むかし、ある映画を見ていたときのことですが、その映画が相当につまらない作品だったらしく、すっかり集中力を欠いてしまい、傍らに置いてあった文庫本に手を延ばして、いつしか映画そっちのけでその本を夢中で読んでいました。
映画に「END」マークが出てからも、ビデオを停止する気さえ起きず、そのままテープを回転させていたら、突然、画面にジョン・フォード監督作品「怒りの葡萄」の、あの感動のラストシーンが映し出されたので、びっくりしたことがあります。
つまり、一本のテープに何度も映画を重ね録りしていた結果、上映時間の長い作品のラストシーンの部分だけが残った状態になっており、消去されなかったそのわずかな最後の場面が連続して(というのは、「怒りの葡萄」のほかに「道」と「哀愁」のラストシーンが続いて録画されていました)流れてきたというわけです。
それはまるで、感動のラストシーンばかりを集めたダイジェスト版を見ているような、ちょっとしたサプライズ体験でした。
いままで見ていた映画が印象の薄い「いまいち作品」でテンションが下がりまくっていただけに、なおさら印象を強くしたのかもしれません。
ちょうど、「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーン・神父が風紀上よろしくない場面をカットした上映禁止の「キス・シーン」が立て続けに流れたあの感動の場面をじっと見つめている感じとダブルものがあったからでしょうか。
その「怒りの葡萄」、場面はジョード一家が、やっと自由で公平な国営キャンプに落ち着くことができて、さあこれから暮らしも安定すると思っていた矢先、真夜中に巡回している警官たちの密談を聞いてしまったトム(ヘンリー・フォンダ)が、身元を警察に嗅ぎつけられ明日にも逮捕されるかもしれないと知り(彼は前にいたキャンプ地で殺人を犯しています)、夜陰に乗じて逃げようとする直前の僅かな時間に、母親(ジェーン・ダーウェル)と濃密な言葉を交わす緊迫した別れのシーンです。
「トミー、黙って出ていくのかい」
「どうすべきか分からない。外へ出よう。警察が車のナンバーをチェックしていた。誰かにバレたんだ。でも心の準備はできているよ」
「座って」
「一緒にいたかったよ。住むところを見つけて、母さんに喜んで欲しかった。幸せな顔が見たかったけど、もう無理だ」
「お前ひとりくらい、かくまえるよ」
「殺人犯をかくまうと、母さんまで罪に問われる」
「わかったよ、これからどうする気なの」
「ずっと考えていた、ケーシーのことをね。彼が言ったことや、彼がしたこと、そして彼の死にざま、目に焼き付いている」
「いい人だったからね」
「俺たちのことも考えていた。豚のように生きる人間と眠っている豊かな土地、広大な地主の土地。10万の飢えた農民・民衆が団結して声を一つにすることができれば」
「そんなことしたらケーシーの二の舞だ」
「遅かれ早かれ、俺は捕まるよ、そのときまで・・・」
「えっ、トミー、誰かを殺すんじゃないだろうね」
「そんなつもりはないよ、だが俺は、いずれにせよ無法者さ。でも、こんな俺にもできることがあるはずだ。それを探し求めながら不正を正していきたいんだよ、自分でもまだはっきりとは分からないんだ、なにをすればいいのか。まだ力不足だからね」
「この先、どうなるのかしら。もし、お前が殺されても、母さんには分からないじゃないの」
「ケーシーがいつも言ってたよ。人間の魂は大きな魂の一部なんだとね。この大きな魂は皆につながっている。そして・・・」
「だから、何」
「たとえ暗闇の中であろうと、俺はいつでも母さんの見える所にいるよ。飢えている人が暴動を起こせば、俺はそこにいる。警察が仲間に暴行を加えていたら、そこにもいる。怒りで叫ぶ人の間にもいるさ。夕食が用意されて喜びに満ちた幸せな子供たちの所にも俺はいる。人が自分で育てた物を食べて、自分が建てた家で安らぐ時にも俺はそこにいるんだ」
「よく分からないわ」
「俺もだよ。でも、ずっと考えていたことさ。手を出して。元気でね、母さん」
「お前もね。ほとぼりがさめたら、また戻ってきてくれるだろうね」
「もちろんだとも」
