあ自分がまるでエロ本を愛読している(いやらしい本を読んでいるところを若い女性にわざと見せつけて、嫌がるのを楽しむ露出狂の)変態みたいじゃないですか。

繰り返しになりますが、この小説はとても重厚な作品で、炭鉱で働かせるために強制連行してきた朝鮮人の苦難が全編に描かれている小説で、とくに前半の差別と虐待の描かれている部分は壮絶で、後半はその深い傷を負った主人公がそれまで目をそらしてきた憎しみの記憶に立ち向かっていくという回顧から構成されているのですが、上記の「濡れ場」はこの部分だけ、460頁ある中のほんの2頁にすぎないのです。

毎朝、自覚的・習慣的にエロ本を常に読んでいて、そのことを軽蔑されるならともかく、朝鮮人強制連行と虐待を告発したゴクまじめな硬派な小説に人知れず真摯に取り組んできた458頁分の苦労をですよ、たったの、それもたまたま遭遇した艶めかしい2頁のために軽蔑されるなんて実に堪え難いものがあります。

その女性にこの文庫本の全頁をペラペラと開き示して、この小説がいかに全編を通して真摯なものであるのかを弁解したいくらいでした。

しかし、あの部分

《「ちょっと待って」
という彼女の声を、海の音と一緒に聴いた。
「河時根」
彼女はもう一度私の名を呼んだ。大きく目を見開いた彼女の顔がすぐ近くにあり、下半身に彼女の肌を感じた。やがて彼女の右手が私のものを誘導し、身体がその一点で重なった。
「千鶴」
「河時根、好きよ」
熱い吐息がかかり、私は再び目を閉じるしかなかった。彼女の髪が私の顔を覆う。私は両手で彼女の動く尻と背中をしっかりと支えた。
生まれて初めて味わう感触だった。これ以上甘美なものは世の中に存在しないのではないか。
「いい」》

う~ん、まあ、本当に感じなかったのかといえば、やはり嘘になりますか。


それからの小一時間は、いままで経験したことのない気まずく苦痛に満ちた時間でした。


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