「あまりキスなんか、したことないけど」
「じゃあ、母さん、行くね」
「元気でね。トミー、トミー」
何度でも繰り返して見てきた素晴らしい場面です。
これらのセリフを筆写しながら初めて気がついたことですが、このラストが僕たちに与えた高揚感は、決して「言葉の羅列」だけにあるのではなく、ヘンリー・フォンダの抑えた名演があったからだと今更ながら実感しました。
つづいてフェリーニの「道」のラストシーンが映し出されています、いまではすっかり老いたザンバーノ(アンソニー・クイン)が侘しい夜の海岸で泥酔し、悲しみの果てに寂しく死んだという捨てた女・ジェルソミーナの思い出に打ちのめされて、その失ったものの大きさと、神に見捨てられた絶望的な孤独の深さとに慄然として号泣する場面です。
おびただしい凡庸な作品に取り囲まれ、ほとんどが失望と嫌悪しか経験できないような繰り返しの毎日の中で、なぜ自分は相も変わらず映画を見続けようとしているのか、かつて自分を決定的な感動で映画に引き寄せた「感動と動機」の原点に生で触れる思いがして、改めて思いを新たにした素晴らしい体験でした。
そして、続いて映し出されたのが、マーヴィン・ルロイ監督の「哀愁」です。
実は、自分は、今でもこのラストシーンの部分だけはyou tubeで繰り返し見ています。
バレエの踊り子マイラ(ヴィヴィアン・リー)は、ウォータールー橋でロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)と出会って恋に落ち、しかし、大佐はすぐに出征しなければならないために、慌ただしく結婚を約して、ふたりは別れます。
やがて、待ち続けるマイラの目に飛び込んできたのはクローニン大佐の戦死記事。
絶望し、生きる意欲も失い、「もう、どうでもいい」という虚脱と、そして生活苦から、マイラは娼婦となって夜の街頭に立ち始めます。
そんなある夜、駅の雑踏で適当な客を探すマイラの前に突然、戦地から戻ってきたクローニン大佐が現れます。「僕が帰ってくるのが、よく分かったね」と彼は微かに訝りながらも、喜びでたちまち掻き消されてしまうその「真の理由」が、後々に彼女の破滅・自殺の原因として暗示されている、なんとも痛切なラストシーンです。
どんな好色な相手の淫らな要求にも、いかようにも応じることができるしたたかな娼婦の、客を淫らに誘う薄笑いの表情が、クローニン大佐の突然の出現によって、一瞬にして清純だった「あの頃の乙女」に立ち戻るヴィヴィアン・リー生涯の名演技です、何度見ても見飽きることも色あせることもありません。
しかし、あの時、この突然の出会いがよほど嬉しかったにしろ、娼婦として客待ちしている人間が、あんなふうに突然豹変できるものだろうかという疑念に微かに捉われたことがありました。
自分の頭の中にはそのとき、卓越した日本の映画監督の幾つかの作品が交錯していたのかもしれません。
例えば、溝口健二演出なら、喜びのあまり駆け寄って抱擁するなんてことは、まずはあり得ません。
それでは、大佐と別れたあとで彼女が体験しなければならなかった過酷な過去を、すべて無視し・否定することになる、溝口健二のリアリズムにとっては到底考えられない理不尽な演出になってしまいます。
自分が娼婦にまで身を落とさなければならなかった原因のひとつは、荒廃した戦時下の社会にひ弱な女性が、なんの手当もされずに突如無一文でひとり放り出されたことにあります。
裕福らしく見える大佐なのですから、婚約した以上、もう少しどうにか生活に困らないだけの手当をしてあげることもできたのではないか、経済力を持たない踊り子にやがてどのような過酷な未来が待ち受けているか、少しも想像できなかったクローニン大佐の迂闊と無邪気さが、マイラの苦痛と堕落の因となったわけで、その意識をマイラもまた少しでも持っていたとしたら、まずは「憤り」をぶつけて掴みかかるくらいが当然で、溝口健二もそのように演出したに違いありません、少なくとも「喜びのあまり抱き着く」なんて演出は、まずはあり得ない・理不尽な行為と考えたはずです。
それなら、小津演出なら、どうだったか、駆け寄る大佐に冷笑を浴びせ、客として一夜を共にし、金を受け取ってウォータールー橋で別れさせたかもしれません。別れがたく後ろを何度も未練がましく振り返る男と、一度も振り返ることもなく毅然として立ち去る女、架空の小津作品を妄想しながら、これも違うなという思いもまた、意識のどこかにありました。
実は、自分の気持ちは、ずっと、成瀬巳喜男監督作品「驟雨」のラストシーンに占められていました。
妻(原節子)は、夫とデパートの屋上で待ち合わせますが、遠目から、夫が上司の夫婦と話している姿を見つけます。
華やかに着飾っている上司の妻に引き換え、自分のみすぼらしいナリを恥じて、妻は物怖じしながら物陰に身を隠すというシーンです。
それを思うと、娼婦として客を誘っていることの意識がマイラにあれば、その延長線上で考え得る行為は、「憤激」や「冷笑」よりも、むしろ「物陰に身を隠す」方が、なんだか最も相応しいように思えてきました。
あえてドラマを動かさずに、日常の揺れを繊細に撮り続けた成瀬監督が、果たして全編にわたるヴィヴィアン・リーのヒステリックな演技をどう抑え込むことができたかは、ちょっと想像することはできませんでしたが。
哀愁 (1940 MGM)
監督製作・マーヴィン・ルロイ、製作・シドニー・A・フランクリン、原作戯曲・ロバート・E・シャーウッド、脚本・S・N・バーマン、ハンス・ラモー、ジョージ・フローシェル、撮影・ジョセフ・ルッテンバーグ、美術・セドリック・ギボンズ、編集・ジョージ・ベームラー、挿入曲・別れのワルツ
出演・ヴィヴィアン・リー(マイラ・レスター)、ロバート・テイラー(ロイ・クローニン大佐) 、ルシル・ワトソン(マーガレット・クローニン) 、ヴァージニア・フィールド(キティ) 、マリア・オースペンスカヤ(オルガ・キロワ) 、C・オーブリー・スミス(公爵) 、ジャネット・ショー(モーリン)、レオ・G・キャロル、ジャネット・ウォルド(エルサ)、ステフィ・デューナ(リディア)、ヴァージニア・キャロル(シルヴィア)、レダ・ニコヴァ(マリック)、フローレンス・ベイカー(ビータース)、マージェリー・マニング(メアリー)、フランシス・マクナーリー(ヴァイオレット)、エレノア・スチュワート(クレイス)、
映画に「END」マークが出てからも、ビデオを停止する気さえ起きず、そのままテープを回転させていたら、突然、画面にジョン・フォード監督作品「怒りの葡萄」の、あの感動のラストシーンが映し出されたので、びっくりしたことがあります。
つまり、一本のテープに何度も映画を重ね録りしていた結果、上映時間の長い作品のラストシーンの部分だけが残った状態になっており、消去されなかったそのわずかな最後の場面が連続して(というのは、「怒りの葡萄」のほかに「道」と「哀愁」のラストシーンが続いて録画されていました)流れてきたというわけです。
それはまるで、感動のラストシーンばかりを集めたダイジェスト版を見ているような、ちょっとしたサプライズ体験でした。
いままで見ていた映画が印象の薄い「いまいち作品」でテンションが下がりまくっていただけに、なおさら印象を強くしたのかもしれません。
ちょうど、「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーン・神父が風紀上よろしくない場面をカットした上映禁止の「キス・シーン」が立て続けに流れたあの感動の場面をじっと見つめている感じとダブルものがあったからでしょうか。
その「怒りの葡萄」、場面はジョード一家が、やっと自由で公平な国営キャンプに落ち着くことができて、さあこれから暮らしも安定すると思っていた矢先、真夜中に巡回している警官たちの密談を聞いてしまったトム(ヘンリー・フォンダ)が、身元を警察に嗅ぎつけられ明日にも逮捕されるかもしれないと知り(彼は前にいたキャンプ地で殺人を犯しています)、夜陰に乗じて逃げようとする直前の僅かな時間に、母親(ジェーン・ダーウェル)と濃密な言葉を交わす緊迫した別れのシーンです。
「トミー、黙って出ていくのかい」
「どうすべきか分からない。外へ出よう。警察が車のナンバーをチェックしていた。誰かにバレたんだ。でも心の準備はできているよ」
「座って」
「一緒にいたかったよ。住むところを見つけて、母さんに喜んで欲しかった。幸せな顔が見たかったけど、もう無理だ」
「お前ひとりくらい、かくまえるよ」
「殺人犯をかくまうと、母さんまで罪に問われる」
「わかったよ、これからどうする気なの」
「ずっと考えていた、ケーシーのことをね。彼が言ったことや、彼がしたこと、そして彼の死にざま、目に焼き付いている」
「いい人だったからね」
「俺たちのことも考えていた。豚のように生きる人間と眠っている豊かな土地、広大な地主の土地。10万の飢えた農民・民衆が団結して声を一つにすることができれば」
「そんなことしたらケーシーの二の舞だ」
「遅かれ早かれ、俺は捕まるよ、そのときまで・・・」
「えっ、トミー、誰かを殺すんじゃないだろうね」
「そんなつもりはないよ、だが俺は、いずれにせよ無法者さ。でも、こんな俺にもできることがあるはずだ。それを探し求めながら不正を正していきたいんだよ、自分でもまだはっきりとは分からないんだ、なにをすればいいのか。まだ力不足だからね」
「この先、どうなるのかしら。もし、お前が殺されても、母さんには分からないじゃないの」
「ケーシーがいつも言ってたよ。人間の魂は大きな魂の一部なんだとね。この大きな魂は皆につながっている。そして・・・」
「だから、何」
「たとえ暗闇の中であろうと、俺はいつでも母さんの見える所にいるよ。飢えている人が暴動を起こせば、俺はそこにいる。警察が仲間に暴行を加えていたら、そこにもいる。怒りで叫ぶ人の間にもいるさ。夕食が用意されて喜びに満ちた幸せな子供たちの所にも俺はいる。人が自分で育てた物を食べて、自分が建てた家で安らぐ時にも俺はそこにいるんだ」
「よく分からないわ」
「俺もだよ。でも、ずっと考えていたことさ。手を出して。元気でね、母さん」
「お前もね。ほとぼりがさめたら、また戻ってきてくれるだろうね」
「もちろんだとも」
「あまりキスなんか、したことないけど」
「じゃあ、母さん、行くね」
「元気でね。トミー、トミー」
何度でも繰り返して見てきた素晴らしい場面です。
これらのセリフを筆写しながら初めて気がついたことですが、このラストが僕たちに与えた高揚感は、決して「言葉の羅列」だけにあるのではなく、ヘンリー・フォンダの抑えた名演があったからだと今更ながら実感しました。
つづいてフェリーニの「道」のラストシーンが映し出されています、いまではすっかり老いたザンバーノ(アンソニー・クイン)が侘しい夜の海岸で泥酔し、悲しみの果てに寂しく死んだという捨てた女・ジェルソミーナの思い出に打ちのめされて、その失ったものの大きさと、神に見捨てられた絶望的な孤独の深さとに慄然として号泣する場面です。
おびただしい凡庸な作品に取り囲まれ、ほとんどが失望と嫌悪しか経験できないような繰り返しの毎日の中で、なぜ自分は相も変わらず映画を見続けようとしているのか、かつて自分を決定的な感動で映画に引き寄せた「感動と動機」の原点に生で触れる思いがして、改めて思いを新たにした素晴らしい体験でした。
そして、続いて映し出されたのが、マーヴィン・ルロイ監督の「哀愁」です。
実は、自分は、今でもこのラストシーンの部分だけはyou tubeで繰り返し見ています。
バレエの踊り子マイラ(ヴィヴィアン・リー)は、ウォータールー橋でロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)と出会って恋に落ち、しかし、大佐はすぐに出征しなければならないために、慌ただしく結婚を約して、ふたりは別れます。
やがて、待ち続けるマイラの目に飛び込んできたのはクローニン大佐の戦死記事。
絶望し、生きる意欲も失い、「もう、どうでもいい」という虚脱と、そして生活苦から、マイラは娼婦となって夜の街頭に立ち始めます。
そんなある夜、駅の雑踏で適当な客を探すマイラの前に突然、戦地から戻ってきたクローニン大佐が現れます。「僕が帰ってくるのが、よく分かったね」と彼は微かに訝りながらも、喜びでたちまち掻き消されてしまうその「真の理由」が、後々に彼女の破滅・自殺の原因として暗示されている、なんとも痛切なラストシーンです。
どんな好色な相手の淫らな要求にも、いかようにも応じることができるしたたかな娼婦の、客を淫らに誘う薄笑いの表情が、クローニン大佐の突然の出現によって、一瞬にして清純だった「あの頃の乙女」に立ち戻るヴィヴィアン・リー生涯の名演技です、何度見ても見飽きることも色あせることもありません。
しかし、あの時、この突然の出会いがよほど嬉しかったにしろ、娼婦として客待ちしている人間が、あんなふうに突然豹変できるものだろうかという疑念に微かに捉われたことがありました。
自分の頭の中にはそのとき、卓越した日本の映画監督の幾つかの作品が交錯していたのかもしれません。
例えば、溝口健二演出なら、喜びのあまり駆け寄って抱擁するなんてことは、まずはあり得ません。
それでは、大佐と別れたあとで彼女が体験しなければならなかった過酷な過去を、すべて無視し・否定することになる、溝口健二のリアリズムにとっては到底考えられない理不尽な演出になってしまいます。
自分が娼婦にまで身を落とさなければならなかった原因のひとつは、荒廃した戦時下の社会にひ弱な女性が、なんの手当もされずに突如無一文でひとり放り出されたことにあります。
裕福らしく見える大佐なのですから、婚約した以上、もう少しどうにか生活に困らないだけの手当をしてあげることもできたのではないか、経済力を持たない踊り子にやがてどのような過酷な未来が待ち受けているか、少しも想像できなかったクローニン大佐の迂闊と無邪気さが、マイラの苦痛と堕落の因となったわけで、その意識をマイラもまた少しでも持っていたとしたら、まずは「憤り」をぶつけて掴みかかるくらいが当然で、溝口健二もそのように演出したに違いありません、少なくとも「喜びのあまり抱き着く」なんて演出は、まずはあり得ない・理不尽な行為と考えたはずです。
それなら、小津演出なら、どうだったか、駆け寄る大佐に冷笑を浴びせ、客として一夜を共にし、金を受け取ってウォータールー橋で別れさせたかもしれません。別れがたく後ろを何度も未練がましく振り返る男と、一度も振り返ることもなく毅然として立ち去る女、架空の小津作品を妄想しながら、これも違うなという思いもまた、意識のどこかにありました。
実は、自分の気持ちは、ずっと、成瀬巳喜男監督作品「驟雨」のラストシーンに占められていました。
妻(原節子)は、夫とデパートの屋上で待ち合わせますが、遠目から、夫が上司の夫婦と話している姿を見つけます。
華やかに着飾っている上司の妻に引き換え、自分のみすぼらしいナリを恥じて、妻は物怖じしながら物陰に身を隠すというシーンです。
それを思うと、娼婦として客を誘っていることの意識がマイラにあれば、その延長線上で考え得る行為は、「憤激」や「冷笑」よりも、むしろ「物陰に身を隠す」方が、なんだか最も相応しいように思えてきました。
あえてドラマを動かさずに、日常の揺れを繊細に撮り続けた成瀬監督が、果たして全編にわたるヴィヴィアン・リーのヒステリックな演技をどう抑え込むことができたかは、ちょっと想像することはできませんでしたが。
哀愁 (1940 MGM)
監督製作・マーヴィン・ルロイ、製作・シドニー・A・フランクリン、原作戯曲・ロバート・E・シャーウッド、脚本・S・N・バーマン、ハンス・ラモー、ジョージ・フローシェル、撮影・ジョセフ・ルッテンバーグ、美術・セドリック・ギボンズ、編集・ジョージ・ベームラー、挿入曲・別れのワルツ
出演・ヴィヴィアン・リー(マイラ・レスター)、ロバート・テイラー(ロイ・クローニン大佐) 、ルシル・ワトソン(マーガレット・クローニン) 、ヴァージニア・フィールド(キティ) 、マリア・オースペンスカヤ(オルガ・キロワ) 、C・オーブリー・スミス(公爵) 、ジャネット・ショー(モーリン)、レオ・G・キャロル、ジャネット・ウォルド(エルサ)、ステフィ・デューナ(リディア)、ヴァージニア・キャロル(シルヴィア)、レダ・ニコヴァ(マリック)、フローレンス・ベイカー(ビータース)、マージェリー・マニング(メアリー)、フランシス・マクナーリー(ヴァイオレット)、エレノア・スチュワート(クレイス)、